日々の雑感記によるヘボ・マイ趣味紹介です。
ダッペの悠友ライフ
大晦日です・・・お正月用生け花の準備が着々進行してました
一昨日関越道・藤岡ICにある道の駅ららん内の花の交流館を覗いてきました
新年の飾りつけ準備が始まっており、各所に色々な生け花が置かれ、すでに華やかさが充分窺い知れました
まだお正月ではないけれど、気持ちが何か新鮮になりました
ところで正月飾りというのは、正月に向けて飾られるもので、多くの場合前日の大晦日以前に飾られるものなんだそうです
松や菊は縁起物の花でよく知られていますが、“チュウリップ”が混じって活けられていました
“チュウリップ”は春の代表花ですから、さしずめ迎春の意味なんでしょうね!?
冬の代表花といえば、なんて云ったって、“シュクラメン”でしょう 生け花周りに、沢山の鉢植えされた“シュクラメン”が置かれていました
フリルがついた花びらがとても可愛く見えました
来る新年を躍る気持ちで、咲き迎えるように見えました
群馬・高崎の「山名八幡宮」に行って来ました
先日といっても、今月中旬ですが、高崎にある 「山名八幡宮」 に行って来ました
このあたりは千年以上前から人が住み社会を営んでいた地ですから、 周囲の風景はなんとなく古代を感じます
実は「山名八幡宮」に行こうと思ったわけでなく、八幡宮裏手の万葉古碑を見ながら、近くのカリンの林でカリンを拾おうと思ったのです
カリンは残念ながら1っ個も落ちておらず、代わって八幡宮を散策する事にしたのです
山名八幡宮は、清和源氏新田氏の祖新田義重の子で、山名氏の祖となった山名義範が1175年~ 1190年頃に豊前国(大分県)の宇佐神宮の分霊を勧請して社殿を造営し、武運の神(武神)として崇敬したのが始めとされています
新田一族は現群馬県太田市(旧新田郡新田町)あたりが新田の庄と称し新田氏の興りとなっていますが、上州はおろか全国に華々しく展開していった一族として知られています
即ち、ここ山名町に鎮座する「山名八幡宮」は、そんな新田一族と高崎との関連を最も印象づける名勝なんだそうです
新田一族の祖である新田義重(源義重)は、清和源氏の嫡流である八幡太郎義家(源義家)の孫で、義重の弟は後に室町幕府を開く足利尊氏の祖であります
平安時代の末期、京都を離れて上野国・新田郡へと下っていった義重が新田の庄を拓き、次男の新田義範は、山名郷に移住して新田姓改め「山名義範と名乗り、このちを治めたのだそうです
山名一族は新田一族の中で、異端的な存在となって子孫は繁栄した事で知られています その繁栄振りは室町時代全国66ヶ国の内11ヶ国の守護を務めたほどで、「6分の一殿」と呼ばれたそうですから恐れ入ります
そんな山名氏の発祥の地、「山名八幡宮」は全国にある山名氏の精神的なつながりを保証する重要な場所だったのです
今は小さな街並みの山名ですが、往古のたたずまいを「山名八幡宮」は見せてくれています 山名の町は鎌倉街道沿にあって、鎌倉時代には門前町として栄えたといわれています
拝殿への石段
現在の社殿は本殿・弊殿・拝殿からなる権現造りで、三手先の軒や腰部の彫刻がすばらしいです
本殿は銅板葺きの三間社流造りで、彩色した彫刻が施されています
側面三間の軒組
明和年間(1764-1772)の造営とされています
境内には他に、随身門・神楽殿などがあります
ちょっと一言
日本人が男性世界最高齢者になったそうです
この方京都の人で、115歳・長命の秘訣を聞くと、『苦にするな 嵐のあとに 日和あり』 とこたえられたそうです
消長多い政治の世界・座右の銘になりそうです
選挙が終え、自民・公明内閣が発足しました
安倍氏から始まって1年ともたない首相が6代も続いていますが、種を撒いた安倍氏の組閣に前の嵐を乗り越えた強さを期待し、次なる嵐を乗り越えてもらいたいものです
短命内閣になって欲しくないものです
年の瀬になってきました 囲碁のお付合いが結構多く、少しお役をしているので駆け回っていましたが、昨日で一応打ち止めしました
何となく忙しくなって、今まで何にもしてこなかった一年のつけが廻ってきたようです しばらく家事専念でお休みします
今日はクリスマスです・・・クリスマスって!?
今日はクリスマスですね
クリスマスと言うのは、前の晩にサンタクロースが贈り物を持ってくる日だと子供達は思っています
本来のクリスマスはイエス・キリストの降誕(誕生)を祝う祭で、この日は(降誕を記念する日)だそうです
即ち、クリスマスは、「救世主イエス・キリストの誕生日」と考えられているわけでは無いのだそうです 私は誕生日だと子供の頃から、そう思っていました
新約聖書ではイエスの誕生日を特定する記述は無いそうで、あるのは次なる言葉だそうです
イエスがヘロデ王の代に、ユダヤのベツレヘムでお生れになったとき、見よ、東からきた博士たちがエルサレムに着いて言った —マタイによる福音書第2章第1節(口語訳聖書)
恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える。きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生まれになった。このかたこそ主なるキリストである —ルカによる福音書第2章第10節 - 11節(口語訳聖書)
一説には5月20日が本当の生誕だとも云われているそうです
と言う事で、クリスマスはお誕生祝い日ではなく、キリスト教的には、クリスマスは主に家族と過ごし、クリスマスツリー(常緑樹で、一般にモミの木)の下にプレゼントを置いたりして、プレゼントを贈る気持ちを持ち合う「愛」の日だそうです
朝のウォーキングで見かけたクリスマスイルミネーションのお庭です
明るくなっており、イルミネーションの生垣は消えていましたが、随分凝ったお宅です
昨日藤岡ICにある道の駅・ららん「花の交流館」に行ってきました
クリスマスコンサートが開かれ、周囲はランの花やバラで飾りつけられていました
モミの樹ならぬ真っ白い樹(=何で出来ているのか確かめていません)で、クリスマスツリーが飾られていました
“ムラサキシキブ(紫式部)”の実がまだ残っています
先日、群馬・高崎のファミリーパーク裏の「観音山丘陵」をちょっと歩いてみました “ムラサキシキブ(紫式部)”の実が、冬の陽射しの中で生っているのをみつけました
誰もいない丘陵の上、斜面に植えられた”ムラサキシキブ”の小群落です
“ムラサキシキブ”は樹高2~3mになる落葉性の低木で、秋に光沢のある薄紫色の小さな果実を葉の付け根あたりにまとめてつけます
秋になると紅葉し、赤い実がなる樹木の多い中で、薄紫色の色彩の実を生らす樹木は珍しいと言えます
寒さがきつくなってきたこの頃、綺麗な薄紫は白みがかかり、冬を告げているようです
“ムラサキシキブ”の足下は群馬ファミリーパークです (向かいの山並みはミカボ(?))
“ムラサキシキブ”の実は液果で、中には硬い殻を持った4個の核果が入っているのだそうです
核果とは桃や梅の種を想像してもらえばいいようですが、残念ながら潰して確認はしてません
陽射しを浴びてみた“ムラサキシキブ”の実は、紫が赤紫~更には失色して白くなっていました
この実は自然に落ちて来年は実生の苗が一杯出るのでしょうか
小鳥達が沢山飛んでいるから、丘陵のあっちこっちで“ムラサキシキブ”の芽が出て全山紫に輝くなんて事になったら、凄いな
“タペイノクロス・アナナッサエ”の花が咲いていました
今月初旬、群馬・高崎にある植物園の温室で、色鮮やかに咲いていた“タぺイノクロス”を紹介します
見かけた“タぺイノクロス”は正確には“タペイノクロス・アナナッサエ”といい、ショウガの仲間で、マレーシア、インドネシア、オーストラリア(クイーンズランド州)に分布している常緑の多年草です
丈は2mくらいまでになり、葉は茎にラセン形について、形は楕円で30cmほどの大きさがあります
根元から高さ50cmから1mほどに花茎を伸ばして、その先端に光沢のある花序を付けます 赤い部分は苞であり、その間から黄色い花を咲かせる
苞は、最盛期は真っ赤になり重なり合うようになって、赤い松かさの様に見えるところから、“マツカサジンジャー”とも呼ばれています
花期は晩春から早秋と云われますが、温室とは言え、パチリ!!したこの画像は今月初めです 最後の花が花序の先端に咲き残っていたのでしょうか 苞の中に咲く筈の黄色の花は茶色の種子になっていました 頂点の苞は真っ黒い苞になっています
黒色の苞は、拡大したら黒光りして何か不気味さがありますね
「太田金山子育て呑龍」・・・群馬・上毛かるたの『お』の字
先日、群馬・太田にある 金山城址 を見に行った折、近くのお寺を幾つか詣でて来ました
そんなお寺の中で、太田と言えば、「子育て呑龍」とか「呑龍様」の名で有名なお寺があります
「子育て呑龍」とは、群馬・太田市金山にある浄土宗の寺院で、「大光院」の通称です
「大光院」は徳川家康が先祖の新田義重を祀るために、慶長18年(1613年)・「呑龍」を招聘して創建したお寺です
「呑流」は江戸前期の浄土宗の高僧で、当時、多くの子どもが間引かれて殺されていたことを悲しみ、これらの子どもを引き取って育てたため、後世の人々から「子育て呑龍」と慕われ呼ばれるようになったのだそうです
開山堂正面 : 四面13間の桃山風建築の大伽藍です
開山堂の紹介看板 七福神の弁財天堂
境内裏には、新田義重や呑龍の墓がありました
「呑龍様」の御祭神は、「上州太田七福神」の弁財天が祀られています
そしてその御神徳としては、安産・子育て祈願・財宝福徳・学業増進などとなっていますから、初詣は凄い人出になるそうです
なお、「呑龍」という名は、帝国陸軍時代のの百式爆撃機に使用されていたそうで、これは機体を設計した中島飛行機(現富士重工前身)が群馬県太田市にあったことに由来したそうです
子育て呑龍様が爆撃機となるとは・・・ふと北朝鮮のミサイルはどんな名前がついていたっけかな?
今日は冬至です・・・冬至の朝景を見てください
今朝は冷え込みました こんな時は綺麗な日の出が見れると、ウォーキングの際デジカメ抱えて、いつもの川辺コースを歩いてきました
群馬のこの辺は、日の出は6時半ごろだなと思い、狙いの場所に一生懸命歩きました
6時40分頃明るくなった東の空から、紅い太陽が顔を出しました
高圧線の鉄塔が続く間から陽が登ってきます ぐんぐん明るくなってきます
冬至の定義(?)は北半球では太陽の南中高度が最も低く、一年の間で、昼が最も短く夜が最も長くなる日の事を指しています・・・(=東京では、日の出が朝の6時46分頃、日の入りが夕方の4時33分頃、昼の長さは、9時間47分くらいだそうです)
冬至のこの日を境に、日脚は徐々に伸びて行きます
この事から冬至は「一陽来復」ともいい、陰が極まって陽が帰ってくること、即ちこの日を境に運が向いてくる転換の日でもあります
明るくなったきた空に“カワウ”が群れて飛んでいました
撮れたのは三羽ですが、10羽以上が飛んでいます 昨年ごろからウォーキングコースの河には沢山の水鳥がいるようになりました
今までは“カルガモ”が多かったのですが、今年の夏からは“カワウ”が随分と増えています
河面から飛び立つ“カワウ”です 上で飛んでいるのは、“シラサギ”です
“カモ”達が寄りあつまっています “カワウ”が1羽飛び立たず、朝食中でした 雄のマガモが1羽離れて泳いでいました〈向って最左)
“カワウ”は、主に河川部や湖沼などに生息し、近年は個体数が増加してきて各地で見られるようです
“カワウ”の主なエサであるコイなどが、無計画な放流により沢山生息するようになったのが原因のようですが、カワウ自体が増え過ぎると、生態系に影響ないのでしょうか
ぐんと明るくなりました
彼方に見える浅間の山が真っ白です (撮影時間は7時00分です)
太田金山城址に並んで、新田神社とその大ケヤキ
昨日に続いて・・・
太田金山城址のある関東平野を一望できる金山頂上には、新田義貞を祀る新田神社があります
この新田神社は、明治6年の創建で、社地が国指定の史跡である金山城址本丸と隣接しており、昭和9年史跡に指定されたそうです
実城跡から続く参道を10m程入った所には樹齢800年を越すと言われる大ケヤキがありました このケヤキは新田神社の御神木扱いになっているようです
参道を上がると鳥居があり、新田神社を望めます
新田神社社です・・・とても閑静な感じでした
参道の片隅に大ケヤキの看板が立てられていました
巨大と言っても過言でないほどの大ケヤキです・・・説明は上の看板に任せます
向ってずっと奥に見えるのは、新田神社の鳥居です
新田神社の境内に隣接して、御嶽神社が祀られていました
金山のこの地の歴史の古さに今更ながらびっくりし、又来たくなりました
群馬・太田金山城址に行って来ました
先日、群馬・太田に、『関東には名高い名城があったのだ』と、友人に教えてもらい、北関東道を走って「新田金山城址」を訪ねてきました
「新田金山城」は、群馬・太田市のほぼ中央にそびえる標高236mの独立峰、金山全体に築かれた山城で、現在往時の様子を伝える石垣や二の丸跡、三の丸跡と呼ばれる曲輪、堀切が遺存していました
金山に登る前、上り口手前に造られた「太田金山城跡ガイダンス施設」で予備知識を入手し、金山中腹の駐車場で車を止め、城址を堪能してきました
駐車場入り口に、金山城址の全体図の看板がありました
「新田金山城」は鎌倉時代の文明元年(1469年)に、新田氏の一族である岩松氏が重臣(横瀬氏)に命じ金山城を築きました
岩松氏は鎌倉幕府の御家人となり、南北朝時代には、南朝方についた新田義貞とは同調せず、 北朝足利方につき、義貞死後は没落した新田宗家をしのぎ、新田荘を支配する豪族になりました
室町時代後期、金山城主は横瀬氏に実権が移り、戦国時代に入って、関東で勢力を伸ばしてきた北条氏や越後の上杉氏、甲斐の武田氏との狭間で生き延びていきました 1584年、北条氏に従った横瀬氏は桐生城へ移り、金山城は北条氏の城となりました
その後僅か6年後の天正18年(1590年)、「金山城」は豊臣秀吉の小田原征伐により北条氏が滅び、廃城とされました
戦国の雄・上杉謙信などの猛攻を受けても、落とす事ができなかった名城もあっけなく廃城と化したとは・・・栄枯盛衰の常とは言え哀れを感じます
金山頂上に物見台が建てられ、関東の山並みが眺められました
絶景です 榛名山系、赤城山系が間近に見えました
金山城本丸跡(「南曲輪」)です ・・・休憩所みたいになってました? 本城〈本丸)は実(み)城とも云われ、城主は実城殿と呼んだそうです
金山城は現在史跡公園として復元整備されております
関東の中世の山城として、残されている総石垣をかたどる大石塁は、とても迫力がありました
しかも復元された各所の石垣は、他の城郭で見られるような扇の勾配や気負いなどが殆ど無く、平面的な石を垂直に積み上げた石垣が幾重にも重なった造りになって、とても特徴的に見えました
馬場下虎口の石垣 大手虎口:折れが無く、ほぼ直線な石垣
いつの世も変わらぬ人の心、流れ
歴史はその価値を語りかけてくれました
柿の実を食べにきた“ムクドリ”・・・選挙がありました
昨日は、第46回衆議院選挙でした
結果は自民党の大勝利、これからはどんな世になるのだろう
民主党政権3年に対する失望感がいかに大きいかったかの裏返し票で勝ったのだと自民は分っていると思うけど、はてさてどうなるのかな
今回の選挙で登場した第3極政党も、以前民主党が政権奪取した時のバラ色公約に懲りていた為、思ったほどの伸びでは無かったように思えます
それにしても民主党のコケ形はひどいものでした でもこれからの民主党のあり方こそが見ものであるし、阿部自民党が「国民から強い信認を得た」と誤認錯覚しないで欲しい事が大事だと思います
とにかく自民党には前回政権を失った時の事を忘れず、足許をまず改革改善して欲しいものです とにかく勝ちすぎた自民党・敵失で得た勝利だという事をかみしめて、驕る事なく施政して欲しいな
なんせ5年前「首相失格」とも烙印を押された阿部総裁に、これから託す日本の将来は皆不安に思っているのですから・・・ 阿部さん!! 本当に男になろう
まずは社会保障確立・経済強化・財政立て直しに襟を正してまっすぐ頑張って欲しいな 今憲法改正は拙速せず熟慮検討しましょうよ
早朝ウォーキングで、見かけた“ムクドリ”です
朝日を浴びて、朝食中の“ムクドリ”です
今朝の朝食は、赤く熟れた柿の実です 竹薮の傍の柿の実を目指して、沢山の“ムクドリ”が集まっていました 私がいるので、食べに来てくれず、食事の姿が見れませんでした・・・残念!!
“ムクドリ”はもともとは、農作物に害を及ぼす虫を食べる、益鳥ともてはやされてされていました
しかし生息環境の破壊により都市に適応して大量に増殖し、鳴き声による騒音や糞害などが、しばしば問題になってきています 更に果物を好んで食べるため、果樹園に被害を与えるとして駆除されることも出てきたようです
赤い柿の実を食べに来た“ムクドリ”君達が、民主党にダブちゃいました
神社の境内で、「銀杏」の実が沢山落ちていました
晩秋から初冬となった今の時期、お寺や神社の境内、公園などでは黄色に黄葉した“イチョウ”の葉の陰で、「ギンナン」の実が沢山生っています
青空・枝越しに生った「ギンナン」が風にゆすられて、木の下に一杯落ちています
先だって散歩を兼ねて立ち寄った神社でも、「ギンナン」が一杯落ちていました
どこかのおじさんが、ビニール袋に沢山拾い集めています
『随分集めましたね!!』と、話しかけたら、『これが~うめぇ~んだよ』と、こちらに顔も向けずに拾っています
私が拾いに来たと思って、競争意識になったのかもしれません
神社のベンチ陰に沢山落ちているのを、私はパチリ!!・・・そして、おじさんに、『ここに一杯落ちてますよ』と教えたら、うれしそうに近づいてきてくれました
「ギンナン」の実を食べるときは美味しいのですが、それまでにするのに結構大変です
熟した時の果肉の臭いはとてもきつい汚臭ですし、果肉が皮膚に触れるとカブレのもとになりますから余ほど注意が必要です しかしそんな苦労して採取した「ギンナン」の美味しさは格別な訳ですね
“イチョウ”の樹は高さが20~30mにもなる落葉高木です
雌雄異株で、「ギンナン」は雌株のみに生ります
「ギンナン」は漢方では古来よりせき止めや、膀胱の括約筋を強くする効果から夜尿症・頻尿の改善に使われていて、 良質のタンパク質はコレステロールを減らし、滋養強壮にも効果があるなど様々な薬効があるといわれています
しかしその一方で、「ギンナン」には神経に働くビタミンB6の作用を妨げる中毒物質が含まれていて、食べ過ぎると痙攣などの中毒が起きることがあるそうですから注意が必要です
大人は肝臓に解毒する酵素を持っており、抵抗力があるようですが、幼児は解毒能力が発達していないため中毒になりやすいので特に要注意だそうです
とにかく美味しいからと調子に乗って食べ過ぎないことが何よりですね・・・ビールや酒のつまみについついは駄目ですね
“ネズミモチ”の実がたわわ
あまり歳の事は考えた事は無かった(いやこれは大分嘘かな!?)けど、最近歳をとったなとふと思う事があります
何でそう思うかというと、まず物事に淡白になってきたことです 記憶力も集中力も落ちました・・・囲碁を打っているとつくづくそう思います
体力も落ちました ウォーキングもしていますが、急な階段を上がると息が切れます 足の速さはあんまり自信はなかったのですが、持久力はちょっといい線いってると思ってましたから少し心配になって対策を考えなくては・・・
先だって自然公園を歩きをしていて、大きな “ネズミモチ”の樹 を見つけました
たわわに実がなっています
“ネズミモチ”はモクセイ科の高さ数mになる常緑の低木で、幹は直立し横枝を出して、塊状の樹形になって行きます
開花は6~7月頃、枝先に花序をつけ多数白い小花をつけます
晩秋から冬にかけて、8~10mm程の果実ができ、寒さを増すにつれ緑の実が黒紫色に熟します
“ネズミモチ”の実は古来から「仙薬」と言われる位に、薬効があるとされ生薬(=生薬名:女貞子(じょていし))として利用されています
“ネズミモチ”の薬効はどんなものに効くのか調べてみましたら、こんな効能書きを見つけました
「肝腎を補う。腰や膝を強めるの効能がある。筋骨を壮にする。精力を強める。髭や頭髪を黒くする。等々・・・」
[古典的薬理薬能]としてみると、味は甘くやや苦い 薬性は、平性。特異的に作用する臓腑は、肝臓、生殖器系。 薬理薬能は、肝腎陰虚による頭重感、眩暈、耳鳴り、視力低下、かすみ目、若白髪などの病態に適応されているとする報告も見られるとありました
こんなに元気にしてくれる薬効があるのなら、果実を採って果実酒でも今度作ってみようかな!!
飲んだらボケ防止になって、集中力も増すかもしれませんね
囲碁が今伸び悩んでいるから、飲んだら強くなれるかな
因みの果実酒の作りかたは、「生ネズミモチ約200g数日日干し、乾燥物100~200gをホワイトリカ1.8リトッルに3ヶ月以上漬け込む」のだそうです
“ヤツデ”の花が真っ盛り
寒さが厳しくなり周囲の山は雪を被る風景が見られるようになって来ました
先日出かけた群馬・高崎の 観音山丘陵の一画にある植物園で、“ヤツデ”の花が満開 になろうとしていました
“ヤツデ”は東北地方南部以南の本州から南西諸島に生育する常緑の低木で、庭園木として利用されています
“ヤツデ”の和名は、葉が深く切れ込んでおり、その姿から「八つ手」の名前が付いたというのは良く知られています しかし、実のところは裂片の数は5~9枚と、奇数のことが多いのだそうです
ところでこの30cmほどもある大きな葉は、太い葉柄に支えられて、夏場の緑樹林の中で成長しながら大きく拡げています 秋深まって周りの高木が落葉していくに従い、拡げた葉は次第にその向きを変え、冬の光を一杯浴びようと対応するのだそうです
“ヤツデ”の生育にとって、冬季の日照は大きな役割を持っているようです
秋から冬の花の少ない季節の日だまりの中で、“ヤツデ”は次々と長期間にわたって花を咲かせます
陽射しが降り注ぐ中、ハエなどの多くの昆虫が蜜を求めて集まっています 蜜は格別に甘いのかな!?
花の咲く様子は、花序が2回分裂してその先端に多数の花が球状に付きます
花は花序の先端のものから咲き始め、花弁は白色で5枚、おしべも5本、めしべは先端が5つに分かれており、5の数尽くしです・・・八手は5好き・・・関係ないかぁ~
めしべの下部は花盤と呼ばれる部分があり、ここから蜜が分泌されるのですが、昆虫が活動しにくい早朝や雨天時にはたくさんの蜜が分泌されているのがわかるそうです 今度舐めてみようかな ・・・でもハエが多く来るから、あまり衛生的でないかな
それにしても花の少ない時期の“ヤツデ”の開花戦略は、虫媒受精の成功率アップには落葉樹が葉を落とした明るい林の中で大きな成果をあげているようで感心します
“ヤツデ”の 花言葉は 「 分別 」、 「 親しみ 」 です
“ヤツデ”の花の知恵がなんとも親しみを覚えます
近況;早朝ウォーキングで見る風景・・・赤城山が見えました
早朝ウォーキングを始めて、7ヶ月有余が経ちました
始めた頃は春でした
夏が来て、秋が過ぎ、今冬が始まってきました
この頃は夜明けがすっかり遅くなり、6時近いのに、ようやく明るくなり始めてきました
昨日(12月11日)の朝、6時10分前の夜明けです
枯木立に見える街路樹は、“ハナミズキ”です
ついこの間までは、紅葉した葉が残っていたのですが・・・
歩くにつれ、すっかり夜が明けてきました (撮影は6時20分です)
手前の田んぼには、つい2ヶ月程前までは稲穂が見えたのに・・・ 今はすっかり耕され、来春は麦畑に変身します 前方・奥の山並は、赤城山系です 手前高架は、高速道路です
アップすると、山並みはうっすらと雪を被っています (撮影:6時30分)
朝日を浴びて、ピンク色に輝いていました
傍を流れる河面は、昨日からうすく氷が張り始めました
いよいよ寒さを増してきました でもその先には、春が待っています
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