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群馬・太田金山城址に行って来ました

先日、群馬・太田に、『関東には名高い名城があったのだ』と、友人に教えてもらい、北関東道を走って「新田金山城址」を訪ねてきました 

「新田金山城」は、群馬・太田市のほぼ中央にそびえる標高236mの独立峰、金山全体に築かれた山城で、現在往時の様子を伝える石垣や二の丸跡、三の丸跡と呼ばれる曲輪、堀切が遺存していました

金山に登る前、上り口手前に造られた「太田金山城跡ガイダンス施設」で予備知識を入手し、金山中腹の駐車場で車を止め、城址を堪能してきました

    駐車場入り口に、金山城址の全体図の看板がありました

「新田金山城」は鎌倉時代の文明元年(1469年)に、新田氏の一族である岩松氏が重臣(横瀬氏)に命じ金山城を築きました 

岩松氏は鎌倉幕府の御家人となり、南北朝時代には、南朝方についた新田義貞とは同調せず、 北朝足利方につき、義貞死後は没落した新田宗家をしのぎ、新田荘を支配する豪族になりました

 

室町時代後期、金山城主は横瀬氏に実権が移り、戦国時代に入って、関東で勢力を伸ばしてきた北条氏や越後の上杉氏、甲斐の武田氏との狭間で生き延びていきました                                             1584年、北条氏に従った横瀬氏は桐生城へ移り、金山城は北条氏の城となりました

 

その後僅か6年後の天正18年(1590年)、「金山城」は豊臣秀吉の小田原征伐により北条氏が滅び、廃城とされました

戦国の雄・上杉謙信などの猛攻を受けても、落とす事ができなかった名城もあっけなく廃城と化したとは・・・栄枯盛衰の常とは言え哀れを感じます

金山頂上に物見台が建てられ、関東の山並みが眺められました

絶景です                                                                              榛名山系、赤城山系が間近に見えました    

 

金山城本丸跡(「南曲輪」)です      ・・・休憩所みたいになってました?                                                                       本城〈本丸)は実(み)城とも云われ、城主は実城殿と呼んだそうです

金山城は現在史跡公園として復元整備されております

関東の中世の山城として、残されている総石垣をかたどる大石塁は、とても迫力がありました

しかも復元された各所の石垣は、他の城郭で見られるような扇の勾配や気負いなどが殆ど無く、平面的な石を垂直に積み上げた石垣が幾重にも重なった造りになって、とても特徴的に見えました

 

   馬場下虎口の石垣               大手虎口:折れが無く、ほぼ直線な石垣

いつの世も変わらぬ人の心、流れ

歴史はその価値を語りかけてくれました

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