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『とはずがたり』に描かれた中御門経任(その9)─近衛大殿

2018-02-20 | 『増鏡』を読み直す。(2018)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 2月20日(火)12時29分0秒

さて、「近衛大殿」が初めて出てくる場面です。(次田香澄『とはずがたり(上)全訳注』、p392以下)

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 八月のころにや、近衛大殿御参りあり。後嵯峨の院御かくれの折、「かまへて御覧じはぐくみ参らせられよ、と申されたりける」とて、常に御参りもあり、またもてもなし参らせられしほどに、常の御所にて、内々九献など参り候ふほどに、御覧じて、「いかに、行方なく聞きしに、いかなる山に籠りゐて候ひけるぞ」と申さる。
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【私訳】八月のころだったか、近衛大殿が御所へおいでになる。後嵯峨院が御隠れになった時、「くれぐれも後深草院をお世話し、御守りされるようにとのお言葉でした」とのことで、大殿は日頃からおいでになり、また後深草院も大殿を歓待しておられたが、この時も常の御所で内々の御酒宴のあった際に、私を御覧になって、「おや、あなたは行方が分からないと聞いていたが、いかなる山に籠もっておられたのですか」と申される。

ということで、『とはずがたり』を論ずる国文学者が一致して鷹司兼平に比定している「近衛大殿」が登場します。
「有明の月」の場合と異なり、近衛大殿の話の内容から、私もこの比定は正しいと考えています。
もちろん、私の場合は『とはずがたり』が鷹司兼平の実像を描いているという意味ではなく、作者が「近衛大殿」の人物像から読者に鷹司兼平を連想させるように描いている、という意味においてです。
鷹司兼平は安貞二年(1228)生まれなので、後嵯峨院(1220-72)より八歳下、後深草院(1243-1304)より十五歳上で、建治三年(1277)の時点ではちょうど五十歳です。

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「おほかた方士が術ならでは、尋ね出でがたく候ひしを、蓬莱の山にてこそ」など仰せありしついでに、「地体、兵部卿が老いのひがみ、殊のほかに候ふ。隆顕が籠居もあさましきこと、いかにかかる御まつりごとも候ふやらんと覚え候。経任大納言申しおきたる子細などぞ候らん。さても琵琶は棄てはてられて候ひけるか」と仰せられしかども、ことさら物も申さで候しかば、「身一代ならず子孫までと、深く八幡宮に誓ひ申して候ふなる」と御所に仰せられしかば、「むげに若き程にて候ふに、にがにがしく思ひ切られ候ひける。地体、あの家の人々は、なのめならず家を重くせられ候。村上天皇より家久しくしてすたれぬは、ただ久我ばかりにて候。あの傅仲綱は、久我重代の家人にて候ふを、岡屋の殿下、ふびんに思はるる子細候ひて、『兼参せよ』と候ひけるに『久我の家人なり、いかがあるべき』と申して候ひけるには、『久我大臣家は、諸家には准ずべからざれば、兼参子細あるまじ』と、みづからの文にて仰せられ候ひけるなど、申し伝へ候。隆親の卿、女・叔母ならば、上にこそと申し候ひけるやうも、けしからず候ひつる。
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【私訳】「およそ神仙の術を使う人でなければ探し出すことができなかったのですが、蓬莱の山で見つけ出しまして」と後深草院が仰ると、大殿は、
「だいたい、兵部卿(隆親)の老いのひがみは尋常ではありませんね。隆顕の籠居もあきれたことで、どうしてこういう御人事になるのかと思われます。経任が大納言を望んで、兵部卿に申し入れをしておいたいきさつでもあったのでしょう。それにしても、琵琶はすっかり棄ててしまわれたのですか」
とおっしゃった。
しかし、私が特にお返事もしないでいたところ、後深草院が、
「本人一代だけでなく、子孫までもと深く八幡宮にお誓い申し上げたそうです」
とお答えになると、大殿は、
「まったく若いお年なのに、きっぱりと思い切られたものですな。だいたい、あの久我家の方々は、並々ならず家を重んぜられます。村上天皇の御子孫で、久しく続いてすたれないのは久我家ばかりです。二条殿の傅(めのと)の仲綱は久我家重代の家人ですが、岡屋の殿下(近衛兼経、1210-59、鷹司兼平の異母兄)が不憫に思われた事情があって、『当家にも兼参するように』と言われたところ、仲綱が『私は久我の家人ですので、どういたしましょう(お断りいたします)』と申したので、『久我大臣家は家格が高く、他の家に准じて考える必要はないので、兼参は差支えなかろう』と自筆の一筆を認めたと聞いております。隆親卿が今参りは自分の娘であり、二条殿の叔母であるから上座に座るべきだと申したことも、良くないことでございましたな」
と言われる。

ということで、近衛大殿は後深草院二条の傅(乳父)の藤原仲綱を誉めつつ久我家の家格が極めて高いことを語り、また、隆親の「老いのひがみ」に関しても二条に極めて同情的な見解を述べます。
なお、「ふびんに思はるる子細」とは、久我通光(1187-1248)が全財産を後妻の三条(西蓮)に渡すと遺言して死去した後、通忠(1216-51)が三条を相手に訴訟を起こし、久我荘だけは確保したものの、残りは全て三条のものとする後嵯峨院の院宣が下ってしまい、そして通忠も通光没の三年後に死んでしまった、という久我家の混乱を指すものと思われます。
さて、近衛大殿の発言はまだまだ続きます。

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前の関白、新院へ参られて候ひけるに、やや久しく御物語ども候ひけるついでに、『傾城の能には、歌ほどのことなし。かかる苦々しかりしなかにも、この歌こそ耳にとどまりしか。梁園八代の古風といひながら、いまだ若きほどにありがたき心遣ひなり。仲頼と申してこの御所に候ふは、その人が家人なるが、行方なしとて、山々寺々たづねありくと聞きしかば、いかなる方に聞きなさんと、我さへしづ心なくこそ』など、御物語候ひけるよし承りき」など申させ給ひき。
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【私訳】前の関白(鷹司基忠、1247-1313、兼平の長男)が新院(亀山院)のところに参って、ゆっくり御物語があった折に、新院は「女性の嗜みには歌ほどのものはない。あのように苦々しい出来事の中にも、あの歌は耳に残りました。具平親王以来、八代の古い伝統の家とはいえ、まだ若い年頃でめずらしい心遣いです。仲頼と申してこの御所に仕えている者は、その人の家人ですが、行方が知れないと聞いて山々寺々を尋ね歩いていると聞いていたので、どのようになることかと私さえ落ち着きませんでした」などと仰せがあったと伺いました、などと申される。

ということで、近衛大殿は「兵部卿が老いのひがみ」を非難し、隆顕の籠居に同情し、二条が琵琶を断念したことは残念だと言い、「村上天皇より家久しくしてすたれぬは、ただ久我ばかりにて候」と久我家の伝統と隆盛を称賛し、更に岡屋関白が久我家の家人・藤原仲綱を高く評価したというエピソードを紹介して久我大臣家の家格の高さを改めて強調したばかりか、「前の関白」が亀山院から聞いた話として、亀山院が久我家の文化的伝統と二条の歌の才能を賞賛し、仲綱の子である仲頼が二条を捜しているのを見て自分も心が落ち着かなかったなどと言ったというエピソードを追加します。
近衛大殿は自分の兄、息子など一族を総動員し、更に亀山院まで加えて、久我家の伝統・家格と後深草院二条個人の豊かな芸術的才能を褒め称えている訳で、二条は近衛大殿の口を借りて言いたい放題、自画自賛の限りを尽くしていますね。

コメント
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『とはずがたり』に描かれた中御門経任(その8)─「二条殿の御出家」の中止

2018-02-20 | 『増鏡』を読み直す。(2018)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 2月20日(火)08時27分25秒

昨日の投稿のタイトル、まるで中御門経任が「さしも思ふことなく太りたる人」のような感じになってしまいましたが、わざわざ直すのも面倒なのでそのままにしておきます。
「天子摂関御影」あたりを見るとふっくらタイプの人も多くて、当時の貴族社会において太っていること自体は別に否定的な評価をもたらすものではありませんが、「さしも思ふことなく」は世話になっている叔父への評価としては些か辛辣ですね。

天子摂関御影
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%AD%90%E6%91%82%E9%96%A2%E5%BE%A1%E5%BD%B1

さて、『とはずがたり』ではこの後、

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「かかる程をすごして、山深く思ひ立つべければ、同じ御姿にや」など申しつつ、かたみにあはれなること言ひつくし侍しりなかに、「さてもいつぞや、恐ろしかりし文を見し、我すごさぬことながら、いかなるべきことにてかと、身の毛もよだちしか。いつしか、御身といひ身といひ、かかることの出できぬるも、まめやかに報いにやと覚ゆる。【後略】
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【私訳】「こういう時期を過ごしたら、私も山深く籠もる決心ですから、あなたと同じ姿になりますね」などと申しつつ、互いにしんみりした話を残らず語り合った中に、善勝寺は「それにしても、いつぞやあの方(有明の月)からの恐ろしい手紙を見ましたが、私の過ちではないことながら、いったいどうした訳であろうかと、身の毛もよだちました。さっそく、あなたといい、私といい、こういうことが起こったのも、本当に報いなのではなかろうかと思われます。

という具合に、後深草院二条と四条隆顕の各々の不幸が「有明の月」の後深草院二条への妄執に起因するかのように描かれます。
『とはずがたり』に登場する「有明の月」が仁和寺御室という真言仏教界の最高レベルに位置する人物として設定されていて、国文学者はこれを九条道家息の開田准后・法助(1227-84)ないし後深草院の異母弟・性助法親王(1247-83)に比定していることは既に紹介しましたが、『とはずがたり』の虚構性・創作性が極めて高いと考える私はもちろんどちらの説にも懐疑的で、「有明の月」は後深草院二条が宮廷社会で挫折した原因を合理化するために創作された架空の人物と考えています。

法助(1227-84)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E5%8A%A9
性助(1247-83)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%80%A7%E5%8A%A9%E5%85%A5%E9%81%93%E8%A6%AA%E7%8E%8B

「有明の月」の人物比定はともかくとして、この後、『とはずがたり』では後深草院二条の行方が分からないことを嘆いて春日社に二週間の予定で籠もっていた「雪の曙」が、十一日目に春日社の第二の御殿の前に二条が昔のままの姿でいるという夢を見て急いで京に戻ることにし、藤の森のあたりで善勝寺の中間が細い文箱を持っているのに出会い、「勝倶胝院より帰るな。二条殿の御出家は、いつ一定とか聞く」(勝倶胝院より帰るところだな。二条殿の出家は何時に決まったと聞いているか)とカマをかけたところ、事情を知っている人と誤解した善勝寺の中間が二条の居所を教えたので、「雪の曙」は思った通りだと喜び、春日社にお礼の神馬を奉納した後、下醍醐の勝倶胝院に二条を訪問し、善勝寺隆顕と三人で語り合った、という御都合主義の展開になります。
そして二条が即成院近くの「伏見の小林」にある乳母の母、「宣陽門院に伊予殿といひける女房」の家に戻ると、そこに後深草院が来て、「兵部卿への恨みで、私まで恨まなくともよいではないか」などと説得するので、二条は堅く誓ったはずの出家をあっさり中止し、御所に戻って着帯することになります。
『とはずがたり』では更に「近衛の大殿」という第三の愛人が登場し、後深草院の暗黙の了解の下で妊娠九か月目くらいの二条と契るという、まあ、何というか、御都合主義を超えた、ちょっとシュールな味わいも感じられる展開となりますが、時の摂政・鷹司兼平(1228-94)に比定されている「近衛の大殿」の発言の中に中御門経任が登場するので、次の投稿でその部分を紹介します。

鷹司兼平(1228-94)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B7%B9%E5%8F%B8%E5%85%BC%E5%B9%B3
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