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『帝室制度史』を読む(その5)

2017-05-25 | 渡辺浩『東アジアの王権と思想』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 5月25日(木)11時10分41秒

続きです。
平安初期に山鳥の尾のように長い長い和風諡号も消え、漢風諡号の全盛時代が到来するかと思いきや、実際には漢風諡号も間もなく絶えて価値中立的な追号の時代になってしまいます。(p652以下)

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光仁、桓武、仁明、文徳、光孝の漢風諡号に付いては、光仁天皇の諡号告文が西宮記に見え、光孝天皇の諡号が寛平元年八月に定められしことが日本紀略に見えたる外には徴すべき資料の伝はれるものなし。

是より以後は諡号の制絶え、之に代へて専ら追号を定められしが、崇徳天皇の保元の変に拠り讃岐国に崩じたまふや、治承元年七月二十九日特に追尊して崇徳院の諡号を上り、爾来遠国に遷幸の後崩じたまひし天皇には特に諡号を上るの例を為し、長門国に崩じたまひし安徳天皇の諡号は文治三年四月に、隠岐国に崩じたまひし後鳥羽天皇の最初の諡号顕徳院は延応元年五月に、佐渡国に崩じたまひし順徳天皇の諡号は建長元年七月にそれぞれ定められたり。
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その追号の大きな流れの中で、「崇徳」「安徳」「順徳」、そして後鳥羽院の最初の諡号である「顕徳」の四つの諡号が奇妙な小波を立てるのですが、これが「怨霊」と関係することは前々回の投稿「『徳』諡号と怨霊」で述べました。

「徳」諡号と怨霊
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3b0b80180555abf605b6f4cdecc1702c

そして、「順徳」以後、改めて続く追号の大きな流れに逆らって、19世紀に突如として登場するのが「光格」という諡号ですね。(p653以下)

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此等の諸例を除くの外、一般には歴代専ら追号を上るの例なりしが、光格天皇崩じたまふに及び、御子仁孝天皇は先帝御在位中故典旧儀を復興したまひし聖績に付き叡慮あり、久しく中絶したる諡号奉上の儀を再興したまひ、東坊城聡長等の勧進に依り天保十二年閏正月二十七日に陣儀を行はしめ、光格天皇の諡号を宣命を以て山陵に告げ、詔書を以て天下に宣示したまへり。之に依り諡号の制は再び開かれ、仁孝天皇及び孝明天皇の諡号はこの例に拠り相次いで勅定せられたり。明治維新の後に及び、明治三年七月二十四日従来諡号又は追号の沙汰なかりし大友帝に弘文天皇、廃帝大炊王に淳仁天皇、九条廃帝に仲恭天皇の諡号を定めたまへり。
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弘文・淳仁・仲恭天皇の諡号は実に明治に入ってから贈られたものなんですね。
ま、これも面白い話がいろいろありますが、パスします。
次いで諡号を選ぶ手続きです。(p654以下)

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光仁天皇以後に於ける此等の漢風諡号撰定の儀に付きては、西宮記所載の光仁天皇諡号告文に「考諸六籍、諮于百寮」と見え、又崇徳天皇の諡号は通典に拠り撰進せられたること玉葉に見え、光格天皇以後も同じく支那の古典より文字を撰び、公卿に勅問ありて定められたるを以て見れば、他の御歴代諡号に付いても同じく、支那の古典を典拠とし、公卿の儀に依り撰進せられたることを推し得べし。諡号定まれるときは、之を祭文を以て先帝の山陵に告げ、勅書を以て諸司に施行すること西宮記に見え、光格天皇の例も亦同様なれども、崇徳、顕徳の両諡号には勅書なかりしこと百錬抄に見えたり。
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この後、もう少し解説が続くのですが、省略します。
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『帝室制度史』を読む(その4)

2017-05-25 | 渡辺浩『東アジアの王権と思想』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 5月25日(木)10時38分7秒

「第一款 諡号」の続きです。(p650以下)

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漢風の諡号は神武、綏靖、安寧、懿徳、孝昭、孝安、孝霊、孝元、開化、崇神、垂仁、景行、成務、仲哀、応神、仁徳、履中、反正、允恭、安康、雄略、清寧、顕宗、仁賢、武烈、継体、安閑、宣化、欽明、敏達、用明、崇峻、推古、舒明、皇極、孝徳、斉明、天智、弘文、天武、持統、文武、元明、元正、聖武、孝謙、淳仁、称徳、光仁、桓武、仁明、文徳、光孝、崇徳、安徳、順徳、仲恭、光格、仁孝、孝明は是なり。
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最後の三つだけが江戸時代で、これだけ見てもかなり異質な感じはしますね。
また、奈良時代の聖武・孝謙・称徳については、そもそもこれらが諡号なのか、という面倒な問題があり、若干の説明が出てきますが、古代史に深入りするのは避けます。

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此等の中、聖武、孝謙、称徳の号は、初めは尊号として上りしものにして、淳仁天皇の天平宝字二年八月百官及び僧綱上表して孝謙天皇に宝字称徳孝謙皇帝の号を上らんことを請ひ、勅してこれを許したまひ、次いで同月勅旨を以て聖武天皇に勝宝感神聖武皇帝の尊号を追贈したまひしに基づくものなり。天皇に漢風の称号を上れることの史に見えたるは、蓋し之を以て最初とす。称徳孝謙の号は天皇御在世中に上りたる尊号なれども、続日本紀に之に註して「出家帰仏、更不奉諡、因取宝字二年百官所上尊号称之」とあるに拠れば、尊号を以て後に諡号と定められしものゝ如し。聖武の号も亦当時は諡号は国風に拠るとの例なりしを以て、之を諡と為さず、尊号として追贈せられしものなれども、後に漢風の諡号行はるゝに至り、之をも諡号と定められたるが如し。
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また、神武以下の大昔の天皇の諡号は、実際には奈良時代に淡海三船が創作したものですね。

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神武以下漢風諡号の撰定せられし事情に付いては、釈日本紀に「私記曰、師説、神武等諡名者、淡海御船奉勅撰也」と見えたるに因り、淡海三船が勅を奉じて撰進したることを知るを得べく、其の時期は明らかならざれども、淡海三船は延暦四年に卒去したること及び垂仁、応神、仁徳、敏達等の諡号は続日本紀天応元年及び延暦九年の記事に見えたることに因り、奈良時代の末期に於いて撰進せられしものなることを推定し得べし。
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「徳」諡号と怨霊

2017-05-25 | 渡辺浩『東アジアの王権と思想』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 5月25日(木)10時03分29秒

>キラーカーンさん
>承久の乱で配流になった三上皇のうち、土御門天皇だけはなぜ「徳」がつかなかったのか。

土御門院は討幕計画には当初から全く関係していなくて、京から離れたのは幕府による強制的な追放ではなく、父が遠国に流されているのに京で安穏としているのは畏れ多い、という気持ちからの自発的な引っ越しですね。
私のサイト『後深草院二条』が閉鎖される前は『増鏡』を直ぐに引用できたのですが、ちょっと検索してみたらsantalab氏の『Santa Lab's Blog』に、

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中の院は初めより知ろし召さぬ事なれば、東〔あづま〕にも咎め申さねど、父の院、遙かに移らせ給ひぬるに、のどかにて都にてあらん事、いと畏れありと思されて、御心もて、その年閏十月十日、土佐国の幡多〔はた〕と言ふ所に渡らせ給ひぬ。
【中略】
せめて近きほどにと、東より奏したりければ、後には阿波の国に移らせ給ひにき。


とありました。
もちろん内心の問題ですから土御門院の真意がどこにあったのかは分かりませんが、少なくとも幕府を恨んで「怨霊」になるような人ではなかったことは明らかです。
保元の乱に敗れ、讃岐に流されて憤死した崇徳院以来、諡号の「徳」は「怨霊」と関係づけられていて、祟りを恐れて良い名前をつけて慰めるという意図があったそうですが、土御門院は怨霊候補ではないので「徳」を贈ろうという発想は全く出なかったようですね。
このあたりも野村朋弘氏の「諡法解」が参考になります。

「『徳』諡号の示すもの」(『鎌倉時代』サイト内)

※キラーカーンさんの下記投稿へのレスです。

素朴な疑問 2017/05/25(木) 00:50:53
>>「第四節 諡号及び追号」

承久の乱で配流になった三上皇のうち、土御門天皇だけはなぜ「徳」がつかなかったのか。
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