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「贋学生の懺悔録」

2017-02-19 | 山口昌男再読
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 2月19日(日)11時38分41秒

今年の予定にはなかったのですが、日本回帰前の山口昌男の全著作を読み直す必要をヒシヒシと感じつつあり、二月の残りと三月くらいを使ってやろうかな、などと思っています。
もう四半世紀前の一時期、私は本当に夢中になって山口昌男が書いた本を集め、読み耽っていたのですが、当時は自分の教養の水準が非常に低かったので、表面的にしか読めていなかった箇所も多いですね。
また、山口昌男は先端的過ぎたので、その記述の基礎となっている欧米の学者の本を読もうと思っても翻訳がないものが多かったのですが、高山宏氏らの活躍もあって四半世紀の間に翻訳も相当充実してきているようですから、ある意味、機が熟したともいえそうです。
国際基督教大学の学生時代に山口昌男に出会った大塚信一氏は、

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 前著(『理想の出版を求めて─一編集者の回想 1963-2003』トランスビュー、二〇〇六年)にも書いたが、山口氏はT・Sエリオットの『荒地』と文化人類学の関係についてしゃべり、私は仰天した。氏は英文学にも詳しく、とくにシェークスピアには精通しているようだった。氏が文化人類学そのものについて語ることは少なかった。大学では日本史を勉強したとのことだったが、それについて話すこともほとんど無かった。主たる氏の関心は、西欧の思想と文学であるように私には見えた。
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という印象を抱いたそうですが(『山口昌男の手紙』p5)、そもそも何で山口昌男が東大国史学科のような野暮ったいところに入ったのかというと、これは石母田正の影響だそうですね。
「贋学生の懺悔録─『渡辺一夫著作集』によせて─」(『渡辺一夫著作集11』月報、筑摩書房、1970)によると、山口昌男の「独学の師」は渡辺一夫・石田英一郎・石母田正・花田清輝・林達夫の五人だったそうで、「大学に入った私は、私の独学の第三の師石母田正氏の『中世的世界の形成』にとり憑かれ歴史学の世界にまっしぐらに飛び込んでいってしまった」のだそうです。
ま、それはともかく、「贋学生の懺悔録」を少し紹介すると、

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 私は贋学生だったことがある。時は一九五〇年、もう時効にかかっている筈である。官立大学受験に失敗したが由美さんなる幼馴染みがいたわけでもないので、予備校というものに行く気にもなれず、一体何をしていたのかと今考えると、絵の展覧会と古本屋廻りに時間をつぶしていたころのことである。私の北海道の中学時代の師で、今は当筑摩書房で「人間として」の編集に水を得た魚のごとく腕をふるっておられるが、どのころ、長い放浪の旅から戻って、明治大学文学部仏文科に復学していた(筈である)原田奈翁雄氏がある日「君、そんなに仕事ももたずぶらぶらしていると碌なものにならないよ。仏文科で渡辺一夫先生の講義があるから聴講に来ないか」というので、「渡辺先生というのは何の先生ですか」などと可憐なことを言いつつ原田氏の後について、文化学院、アテネ・フランセの向いにあった木造二階建の文学部の校舎に足をふみ入れたのが、多分、親の期待通りあわよくば、官僚のはしくれになって、権力の末端のおこぼれ頂戴で、生涯を仮眠の状態で過そうと思っていた少年のつまづきのはじめかもしれない(野坂昭如風に言えば)。とにかくふりかえって、「碌なもの」になるまいと心変りを遂げたのは、あの頃の事であろうと思われるのである。講義は「ルネサンスとユマニスムの成立」といったもので、聴講する学生は何時も三人。それでも先生は下を向いて、片手をひたいに当てた独特のポーズで顔をあげることはほとんどなかった。或る時突如として顔を我々の方に向けた先生は「登録している学生数は六十人なんですけどね。私の講義つまらないですか」と一人一人に質問をはじめた。三人であるから当然私のとこにも番が廻って来る。「いいえそんなことはありません。文学部というのは何処でもそんなところではないでしょうか」とお慰め申し上げたのが他ならぬ贋学生であったのだから世話はない。とは言うものの、実は、先生が三人と考えたのはそれでも尚、正当なる誤解であったのであり、原田氏を除く他の二人は贋学生であったから、本物は原田氏只一人だったのである。
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てな具合で、「親の期待通りあわよくば、官僚のはしくれになって、権力の末端のおこぼれ頂戴で、生涯を仮眠の状態で過そうと思っていた少年」などという表現は、ちょっと耳に痛いですね。
この種の戯文も山口昌男の得意とするところで、この後に、ある時期からの渡辺一夫の著書について、「装幀の故六隅許六も鬼籍に入られたような感じで、外形的にはやや淋しい時期が続いたようである。だが氏は、別の手だてで、故六隅氏の逝去の痛手を補って居られる」などと書いていますが、とぼけた書き方なので四半世紀前の私はたぶん何のことか分からなかったはずです。

「ぼくは君のお尻がなめたい」(by 渡辺一夫)
「六隅許六 or 故六隅許六」
コメント
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