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宝永3年(1706)の「白川郷弐拾壱ヶ村草高寄帳」

2016-12-04 | トッド『家族システムの起源』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年12月 4日(日)11時55分1秒

児玉幸多氏は『近世農村社会の研究』の「序」に、

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 第二編には特殊問題を収めた。第二編の「飛騨白川村の大家族制度とその経済的基礎」は、それまでの研究家が、ほとんど資料の採集をしていなかつたので、資料の面から研究する必要のあることを感じたのがきつかけで、たまたま在職中であつた農林省の用務で出張中の余暇を利用したのである。そして領主であつた高山の照運寺、高山の郡代の文書記録を襲蔵している岐阜県庁、それと現地の庄屋などを探訪したのであるが、ほとんど目的を達することができないで、僅かの資料を基に立論したもので、その点からすれば反論の余地も多いだろうと思う。しかし、従来の明治末年の戸籍や、口碑習慣のみに頼つていた研究方法に対して、若干の新境地を開いたということはできようと思う。附録とした「大家族制度の新資料」は、未発表のものである。
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と書かれていますが、リンク先の「故児玉幸多先生 略歴」を見ると、「昭和7年5月 農林省嘱託(昭和9年4月まで)『日本林政史資料』の編纂に従事」とありますから、資料収集がこの期間で、『歴史学研究』に発表したのが昭和15年(1940)ということですね。

「児玉先生を偲んで」
https://glim-re.glim.gakushuin.ac.jp/bitstream/10959/2243/1/shiryokan_15_237_239.pdf

さて、「四 大家族制度の発生の素地」では最初に宝永3年(1706)6月の「白川郷弐拾壱ヶ村草高寄帳」が二段組で5頁分ほど紹介され、次のように続きます。(p216以下)

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 この草高帳を見ると白川地方の経済的条件が極めて明白である。
 この草高帳によれば、二十一箇村の農民の一人当りの持高平均は三・四六一石であるが、その内ここに掲げた分のみに就いて計算すれば、中切地方の長瀬村の平均は二・〇六八石、大郷地方は五・〇三一石、山家地方は〇・六三四石に当る。大郷地方にても大牧組の保木脇・野谷・大牧・馬狩諸村の平均は二・七二二石である。そして中切地方や山家地方及び大牧組の村落等には大家族制度が行われたのである。大家族制度が如何に経済的な、又地理的な事情に関係しているかが明白である。
 当時この白川郷二十一箇村から、牧戸・長瀬・大牧・鳩谷・飯島・荻町の六箇所の郷蔵に納める年貢米は五百弐拾五俵余であり、一俵四斗入であるから租率が四公六民であることが判る。二石の持高の内四割の年貢を納め、残る一石二斗の内から村入用・名主給等を出し、その残る所が一年間に田畑から得る収穫である。
 勿論これのみで生活出来るものではない。此地方にては養蚕が行われ、「手前々々に而も糸綿を仕、商人方へ売」払う者もあつた。又山稼をして生活の資とするものもあつた。そして得た金を以て年貢米を買戻した。それでも、粟・稗・蕎麦から蕨・葛根・楢・栃の実等を第一の食糧とせねばならなかつたのである。
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ということで、ここでやっと養蚕の話が出てきますが、一言触れただけで、「家抱」の話題に移ります。
即ち、「次にこの資料の重要なる点は家抱の存在を明示していることである。家抱は名子・門屋などと同じく、百姓に属する隷農である」(p217)から始まって、隷農の検討が暫く続くのですが、この点は第五節に整理されているので省略します。
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