今頃八月のことを書く。しかも非常に適当に。
せっかく夏なんだから、暑い中を歩き回ろうといういつもの懲りない企画を実行。
メンバーはミカ、yuzといういつもの二人に、このブログには久々の登場の相方・馬論。ブログ更新せぇよ。
湯島
まずは前回訪れた手打ち古式蕎麦からスタート。
今回は全員が古式蕎麦を頼んだ。
今回は普通盛りを頼んだが、やはりこう見ると量が少ないね。しかし非常に旨いのも事実。
いつものように湯島天神に詣でてから、旅はスタートする。
今回の道のりに関して、yuz君から「樋口一葉住居跡」と「洋館」というリクエストを受けていた。
個人的には、今から6年前に妹の部屋探しに付き合った時に歩いた上野~本郷の街並みが忘れられず、その記憶を辿ってみたくもあったのだ。
だから湯島がスタート地点というのは、決して古式蕎麦が食いたいだけの理由ではない。勿論それも大きいが。
そして、その“記憶”と一致する場所と早速の再会。
調べると、麟祥院という臨済宗の寺院らしい。
6年という時間など、ついこないだのようなものだ。思い出はいとも容易く時を超える。
都会の喧騒の中にある侘び寂び。凛とした佇まい。張り詰めた静寂。何と心地良いのだろう。
中に人はおらず、ただ蝉だけが鳴いていた。
すぐ傍を大きな道路が走っている事を忘れてしまいそうである。
最初に訪れた場所としては悪くなかった。
更に少し歩けば、今回yuz君の要望の一つである“洋館”の候補の一つだった日本基督教団本郷中央教会にも出会う。
今回は探訪先の候補から外していたので、こんなに近くにあったのは嬉しい誤算であった。
こういった古い浪漫を感じさせる建物が文化財に指定されて残るのは非常に良い事だと思う。
菊坂
しばらく歩けば、なかなか味のある路地に入る。
樋口一葉が明治23年から26年頃まで住んでいたという旧跡のある菊坂だ。
今回の最大の目的地でもある。
この近辺の街並みが、一葉を全面に押し出したアピールをしている…のだが、意外にも目的地はわかりにくい。
多少迷いながらも、何とか発見。まさかあんな細い路の奥にあるとは思いもしなかった。
『もやもやさまぁ~ず』で取り上げられたばかりだというのに、僕らの他に野次馬はいなかった。
これが一葉の使ったという井戸。
彼女が使ったという歴史的事実にも意義は十分あるが、こんな都会のど真ん中で井戸が使用できるという事も驚き。
水は煮沸しなければ使えないとしても、だ。
一葉が住んでいた路地の階段。有名な場所である。
しかしここは今でも生活されている方がいらっしゃるので、大きな声で騒ぐのは禁物だ。
僕らも声を潜め、抜き足差し足で写真を撮影した。
上の階段を上がった所。
どうも僕らの東京散策は、「64年オリンピック開催前の東京」を探す旅になっているような気がする。
この風景で、そんなもう存在しない過ぎた時間を想像してみたりするのだ。
上の写真の路地を抜けると、金田一親子の旧跡を知らせる看板を発見。
多士済々の面々が揃っていたのですね、この街には。
茗荷谷
既にこの時点で疲労の色濃い二人を気遣い、後楽園駅から丸の内線で茗荷谷へ。
ここから今回のもう一つの目的地である“洋館”、旧鳩山邸を目指す。
しかし二人の強い要望により、駅前のドトールで休む事に。うわぁ、これは体力ないですね…たまげたなぁ…。
護国寺方面へは特に道を調べていなかった。携帯のgoogle mapと、僕の方向感覚だけが頼みの綱。
そんな道程で偶然見つけた旧跡。
見難いが、新渡戸稲造の旧居があったらしい。屋敷自体はもう存在しない。
これで新旧5000円札の顔となる偉人の旧居を回った事になる。偶然にしては素敵だ。
しかし「彼の著である『武士道』はどうも現代において誤解されている」という僕の講釈などどこ吹く風、二人はフラフラと先を歩き始めていた。聞けよ。
護国寺
江戸川橋、椿山荘…見慣れた場所に出た。ここはFが東京に住んでいた頃、よく二人で歩きに来た場所だ。
思えば、彼は僕の街歩きの師匠でもあるわけだ。そう考えると改めて影響は大きい。
あれ以来久しぶりの街並み。あの頃、卒論を前に苦悩していた記憶が、あの頃の空気が蘇る。
こういった体験が出来るから、歩く事は楽しいのかもしれない。
道を知っていたお陰で、鳩山邸に到着はしたものの、入り口がわからない。
正面の門には警備員が立っていて、どうにも入れる雰囲気ではない。別の入り口を探す事にした。
坂のある風景。
二人にとっては負担以外何ものでもなかったようだが。
4月に行った世田谷の風景と似ている。何となくデジャヴを感じていたら、2年前の旅行先で出会ったあの文豪のゆかりの地へと誘われていたようだ。
新渡戸稲造といい、この石川啄木といい、「何だか呼ばれているなぁ」と個人的に感じ入ってしまった。
結局鳩山邸には先ほどの入り口から入るという事がわかった後、二人からは一様に遠回りになった僕への不満が噴出したが、偉人達に呼ばれてしまったんだからしょうがないのである。
鳩山邸へ至る坂道の途中でまたしても休憩が入り、そのまま邸内へ入場料を払って突入。
外観だけ見て次の目的地へ向かう予定だった僕の意思とは逆に、yuz君は邸内、特にこのステンドグラスに強い興味があったらしい。
冷房だの、涼しい場所がどうのこうの聞こえたのは恐らく気のせいだろう。
芝生を踏まないように外に出て、中庭から外観を撮影する。
個人的にさほど感銘は受けなかったが、ここを訪れた数日後、この家を巣立った政治家が率いる政党が政権を奪取したという事実に驚きは隠せない。
しかし、この時は既に二人の疲労が限界に来ていることを知り、予想よりも早い旅の終わりを感じていたのであった。
最後に、ここから程近い護国寺を訪れる事にした。
三条実美、山県有朋、大隈重信といった日本史の重要人物が眠る寺院である。
墓地を巡る予定だったが、縁石に座り込んでしまった二人はもう歩く気力を完全に失っていた。
仕方なく、この本堂から近いところだけ一人で散策してみる事にする。
こうしてみると単なる石碑だが、なんと西南戦争にはるばる派遣され、戦地で亡くなった東京警視第四方面第四分署員の記念碑らしい。
全く予備知識もなしに訪れたため、こういった意外な発見があるのは嬉しかった。
この日本最大の内乱の後、幕末からまだまだ色濃く残っていた武士(士族)の時代は完全に終わりを告げ、明治政府は一気呵成に近代化に向かう事となる。
そんな戦争の犠牲になった方々に、しばし黙祷。
七卿落ちで長州に下って以来、尊皇攘夷・反幕勢力の一員として朝廷でのロビー活動を行った三条実美の墓。
人物としては気の弱い人で、派手な行動は得意ではなかったらしいが、あの時代を生き抜き、功績を残した重要人物だという事実には何の変わりもない。
山縣や大隈ではなく、彼に興味が湧いたのは、あまり明治の匂いを彼から感じず(結局、新政府樹立以降は長州閥からお飾り扱いされてしまう)、幕末の動乱にロマンを感じてしまう僕の性質ゆえだろう。
護国寺行きは想定外だっただけに、またいい出会いがあった。
神楽坂
二人は完全にグロッキー状態。特にyuz君は空腹が酷いらしい。僕もかなり腹が減っていた。
地下鉄東西線で、前回yuz君と入った中華料理店にまた向かう事にした。
正直に言えば、ここで旅を終わりにするつもりはなく、もっと訪れたい場所があったのだ。
二人とも昔から抜群にスポーツが得意な男達である。運動神経が極度に悪い僕なんぞは、いつも遥か先を走る彼らの背中を追い駆けるしかなかったのだが…それが今ではこの有様である。
馬論は生まれ付いての体育会系だし、最近yuz君も体を鍛えているという話を聞いていたのだが…。
馬論曰く、「ミカと違って俺たちは一度にスタミナを蓄えられない。ミカは大量に蓄えておける」。なんだそりゃ。
yuz曰く、「スポーツをやる時とは別。スポーツをやれば体は動く」。何と都合のいい体だ。
でも、実際彼らの言う通りなのだろう。
今回のような趣味の街歩きの時は僕が先陣を切って歩いていても、いざフットサルやサッカーなどをやる時は彼らの方が機敏に走れるに決まっているのだ。
そして、そういう肝心な時だけしっかり動ける奴が女の子にキャーキャー言われるのだ。絶対そうなのだ。
腹立ちますよね。絶対世の中って公平じゃないですよね。
幾分回復した二人と、神楽坂を歩いて目的の駅へ向かう途中、あの頃の自分と向き合ってみたくて、僕の通っていた母校の周りを通る事にした。
あまりに多くが変わっていた。時は歩みを止めないのだ。
だからそれを見て見ぬ振りをして、僕も歩みを速めた。
せっかく夏なんだから、暑い中を歩き回ろうといういつもの懲りない企画を実行。
メンバーはミカ、yuzといういつもの二人に、このブログには久々の登場の相方・馬論。ブログ更新せぇよ。
湯島
まずは前回訪れた手打ち古式蕎麦からスタート。
今回は全員が古式蕎麦を頼んだ。
今回は普通盛りを頼んだが、やはりこう見ると量が少ないね。しかし非常に旨いのも事実。
いつものように湯島天神に詣でてから、旅はスタートする。
今回の道のりに関して、yuz君から「樋口一葉住居跡」と「洋館」というリクエストを受けていた。
個人的には、今から6年前に妹の部屋探しに付き合った時に歩いた上野~本郷の街並みが忘れられず、その記憶を辿ってみたくもあったのだ。
だから湯島がスタート地点というのは、決して古式蕎麦が食いたいだけの理由ではない。勿論それも大きいが。
そして、その“記憶”と一致する場所と早速の再会。
調べると、麟祥院という臨済宗の寺院らしい。
6年という時間など、ついこないだのようなものだ。思い出はいとも容易く時を超える。
都会の喧騒の中にある侘び寂び。凛とした佇まい。張り詰めた静寂。何と心地良いのだろう。
中に人はおらず、ただ蝉だけが鳴いていた。
すぐ傍を大きな道路が走っている事を忘れてしまいそうである。
最初に訪れた場所としては悪くなかった。
更に少し歩けば、今回yuz君の要望の一つである“洋館”の候補の一つだった日本基督教団本郷中央教会にも出会う。
今回は探訪先の候補から外していたので、こんなに近くにあったのは嬉しい誤算であった。
こういった古い浪漫を感じさせる建物が文化財に指定されて残るのは非常に良い事だと思う。
菊坂
しばらく歩けば、なかなか味のある路地に入る。
樋口一葉が明治23年から26年頃まで住んでいたという旧跡のある菊坂だ。
今回の最大の目的地でもある。
この近辺の街並みが、一葉を全面に押し出したアピールをしている…のだが、意外にも目的地はわかりにくい。
多少迷いながらも、何とか発見。まさかあんな細い路の奥にあるとは思いもしなかった。
『もやもやさまぁ~ず』で取り上げられたばかりだというのに、僕らの他に野次馬はいなかった。
これが一葉の使ったという井戸。
彼女が使ったという歴史的事実にも意義は十分あるが、こんな都会のど真ん中で井戸が使用できるという事も驚き。
水は煮沸しなければ使えないとしても、だ。
一葉が住んでいた路地の階段。有名な場所である。
しかしここは今でも生活されている方がいらっしゃるので、大きな声で騒ぐのは禁物だ。
僕らも声を潜め、抜き足差し足で写真を撮影した。
上の階段を上がった所。
どうも僕らの東京散策は、「64年オリンピック開催前の東京」を探す旅になっているような気がする。
この風景で、そんなもう存在しない過ぎた時間を想像してみたりするのだ。
上の写真の路地を抜けると、金田一親子の旧跡を知らせる看板を発見。
多士済々の面々が揃っていたのですね、この街には。
茗荷谷
既にこの時点で疲労の色濃い二人を気遣い、後楽園駅から丸の内線で茗荷谷へ。
ここから今回のもう一つの目的地である“洋館”、旧鳩山邸を目指す。
しかし二人の強い要望により、駅前のドトールで休む事に。うわぁ、これは体力ないですね…たまげたなぁ…。
護国寺方面へは特に道を調べていなかった。携帯のgoogle mapと、僕の方向感覚だけが頼みの綱。
そんな道程で偶然見つけた旧跡。
見難いが、新渡戸稲造の旧居があったらしい。屋敷自体はもう存在しない。
これで新旧5000円札の顔となる偉人の旧居を回った事になる。偶然にしては素敵だ。
しかし「彼の著である『武士道』はどうも現代において誤解されている」という僕の講釈などどこ吹く風、二人はフラフラと先を歩き始めていた。聞けよ。
護国寺
江戸川橋、椿山荘…見慣れた場所に出た。ここはFが東京に住んでいた頃、よく二人で歩きに来た場所だ。
思えば、彼は僕の街歩きの師匠でもあるわけだ。そう考えると改めて影響は大きい。
あれ以来久しぶりの街並み。あの頃、卒論を前に苦悩していた記憶が、あの頃の空気が蘇る。
こういった体験が出来るから、歩く事は楽しいのかもしれない。
道を知っていたお陰で、鳩山邸に到着はしたものの、入り口がわからない。
正面の門には警備員が立っていて、どうにも入れる雰囲気ではない。別の入り口を探す事にした。
坂のある風景。
二人にとっては負担以外何ものでもなかったようだが。
4月に行った世田谷の風景と似ている。何となくデジャヴを感じていたら、2年前の旅行先で出会ったあの文豪のゆかりの地へと誘われていたようだ。
新渡戸稲造といい、この石川啄木といい、「何だか呼ばれているなぁ」と個人的に感じ入ってしまった。
結局鳩山邸には先ほどの入り口から入るという事がわかった後、二人からは一様に遠回りになった僕への不満が噴出したが、偉人達に呼ばれてしまったんだからしょうがないのである。
鳩山邸へ至る坂道の途中でまたしても休憩が入り、そのまま邸内へ入場料を払って突入。
外観だけ見て次の目的地へ向かう予定だった僕の意思とは逆に、yuz君は邸内、特にこのステンドグラスに強い興味があったらしい。
冷房だの、涼しい場所がどうのこうの聞こえたのは恐らく気のせいだろう。
芝生を踏まないように外に出て、中庭から外観を撮影する。
個人的にさほど感銘は受けなかったが、ここを訪れた数日後、この家を巣立った政治家が率いる政党が政権を奪取したという事実に驚きは隠せない。
しかし、この時は既に二人の疲労が限界に来ていることを知り、予想よりも早い旅の終わりを感じていたのであった。
最後に、ここから程近い護国寺を訪れる事にした。
三条実美、山県有朋、大隈重信といった日本史の重要人物が眠る寺院である。
墓地を巡る予定だったが、縁石に座り込んでしまった二人はもう歩く気力を完全に失っていた。
仕方なく、この本堂から近いところだけ一人で散策してみる事にする。
こうしてみると単なる石碑だが、なんと西南戦争にはるばる派遣され、戦地で亡くなった東京警視第四方面第四分署員の記念碑らしい。
全く予備知識もなしに訪れたため、こういった意外な発見があるのは嬉しかった。
この日本最大の内乱の後、幕末からまだまだ色濃く残っていた武士(士族)の時代は完全に終わりを告げ、明治政府は一気呵成に近代化に向かう事となる。
そんな戦争の犠牲になった方々に、しばし黙祷。
七卿落ちで長州に下って以来、尊皇攘夷・反幕勢力の一員として朝廷でのロビー活動を行った三条実美の墓。
人物としては気の弱い人で、派手な行動は得意ではなかったらしいが、あの時代を生き抜き、功績を残した重要人物だという事実には何の変わりもない。
山縣や大隈ではなく、彼に興味が湧いたのは、あまり明治の匂いを彼から感じず(結局、新政府樹立以降は長州閥からお飾り扱いされてしまう)、幕末の動乱にロマンを感じてしまう僕の性質ゆえだろう。
護国寺行きは想定外だっただけに、またいい出会いがあった。
神楽坂
二人は完全にグロッキー状態。特にyuz君は空腹が酷いらしい。僕もかなり腹が減っていた。
地下鉄東西線で、前回yuz君と入った中華料理店にまた向かう事にした。
正直に言えば、ここで旅を終わりにするつもりはなく、もっと訪れたい場所があったのだ。
二人とも昔から抜群にスポーツが得意な男達である。運動神経が極度に悪い僕なんぞは、いつも遥か先を走る彼らの背中を追い駆けるしかなかったのだが…それが今ではこの有様である。
馬論は生まれ付いての体育会系だし、最近yuz君も体を鍛えているという話を聞いていたのだが…。
馬論曰く、「ミカと違って俺たちは一度にスタミナを蓄えられない。ミカは大量に蓄えておける」。なんだそりゃ。
yuz曰く、「スポーツをやる時とは別。スポーツをやれば体は動く」。何と都合のいい体だ。
でも、実際彼らの言う通りなのだろう。
今回のような趣味の街歩きの時は僕が先陣を切って歩いていても、いざフットサルやサッカーなどをやる時は彼らの方が機敏に走れるに決まっているのだ。
そして、そういう肝心な時だけしっかり動ける奴が女の子にキャーキャー言われるのだ。絶対そうなのだ。
腹立ちますよね。絶対世の中って公平じゃないですよね。
幾分回復した二人と、神楽坂を歩いて目的の駅へ向かう途中、あの頃の自分と向き合ってみたくて、僕の通っていた母校の周りを通る事にした。
あまりに多くが変わっていた。時は歩みを止めないのだ。
だからそれを見て見ぬ振りをして、僕も歩みを速めた。