チエちゃんの昭和めもりーず

 昭和40年代 少女だったあの頃の物語
+昭和50年代~現在のお話も・・・

第109話 かいごさま(その3)

2007年09月11日 | チエちゃん
 チエちゃんの家では、春から秋にかけて蚕を飼っていました。

 先に 第74話 かいごさま(その1)第80話 かいごさま(その2)をお読みいただければ、なお分かりやすいと思います。
 
 蚕は4回脱皮を繰り返して4~5㎝の大きさに成長すると、それまで青白かった体の色が、クリーム色に透き通ってきます。これは、繭を作り、さなぎになる準備ができたということです。こうなると、蚕はもう桑の葉を食べず、繭を作る場所を探し始めます。

 蚕がこの状態になると、養蚕農家では、蚕を1頭(匹)ずつ拾って、わらで編んだ「まぶし」に移します。このまぶしの中で、蚕は繭を作る適当な場所を見つけ、口から糸を吐いて、繭を作ります。
 蚕をまぶしに移すことを蚕を「ひく」「ひける」、専門用語では「上族(じょうぞく)」と言います。

 このかいごさまをひく作業というのが、大変なのです。
なにしろ、一斉に蚕が繭を作る状態になるわけですから、一家総出でかいごさまを拾って、まぶしに移してゆくのです。猫の手も借りたいほどの忙しさです。

 ただ、この作業に入れば、桑摘みの重労働はなくなりますし、蚕をまぶしに移してしまえば、後は、蚕が繭になるまで待つだけとなるので、作業にも自然と活気が感じられるのでした。
 まぶしの下には新聞紙を敷きます。というのは、蚕は繭を作りながら、最後の糞とおしっこをするからです。

 こうして、繭が完成し、中の蚕が完全なさなぎになるのを待ちます。
それから、まぶしから繭を外していきます。この作業を「繭かき」と言います。
取れた繭は、周りにフワフワとした綿状の糸に包まれていますから、綿取り機にかけてきれいな繭に仕上げます。
 チエちゃんは、この綿取りのお手伝いが、かいごさまの中で一番好きな作業でした。
綿取り機に繭を乗せ、レバーを回しながら、降り口付近に手で繭を移動させると、ゴム上のベルトに余分な綿状部分が巻き込まれて、取り除くことができるのです。
これは、本当に最後の最後の作業であり、秋の夜長に白熱灯の下で、お母さんとおばあちゃんが世間話をしながら作業し、ゆったりとした時間が流れていくのでした。
チエちゃんの横では、みぃも毛づくろいをした後、ゴロゴロと喉を鳴らし、家族中がご機嫌な夜なのでした。


養蚕の道具たちをリンクさせていただきました。作業の一部を見ることができます。
 


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12 コメント

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おかいこさま (うし)
2007-09-12 00:54:21
こちらのほうでは「おかいこさま」と言っていたかな。
夫の実家にも道具がありました。そのほかにやぎやニワトリを飼っていて、ヤギの毛を刈って毛糸を糸車で作り、糸を染めてセーターを編んでいたとか、ニワトリに卵産ませたり絞めたりして現金収入がなくてもなんとか生活していた時代。

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回転まぶし (影武者所長)
2007-09-12 12:46:50
んだ、んだ。
なぜか、「まゆかき」はココチよいんだよなぁ~。なんでだべな。

オライでは、「まぶし」は10個ぐれまとめて天井からつるす「回転まぶし」だったど。
「まぶし」が古くなっと、ふろもしの焚き付けにしたげんちょ、
あれは、燃料としても最高だったな。
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自給自足 (チエ)
2007-09-12 20:52:26
うしさん、こんばんは
チエちゃん家でも、山羊、羊、ニワトリ、アンゴラうさぎを飼っていました。
敷地内には、実のなる木もたくさんありました。自給自足の生活でした。
家にないものは、ご近所からおすそ分けがありましたし・・・
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まゆかきは心地良い! (チエ)
2007-09-12 20:58:42
影武者所長さん、お晩です。
たぶん、農作物なら収穫の喜び?と同じことなのではないでしょうかねえ。
回転まぶし、もちろん、チエちゃん家でも使っていましたよ。わらのまぶしの後でした。道具にも流行があるみたいです。
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アンゴラうさぎ (うし)
2007-09-12 21:03:41
こんばんは。アンゴラうさぎって毛を刈るんですか? 
ヤギはお乳も飲めるしありがたかったですよね。
でも綿羊だったかもしれない。そういえば、母が子供の頃は田んぼをならすのに牛使ってたそうです。ていうか、普通に牛が道を歩いてました。もちろん人と一緒でしたけど。牛は人を見るそうで、母はいつも牛に馬鹿にされてたそうです。(はは、牛に馬に鹿ですね)
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Unknown (チエ)
2007-09-12 22:26:35
うしさん、再度の訪問ありがとうございます。
はい、アンゴラうさぎは毛を刈って売るのです。商売人がやって来て刈り取っていきます。
そして、年を取ったうさぎは、鶏と同じに絞めて、ご馳走になっていました。
こういう経験って、物すごく、大切なことだと思います。よく、祖父が鶏をさばく所を見せてくれたのですが、他の生き物の命を頂くことは、ただ可哀想ということだけではなく、有難いことと実感できたと思います。
うちでは、牛は飼っていませんでした。
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蚕様です。 (ラブっち)
2007-09-13 00:59:21
私の実家は、サラリーマンですが、旦那の実家は、農家です。
今は、細々ですが・・・。

旦那が小学生のころは、蚕様だったようです。
ヤギのお乳で旦那のすぐ上の兄は育ったそうです。
勿論、鶏は、卵が産めなくなると、
夕飯のご馳走に変わるそうです。
屋敷の側には、3畝から5畝ぐらいの畑に、
冬場は、葱や白菜。夏場は夏野菜が植わっていたそうです。
牛は、田起こしには、欠かせないアイテムだったようです。

蚕様のために、朝早く、桑を刈り取りに行き、敷き詰めてから、学校に行ったそうです。
昭和44~45年ごろまで続いていたようです。
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製糸工場 (谷やん)
2007-09-13 02:10:34
谷やんの育った群馬県も養蚕の盛んな所でした。
家の近くには、製糸工場があり、繭をお湯に浸しながら糸を紡いでいましたね?!
当時は女工さんが多く、工場の中は独特な匂いと湯気が立ち込めていました。
でも、その後は衰退し工場は閉鎖していきました。
その頃から自由化が始まったんでしょうか?!
輸入品には価格面で勝てなかったんでしょうね?!
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蚕様 (チエ)
2007-09-13 22:05:36
ラブっちさん、こんばんは
昭和のあの頃は、どこも似たような暮らしぶりだったのですねえ。
私も、山羊の乳を飲んで育ったのだそうですが、覚えていないのです。
曾祖母の家で、豆乳をよく飲ませてもらったことは、覚えています。
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隣町の製糸工場 (チエ)
2007-09-13 22:11:57
谷やん、いつもコメントありがとうございます。
隣町に製糸工場がありました。私は、あの匂いが苦手でした。
チエちゃん家でも、昭和40年代末には、養蚕を止めてしまったように記憶しています。
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