フランス盤DVDライナー・ノーツより後半をご紹介します。
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野心的で大胆なプロデューサーであるアラン・ドロンは『ビッグ・ガン』の撮影を
イタリア以外の国で撮影することにためらいはなかった。
もちろん撮影の容易さを考えればパリで行うのが常識だが、
彼はリアリズムを追及するためにハンブルグやコペンハーゲンでキャメラの前に立った。
そんな時、あいにくある“組織”が圧力を加えてきたこともあった。
このようなジャンルの映画は何かとお金が必要になるのが常だった。
しかしそんなことはどうでもよかった。
アラン・ドロンは俳優として完全主義者であり、プロデューサーとして情熱の人であった。
--------------------中略-------------------------------------
1973年の時点でアラン・ドロンは最高というわけではなくとも
ヨーロッパの大スターたちの中の一人であった。
それゆえ彼と対等に渡り合える俳優を探すのは難しかった。
しかしながらプロデューサーとしてのドロンはいつもそのキャスティングで成功を収めていた。
今回彼はイタリアの若き女優カルラ・グラヴィーナを相手役に抜擢した。
赤い髪の彼女は当時イタリアで急速に国際的な成功を収めていた。
彼女はジャン・ルイ・トランティニアン(『刑事キャレラ10+1の追撃』)
ジャン・ポール・ベルモンド(『相続人』)、
ダスティン・ホフマン(『アルフレード・アルフレード』)
らと既に共演していた。
いずれアラン・ドロンとも共演することは当然予想されていたことであった。
“ヴィットリオ・ガスマンと共演して以来私は大スターたちとばかり共演してきたわ。
間違いなく今の私は運のいい女優よ。”
撮影時彼女はやや皮肉っぽくこう語った。
彼女のこれまで共演した男優たちの中でも、アラン・ドロンは男の中の男であった。
彼ら二人は俳優としての才能ばかりでなく人間としての信頼関係も築けていたに違いない。
同じようにロジェ・アナンはフランスのボス役に選ばれた。
彼はこの役のおかげで7年後に“大いなる許し(未公開)”で主役を演じるようになる。
リチャード・コンテはその逆である。
彼は1年前に“ゴッド・ファーザー”でドン・ブラジーニ役を演じており、
この『ビッグ・ガン』でもマフィアのボスを見事に演じている。
プロデューサーとしてのアラン・ドロンはこの『ビッグ・ガン』という作品が
フランスとイタリアの国境を分けずに両国でヒットするであろうことは予想していた。
さらに彼は新しい試みとして全ての撮影を二回に分けて行うことを
監督のドッチオ・テッサリと一緒に決めた。
最初はフランス語で、そして2回目は英語で行った。
このようにすることでアラン・ドロンはこの作品をイギリスやアメリカに配給することが可能だと確信した。
それらの国の観客は字幕スーパーやアフレコなどの映画は見ないことを承知していたからだ。
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最後の文章で「撮影が2回行われた」と書かれていますが、
DVDを観る限り、俳優の口の動きを見ていると英語を話しているようなので、
最終的に英語版が公開され、フランス語盤はドロン本人のアフレコのようです。
しかもドロンの英語は本人の声ではないので、
わざわざ別の声優がドロンの英語をアフレコしたようです。
どういう事情か分かりませんが英語圏での成功の為に、
完璧を期して敢えてそうしたのかもしれません。
アラン・ドロンはこの作品の前に『高校教師』『スコルピオ』『暗殺者のメロディ』と
本国フランス以外の国に敢えて自分の身を置いた作品を続けて発表していますが
いずれの作品も優秀な出来栄えであり、この時期、彼の「挑戦」は大成功したといえるでしょう。
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