惰天使ロック

原理的にはまったく自在な素人哲学

渡辺京二「神風連とその時代」 (洋泉社新書y)

2011年07月16日 | 土曜日の本
渡辺京二傑作選(2) 神風連とその時代 (新書y)
渡辺 京二
洋泉社
Amazon / 7net

ここんとこ渡辺京二ばっか読んでないか、と思われるかもしれないが、別にそんなことはないのである。なんでかよく判らないがここんとこたくさん出ているだけなのである。

神風連については若いころ年上の知人というか編集者からサワリのような話を聞かされたことがあって、なんかスゲエな、と感じるところがあって、いつかはまとまった話を読んでみたいものだと思っていた。ずっと後になって「北一輝」でこの著者のことを知って、そうすると著作の中にこれがある、読んでみたいと思ったのだが、そのときは絶版だった。で、いま新装版で出たからやっと買って読むことができたということである。

何でわたしがそんなものに興味を持つのかと言って、言ってみればこの神風連というのは、小学校の算数から珠算が消えて電卓やパソコンの授業が行われるようになったら、日本珠算連盟の地方組織が決起してマジ叛乱を起こしたというようなものなわけである。しかも、敗れればほぼ全員が自害して果てる、という、なんでそこまでするのか全然理解できないような叛乱なのである。普通の計算機屋ならともかく、わたしのようなパソコン屋にとっては、そういうのは本来大変に関心のあることなのである。

文明の利器は「便利だから使う」というのはごく自然で当たり前のことのように思われているし、たいていは事実そうだと思えることではある。またそう思えなかったら文明の利器の究極みたいなパソコン屋などにはなりもしないわけである。けれども、人間というのは、いや、ユーザという存在はそれで全部なのか。そう自問してみれば、それは絶対にそうではありえない、全部どころか、おそらく半分も尽くしたことにはならない、という直観が、計算機屋を自称するようになった一番最初の、ほんとに中学生の頃から、わたしにはあるわけである。

それで全部ではない、全部を尽くすことは決してできない、ということの最も鮮明で典型的で、ほとんどまったく理解不能な(笑)現われがこの神風連の叛乱であるし、また、著作の多くがどこかでそれに触れるところを持っているということが、わたしがこの著者のこの系列の著作なら「出れば買う」くらいに愛読している理由である。

この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« My Generation - Patti Smith | TOP | Stevie Ray Vaughan and Jeff... »
最新の画像もっと見る

Recent Entries | 土曜日の本