惰天使ロック

原理的にはまったく自在な素人哲学

門脇俊介「理由の空間の現象学──表象的志向性批判」(創文社)

2012年05月07日 | 読書メモ

今日からこの本を通勤電車のお供の一冊に加えた(実は連休中に買ってあったのだが、正直、毎日暑くて読書どころではなかった)のだが、正直、なんで今までこれを読んでいなかったのだと言われそうなくらい、現在ただいまのわたしの関心にぴったり沿ったような題名の本ではある。

そうは言ってもある意味で珍しい本ではある。題名にある「理由の空間」はもちろんセラーズの「経験論と心の哲学」で言及されたところの、まさにそこから採られている。けれどもこの本は分析哲学の本ではなくて(分析哲学についての言及はもちろん相応にあるのだが)、現象学の本なのである。それも「理由の空間」という考えに相当するものが実はフッサールやハイデガーといった現象学の伝統のうちでよく論じられてきたものであることを解き明かすことが、この本の主題のひとつになっているわけである。とりあえず主要な目次と各章で扱われている主な人名を掲げてみる(今日から読み出したので、全部ちゃんと読んでいるわけではないから、間違いはあるかもしれない)。

   序論 志向性と「理由の空間」
   一章 知覚的志向性と生活世界(フッサール)
   二章 志向性と言語(フッサールとサール)
   三章 言語についての規範主義の擁護
   四章 意図の自立性をめぐって(アンスコム、デイヴィドソン)
   五章 ハイデガーによる「理由の空間」の拡張
   六章 表象的志向性批判(アウグスティヌス)
   あとがき

序論の題名にある通り、この本のもうひとつのテーマは志向性である。だからサールせんせいの名前も(例によって批判的に、ではあるが)さんざん出てくる。あとは序論の冒頭部分を抜き書きしておく。

人が世界へと赴きそこに住まうことを「志向性」の概念に訴えて理解しようとする問題提起は、20世紀初頭以来の現代哲学の最も重要な企ての一つである。世界から単に刺激を受容してそれに反応するのではなく、世界が「かくかくである」と表象し、その表象に基づいて、世界の状態を変えることをもくろむことは、人間だけがなしうることであり、このような表象やもくろみを介して世界へと赴くことが、人間と人間の住む世界とを、比類のない特異なものにしてきた。表象やもくろみを介して世界へと赴くこと、少し違った表現をすれば、世界へと「向けられていること」としての志向性を内在させることによって、人間の心は他のどんな存在者からも区別されてきたし、世界は、表象されるべき真理の源泉、あるいはもくろみが成就するかしないかを決定する場として現出してくる。

人が世界について知るのは、何らかの表象を介してなのだから、人は自らに対して現われる世界に対して一定の主導権を持つ。ところが他方、その表象が最終的に真理の表象であるべきであるとするなら、表象は、自らの支配下にはない、世界がかくあるという真理に服すことになる。志向性を持つことなしに、真理という現象を意味あるものにすることはできないが、何が真であり何が偽であるかをわれわれが自ら決することはできない。法則的必然性によってではなく、自らのもくろみによって世界へと介入することのできる人間は、まさにそのことによって、自らのもくろみの成就が世界に依存することを思い知らされる。人間が志向性によって、自由と制約されていることのこうした二重性のうちに据えられることが、人間に特異な位置を与えているのだ。

この本を構成している各章で私は、志向性の現象をこれまでのいくつかの誤解から解放し、──どの章でも表立ってというわけではないが──「理由の空間」という概念と関係づけることによって、今述べたような二重性を人間に付与する志向性のあり方を明らかにするように努めている。

この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 5月6日(日)のつぶやき その2 | TOP | 5月7日(月)のつぶやき その1 »
最新の画像もっと見る

Recent Entries | 読書メモ