私のベトナム、そしてアジア

ベトナムから始まり、多くのアジアの人々に触れた私の記録・・・

母さんの仕事  フィン・タオ・チャン

2011-08-14 00:58:32 | Weblog
村田さん、ありがとうございます。以下、無断転載します。

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子ども基金のみなさま

お盆休み、いかがお過ごしでしょうか。
先日、青葉卒業生のフィン・タオ・チャンさんという方から、「よかったら私のブログを読んでみて下さい」と連絡をもらって、その中の「母さんの仕事」という文章を読んでみました。
わからない単語が多くてちょっと苦労しましたが、すばらしい内容だったので、頑張って日本語に翻訳してみました。

「ban hang rong」(露天商)の仕事で5人の子どもを育てた、チャンさんのお母さんの仕事ぶりや、そんなお母さんに対するチャンさんの気持ちが、とても素直に綴られています。
とくに、子ども時代にお母さんの行商に1日だけ同行したときの様子が具体的に書かれていて、興味深い内容です。

青葉奨学会沖縄委員会事務局のブログに、日本語訳を載せましたので、よろしければ時間のあるときにご覧になって下さい。
http://aobaokinawa.ti-da.net/(チャンさんのブログの原文のアドレスも、こちらの中で紹介してあります)

暑さがぶり返しているようですが、くれぐれも体調にお気をつけ下さい。
では、今後ともよろしくお願いいたします。

沖縄委員会 村田光司

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http://aobaokinawa.ti-da.net/
ベトナム青葉奨学会沖縄委員会 2011年08月12日

母さんの仕事

今日、友人がわたしに聞いた。「3月8日(女性の日)は、どこか遊びに行く予定はある?」
わたしは答えた。「いつもの年と同じよ。わたしは家にいて、母さんと一緒に過ごすの」
友人は続けて聞いた。「お母さんは、何の仕事をしているの?」
そういえば、知り合ってずいぶん長くなるのに、友人にそのことを質問されるのは初めてのことだ(もっとも、わたしの方も同じようなものね)。
それから2人は、自分の家族について語り始めた。
わたしの父さんは、早く亡くなった。母さんは、30歳を過ぎたばかりのときから、たった1人で、5人の子どもたちを養わなければならなかった。
そのことを知って、友人は、母さんの仕事について、とても興味を持ったようだった。

わたしは、母さんについて話した。
母さんは、とても小さな頃から、おじいさんと一緒に、川で漁網を引く仕事をしていた。
それは危険に満ちたものだった。強盗やワニが現れたり、ときには人の死体まで流れてくることもあった。その頃、国はまだ平和になっていなかったからね。
母さんは、小さなときから賢い子だった。だからこそ、父さんのお父さん(父方のおじいさん)は、母さんを父さんに引き合わせた。誰もが冗談だろうと思っていたことが、現実になった。

やがて、母さんは父さんと一緒に家庭を持った。そして、毎日、家でさまざまな食べ物を売るようになった。
それはバインミーティット(ベトナム風のサンドウィッチ)だったり(その頃は、みんなフランスパンを「豚小屋」風に並べて売っていた。それがとても面白くて、わたしはいつも進んでパンを並べる仕事をしたのを覚えている)、バインクオン(水餃子に似た食べ物)やサトウキビジュースだったりした。
サトウキビジュースを売る手押し車は、2番目の姉さんがよく中に潜り込んで遊ぶ場所だった。悪い癖で、ジュースを啜っていたのね。あるとき、姉さんは手押し車の中に入ったまま眠ってしまった。母さんは姉さんを捜したけれど見つからず、泣いてしまったことがあった。
その後、母さんはいろいろな日用品を売るようになった。

それは、母さんにとっていちばん幸せな時間だった。心優しい、愛する夫を持ち、幼い子どもたちの世話をして過ごす時間…。
でも、そのささやかな幸せは、13年足らずで終わった。
父さんが永遠に旅立ってしまった。
本当にあっけなく、あまりにも突然に訪れた別れに、誰もが呆然とし、嘆き悲しんだ。

そのときから、母さんの人生は、苦難に満ちた新しい1ページが始まった。
5人の子どもは、いちばん大きな子が12歳、いちばん小さな子は、まだ3ヶ月だった。
すべての重荷が、母さんの肩にのしかかった。
間もなく借金がふくらんでいき、毎日、借金取りが家に来るようになった。彼らは、来るたびに家財道具を叩き壊し、脅し文句を吐き捨てていった。
わたしたち母子は、崩れかけた家の中で、お互いに抱き合って泣くことしかできなかった。
もう家で日用品を売ることはできなくなり、母さんは生計を立てるために家を離れて仕事をしなければならなかった。母さんは、露天商となり、品物を担いで売り歩くようになった。

わたしたち姉妹は、母さんが早朝に家を出て、夕方になってやっと帰ってくるのを見ていた。
母さんの疲れた表情から、大変な仕事だということが感じられたけれど、それがどのような苦労なのか、本当のことは何もわかっていなかった。
なぜなら、遠い場所での露天商について、母さんはいつも楽しい話ばかりをわたしたちに聞かせてくれていたから。
「都会ってのは、とってもおかしなところなんだよ。どの家も戸を閉めてしーんとしているもんだから、母さんは、ここには誰もいないんだと思った。でも、呼び込みをすると、どこかから人が大勢出てくるんだよ」
「都会の露天商の人たちは、とっても気が荒いのさ。彼らは、商売の場所を取るために、よく喧嘩をするんだ。でもね。母さんはここに来たばかりの新入りだから、いつも場所を譲ってもらったり、助けてもらったりしている。きっと、父さんが見守ってくれているんだね」
母さんがそのような楽しい話をしてくれていたので、わたしたちは、母さんの仕事は体力的にきついだけで、危険な目に遭わなければならない仕事だとは思っていなかった。ある日の出来事までは。

その日、どうして母さんがわたしを連れて商売に出ることになったのか、覚えていない。おそらく、わたしを病院に連れて行くためだったのかもしれない。
わたしのような子どもには、母さんに連れられて都会に出るのは、めまいがするようなことだった。都会がどんなに美しい場所であるかを、目にできるのだ…。

その日の未明、午前3時ごろ、母さんはわたしを連れて行くために、起こしてくれた。
母さんの片手には、10キロほどの(と母さんは言った)ニッパヤシの実を入れたカゴを提げ、もう一方の手には量りやビニール袋、そしてわたしの手を引いて家を出た。
木の葉がざわざわと騒ぎ立てる、暗くてさびしい夜道を通って(いまでは、その道は明るく、賑わっている。それに、遠いというほどの距離でもないのに、そのときのわたしは、恐ろしく遠い道のりだと感じていた)、わたしと母さんは船着場に着いた。
多くの人たちと一緒に、小さな渡し舟に、積み重なるように乗り込んだ。
はじめのうちは、何でもなかったけれど、川の真ん中に達したところで、突然エンジンが止まってしまい、船は漂い始めた。そして、みんなが騒ぎ出した。
「まいったな。海まで流されてしまうぞ」
「船頭は、酒を飲んでデタラメな操縦をしてるじゃないか。なんて無責任なやつだ!」
「明かりを灯せ。他の船に助けてもらうんだ」

幸い、船はエンジンがかかって、再び走り始めた。
でも、ほっとする間もなく、大きな波がやってきた。渡し舟は高い波に乗り上げると、いきなり谷間に落ちていく。
目の前には、大きな水しぶき(わたしは、いまも時々、このときのことを夢に見るの)。水が、浴びるように身体に降りかかった。
そのとき、わたしは母さんに抱きついて、恐ろしさで泣くことしかできなかった。
そして初めて理解した。毎日、母さんはこんなにも危険な思いをして、仕事に出かけているんだということを。

それでも、ようやく岸に上がることができた。よかった!
母さんとわたしは、先に進んだ。
「ブージョー」という車に乗ると(みんなこんな風に呼んでいた。その車を、正確にはなんて言うのか、わからないの)、母さんはすぐに眠ってしまった。
父さんがまだ生きていたとき、母さんは車酔いをしてしまって、どこにも出かけられなかったのを覚えている。
でも、たぶんとても疲れているからなのだろう、いまでは、母さんは車に乗るとすぐに眠ってしまう。

それからどれぐらい走ったのか、はっきり覚えていないけれど、目的地に着いたとき、空はまだ暗かった。
それでも、その市場には、商品を準備する人たちが大勢いた。
都会の市場は、なんて賑やかなんだろう!
突然、騒がしく言い争う人たちの声が聞こえた。母さんは言った。「商売のために、場所争いをしているんだよ。見てはいけないよ」

何人かの人たちが母さんに挨拶をしに来て、親しく話をしていった。おそらく、母さんがよく話してくれた、親切な人たちなのだろう。
市場の外れにしゃがんで、商売を始めて間もなく、突然、警笛の音が響き渡った。
すると、母さんと同じような露天商の人たちが、いっせいに走り出した。
母さんもわたしの手を引いて走ったけれど、間に合わなかった。
青い制服を着た人たちが(いまでは、その人たちが都市秩序管理局の役人だということが、やっとわかった)、ニッパヤシの入った母さんのカゴや量りを取り上げた。そして他の露天商の品物と一緒に、三輪自動車に詰め込んで、持ち去ってしまった。
母さんは、わたしの手をつかんで、泣きながら走った。そして、許してくれるように頼み込んだ。
母さんが泣いているのを見て、わたしも一緒に泣いてしまった。
おそらく、取り上げられた品物は、普通の人たちにとっては、何ということもないものなのだろう。でも、わたしたち母子のような貧しい人にとっては、生計を立てていくための、なけなしの元手のすべてなのだ…。

他の人たちと一緒に、わたしたち母子は、事務所まで走って行った。そこは少し広い部屋で、多くの品物が置かれていた(すべて、青い制服の人たちが集めたものだ)。
みんなは、母さんを助けてくれるように、頼み込んでくれた。
役人のおじさんたちは、取り上げた品物を母さんに返して、もう露天で商売をしてはいけないと諭した。
母さんはお礼を言い、ニッパヤシのカゴを担いで、わたしの手を引いていき……、そして商売を再開した(だって、商売をしなかったら、生きていけないのだから)。

市場の周りでは商売ができなくなってしまったので、母さんはわたしを連れて狭い路地に入っていった。
母さんが言ったとおり、そこには人がいなかったけれど、少しすると、とっても混雑してきた(深呼吸したいくらい)。

恐ろしい風貌の人たちもいた。身体には異様な刺青があって、うつろな目つきをして、手には注射針が握られていた。
母さんは、見てはいけないとわたしに諭した。
以前わたしは、麻薬中毒の人たちは、薬を買うお金を手に入れるためなら何でもする、強盗や殺人だって辞さない、という話を聞いていた。
でも、母さんは堂々と、ニッパヤシの実を彼らにも売った。
恐ろしかったけれど、母さんは平然とした顔をしていた。

ザーッとスコールが降ってきた。その人たちは、すばやく家に逃げ込んでいった。
母さんは急いでわたしの手を取り、路地の中の、お茶を出す店の軒下に逃げ込んだ。
雨足はとっても強かった。母さんはビニール袋を取り出して、わたしの身体にかぶせてくれたけれど、そのときわたしは恐ろしく寒かった。
それでも、母さんは毎日商売に出なければならないんだ…。

母さんと一緒に商売に行った、たった1日の経験を通して、わたしはそれがどれほど大変で、危険に満ちた仕事であるかを理解した。
姉妹にその話をすると、みんな心配して、もう遠くまで仕事に行かないように、母さんに頼み込んだ。でも、そんなこと、できるはずがない。
それからあとの日々は、わたしたち姉妹にとって、とっても気がかりで不安な毎日になった。
来る日も来る日も、朝から夕方まで落ち着かずにそわそわし、母さんが早く家に、わたしたちのところに帰ってきてくれるように祈っていた。

お天道さまは、まだわたしたちを愛してくれていた。
それから何年か後、ある人の助けで、家から遠くない場所を貸してもらえるようになった。
母さんは、干物やライスペーパーなどを借り入れて、商売の元手にした。
その頃、わたしはよく母さんの商売のお手伝いをしたけれど、仲のよい男の子が、いつも手伝いに来てくれていた。それで、2人の仲についての大げさなうわさを、みんなに立てられたのを覚えている(それとこれは別の話よ。2人の間には、なんにも、な・か・っ・た・の…。この話は、もうやめたほうがいいわね…)。

ここでの商売も、やっぱり苦労が多かった。
夜遅くまでの仕事、腰が痛くなったり、雨や風に見舞われたり…(大雨のときには、誰かの家の軒下で雨宿りさせてもらった。雨粒が、激しく叩きつけていた。それでも、焼きライスペーパーを買いに来てくれる人がいた。そのときには、誰かが上になって雨を防いで、下にいる人がライスペーパーを焼き、お客さんが持ち帰れるようにビニール袋に入れて渡した)。
それでも、母さんが遠くまで露天商に出ていたときよりは、ずっと楽だった。

時間はまた流れていき、母さんは市場で豚肉を売る仕事をもらった。
それは、その頃にでき始めたばかりの「チョムホム(うづくまる)市場」と呼ばれる非公認の露天市場で、ときどき「青い制服の人たち」に品物を没収されては返してもらいに行く、ということがあった。
やがて、母さんはある人の家の庭を貸してもらい、そこで商売をするようになった。それで、ようやく落ち着いて仕事ができるようになった。
その「チョムホム」市場は、いま、正式な市場よりもずっと賑わっている。

やがて、母さんは豚肉を売る仕事をやめたけれど、ブン(米麺)、豆腐、バインテット、おこわ、お茶、バインボー(もち米のお菓子)、それに袋茸や唐辛子まで、手当たり次第何でも売っていた。
ときどき、母さんは、お年寄りたちから野菜を買い取って、それを売ってあげていた(とても古くなった豆の葉っぱを母さんに売ったおじいさんもいた。母さんはそれも売ろうとしたけれど、誰も買わなかったわね)。

しばし話をすると、友人は言った。「お母さんは本当にすばらしいね」。
わたしは嬉しくて笑った。「みんなそう言ってくれるのよ」。

そう、小さい頃から今まで、わたしはその言葉を何度も何度も聞いてきた。
わたしは知っている。5人の子どもを育てるために、母さんがどれほどの苦労を味わってきたかということを。病気のときは、いちばん大変だった。
わたしたちがご飯を食べたり、服を着たり、勉強をしてきたお金は、どれもみんな、母さんの-かつて露天商をしてきた人の-、汗と涙の結晶なのだ。

いま、わたしの家族の暮らしは、以前と比べると、とってもよくなっている。
生活は安定して、母さんは楽しく仕事を続けている。
時間は流れていき、あらゆることが変わっていくかもしれない。でも、わたしの心の中で、かつての母さんの記憶は、決して色褪せることはないだろう。
もし、「お母さんは何の仕事をしているの?」と誰かに聞かれたら、わたしはこう答えるだろう。「いま、母さんは市場で働いてるの。でも、以前は露天商をしていたのよ」と。

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