私のベトナム、そしてアジア

ベトナムから始まり、多くのアジアの人々に触れた私の記録・・・

林京子さんから「長い時間をかけた人間の経験」を聴く  2011年7月26日  里山のフクロウ

2013-01-23 01:18:26 | Weblog
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里山のフクロウ
2011年7月26日 (火)
林京子さんから「長い時間をかけた人間の経験」を聴く


 長崎で被爆した作家・林京子さんは、震災後の福島の原発事故をみたときの感想を、「全身が震える程の絶望と憤怒、落胆です。ああ、この国は確かに被爆国であった。なのに何も学習してこなかった」と、日経新聞(6/23)に寄せています。また、「8月9日をフクシマとつないで考えることは、人間の命をどう考えるかという問題だと思う」とも述べています。

 東日本大震災は、一瞬にして多くの人命を奪い、震災後の福島原発事故は、放射性物質を広範囲に撒き散らし、日本の土壌と水と海を放射能で汚染し、日本に住む多くの人びとのなかから新しい被曝者を生み出しつづけています。とくに子供や幼児、胎児と母親、そして未来の父となり母となる青年たちへの影響が、懸念されます。私たちはいま、日本の未来の生命を如何に守るのか、が問われているのです。そして、この夏私たちは、ヒロシマ・ナガサキ・ビキニをフクシマとつないで考えていくこと、つまり人間の命について考えることが、何よりも大切なことだと思います。ひとつの導き手として、林京子対談『被爆を生きて-作品と生涯を語る』(聞き手:島村輝、岩波ブックレット、2011/7/8刊)と林京子さんの小説いく篇かを、読んでみました。

 林京子さんは、長崎高女3年(15歳)のとき、動員先の兵器工場で被爆しました。爆心から1.4キロの地点であったにもかかわらず、外傷を負うこともなく奇跡的に助かりました。この被爆した体験をもとに、それから30年後の1975年、『祭りの場』を発表し、芥川賞を受賞しました。その後、原爆犠牲者への鎮魂と祈りの作品を書きつづけています。

 対談のなかで林さんは、原発事故が起きた直後、原発周辺からの退去にかかわる日米両政府の際立った対応の違いに、納得できなかった、と語ります。日本の20キロ圏内強制退去、30キロ圏内退去勧告に対して、アメリカは80キロ以内全員の退去を勧告したのです。林さんはそのことを、ヒロシマで被爆後被爆者の治療にあたってきた旧知の医者、肥田舜太郎先生に聞きます。「すると先生は、人の命、人権に対する認識の度合いの違いです、と即答なさいました。私は深く納得しました。」

 そのあとで林さんは、つぎのようにも語っています。「そして、今回、「内部被曝」ということが初めて使われましたね。私はこの言葉を聴いた瞬間、涙がワーッとあふれ出ました。知っていたんですね彼らは。「内部被曝」の問題を。それを今度の原発事故で初めて口にした。」

 この林さんの反応については、内部被曝についておさらいをしておく必要があります。内部被曝とは、放射性微粒子を吸い込んだり飲み込んだりして体内に吸収され、体内で放射線が発射されて被曝すること。この内部被曝の危険性は、①外部被曝がガンマ線だけに被曝するのに対して、内部被曝は、アルファ線・ベーター線も含め全エネルギーに被曝すること、②放射線は四方八方に放射されるため、外部被曝では体の一部しか被曝しないが、内部被曝では、全面的に被曝すること、③放射性微粒子が体に吸収され、沈着・停留すること、④内部被曝は、局所性・継続性があること、繰り返しの被曝はDNAが変性しガンになる危険性が高まること、⑤以上のことから、外部被曝では低線量被曝であっても、内部被曝では、桁違いに大きな被ばく線量となること。(Wikipedia「被曝」より)

 つまり、内部被曝の問題は、低線量被曝の問題であることを知ります。3.11以降、政府要人が繰り返し言ってきた、「直ちに健康に影響はありません」ということにつながります。では何故、林さんは内部被曝という言葉を聴いた瞬間、「涙がワーッとあふれ出た」のでしょうか。内部被曝は、アメリカの核戦略において、戦後一貫して隠されてきました。45年9月来日したマンハッタン計画情報担当のファーレル准将の「原爆で死ぬべき人はすべて死に、放射線で苦しめられている人は皆無だ」という 記者会見での発言が、戦後一貫したアメリカ政府の立場であり、それに盲従してきた日本政府の立場だったのです。この内部被曝の隠蔽、低線量被曝の無視は、みずからの被爆経験を、人間全般の普遍的な問題として昇華させようとしてきた作家・林京子にとっては、被爆後の全人生を否定し去るものでした。

 「被爆者たちは、破れた肉体をつくろいながら今日まで生きてきました。同じ被爆者である私の友人たちの中には、入退院を繰り返している人もいます。原爆症の認定を受けるために書類を提出しても、原爆との因果関係は認められない、あるいは不明といわれて、却下の連続です。認められないまま死んでいった友だちがたくさんいます。
 長崎の友だちの訃報を一番多く耳にしたのは、30から40代の子育ての最中でした。上海の友だちにはそんなに若い年で亡くなった人はいません。長崎の友だちはあの人も、この人も、と死んでいます。それも脳腫瘍や、甲状腺や肝臓、膵臓のガンなどで亡くなっている。それらのほとんどが原爆症の認可は却下でした。内部被曝は認められてこなかつたのです。闇から闇へ葬られていった友人たち。可哀想でならなかった(対談より)」。

 林さんの「(政府が「内部被曝」という問題を)今度の原発事故で初めて口にした」という指摘にかかわらず、マスメディアを通して知ることの出来る放射能の人体への影響についての言説は、低線量被曝の人体への影響を過小評価する専門家たちが未だに、跋扈することを止めていません。内部被曝と低線量被曝の危険性を指摘する専門家たちは、ネットでの言説で影響力を発揮しながらも、マスメディアへの出演や投稿は限られ、それは原発推進と脱原発の双方の力関係に大きく影響されています。

 内部被曝と低線量被曝を過小評価する人たちは、林さんたち被爆者を指して、「被曝したこの人たちはまだ生きているではないか」といい、被曝後の広島と長崎を指して、「人はすぐに住んだのでしょう」と云います。これに対して林さんは、「被爆者として生きてきた年月の総決算」として作品『長い時間をかけた人間の経験』(講談社2000年刊、講談社文芸文庫05年刊)を書きました。被爆者たちの孤独で悲しい姿を、読者に見せてくれます。

 夫に先立たれ、消息不明となった友人・カナ。「私たちは8月9日という共通の根をもって、生きてきている。その根から多感な少女期を生きて、娘になり妻になり、母になった。女として脱皮していくたびに、そこには新しい恐怖が待っていた。ほとんどの被爆者は、ぶらぶら病とか、なまけ病といわれる厄介な健康状態で生きていたのである。疲れ易い私たちが結婚したとしても、夫やその家族に添って、生きていけるだろうか。万が一みごもっても、そう。万一みごもる恐さ。また、命を産み出したい願望。健康な子供が産めるだろうか、という不安。カナは産まない道をとった。私は子供を産んだ」。

 私の産んだ長男・桂。「桂が大学生だったころ、刑期のない死刑囚なんて厭だね、といったことがある。広島生まれの被曝二世の兄弟が、相次いで白血病で死んでいったニュースを、聞いたときだった。私は負い目を感じ、桂は、九日から離れた場所に、身をおこうとしていた。」(同文芸文庫所収『トリニティからトリニティへ』)。

 8月9日の祈念式典の夜、爆心地の公園で出合った首筋に火傷を負った女。被爆して両親を亡くし、戦前からの貧困を引き継いだまま、経済成長の流れにも手が届かず、戦後の半世紀を生きてきた。「仕事のなかときは体を売って金に換えました。」「火傷の痕のあるでしょう、この傷のおかげで毎月3万3千と530円、国がうちに呉れます。」「おおちたちはこすかよ(ずるいよ)手当もろうて、羨しかって、いいなる人のおっとです。いやあ、うちは気にしとらんです。こすかって思う人もおんなるでしょう。ばってん、被爆者にならんほうがよかよ、そういうとです。あんまり羨しがんなる人には、そのうち原爆の落っちゃゆるさ、待っとかんね。そんときは、おおちももらゆるさ。」

 定期試験中に小水をもらしてしまった少女ミエ。文学少女だったミエは、卒業して間もなく自殺した。原因は、失恋らしい。「年頃になった同級生たちは、それぞれに春を迎えて、恋の噂があちこちで立った。ケロイドの跡が顔や胸にあっても、恋の季節はやってくる。結婚する者、破局に終わるもの、さまざまである。男の親たちから結婚を反対されるのが、破局の原因になっていた。男女とも被爆者の場合でも、男の親たちは健康な娘を希む。並みの常識をもつ人間なら、わざわざ不安な道を選んだりはしないのである。」

 林京子と彼女の出合った被爆者たちの「長い時間をかけた人間の経験」が、このように淡々と語られます。『祭りの場』や『ギヤマン ビードロ』と同じ叙事的な文体で、被爆者の世界が、明らかにされます。孤独と不安と貧困と病気。すべてが、大震災と原発事故のあと、被災者と被曝者に襲ってくることが予想される、現実の深刻な事態です。原爆後の被爆者たちの苦悩の半世紀に想像力を働かせ、フクシマのあとには、同じことを繰り返さないことを誓い、その具体的な手立てを講じることこそ、原発事故をもたらした人々の、せめてもの罪滅ぼしのための務めだろう、と思います。





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