私のベトナム、そしてアジア

ベトナムから始まり、多くのアジアの人々に触れた私の記録・・・

1970年5月24日 警察の手先が2人・・・

2007-02-14 23:44:06 | Weblog
 Pham Ngu Lao(ファム グウ ラオ)通りの麻薬中毒の絵描きのオヤジさん(元フランス軍の通訳だったという)がトゥインに話したところでは、このPham Ngu Laoのセンターには警察の手先が2人いる。それはこの僕から聞いた話だと言ったそうだ。Dickがその話を確かめにきたが、勿論僕はそんなことを言った覚えはない。あるいは、名前を言うことをはばかる他の誰かから聞いた話かも知れないし、たまた . . . 本文を読む

1970年5月7日 ブラックリスト(2)

2007-02-13 03:04:36 | Weblog
 中村氏のその後の話によると、内務省のブラックリストに書かれているのは、「追跡調査の必要あり」の他に、「日本の仏教徒団体から送られて来た思想犯」ということになっているらしい。高く評価されて、感激する。昨年4月のUSAIDの調査では、「ミリタントなレフティストのプロ・コミュニスト学生グループのリーダー」だったこともある。いやはや・・・。  思想犯の仏教徒にせよ、プロ・コミュニストの学生にせよ、最近 . . . 本文を読む

1970年4月27日 ブラックリスト(1)

2007-02-07 03:43:56 | Weblog
 一昨日の中村氏の話によれば、内務省のブラックリストに僕の名前が載っているという。曰く「追跡調査ノ必要アリ」とか。彼はこれをマン氏に調べて貰ったという。恐らく事実だろう。昨年のクリスマス平和アピールデモの逮捕以来、色々な人から聞いて、そんなこともあるだろうとは思っていたが、あまり良い気持ちはしない。  ただ、これはビザには関係しないそうだ。慎重を期して、あれ以来IVS(International . . . 本文を読む

1970年2月13日(2) Pham Ngu Lao

2007-02-06 07:28:51 | Weblog
 Pham Ngu Lao (ファム・グウ・ラオ)の通りから少し入ったところにある屋根だけのバラックの店で、33(Ba muoi ba) という小瓶のビールを飲む。いい顔をした中年の親父さん、客はシクロの運転手2人だけ。静かだった。33が1本50ドン。乾燥えび小皿が1杯5ドン。  この通りは寂しい通りで、僕の気分が沈んでいたせいだろうか、前の道を通る人々が、まるで冬の日本の暗い裏通りを肩を落とし . . . 本文を読む

1970年2月13日(1) Ngoc

2007-02-05 03:06:19 | Weblog
Ngoc(ゴック)は、逮捕されて1ヶ月ほどして帰ってきた。扁桃腺を腫らせたとかで、身体中が熱く、青黒くなって、むくんでいた。久保田医師によると、マラリア後の貧血で、衰弱が激しいとのこと。彼はNha Trang(ニャチャン)の隊に帰らなければ、また逮捕されるだろう。2度の脱走の後で、今度の刑は厳しい筈だ。それを知っているから、彼は帰りたいと思う。  彼はまた、粗製モルヒネの2年間の常習者でもあ . . . 本文を読む

1970年1月26日(日) Ut

2007-02-04 17:32:42 | Weblog
 Ut(ウット)が8,000ドン盗んだ。Utは11歳の可愛い男の子だ。彼が見た映画について、身振り手振りを交えながら、少しハスキーな声で夢中になって喋る様子を見るのは楽しかった。  昨夜、彼をサイゴン病院の久保田医師の自宅に連れて行った。咳がひどかったし、首の傷を3針ほど縫ったのを抜糸する時が来ていた。久保田医師は、抜糸は病院でしようと言って、咳止めの薬だけ与えた。それには睡眠剤の働きがあるとい . . . 本文を読む

ミン、1970年

2007-02-03 11:24:12 | Weblog
 ミンはサイゴンの浮浪児だった。浮浪児といっても既に二十歳を過ぎ、太い腕とがっしりした逞しい胸を持っていた。そしてその逆三角形の見事な上半身が、手の助けを借りなければ、それ自体動かすこともできない、細い骨に薄い皮膚をまとわせただけの2本の足を引き摺っていた。  ミンは南ベトナムの中部で生まれた。両親は彼がまだもの心つかぬうちに死んだ。彼が、恐らくは小児麻痺のために、両足の機能を失ったのもその頃のことである。行き場もなく、生活する方法も知らない彼を引き取って育てたのは一人の貧しい婦人だった。生活のために、彼女は小さなミンを連れ、ダラットを越えてサイゴンに移った。ミンにとって母親はこの人の外にはなかった。 . . . 本文を読む

チョー、1970年

2007-02-03 03:52:45 | Weblog
 チョーがコーヒーを飲みに行こうと、僕を誘った。彼はお金にルーズなところがあるのか、貸したお金でもなかなか返してくれない。いつだったか、新聞を没収しようとする警官から逃げようとして、彼はポケットのお金を全部どこかへ落してしまった。明日の新聞を仕入れることができないと言うので、僕は彼に1,000ドン貸した。それから2ヶ月にもなろうというのに、彼は一向に返そうとしない。訊くと、もう返す意志はないそうなのである。 . . . 本文を読む

私の子どもたち、1969年

2007-02-03 00:14:16 | Weblog
 アンケー(An Khe)からサイゴン(Sai Gon)に移った。サイゴンにはストリートチルドレンと呼ばれる子供たちが沢山いた。僕は縁あってそういう子供たちと暮らすことになった。家を1軒借りて、15人の男の子、学生クアン(Quang)君と僕がそこに住んだ。そして、毎日通ってきて家事をしてくれるソン(Son)姉さんとで一つの新しい家族を作った。  勉強したい子は学校へ行った。アン(An)は成績が良かった。ベトナム将棋をすると、口汚く僕をからかい、怒らせ、結局、大体僕が負けた。ソイ(Soi:狼)は靴磨きをしながら学校へ通った。成績は70数名中のトップということだった。時々激して荒れた。ある日、レスラーのようなたくましい上半身が小児麻痺で萎えた2本の足を引き摺っているミン(Minh)とけんかして、彼の足をナイフで切り落としかけた。ソイはミンの復讐を恐れて僕らの家から消えた。 . . . 本文を読む

ベトナム留学生支援の会の呼びかけ  1969年10月

2007-02-02 09:00:00 | Weblog
 今月14日までの帰国・入隊命令  去る10月4日付朝日新聞は「平和運動に徴兵旋風」という大見出しで、在日ベトナム人留学生3名(レ・バン・タムさんー東大化学工学・博士課程2年、グエン・アン・チュンさんー東工大金属工学・博士課程1年、グエン・ホン・クアンさんー東工大制御工学・博士課程1年)に南ベトナム政府から帰国命令が出されたと報じ、今後もその数が増えると示唆して、またまたベトナム戦争の厳しさを私たちに伝えました。 . . . 本文を読む

私たちは帰国入隊命令を拒否する  1969年10月

2007-02-02 08:00:00 | Weblog
                      ベトナム平和と統一の為に闘う在日ベトナム人の声   去る10月14日、帰国入隊命令を受けたベトナム留学生3人は、駒場留学生会館で(行われた)記者会見で次のような声明を発表した。  声明  グエン・アン・チュン(東工大)  グエン・ホン・クアン(東工大)  レ・バン・タム(東大)  私たちは、いずれも日本で学ぶベトナム留学生である。来日の第一の目的は、勉学のためである。同時にベトナムでは、祖国の平和と統一のために血を流して闘っている同胞に傍観的になれないのは私たちの心である。 . . . 本文を読む

1969年9月15日 An Khe

2007-02-02 07:20:11 | Weblog
 日本政府はアメリカのベトナム政策を支持しているが、この戦争政策によって、既に百万を越える人々が殺されているだろう。そんなに大勢の死を僕たちは想像することもできないが、その一人一人は、僕自身と同じ人間で、同じように家族や友人を持ち、同じように毎日を生きていたのだ。その一人一人の世界が、殺された人の数と同じ数の世界が失われてしまったということだ。  時々ここを訪ねてきて、スタッフたちと談笑してゆ . . . 本文を読む

1969年9月14日 An Khe

2007-02-01 02:03:14 | Weblog
 戦闘で殺され、見せしめのために道端に投げ出されている、解放戦線の若者たちの前を何度か通ったことがある。正視できずに、目を背けた。  僕はここで、ある死を強制させられるかもしれない。僕はまだどんなに多くのことを知らないだろう。なんて多くのことに愛着を抱き続けていることだろう。それらの全てから切り離され、二度と戻ることはできなくなる。今まで、そして今この時も、どんなに多くの子供たちが、若者たちが . . . 本文を読む