constructive monologue

エゴイストの言説遊戯

虚勢の闘将

2008年08月27日 | nazor
開幕前「金メダルしかいらない」と公言し、マスメディアによる期待値の増幅作用やWBC優勝という実績も相まって、国民の注目度も否応なく高まっていただけに、韓国、キューバ、アメリカの上位3強に全敗し、4位に終わる無残な結果に終わった星野ジャパンに対する風当たりは、同じく次回ロンドン五輪で除外される女子ソフトボールの金メダルという輝かしい結果と比較対照されたこともあって、きわめて厳しいものがある。

すでに敗因に関して、ストライクゾーンや国際球の違いといった国際試合の戦い方に対する認識・経験不足、故障を抱えていたり、普段とは異なるポジションや役割を求められるチーム編成上の問題、さらには予選開始後、短期決戦にもかかわらず岩瀬やGG佐藤のように不調の選手をあえて使い続けた星野監督の「情の采配」などがいろいろ取り沙汰されている。またメダルが獲得できなかった責任の所在も曖昧なままで、来年3月に開催される第2回WBC監督候補として星野を推す声が挙がっていることが(しかも「悪役イメージ」の強いナベツネの後押しも加味されて)、批判の材料となっている。

星野ジャパン(の惨敗)をめぐる一連の経過を振り返ってみたとき、ちょうど一年前の出来事、つまり参議院選挙で大敗した安倍政権の状況、とりわけ敗れた指揮官の周りに作られた虚実入り混じったイメージに関して、重なり合う点が多々あるように思われる。まず星野も安倍も「国民的人気」が高いというイメージ先行で、過去の実績はほとんど考慮されていないまま指揮官の座についたこと。また理ではなく情を優先する人事に関しても共通していることは明らかである。星野の場合、コーチ陣をいわゆる「仲良し三人組」で固めたことや、中日および阪神人脈に依存した起用法がそうだろうし、安倍も郵政造反組みである衛藤晟一を復党させたり、事務所費問題で批判を浴びていた松岡農相を庇い続け、傷口を広げる結果となった。

さらにいえば国際的な視野の欠落、あるいは内と外の恣意的な使い分けにも共通点が看取できる。それは、星野の場合、ストライクゾーンの違いを暗に敗因と指摘したり、初戦キューバ戦で審判に抗議するといった行動に現れている。かつて星野は審判交流で来日していた3Aの審判に抗議・暴行し、その行為を「日本には日本の野球がある」といって正当化した前科があるように、「国際試合」の意味合いに対する理解が十分に備わっているとはいい難い。敗北を文化の違いに還元することはいっけん説得力のある理由かもしれないが、その実、問題の本質をうやむやにする便利な方便にすぎない。他方、安倍は、従軍慰安婦問題をめぐって「狭義の強制性」と「広義の強制性」を使い分けることによって、一方で国内の保守層に対する理解を獲得し、他方で欧米諸国の批判をかわそうとした。しかしこの使い分けが欧米諸国でどの程度の理解を得られたかは疑わしく、むしろたとえばアメリカ下院での批難決議採択を勢いづかせてしまった感を否めない。

そして「闘将」(星野)、「闘う政治家」(安倍)といった勇ましく男らしいイメージを売りにしていたにもかかわらず、敗北の責任については明確な態度を示さない点もまた似ている。勝負事において結果がすべてを物語ることはいうまでもなく、それに敗れれば責任が追及されるのは当然である。とりわけ「闘う」イメージの強調は、曖昧な形での幕引きや再チャレンジを許容させない気運を醸成する意味できわめて高度な責任倫理が要求される。それだけに星野にしても安倍にしても監督あるいは首相の座に未練を残すような態度を少しでも見せたことは、「闘う」イメージから派生する潔さにそぐわず、あるいは武士道や騎士道に通じるような倫理性や行動規範と齟齬をきたしてしまったといえる。星野も安倍も自らが(そしてマスメディアとともに)作り上げた「闘う」イメージに酔いしれ、それに束縛されたことに気づかず、結局のところ「闘う」イメージが最も試される責任の取り方/引き際において醜態を晒してしまった意味で、「虚勢の闘将/闘う政治家」であった。

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