須藤徹の「渚のことば」

湘南大磯の柔らかい風と光の中に醸される
渚の人(須藤徹)の静謐な珠玉エッセイ集。

美術と俳句のアマルガム─ぶるうまりん26号の校了 text 301

2013-06-10 17:05:04 | text

 「美術と俳句のアマルガム」を特集とする「ぶるうまりん」26号が、このほど校了になった。発刊予定は、2013年6月22日(土)。「アマルガム」とは、「合金」という意味であるけれど、そんなに大げさに考える必要はない。美術展に行って、あるいは好みの画集をみて、インスピレショーンを受け、それを俳句にする、ということだ。 

企画の趣旨は、同号の「編集後記」に詳しく書いたので、繰り返さないが、たとえば江戸時代は、俳諧と絵画が地続きで、絵師を含めた壮大な俳諧ネットワークが構築され、そのような中から、与謝蕪村という傑出した画人も出た。貞門の重鎮の一人野々口立圃(りゅうほ)は、狩野探幽に学んだ本格派で、元禄以降の俳画の一大隆盛は、ひとえにこの人に負うところが大きい。 

緒方光琳に私淑し、江戸琳派の祖となった酒井抱一(ほういつ)は、当時の俳諧ネットワークの中から、馬場存義(一世)に入門し、俳諧にもそうとうな情熱を傾けた。彼は、『屠龍之技』という自撰句集をもつほどである。後に、江戸座の遠祖宝井其角に惚れ込み、都会的ではあるが、一面機知に富み、難解な彼の俳諧を研究し、自身の創作の糧とした。 

星一つ残して落る花火かな  酒井抱一 『屠龍之技』より 

正岡子規も、その『俳諧大要』の中で繰り返し、「文学に通暁し、美術に通暁」する必要性を述べるものの、いうほどに俳句と美術は近寄らなかった。ましてや現代の時代は、いささか俳句と美術が遠くなった。一九八八年に『俳句・イン・ドローイング』(ふらんす堂)という本が出たが、これは俳人の作品と画家のコラボレーションで、両者がどう個性的に作品を構成するかが問われる、スリリングで画期的な作品集であった。このような出版物は、現代では非常に希になったように思う。

 「ぶるうまりん」26号では、伊藤若冲、円空、磯江毅、熊谷守一、柴田是真、青木繁、フィンセント・ファン・ゴッホ、ヴィルヘルム・ハンマースホイ、アンリ・ルソー、カジミール・マレーヴィチ、フランシス・ベーコン(順不同)等の美術作品から、同人が5句創作し、それに一頁のエッセイを執筆した。著作権のあるものをのぞいて、一色ではあるけれど、原則的に該当の美術作品を、俳句の下に掲載した。ご期待ください。

スイートピーは柔らかい円である   須藤 徹

鳥帰る棺の形(なり)の貯水槽       同

春寒の浪が責め入る違い棚        同

*作品40句「存在の窓」より、3句抄出

 

 

 


ハイデガーの『存在と時間』全83節を読む─第13節〔内・存在の例示。世界認識〕 extra A-13

2013-05-27 17:39:26 | extra A

[マルティン・ハイデガー『存在と時間』/第1部「時間性へ向けての現存在の解釈、および存在についての問いの先験的視界としての時間の解明」・第1編「現存在の予備的基礎分析」・第2章「現存在の根本構えとしての『世界・内・存在』の一般」・第13節「在る基礎づけられた様相における内・存在の例示。世界認識」/1969年8月30日第11刷の桑木務訳岩波文庫]

 A世界・内・存在は、配慮された世界から配慮を取り去っています。認識作用が、目の前にあるものを観察しながら規定することとして可能であるためには、予め世界と配慮しながら交渉をもつということのひとつの欠如態を必要とします。1969年8月30日第11刷の桑木務訳岩波文庫) 

B世界の=内に=有ることは、配慮することとして、配慮された世界に気をとられている。認識することが直前に有るものを考察し規定することとして、可能になるためには、それに先立って、配慮するという仕方で世界と関わっているということの或る失陥が必要である。(1969年7月1日第3版の辻村公一訳「世界の大思想」/河出書房) 

C世界=内=存在は、配慮として、それが配慮する世界に気をとられている。客体的存在者に考察的規定という態度としての認識が可能になるためには、それよりもさきに、世界との配慮的交渉の欠如的変様が起こることが必要である。(2005年6月30日第13刷の細谷貞雄訳ちくま学芸文庫) 

D世界内存在は、配慮的な気づかいとしては、配慮的に気づかれる世界に気をとられている。だから、認識作用が、目の前にあるものを観察しながら規定するはたらきとして可能となるためには、それに先だって、世界と配慮的に気づかいつつかかわるというありかたが欠損していることが必要となる。(2013年4月16日第1刷の熊野純彦訳岩波文庫)

 Das In-der-Welt-sein ist als Besorgen von der besorgten Welt benommen. Damit Erkennen als betrachtendes Bestimmen des Vorhandenen mogelich sei,bedarf es vorgaengig einer Defizienz des besorgenden Zu-tun-habens mit der Welt.

 今回は、桑木務、辻村公一、細谷貞雄の、いわば定番的訳書と、新訳の熊野純彦の訳を並べ、それぞれどう訳しているかを見てみたい。ハイデガーの原文は、四人の訳文の下にあるので、ご興味のある方は、熟読して欲しい。この他に、松尾啓吉(勁草書房)、寺島実仁(三笠書房)の訳書もあるけれど、この二冊は未入手であるので、省きたい。 

第13節において、いささか大事な部分なので、四書の訳文を比較してみたのだ。どの訳文も、非常に苦労して訳していることがわかるものの、読者にはやはりわかりにくいだろう。「認識作用」は、「世界・内・存在」の具体的な一つの存在の在り方であるが、ハイデガーは、その際に人々が無意識に行ってしまう「配慮的気づかい」を中止しなければ、目の前にあるものが、認知できない、とするのである。すなわち純粋に「存在論的に」考えるのでなければ、対象を認識できない。 

遮断機の死角に真の実存はあり   須藤 徹


叫ぶ教皇とフランシス・ベーコン─世界は一瞬にして脱臼され、意味を失う text 300

2013-05-11 15:53:06 | text

二○一三年五月一日(水)、東京国立近代美術館(東京都千代田区北の丸公園三-一)に、「フランシス・ベーコン展」(二○一三年三月八日~五月二十六日)を観にゆく。日本でのベーコン展は、一九八三年に初めて開催され、今回はじつに三十年ぶりの二回目である。それを考えると、今後近い将来のうち、容易にベーコン展が開催される保証はない。

フランシス・ベーコンといえば、「知は力なり」で知られる、シェークスピアと同時代の英国の哲学者を思い浮かべる方もいようが、こちらは画家である。一説によると、画家のベーコンは、哲学者のベーコンと血のつながりがあるという。二十世紀において、最も重要な画家の一人と目され、ピカソと並べる人さえいる。過去にプラド、メトロポリタンなど世界でもトップクラスの美術館、さらには一九七一年にはパリのグラン・パレで大回顧展が行われた際は、時のポンピドー大統領が儀仗兵を従えて、開会式を執り行ったのは、何とも凄い。

しかし、私見によれば、日本での知名度は、それほど高いとは思えない。現に筆者が観に行った日も、比較的空いており、じっくり絵を鑑賞するには、最適な環境だったほどだ。「移りゆく身体」「捧げられた身体」「物語らない身体」「エピローグ─ベーコンに基づく身体」の四テーマに分類され、単なる回顧展ではなく、「身体」にフォーカスを当てた展覧会である。その結果、ベーコンの作品は三十数点に絞られている。ベーコンの作品に加え、土方巽の「疱瘡譚」の舞踏映像記録や舞踏譜「ベーコン初稿」なども展示されていた。

 三十数点のベーコン作品のうち、最もつよいインパクトをあたえられたのは、「叫ぶ教皇のための頭部の習作」である。ベーコンは、一九五○年に、ベラスケスの「インノケンティウス十世の肖像」に基づく、「叫ぶ教皇」シリーズの作品を描き始めた。出展されたのは、二年後の一九五二年の作品で、全身像ではなく、頭部だけなので、いやおうなく「教皇の叫び」が観る者を圧倒する。

教皇の座る玉座の枠の黄色と、線のような白い衣服と顔の表情、闇に消え入るような頭の上部のほかは、漆黒の闇だ。その中で大きく開けられた口の闇の中に、上下の歯が異様に描かれる。顔の目のあたりに、壊れかけた眼鏡…。ベラスケスの絵画、エイゼンシュタイの映画「戦艦ポチョムキン」の「叫ぶ乳母」のワンショット、口腔内の医療用写真などから多彩に引用された、ベーコンの「叫ぶ教皇」は、しかしタイトルの「叫ぶ教皇」にのみ収斂される。

線・形・色彩・構図などの絵画を構成する全ての要素は、完璧であり、文句のつけようがない。その完璧さによって、世界は一瞬にして歪められ、脱臼され、還元される。キリスト教の秩序崩壊という些細なレベルではなく、言葉を持たず、叫ぶだけの人間の原始的身体性そのものの姿に回帰しようとする「教皇」、そこには一切の物語(意味)も終焉していよう。

「他者の身体でも自己の身体でも、人間の身体というものを認識するためには、これを〈生きる〉しかない」(知覚の現象学)とモーリス・メルロ=ポンティはいうけれど、まさにベーコンは「叫ぶ教皇」の絵の中に「生き」、私たちもまた、この作品によって「生きる」にちがいない。

叫ぶ教皇重低音の蠅生る   須藤 徹

*フランシス・ベーコンの「叫ぶ教皇のための頭部の習作」は、東京国立近代美術館のHPで観られます。

http://bacon.exhn.jp/

 


海も山も蒼い大磯─四月下旬から五月上旬の日々抄 text 299

2013-05-06 21:46:23 | text

 2013年4月27日(土)は、第117回ぶるうまりん大磯句会。また5月5日(日)は、同第7回横浜句会。いずれも熱心な方々の参加により、句会は盛り上がった。「ぶるうまりん」26号(6月末日発行)の原稿締め切りも、すぐそこに近づいている。特集は、「俳句と美術のアマルガム」。「アマルガム」とは、ほんらい「合金」という意味であるけれど、美術作品を通して、それを俳句でどうとらえるかを、参加者各位が大胆に実験することになる。さて、どういうページが構成されるだろうか。 

<第117回ぶるうまりん大磯句会>  *5句抄出

廃屋の明るい抒情ひやしんす   松本光雄 

青き踏む楕円を出ればさあ大人  山田京子 

菜の花と玄米食の夕暮れ     山田千里 

海女の笛ガム噛んでいる独り者  田中徳明 

前方後円墳を遊んでいたり花筏  普川 洋 

4月某日、「草枕」国際俳句大会実行委員会より、第18回「草枕」国際俳句大会の「事前投句一般部門」の選者依頼が来る。選考の締め切り(2013年9月中旬)を確認し、「諾」の返事を書いて、同事務局宛へ投函する。2009年の第14回「草枕」国際俳句大会から選者を務めているもので、毎回選句の真剣勝負があって、緊張度は高い。 

4月30日(火)、東京の某老舗出版社より依頼されている一冊の書籍(タイトルほかの詳細は、現段階では非公表にさせていただきます)の原稿約三分の一(四百字詰め換算約150枚)を送稿。基本的には、かなり厳しいスケジュールで、正直いって、その日程に合わせるのは難しいが、出版社からは「校正と同時に入稿を!」と釘を刺されている…。 

5月1日(水)、東京国立近代美術館(東京都千代田区北の丸公園3-1)に、「フランシス・ベーコン展」(2013年3月8日~5月26日)を観にゆく。予想したとおり、相当な衝撃を受ける。これについては、別途、拙文を、本ブログのテキスト版に書きたいと思っているものの、実現できるかどうか。幸い大礒町立図書館に、ミッシェル・ライリー著佐和瑛子訳の『現代美術の巨匠-FRANCIS BACON』(美術出版社/1990年1月10日発行)があったので、これを早速借用する。

5月3日(金)、未開封の俳句結社誌・同人誌をいっせいに開封したところ、京都の俳誌(きりん136号=梶山千鶴子主宰/2013年5月1日発行)に釘付けになってしまった。俳誌の中に「謹告」の別刷り用紙が挿入され、梶山千鶴子主宰が、4月24日に逝去されたという。八十八歳。多田裕計特集号の「ぶるうまりん」25号(3月23日発行)に、貴重な文章をいただいていた。 

またご自身の『梶山千鶴子全句集』(東京四季出版/2013年2月12日発行)を出され、刊行前の2月10日頃、梶山千鶴子さんから直接お電話をいただき、そのときはまったくご病気の気配は感じられなかった。(ただ、今から考えると、何かを急がれているような雰囲気が心なしかあったのも、事実…。)衷心より、ご冥福をお祈り申し上げます。 

魂のわれに戻りて花野まで   梶山千鶴子 *全句集中の第七句集『墨流し』より 


ハイデガーの『存在と時間』全83節を読む─第12節〔根本的構えとしての世界・内・存在〕 extra A-12

2013-04-23 19:01:57 | extra A

[マルティン・ハイデガー『存在と時間』/第1部「時間性へ向けての現存在の解釈、および存在についての問いの先験的視界としての時間の解明」・第1編「現存在の予備的基礎分析」・第2章「現存在の根本的構えとしての世界・内・存在」・第12節「内・存在そのものに方向づけることからする世界・内・存在の略図」/1969年8月30日第11刷の桑木務訳岩波文庫]                                              

ところで現存在のこのような存在諸規定は、わたしたちが世界・内・存在[世・に・あること]と呼んでいる存在構えを根柢にして、アプリオリに見られかつ理解されねばならないのです。(1969年8月30日第11刷の桑木務訳岩波文庫) 。

現存在のこうした存在規定がいまやしかし、私たちが世界内存在と名づける存在体制にもとづいてア・プリオリに見てとられ理解されなければならない。(2013年4月16日第1刷の熊野純彦訳岩波文庫) 

Diese Seinsbestimmungen des Daseins muessen nun aber a priori auf dem Grunde der Seinsverfassung gesehen und verstanden warden, die wir das In-der-Welt-Sein nennen. 

2013年4月16日、マルティン・ハイデガー『存在と時間』(岩波文庫)の新訳が出た。(四分冊のうち、一冊のみ。)訳者は、熊野純彦である。熊野純彦は、1958年神奈川県生まれで、現在東京大学大学院人文社会系研究科教授を務める。レヴィナスの研究者であり、カントなどのドイツ哲学にも詳しい。 

新訳は、全体にわたって各節ずつの梗概が各冊の冒頭、また注解、訳注は各節のブロックごとに出てくるので、読者にとっては大変便利だ。各節のまとまりごとに、ハイデガーの『存在と時間』を読み込もうとする、本ブログの趣旨に適っていよう。 

しかし桑木務の労作である訳注は、それなりの重みと啓蒙性がある。訳語に独特の固さがあるものの、桑木務の訳は、筆者が学生時代以来親しんできたもので、新訳が出たからといって、これにすぐに乗り換えるのも、どうかと思うので、当面は従来どおり、桑木務訳で進め、必要に応じて熊野純彦訳を参照したい思う。 

さて第12節は、「内・存在そのものに方向づけることからする世界・内・存在の略図」というタイトルがつけられ、章が変わって、第2章「現存在の根本的構えとしての世界・内・存在」になる。章と節のタイトルをみてもわかるとおり、いよいよハイデガーの主眼とする「世界・内・存在」に入るわけである。この「世界・内・存在」については、次の三項目の視点を確保する必要があると、ハイデガーはいう。

1 「世界において」ということ。この要素(モメント)に関しては「世界」という存在論的構造を究明し、世界性そのものの理念(イデー)を規定する課題が生じます。 

2 つねに世界・内・存在という仕方においてある存在するもの。これとともに、わたしたちが「だれ?」において問題とするところのものが、究明されます。現存在は、平均的な日常性の在り方において、だれであるか、ということが、現象学的証明において、規定されねばなりません。 

3  内・存在そのもの。内にあること自身の存在論的構成が、明らかにされねばなりません。 

要するに、世界性とは何か、日常性において、現存在とはだれか、「内・存在」とは何かの三つの視点を確保する必要があると、ハイデガーはいうのだ。その三つの視点の一つ「内・存在」について、彼は、さらに付け加える。 

コップの中に水があるように、また衣服がタンスの中にあるような存在の仕方は、「決してお互いに触れ合うことはできない」。 

たとえ間隙がゼロに等しいばあいでも、椅子は原則的にカベに触れることができないからです。〔触れることのできるための〕前提は、カベがイス「に対して」出会われるということでありましょう。存在するものが世界の内部において、目のまえにある存在するものに触れることができるのは、それがもともと<内・存在>という仕方をもっているときだけ──すなわちそのような存在するものの<そこにあること>とともに、すでに、世界といったものが発見されていて、その世界から、接触している存在するものが明白にされて、こうしてそれが目のまえにあることにおいて、手にとることができるときに限られているのです。(桑木務訳岩波文庫ハイデガー『存在と時間』第12節108頁~109頁) 。

こういう論旨の延長上に、世界と出会うために、ハイデガーは「配慮的気遣い」<besorgen>ということばを出してくるが、これについては後に詳説したい。ちなみに<besorgen>を郁文堂の『独和辞典』で引くと、1 手に入れる、調達する 2(仕事・要件などを)処理する、片付ける 3 (の)世話をする、面倒をみる 4(略) 5 心配する、気遣う──が出てきて、興味深い。その訳語のそれぞれが、ハイデガーの<内・存在>(イン・ザイン)と密接に関係するからだ。 

気遣いの窓は明るし<いん・ざいん>   須藤 徹


四歳の女勝負師と対決する─卯月上旬から中旬の日々抄 text 298

2013-04-11 20:27:54 | text

桜から葉桜へ……。小宅の庭の花も、刻々とさま変わりする。今年の白い椿は、大輪の花が次から次へと咲き、そして豪快に散ってゆく。雨の日以外は、その花のむくろを拾うのは、筆者の役目である。人の背丈以上もある、この白い椿の見事な咲きっぷりと散華を見ていると、なぜか気風のよい姉御を想像してしまう。白い椿から、やや離れたところに、同じ高さの薄ピンクの椿も咲いているけれど、こちらは、白い椿に比べて、咲く時期も遅かったし、その咲き方も少々控えめである。純白の椿の花の美しさとは、また違う清楚な品のよさもあり、この二本の椿を見ていると、なかなか飽きない。とはいえ、この二本の椿は、もう少しで、すべての花を散らせて、来年にそなえるだろう。

鉄塊の音を墜として夜の椿   須藤 徹 

2013年4月5日(金)、「ぶるうまりん横浜句会」のあった夕方、北海道の札幌より、次男の妻と二人の娘(九歳と六歳)が大磯に来る。(翌日のお昼頃に、次男が来磯。)二泊後の同4月7日(日)、長男一家三人(一人娘は四歳)も大磯へ。春休みの最後を大磯で過ごそうというもの。家族九人が全員そろったところで、室内にあって、記念写真をパチリ。一昨年と昨年の同様の写真が並んで、壁にピンナップされているので、今年の写真ができれば、三枚続きの写真が見られるだろう。この日は慌ただしく、写真を撮ったあとは、昼食のため全員で大磯の和食レストランへ向かう。その後は、わが家から近距離にある菩提寺の善福寺へ行って、亡母の墓参り。そして、実家へ…。次男の娘二人と家人のトリオによって、「上を向いて歩こう」の歌を、覚えたての手話入りで、父や妹たちに披露する。 

すべての予定が終わって、次男一家が小宅を後にしたのは、同日の午後三時過ぎだった。次男の娘たちは、4月8日(月)から小学校がスタートするので、この日どうしても札幌に帰らねばならない。上は四年生、下は晴れて新一年生になるのだ。(長男の娘の幼稚園は、4月9日から始まる。この日から年中へ。)さて、残った長男一家及び私と家人の五人が、何をしたかというと、トランプの神経衰弱に似た、動物のカード集めゲーム。全部で二十七枚あり、それが、牧場・サファリなど三グループに分かれている。つまり三人で競うゲームなのだ。私と家人、長男の娘の三人で二ゲームを行ったのだけれど、何と二回とも四歳の娘の独り勝ちだった。 

何のゲームも同じで、集中力、記憶力、判断力などが必要とされると思うが、私たちはそれらにおいて、そのとき四歳の娘にいささか劣っていたのかもしれない。また、彼女の戦略的判断(自分の捨てた札を相手に悟らせない/相手の捨てた札の位置を瞬時に正確に頭に入れるなど)が、私たちより優れていたのだろう。「四歳の女勝負師」に、私たちはそこはかとなく敬意を表した。こうして、我が家の毎年恒例の春の行事が、滞りなく終わったのである。 

いそぎんちゃく白衣のように笑ってる   須藤 徹


ばっく・とぅ・ざ・ふゅーちゃーその3 痕跡を消す俳諧言語─服部嵐雪と『玄峰集』

2013-04-02 18:42:40 | extra B

<主> 今日は、よくお越しくださいました。服部嵐雪の『玄峰集』に登場する句について、予定どおり、お話したいと思います。 

<客> 嵐雪は、芭蕉の高弟ですね。 

<主> 嵐雪は、承応三(一六五四)年の生まれですから、松尾芭蕉より十歳後輩になります。芭蕉に入門したのは、延宝三、四年頃といわれていますから、二十歳はじめのころです。寛文元(一六六一)年生まれの宝井其角より七歳年長ですが、芭蕉入門は、だいたい同じ時期です。この二人は、芭蕉の弟子としては、ほぼ最古参になり、大変な実力もありましたから、やがて蕉風のリーダーになります。 

<客> 「草庵に桃桜あり。門人に其角嵐雪あり」と芭蕉が称えたというエピソードがありましたね。 

<主> さて、今日はその嵐雪の『玄峰集』に掲載されている句について、話すことになっていましたね。『玄峰集』について、少しお話しましょう。俳諧撰集『玄峰集』は、嵐雪著で、小栗旨原という人が編集し、寛延三(一七五○)年に板行されました。つまり嵐雪没(一七○七年)後ということです。編者の旨原は、嵐雪と其角に深く傾倒し、『玄峰集』のほかに、其角の『五元集』と『続五元集』を編集しています。 

<客> 其角の『五元集』と『続五元集』は今に読み継がれている名著ですから、それらを編集するだけで、後世に名を残しますね。 

<主> 旨原は編集者としても優秀でしたが、清水超波について学んだ人で、『風月集』という俳諧撰集もあります。この撰集には、旨原の発句が一千余句収録されています。

<客> 嵐雪の『玄峰集』は、どんな内容ですか。

<主> 嵐雪の発句が、四季類題別に四百二十三句と俳文一編、巻末に辞世吟一句が載ります。<一葉ちる咄(とつ)一葉ちる風のうへ>という辞世吟です。嵐雪は、宝永四(一七○七)年十月十三日に、五十四歳で亡くなるのですが、その日、門人に看取られながら、この句を遺したのです。 

<客> 嵐雪には、<うめ一輪一りんほどのあたたかさ><夢に似たる夢哉墓参り>など、ことばをリフレインさせる作品が少なからずありますね。<一葉ちる咄一葉ちる風のうへ>の句も、「一葉」がそうでしょう。 

<主> そうですね。私が少しこの句に触れ、それからあなたに、嵐雪の辞世吟について、あなたらしい解釈を聞かせて欲しい。一句のポイントである「咄」は、黄檗宗に学んだ嵐雪らしい禅的なことばです。「喝」とおなじで、人を叱るときのことばです。宮本武蔵の『五輪書』の「水の巻」には、「喝咄」ということばが出てきます。 

<客> 「咄」のご説明を聞いて、この句の真髄が少し分かってきたように思います。 

<主> 『玄峰集』には、この句の後に、こういうエピソードも掲載しています。「…此初の一葉ちる咄とは世をはぜぬけたる所にて是よりは皆風塵を出し物なりといふ事とかや或禅師の曰何事も道に最ぬけざればいで大事の場合に臨みて心おくるゝ物なり嵐雪いま此の所に及びて一句みだれず殊に咄の一字宗學たけたるものにても容易に出ぬ事なりと此真跡を見られたる折深く賞賛してやまざりき」。 

<客> お話を聞いて、<一葉ちる咄一葉ちる風のうへ>の句の奥行きが理解できました。「今、私は末期にあり、桐の一葉が大地に落ちるように死ぬように思われようが、そうではない。私は、咄の一語で、弾みがついて澄みきり、風の上のさらに上方へ空(くう)となって光かがやいてゆくのだ」というような意味でしょうか。いずれにせよ、「咄」と「風のうへ」が、一句の生命線になっていると思います。凡人では、「咄」と「風のうへ」のことばは、なかなかいえないような気がします。 

<主> なるほど…。ところで、あなたは、マルティン・ハイデガー、ジャック・デリダ、ポール・ド・マンなどの哲学者の思想に親しんでいられます。この句を、それらの哲学的言説で解釈することは、可能ですか。 

<客> さあ、どうでしょうか。数年前に、ある雑誌で、モーリス・メルロー=ポンティの身体的考え方で、歌仙を解釈したことがあるのですけれど、俳諧そのものをデリダやド・マンなどの思想を抽出して、句に当て嵌めるのは難しいかもしれません。 

<主> そういわないで、少しお話を聞かせてください。歌仙と俳諧(発句)は、通底するでしょう。 

<客> 私は、基本的には、一句は連続的に「痕跡」を消す営為だと考えています。その前提として、歌仙の36句は、それぞれが緊密なリンケージを形成するものですけれど、しかし長句・短句のそれぞれは、前句の「痕跡」を大胆に消してゆくものでもあります。 

<主> 「痕跡」ということばは、デリダの「差延」の考え方の根幹をなすものですね。 

<客> たとえば、「紅茶に浸してやわらかくなった一切れのマドレーヌ」(マルセル・プルースト『失われた時を求めて』)を食べておいしいと思ったとき、その直観は、「痕跡」となって、私自身を浸襲します。私は、これを幽霊的現前といっているのです。 

<主> 嵐雪の<一葉ちる咄一葉ちる風のうへ>句にそくして、解釈してほしいのですが。 

<客> 「一葉ちる」と最初に嵐雪が呟いたとき、瞬間的にその「痕跡」に侵襲されることに、彼は気づいたのです。そのことばの幽霊的現前に、我慢がならなくなり、「咄」と喝を入れて、そのことばをいったん全否定したのでしょう。この時点で、彼はハイデガー的「現存在」を、無意識的ながら探ったのだと思います。つまり、内容を絶対的に確保しながらも、意味を派生させない純粋言語を求めたのでしょう。そこで「一葉ちる風のうへ」といったのです。 

<主> ド・マン的に解釈することは可能ですか。ド・マンの著作の翻訳は、2012年9月に、『盲目と洞察』(月曜社)、同年12月に、『読むことのアレゴリー』(岩波書店)と立て続けに出ましたね。 

<客> たとえば、ド・マンは、「レクチュール」(読み)における「誤読」を示唆します。「テクストはそれ自身の様式の「修辞性」を説明しつつ、それ自身が〈誤読〉される必然性をも前提としている。それは自らが誤解されるであろうことを知っており、かつそう主張しているのである。それが語るのは、自らが誤解される物語、その誤解のアレゴリーである。」と、彼は、その本の中でいっています。 

<主> 「テクストは、必ず誤読される」ということですね。私も、その意見には賛成します。しかし、「誤読」というより、「別解」というべきではないですか。 

<客> いや、ド・マン自身は、「誤読」といっています。彼は、テクストそれ自体が内包する「誤読」について、明晰に言及しています。引用した箇所をよくお読みいただければ、それがフランツ・カフカの『城』や『変身』に、よく当て嵌まるのではないでしょうか。ご承知のように、カフカの『城』は、官僚機構の矛盾や人間の不条理をテーマとしていると、よくいわれるけれど、果たしてそうなのだろうか。カフカ自身は別段そのようことを意識して、小説を書いたわけではないし、テクストもそうしたことをつよく主張しているわけではありません。 

<主> カフカの『城』は、わが家にあるので、冒頭のところを読んでみましょう。「Kが到着したのは、晩遅くであった。村は深い雪のなかに横たわっていた。城の山は全然見えず、霧と闇とが山を取り巻いていて、大きな城のありかを示すほんの微かな光さえも射していなかった。Kは長いあいだ、国道から村へ通じる木橋の上にたたずみ、うつろに見える高みを見上げていた。」原田義人の訳です。 

<客> 結局、「城」は姿を現さず、その全容が最後までわかりません。この冒頭のところだけでも、十人読めば、十人の読みがあり、ド・マン流にいえば、すべて「誤読」されましょう。まさに「誤解のアレゴリー」ですね。 

<主> 嵐雪の<一葉ちる咄一葉ちる風のうへ>に戻りましょう。私見を述べると、芭蕉の病中吟<旅に病んで夢は枯野をかけ廻る>は、辞世吟としてとらえていいのかどうか、意見が分かれるところです。私は、この句について、昔から、芭蕉の「妄執」の極致の句と思っています。これは、ド・マンにならっていえば、私の「誤読」ですが…。嵐雪の<一葉ちる咄一葉ちる風のうへ>について、さきほどあなたは、「内容を絶対的に確保しながらも、意味を派生させない純粋言語を求めた」はての一句といいましたね。その考え方に即していえば、芭蕉の「枯野」の句は、あまりに意味があり過ぎるにように思います。俳諧師としての「妄執」によって、毎日をギリギリに生き、そして死んだのではないでしょうか。嵐雪ほどには、達観できていなかったのではと、直観的に「誤解」(ド・マン)します。(笑。) 

<客> 先ほど二人の話がスタートする前に、書庫の中に入って、嵐雪の<一葉ちる咄一葉ちる風のうへ>の句が載っている本を探したのですが、小学館と岩波書店の『近世俳句俳文集』、明治書院の『俳句大観』、また乾裕幸の『古典俳句鑑賞』(富士見書房)には、非掲載でした。堀切実の『蕉門名家句選』(上)(岩波文庫)・『芭蕉の門人』(岩波新書)には、掲載され、解説も充実していました。竹内玄玄一の『俳家奇人談・続俳家奇人談』(岩波文庫)にも、嵐雪の項に、出ていました。さて「誤読」の一例を、お話させていただきます。『玄峰集』には、<一葉ちる咄一葉ちる風の上>と表記されていますけれど、じつは、『蕉門名家句選』(上)には、<葉散る咄ひとはちる風の上>と、二番目の「一葉」は、「ひとは」と平かな表記でした。これは、もちろん根拠があって、編注者がそうしたのでしょうが、この平かな表記を見て、とっさに「人は散る」と「誤読」したのです。(笑。) 

<主> それは、あまりいい「誤読」とはいえないような気がします。しかし、そうはいっても、それもたしかに、「誤読」の一例ではありましょう。 

<客> 俳諧や俳句は、そのレクチュール(読み)において、千人読めば、千の「誤読」が生じるのではないでしょうか。つまり、ド・マン流にいえば、レクチュールする側に責任があるのではなく、言語あるいはエクリチュールそのものが、必然的に内包する意味的構造の「ずれ=偏差」があるからです。 

<主> その話は、どこかで聞いたような気がします。柄谷行人が『隠喩としての建築』(講談社学術文庫)の中の「形式化の諸問題」に出てきたように思いますが。 

<客> おっしゃるとおりです。柄谷行人は、早くから、ド・マンを読んでいます。なにしろ、『隠喩としての建築』が最初に出版されたのは、一九八三年ですからね。その中に、ド・マンが示唆したものとして、アーチー・バンカーとその妻のボーリング・シューズの紐の結び方についての話が載っています。上結びか下結ぶについて、妻から尋ねられた夫は、<What’s the difference?>(どうちがうんだい?)というと、妻は懇切丁寧に、上結びと下結びのちがいについて、説明を始め、夫はそれを聞いて怒りを倍増させた、という話です。このように一つのエクリチュール(パロールも)は、グレゴリー・ベイトソンが一九五○年代に定義した「ダブルバインド」(二重拘束)を孕んでいるのです。レトリカルな「決定不可能性」が、それらに常につきまとっているのでしょう。 

<主> 本当は、嵐雪の別の句<夢に似たる夢哉墓参り>も、お話したかったのですが、残念ながら、予定の時間がオーバーしてしまいましたので、別の機会にしましょうか。 

<客> いろいろと勝手なことをお話しました。またお話できることを楽しみしております。

 *『玄峰集』は、東京博文館の俳諧文庫第七集『嵐雪全集 全』(雪中庵雀志校訂/明治31年6月30日発行)に拠ります。

 


ぶるうまりん25号の発行─充実する「多田裕計」の特集 text 297

2013-03-26 17:18:58 | text

2013年3月23日(土)、大磯より「ぶるうまりん」25号が発行された。9名のスタッフにより、約1時間で作業が終了。スタッフの皆様に、心よりお礼申し上げる。今号の特集は、先にお知らせしたとおり、特集のⅠが、「多田裕計」、特集のⅡが「ぶるうまりんライブ句会の醍醐味②」である。

特集Ⅰの「多田裕計」は、次の内容だ。「斜めの深さ─多田裕計の詩的言語の深さ」(高橋龍=「面」発行人)、「神馬の嘶き─普段の心で遊ぶ」(梶山千鶴子=「きりん」主宰)、「雑文多田裕計」(瀬戸正洋=元「ぶるうまりん」同人、旧「れもん20歳代研究会」所属)、「多田裕計の覚悟─多田裕計から学んだこと」(山田千里=「ぶるうまりん」同人、旧「れもん20歳代研究会」所属)、「ルドンの祈り─多田裕計から学んだこと」(村木まゆみ=「ぶるうまりん」同人、旧「れもん20歳代研究会」所属)、「多田裕計との出会いと別れ─若き俳句創作の日々」(須藤徹)の5本。それに「多田裕計作品30句選」(須藤徹抄出)がある。

同日の午後1時からは、大磯町立図書館にて、第156回「ぶるうまりん大磯句会」が行われた。東京の練馬区、そして静岡県の沼津市から参加する同人もいて、句会はおおいに盛り上がった。筆者(須藤)の天地人選句は、次のとおり。

天 腹這えば原発そして苜蓿     生駒清治

地 花咲いて恥じらう闇の痴情かな  田中徳明

人 俳諧はブリコラージュ雁瘡癒ゆ   松本光雄

当日の句会結果は、近日中に、代表の天地人句に解説を付し、また参加者の特選句に、それぞれ感想を付けたものが入力・編集され、全員にメール送信される。(後に「ぶるうまりん」本誌に掲載される。)

句会終了後は、BM25号の完成と発送を祝し、大磯の瀟洒なカフェ<magnet>で、ささやかな集いをもった。気候のよい花明りの一日、皆さまご苦労さまでした。

 *多田裕計特集号の掲載されている「ぶるうまりん」25号をお読みになられたい方は、ご面倒でも発行所まで、お声をおかけください。頒価1000円(税込み・送料込み)です。残部僅少です。

White4002cat@yahoo.co.jp  ぶるうまりん俳句会

 


ハイデガーの『存在と時間』全83節を読む─第11節〔実存論的分析論と原始的な現存在の解釈〕 extra A-11

2013-03-20 23:56:19 | extra A

[マルティン・ハイデガー『存在と時間』/第1部「時間性へ向けての現存在の解釈、および存在についての問いの先験的視界としての時間の解明」・第1編「現存在の予備的基礎分析」・第1章「現存在の予備的分析の課題を解明すること」・第11節「実存論的分析論と原始的な現存在の解釈。「自然的世界概念」を得るための種々の難しさ/1969年8月30日第11刷の桑木務訳岩波文庫]

現存の実証的な諸学問の要求に対して、存在論はただ間接的に寄与することができます。たとえ存在するものの告知を超えて、存在への問いが、すべての学問的探求の先端だとしても、実証科学はそれ自身のための独自の目標をもっているのです。

Zur Foerderung der bestehenden positiven Disziplinen kann Ontologie nur indirect beitragen. Sie hat fuer sich selbst eine eigenstaendige Abzweckung, wenn anders ueber eine Kenntnisnahme von Seiendem hinaus die Frage nach dem Sein der Stachel alles wissenshaftlichen Suchen ist.

今回の青色のリード文は、第11節の最終センテンスである。これをもって、第一編「現存在の予備的基礎分析」が終わる。第11節は、桑木務の訳文で、わずか55行だ。そのうち、活字を小さくした、エルンスト・カシーラ-についての解説が23行あるので、ハイデガーの示唆する当該文章は、32行ということになる。きわめて短い第11節において、ハイデガーが、いいたいことは、冒頭に掲出した文章につきる。

ハイデガーは、存在の哲学的探求者の自負をもって、「存在への問いが、すべての学問的探求の先端」としながらも、「実証的な諸学問」(実証科学)の役割をきちんと認める。すなわち「存在論」<Ontologie>の有用性を、自信をもって言及するにもかかわらず、それが他の実証科学への直接の鍵をあたえるのではなく、ただ「間接的に寄与」するだけなのだ、と謙虚にとらえるのである。

ところで、本節においてのもう一つの読みどころは、エルンスト・カシーラ-についての、活字を小さくした言及文(ドイツ語原文及び邦訳文)であろう。エルンスト・カシーラ-(1874-1945)は、ユダヤ系のドイツの哲学者で、いわゆる新カント学派に属する。「知識の現象学」を基に、シンボル(象徴)としての文化に関する、スケール豊かで明晰な哲学を構築した。ドイツ・イギリス・スウェーデンの各大学で教鞭をとり、最終的にアメリカにわたって、イェール大学とコロンビア大学で教えた。

 「ちかごろエルンスト・カシーラ-は、神話的存在を哲学的解釈の主題にしていて、これについては、かれの『象徴的形式の哲学』の第二部『神話的思考』(1925年)参照のこと。この研究によって、もっと包括的な導きの糸が、民俗学的探求に提供されます。哲学的な問題提起から見れば、この解釈の基礎は充分に見通されているのかどうか、とくにカントの『純粋理性批判』の「建築術」とその体系的内容とが一般にこのような課題に対する可能な略図を提供することができるかどうか、あるいはそこに新たな、もっと根源的な手掛りが必要とされていないかどうか、などの疑問が残されています。(略。)」

カントの超越論的観念論を基礎に、独自の「象徴的形式の哲学」を打ち立てたカシーラ-と、ハイデガーは1929年に「ダヴォス討論」を行うけれど、一般的にこの討論は、ハイデガーが勝利したといわれる。

おんとろじーをぷねうまとするうまごやし  須藤 徹

 


豊かな香りに包まれて─弥生上旬の日々抄 text 296

2013-03-11 00:06:21 | text

3月上旬の筆者宅の庭には、さまざまな花の香りが満ち溢れている。紅梅はほぼ花が終わったけれど、白梅はまだ多くの花をつけ、あたりにその芳香を放つ。二階のバルコニーの一角にテーブルと椅子が備え付けられているので、休日の天気の良い日は、それを利用して、小一時間読書することがある。緑はまだ薄いものの、陽射しは温かく、筆者の眼下に、一杯に咲いた白梅の匂いが、全身を包む。風は緩やかに流れ、時々、本から目を離しては、海の方を眺める。 

読書を終えると、階下に降りて、庭に入る。今年は水仙の株が殖え、その分多く花も咲き、甘い独特の香りを周囲に放つ。また沈丁花の白い花が美しく、眩しいくらいだ。その沈丁花のそばに、クリスマスローズの赤紫の花が、地面すれすれに咲いている。今咲いていて、なぜクリスマスローズというのだろうか。日本では、春に開花する「オリエンタリス」という、広い意味でのクリスマスローズの園芸品種が、広く普及したことによるという。狭い意味でのクリスマスローズである「ニゲル」が、12月末ごろに開花するそうなので、まあかろうじて納得できよう。 

第17回「草枕」国際俳句大会の公式冊子である「『草枕』の玉手箱─俳句と俳画入賞作品集」が、2013年3月1日付で送られてきた。それによると、筆者が一般部門の特選に選出した作品が、なんと「福井市賞」に昇格(!?)しているではないか。 

フェリーいま銀河の端に解纜す   利光釈郎(熊本市) 

当然のことながら、冊子の筆者の「選評」欄には、この句について、多く行を割いている。「芭蕉は『おくのほそ道』において、<荒海や佐渡に横たふ天の川>と詠んだが、拙選の特選句<フェリーいま銀河の端に解纜す>の句は、それに通底する。しかも、典型的な現代版である。」と書き出し、芭蕉の「荒海や」の句の宇宙性(陸・海・空の三層構造)と「フェリーいま」の句の芭蕉句との近似性と現代性を述べ、そして次のように結んだ。「人と車を満載した『フェリー』が、遙か彼方の『銀河』に向けて出航する風景は、芭蕉の句とは、また違った感動を人にあたえるだろう。」このように、 拙選の<フェリーいま銀河の端に解纜す>が、「福井市賞」になったために、次の作品が筆者の特選句に昇格。

花火果て闇を大きく闇つつむ    大内珠美(北九州市)

ちなみに、「草枕」大賞は、次の作品である。

月の客ひとりがピアノ弾き始む   南野幸子(熊本市)

ところで、この大会になぜ「福井市賞」なのだろう、と思う方もいるにちがいない。じつは熊本市と福井市は、深い歴史的背景(松平春嶽と横井小楠に因む)により、平成6年11月16日に姉妹都市として、盟約したのである。考えてみると、筆者を俳句に導いてくれた多田裕計が、福井の出身であり、なんとも深い因縁を思わざるをえない。その意味で、筆者の特選句が、「福井市賞」に輝いたというのは、とてもうれしい。奇しくもこの3月23日には、多田裕計を特集する「ぶるうまりん」25号が発行される。 

第44回原爆忌東京俳句大会作品募集のリーフレットが、送付されてきた。(筆者は、この大会の選者を務める。)募集のポイントをここに記してみよう。①大会作品=二句一組・千円。②締切=2013年6月10日。③送り先=〒114-0023 東京都北区滝野川3-48-1-603 石川貞夫様方 原爆忌東京俳句大会実行委員会。 

「俳句界」2013年3月号が、文學の森より送られてきたが、その号に「永久保存版─平成名句大観」という、たいそう分厚い別冊付録がつく。(拙作も10句掲載されている。)「現代俳句を代表する俳人500名の、代表句5000句を一挙掲載!」というのが、謳い文句。 

2013年3月8日(金)午後1時から、神奈川東ロータリークラブより依頼を受けた卓話を、横浜駅近くの「ホテルキャメロットジャパン」(旧ホテルリッチ)にて、予定どおり行う。テーマは「日本の地震と俳句」。与謝蕪村、小林一茶、正岡子規、多田裕計、和田悟朗ほかの俳句作品を記載した資料を作成・配布。卓話終了後、わざわざ筆者のところまで来て、質問をされる熱心な方もいた。


ハイデガーの『存在と時間』全83節を読む─第10節〔生のひとつの在り方〕 extra A- 10

2013-03-01 21:56:11 | extra A

ハイデガーの『存在と時間』全83節を読む─第10節〔人間学、心理学ならびに生物学から、現存在の分析論から区別すること〕〕 extra A- 10

特に目立つのは、「生」そのものがひとつの在り方として、存在論的に問題となっていないことであって、これが原則的な欠陥なのです。

[マルティン・ハイデガー『存在と時間』/第1部「時間性へ向けての現存在の解釈、および存在についての問いの先験的視界としての時間の解明」・第1編「現存在の予備的基礎え分析」・第1章「現存在の予備的分析の課題を解明すること」・第10節「人間学、心理学ならびに生物学から、現存在の分析論から区別すること」/1969年8月30日第11刷の桑木務訳岩波文庫]

 Auffallend bleibt , und das ist ihr grundsaetzlicher Mangel daß »Leben« selbst nicht als seine Seinsart ontologish zum Problem wird.  

本節では、ハイデガーが強く影響を受けたヴィルヘルム・ディルタイ(1833-1911)のことが、比較的多く出てくる。ディルタイといえば、「生の哲学」である。ディルタイにおける「生」は、決して個人のものではなく、私自身と世界を包括する「連関」の総体であり、歴史的過程において具体的に展開する秩序の全体を意味する。歴史的世界は、ひとつの「テキスト」のように扱われ、部分は全体の何かを「表現」し、すなわち部分の意味は、こうした全体から決定されているといわれる。

青字で書いた部分の後に、ハイデガーは次のように書く。「ヴィルヘルム・ディルタイの研究は、『生』(レーベン)への不断の問いによって、〔かれ自身〕息つくひまがありません。この『生』の『初体験』を、かれはその構造連関と発展連関にしたがって、この生自身の全体から理解しようと努めるのです。」(マルティン・ハイデガー『存在と時間』上巻93頁。)「構造連関」(Strukturzusammenhang)は、ディルタイの重要な概念であり、ハイデガーもこのことばを、忠実にたどる。 

ハイデガーは、本節においても、デカルトの「コギト・スム」(われ思う・われ在り)を痛烈に批判する。つまり「われ在り」の「在り」を存在論的に十分説明しようとせず、曖昧なままにしたとするのだ。彼はいう。「この<在り>が規定されれば、思考作用の在り方が初めて捉えられるのです。」(同92頁。) 

さて、デカルトの哲学は、心身の厳密な区分けを説くものであるが、公女エリザベートからの質問に答えて、彼は心身合一の地平があることを認める。しかし、一般にはデカルト以降の科学(特に医学)では、心と体は否応なく離れていった。 

最近、「統合医療」を目指す某団体のリーフレットを見ていたら、「20世紀と21世紀の医学と医療」というテーマで、①方法として、「還元主義」(20世紀)と「統合」(21世紀)、②キーワードとして、「遺伝子」(20世紀)と「ネットワーク」(21世紀)、③「心と体」として、「分離」(20世紀)と「統合」(21世紀)と、記述されていた。 

たとえば、20世紀が、クォークやヒッグス粒子のような素粒子単位の、究極の微小な世界を発見する時代であり、医学においても、細分化された臓器単位の専門医療に移行する。20世紀を象徴する医学的な「還元主義」とは、明らかにフッサールやハイデガーの哲学的「還元」とは趣を異にするけれど、そのことばの本質的な意味では、原理は同じになるものであろう。 

「還元主義」は、英語で<Reductionism>、ドイツ語で<Reduktionismus>という。名詞では、<reduction>(還元)といい、原子・分子・イオンなどが、電子を受け取って、酸化数が減少することを意味する。世界の複雑な事象でも、それを構成する要素に分解し、それらの個別(一部)の要素を取り出して理解すれば、世界の物事の原理や全体の性質などもすべて理解できるはずだ、というのが「還元」のそもそもの定義であろう。しかし、それをあまりにラディカルに追及した結果、特に科学や医学の分野において、徹底して専門領域に分化され、隣の分野が視界に入らなくなってしまった。さまざまな弊害が起こる所以である。

 ヴィルヘルム・ディルタイの「生の哲学」を、「構造連関」からの「全体」(テキスト)として考えなおすとき、デカルトの「心身二元論」ではない、新たな地平が、すぐ近くに見えてくるような気がする。

一閃の一撃ありてたかんなは   須藤 徹


ぶるうまりん25号の入稿完了─特集は「多田裕計」と「ぶるうまりんライブ句会の醍醐味②」 text 295

2013-02-22 23:17:02 | text

2月某日、財団法人角川文化振興財団より、「第47回『蛇笏賞・沼空賞』候補作品ご推薦のお願い」という文書が届く。毎年いただくものであるけれど、その年によって、「蛇笏賞」に推薦したい候補作品と作家がいない場合もあり、そのときは残念ながら推薦を見合わせる。今回は、積極的に推したい作品と作家がいたので、その旨葉書に書いて、直ちに投函した。

そのあと、角川学芸出版より、第64回読売文学賞に決定した、和田悟朗著『風車』の二次会祝宴への出席依頼の文書が届いた。場所は、帝国ホテル本館17階インペリアルラウンジ「アクア」。日時は、2013年2月18日(月)、午後8時30分から。しかし当日は所用のため、出席叶わず、失礼申し上げた。誠に残念至極……。 

和田悟朗先生からは、ほとんどのご著書をご恵贈いただき、またご自身が編集発行される俳誌「風来」をも、いただいている。本来は、万難を排して、会場に赴いて祝意を表さなければならない。この場を借りて、衷心よりのお祝いを述べることで、ご海容いただければ幸いだ。

ぶるうまりん25号(2013年3月23日発行予定)の入稿が、このほど完了した。特集はⅠ「多田裕計」とⅡ「ぶるうまりんライブ句会の醍醐味②」の2本。いつもよりやや早いペースでの入稿完了だ。特集Ⅰの「多田裕計」は、外部から梶山千鶴子氏(きりん主宰・日本ペンクラブ会員)、高橋龍氏(面発行人・元れもん及び俳句評論等同人)、瀬戸正洋氏(里同人・元ぶるうまりん同人)、内部からは山田千里・村木まゆみ・須藤徹の3氏が執筆担当した。編集後記にも、多田裕計について、筆者の思うところを書いた。それぞれの原稿のタイトルは確定しているけれど、本になるまでは非公開とする。 

多田裕計は、1912(大正1)年8月18日、福井県福井市で生まれ、1980(昭和55)年7月8日に没した。67歳。早稲田大学フランス文学科卒業。同16年、「長江デルタ」で、芥川賞を受賞した。受賞時、29歳だった。俳句は、学生時代、師の横光利一の十日会に参加、石田波郷を識る。同28年、「鶴」に参加、後に同人となる。同37年、「れもん」を創刊、主宰した。句集に『浪漫抄』(大雅洞)、『多田裕計句集』(角川書店)、句文集に『ショパンの雨滴』(近藤書店)、俳句文章集に『芭蕉その生活と美学』(毎日新聞社)、『小説芭蕉』(芥川賞作家シリーズ/学習研究社)などがある。『小説芭蕉』には、多田裕計の代表作「長江デルタ」をはじめ「荒野の雲雀」「叙事詩」等の小説を収録。そのほか児童文学の著作も、数多くある。 

以上は編集後記にも書いた多田裕計のおおざっぱな経歴。筆者は、1973(昭和48)年、多田裕計に入門、1980(昭和55)年に師が亡くなり、「れもん」が終刊するまで7年有余の間、同誌に在籍した。多田裕計の作品集でおすすめは、まず芥川賞受賞作の『長江デルタ』。多田裕計が敬愛するアンドレ・マルロー(1901-1976)ばりの社会的視野の豊富な作品で、上海を舞台にしている。多田裕計は、当時松竹株式会社などを経て、中華映画社上海本社に勤務中だった。芥川賞の作品が掲載されている「文藝春秋」昭和16年9月号の受賞者感想において、多田裕計は、こう語っている。 

「私の『長江デルタ』が、芥川賞になつた。私は幸運だつたのである。そのかはり、私は非常に努力し、今後の期待にそはねばならぬ。新聞記者の来訪をうけ、『これからの生活は出来るかぎり地味に、小説は出来る限り大胆に書きたい』と述べた。私はさう思つてゐる。友人はそれは矛盾ではないかと云ふ。けれどもそれを矛盾でなくするのも作家の秘密だと思ふ。スケールの大きな、また藝術性の豊かな作品も書いてみたい。私の夢である。(略。)」(本文は一行ごとに改行されているが、本ブログではベタ書きにしている。) 

『小説芭蕉』(芥川賞作家シリーズ/学習研究社)も一読をすすめる。また、晩年の、自伝的小説の三部作である「幼年絵葉書」(文學界・昭和51年8月号)、「城下少年譜」(同52年2月号)、「父と明笛」(同54年1月号)は、単行本未刊行で、雑誌で読むしかないけれど、多田裕計へのアプローチを試みる者にとっては、必須の小説であろう。 

俳句評論では、社会性俳句の問題を扱った「社会性の美学」などが収録されている『ショパンの雨滴』(近藤書店)に目を通されたい。句集では、いうまでもなく、『浪漫抄』(大雅洞)と『多田裕計句集』(角川書店)である。

 多田裕計作品30句

月光降る白き流木と錆罐に   多田裕計(以下同)

崩れ残る高きパウロが日に歩む

郷愁の流氷幻音ストーブより

緑野割れ屋根割れ人の肉も割れ

爆忌の詠歌鈴音やがて叫喚す

火の阿蘇原みどりの裾に浮く天草

枯葦に耳影のびて暾が鳴りだす

何れも俺でない枯野のガラス屋

枯野来る吾子よ汝が家他になし

風白し都市が矩形に三角に

鳥飛んで胸しぼる型澄むレモン

氷柱落つ一瞬水平線赤し

火の馬や春潮音を振り切れず

唇必ず幸のみを言へ緋のダリヤ

楡の根に錆自転車の霧二日

孤独な日々コップに歪む青樹海

薔薇幾千降れよ雪降る夜の海

紅梅の一と枝に湾の楕円あり

月に立ち芒駿馬のごと白し

天の紗を打ち抜く単音梅ひらく

スコップの斜めの深さ苜蓿

風花や公達めける蟹の色

牛をばら撒き太陽を擲げ冬火山

秋風の場末に愛とレニンの語

月夜らしテラスのうへの種袋

六月の夕日がのびて白い菓子

火の砂漠見よランボオの影十字

力撃つ法華太鼓に霧うごく

名月の無人の都市の硝子売り

いつの間に月光なりし雪柳

(多田裕計句集『浪漫抄』より須藤徹抄出)

 *『浪漫抄』=昭和49年7月1日、太雅洞より発行

 

 


きさらぎの空と渚を見つめて─1月から2月にかけての日々抄 text 294

2013-02-07 06:50:52 | text

 2013年の1月は、大磯の知人と甲斐の国の義母(家人の母)との別れがあり、それぞれ通夜と告別式に参列する。1月4日(金)と5日(土)が大磯の知人、同月24日(木)と25日(金)が甲斐の国の義母である。神奈川県平塚市と山梨県身延町で葬儀が執り行われた。後者では、首都圏から長男一家(3人)と札幌より次男も参列。一部上場企業の管理職としての激務の中、長男と次男は二日間にわたる葬儀を、滞りなく終了することができた。(合間に、長男はケータイ電話、次男はノートPCを片時も離さずに、会社の仕事を行う。)皆で下部温泉の下部ホテルに一泊。

義母は、91歳で黄泉の国に旅立つ。生涯非常に優しい人だった。学生時代以来の関係(義母としては26歳から)だから、40年以上の長きにわたって、折につけて私たちをフォローしてくれたのだ。家人の実弟たちが、某団体の理事などの役員を務めている関係上、現職あるいは元の衆議院議員の弔電が多数、会場で読み上げられた。(参議院議員の選挙近しの実感あり。)帰りは、子どもたちと現地解散し、実妹夫婦の車に便乗させてもらい、富士川沿いに走り、富士宮にて新東名に入って、そのまま大磯へ。ちなみに翌日の1月26日(土)は、第114回BM大磯句会が行われるので、この日に帰宅する。

2月1日(金)、かねてより予定していた、小宅のWi-Fi化(高速無線ラン化)を、業者に行ってもらう。小宅には、家人のノートPC1台及び筆者のPC2台(デスクトップとノート)の3台があり、旧来の有線ランケーブルでつながっており、不便をきわめていた。また、アップル社のiPad(アイパッド)を購入したので、どうしてもWi-Fi化(高速無線ラン化)が必要になったのだ。iPad購入は、仕事仲間の知人と実妹夫婦の使用状況を聞いて、購入を決めたものである。しかし、iPadの基本と応用の操作方法が未熟のため、今しばらく学習せざるをえないだろう。

筆者が選者を務めた、第17回「草枕」国際俳句大会(2012年11月17日表彰式)の「一般部門」の入賞作品が、同会のWebサイトに紹介されていたので、これを閲覧する。リーフレットは、まだお送りいただいていないので、Webサイトをよく確認した。大会参加者は、一般部門・ジュニア部門・外国語部門・俳画部門・当日投句部門を含めて、8983人から16946作品が集まった、とのことである。また、第18回「草枕」国際俳句大会は、2013年6月1日から作品募集を開始するそうだ。

神奈川東ロータリークラブ(飯田泰之会長)から、このほど正式に「卓話」の依頼があり、これを受諾する。2013年3月8日(金)のお昼、横浜駅西口「ホテルキャメロットジャパン」(旧ホテルリッチ)にて、俳句の卓話を行う。テーマは近日中に決定する予定。この件は、G社在社中の同僚及び先輩の二人がすでに終了ずみで、その関係から筆者にお鉢が回ってきたもの。同僚及び先輩の卓話は、次の内容だ。岡田則夫(芸能史研究者)=「日本初のレコード吹き込みと快楽亭ブラック」、阿部庄之助(元立風書房代表取締役)=「出版という商売と文化」。

乾坤をなす睦月の富士川の幅   須藤 徹

一月の死や水平に飛ぶ新聞紙    同

母はああ冬木になりて畳に眠る    同


ハイデガーの『存在と時間』全83節を読む─第9節〔現存在の分析論の主題〕 extra A- 09

2013-02-01 22:01:17 | extra A

[マルティン・ハイデガー『存在と時間』/第1部「時間性へ向けての現存在の解釈、および存在についての問いの先験的視界としての時間の解明」・第1編「現存在の予備的基礎え分析」・第1章「現存在の予備的分析の課題を解明すること」・第9節「現存在の分析論の主題」/1969年8月30日第11刷の桑木務訳岩波文庫]

現存在の実存論的分析論は、すべての心理学、人間学、またさらに生物学より以前にあるものです。

 Die existenziale Analytik des Daseins liegt vor jeder Psychologie, Anthropologie und erst recht Biologie.

序説が終わり、いよいよ第1部第1編第1章(第9節)が始まる。ハイデガーは例によって、長いタイトルをつけているけれど、これを読んでも、何をいおうとしているのか、よく分からない人が多いにちがいない。これらを無理して厳密に解釈しないほうが、いいのではないかと私は思う。それより、本節の最後のほうにある、「現存在の実存論的分析論は、すべての心理学、人間学、またさらに生物学より以前にあるものです。」をきちんと頭に入れるべきである。

このセンテンスで大事なことは、ハイデガーが明確に「現存在の実存論的分析論」< Die existenziale Analytik des Daseins>をいい出していることだ。第8節までは「実存論的」ということばは、出てこない。ここにきてハイデガーは、いよいよ本格的に「実存」ということばを、いわば堰を切ったように使い出す。彼はここで、「エクシステンチア」(存在=ザイン)と「エクシステンツ」(実存)を、きちんと使い分ける。

ハイデガーは「わたしたちがエクシステンチアという呼び方の代りに、いつも解釈のための表現である目のまえにあることを用い、存在規定としてのエクシステンツ〔実存〕を、現存在だけに割当てることによって、混乱は避けられる」と考え、次のように明言する。「現存在の『本質』は、その実存にあります。」今ではほとんど死語に近い「実存」であるけれど、あらためてハイデガーの使用する「実存」のことばを熟視すると、心の中にさざ波が起きる人もいるにちがいない。

ジョージ・スタイナーの『ハイデガー』(岩波書店同時代ライブラリー/生松敬三訳)によれば、人間だけが「存在を考える努力をすること」ができるとし、ハイデガーの『存在と時間』においては、存在から実存への移行を切実に思考した仕事であるとし、次のようにいう。

 「人間の現実存在、人間が『人間であること』は直接的かつ恒常的に、存在を問うことにかかっている。この問うことがハイデガーの実存Existenzと呼ぶものを生み出し、問うことのみがこの実存を実質的で有意味なものたらしめる。(略。)現存在は螺旋的に内部に向かってつき抜けて、真理が『蔽いをとって』あらわれる『明るみ』に到達するのでなければならない。」(ジョージ・スタイナー『ハイデガー』/岩波書店同時代ライブラリー/生松敬三訳/165頁~166頁)

このようなとらえ方に対し、ハイデガーは本節において、どのようにいっているのだろうか。それをみてみよう。

「現存在は、そのつど自分の可能性であり、しかも現存在はその可能性を、目のまえにあうものとして、ただ性質的に『もって』いるのではありません。しかも現存在はそのつど本質的には自分の可能性ですから、この存在するものは、自分の存在のなかで、自分自身を『選ぶ』ことも、獲得することもできるし、また自分を失うことも、ないしは決して獲得するのではなくて、ただ『見かけ』だけ得ることもできるのです。」(ハイデガー『存在と時間』第9節「現存在の分析論の主題」/上巻86頁。)

くらがりに「封印」を問う榾明り  須藤 徹

 

 

 

 


〔ばっく・とぅ・ざ・ふゅーちゃー/その2〕俳諧から悟道へ─田捨女と貞閑尼 extra B- 02

2013-01-20 16:55:49 | extra B

田捨女(でんすてじょ)は、1634(寛永11)年、丹波国氷上郡柏原藩(兵庫県丹波市柏町)に生まれた。柏原は「かしわばら」でなく、「かいばら」と読む。松尾芭蕉より、10歳年上である。俳諧は、北村季吟に入門したから、芭蕉と同門であるけれど、ほぼ同世代の二人に面識があるわけではないし、書簡のやりとりもない。柏原藩(藩主は織田信勝)の庄屋で代官も務めた田季繁の娘である。正式には、田ステ。藩主の信勝が、28歳の若さで死去し、子供に男子がいなかったため、幕府から改易(更迭)され、当地が天領となったので、実質的には、捨女の父季繁が、柏原藩を差配していたという。

 捨女6歳のとき、〈雪の朝二の字二の字の下駄のあと〉を創作したという、有名な伝説が残っているけれど、現存する自筆句集にはない。十八歳にして、継母の連れ子季成と結婚した。季成も捨女に劣らず、文雅の嗜みがあり、夫妻ともに北村季吟門に入り、歌俳の道に精進する。けれども不運にも、延宝2(1624)年、夫季成の病没(捨女41歳)の後、思うことあって剃髪し、妙融尼と号し京都に行く。(捨女46歳。)仏門修行のかたわら、得意の俳諧と和歌の道に励むが、経済的には苦しく、世の辛酸をなめたといわれる。

彼女は52歳のときに、齢ひとまわり上(12歳上)の高僧盤珪禅師に就き、名を貞閑とした。盤珪は、正しくは盤珪永琢(えいたく)といい、いわゆる「 不生禅」(形式的な座禅修行ではなく、生活そのものが座禅に通じるとする教え)を平易なことばで説き、その結果門徒は、千数百人に及んだ。その盤珪の開祖した臨済宗の龍門寺(兵庫県姫路市網干浜田)のそばに、捨女は草庵不徹庵を結んだのである。盤珪禅師弟子入り後、貞閑は65歳で、その人生を終えた。

捨女の家族は、つぎつぎと亡くなってゆく。人物伝研究家の森繁夫(1883-1953)の『田捨女』(昭和3年2月11日発行/青雲社)によると、彼女は37歳(寛文10年)までに、6人(5男1女)を産んだものの、生きている間に、長男と次男及び長女を亡くすという逆縁に見舞われる。すでに実父と継母、それに夫を失っているので、身内は三男・四男・五男を残すのみであった。(三子もまた、母の影響を受けて盤珪門などに入る。)

 こうした家庭の不幸の一方で、捨女の俳諧の実績と声名は高まる。寛文3年に捨女は、33歳になったけれど、この年寺田重徳の『俳諧独吟集』が板行され、そこに彼女の独吟歌仙が掲載される。また北村湖春の『続山の井』に36句の発句が入集したのは、34歳(寛文7年)のときである。芭蕉の発句入集は28句で、捨女のほうが上回る。43歳(延宝4年)のときに、村季吟の『続連珠』に、31句入集。57歳(天和3年)のときには、宝井其角の『いつを昔』にも、捨女の句が入集した。

 ぬれ色や雨のしたてる姫つつじ  田捨女

 折からの雨に濡れて、「姫つつじ」が、美しくも優雅に濡れて光っている、というのが句意。「雨」に「天」をいい掛け、さらに「下照姫」を含意する。いうまでもなく、「下照姫」は、大国主命の娘である。貞門や談林の洒脱な言語操作を駆使した句であるけれど、その実、「姫つつじ」と「下照姫」のダブルイメージになり、十分に趣のある句になった。『続山の井』所収。

 夏またで梅花の雪やしらがさね  田捨女

 梅の花に雪が積もっているけれど、それを見ると、まるで更衣のときの「白襲」のように見える、というのが句意。この句も、貞門流の知的見立ての技法であるが、女性ならではの鋭い繊細さに満ち溢れていよう。『続山の井』所収。