須藤徹の「渚のことば」

湘南大磯の柔らかい風と光の中に醸される
渚の人(須藤徹)の静謐な珠玉エッセイ集。

自意識の微粒子─『澁谷道俳句集成』について text 266

2011-10-25 06:42:48 | text
このほど著者の澁谷道さんより『澁谷道俳句集成』(沖積舎)をご恵贈賜った。『嬰』『藤』『桜騒』『縷紅集』『紫薇』『素馨集』『紅一駄』『蕣帖』『鴇草紙』『蘡』の既刊句集10冊と未完句集1冊を含めた俳句集成である。折々にそれぞれの句集や文章集、さらにご自身で編集発行されている俳句と連句の雑誌『紫薇』もいただき、今までおおいに啓発されてきた。

澁谷道さんは独自な深い思索性を秘め、しかも感性豊かで、鋭すぎるくらいの彫琢した美学をもつ、現代女流俳人の高峰中の一人である。以前筆者が所属していた『地表』誌に、1987年(昭和62年)、『紫薇』評を掲載したことがある。単行本未収録のエッセイで、タイトルは「揺れながら」が原題であるけれど、後に「自意識の微粒子」と改題した。まずそれぞれの作品集から2句を掲載し、そして筆者の『紫薇』評(「自意識の微粒子」)を転載する。

駈ける馬に冬山の藍波打てり(『嬰』)
天女に恋教えたし白砂に足埋め(『嬰』)
波音の秋よ固まり難きゼリー(『藤』)
闇におく往診鞄のなか吹雪(『藤』)
まくなぎや夢の墜死は途中まで(『桜騒』)
朱欒に刃絶壁のギリシャがみえる(『桜騒』)
牡蠣啜るシャンデリア雨滴に変る(『縷紅集』)
もう逢わぬ距りは花野にも似て(『縷紅集』)
野に消える雉の繊細さに勝てぬ(『紫薇』)
山ゆるみ川あそぶなり郡上節(『紫薇』)
秋のひと音叉一と打ちしてゆきぬ(『素馨集』)
着水と思い夏野に膝を折る(『素馨集』)
霧迅ければ黒百合の鈴鳴らむ(『紅一駄』)
ひとと逢い北時雨とは燦めくもの(『紅一駄』)
こでまりの揺るるに適う闇の丈(『蕣帖』)
椅子流るるごときめまいや玉霰(『蕣帖』)
つりしのぶ鼓の革のゆるむとき(『鴇草紙』)
縷紅草紅とぎれたる其処に葬 (『鴇草紙』)
革鞄提げたる僧の芒原(『蘡』)
書肆を出で赤信号も秋灯(『蘡』)
あきかぜを停め小面の前屈み(『未完句集』)
麻酔醒むさくらふさふさなわなわと(『未完句集』)

雨上りの重い曇り空の下、緑のしじまの中に、小さな青梅が息づいている。雨のしずくの銀が、一粒二粒その小梅に張り付いており、それはあたかも透明な生き物のようにも見える。狭いながらも密度の濃い空間の中に、びっしりと張りつく梅の微かな吐息がほんの少し聞こえるようだ。

野に消える雉の繊細さに勝てぬ
影ふみの影を匿い朴の花

やはり、俳句は自らの「存在」への切実な問いかけなのであろうか。澁谷道の『紫薇』の作品244句を読んで、私が率直に感じた印象である。濃淡の微妙な「存在」の影と影の繊細な重なり合い。鋭い鳥の鳴き声が響く。「女」の「性」としてのぎりぎりの絞りこみ。底知れない沈潜化の華やぎ。しかし、ここで仮にも「男」とか「女」とかの区別をしたら、作者に失礼だろうし、私も単純にそのようにはとらえたくない。とはいえ、任意に澁谷の作品を抽出、これを静かに読むと、気恥しくも作者の真摯な「息づかい」を感ずる。

逝く夏を揺れながらさかな煮る家
さくらみてゆらぐ微粒子まとい合う

小林秀雄の初期作品に「一ツの脳髄」という創作があって、その中に「揺れる」和船の話が出てくる。波がありもしないのに、自分の機械の振動で、無暗に船はガタガタ慄えるのだ。「私」は他の人と一緒に「揺れる」ことに耐えられない。「─これらの人々が皆酷い奇妙な置物のように黙って船の振動でガタガタ慄えて居るのだ。自分の身体も勿論、彼等と同じリズムで慄えなければならない。それが堪らなかった。然し自分だけ慄えない方法は如何しても発見できなかった。」「堪らない」のは、「自意識」という厳密な男の感受性のためである、ととらえては間違いか。私はこの話を思いだすたびに逆に「女」の「自意識」の本質的差異を詮索したくなる。

たえがたく伏して花野と血が通う
鴨を煮て素顔の口に運ぶなり

結局「個」への追いこみ方の問題なのかなとも思う。究極の「個」化には、常に台風なみの磁気嵐が吹き荒れよう。だが、澁谷道の場合は、どうもそのような大袈裟な磁場ではないようだ。「あとがき」に、次の「ことば」がある。

紫薇とは白さるすべりのことです。揺らぐかにみえて静止し、変と不変を超えたちからを風に消しています。

「個」のちからの潔さ。そして「命」の儚さと尊さ。俳句もまた。

吹き狂い明日七夕の竹になる

(『地表』第255号/1987年6月25日発行/須藤徹「自意識の微粒子─揺れながら」より全文を転載)

◇『澁谷道俳句集成』= 2011(平成23)年11月1日、株式会社沖積舎より発行/定価14175円(本体13500円+税)/ISBN978-4-8060-1668-7

日々颯爽─「藤袴」のセンシティブな歌 text 265           

2011-10-13 00:43:07 | text
<萩の花尾花葛花撫子の花女郎花また藤袴朝貌の花>(山上憶良)と万葉集で詠われる、秋の七草の一つ「藤袴」が、わが庭の一角で咲き出した。この「藤袴」は、数年前に家人がどこからか調達してきて、地植したもので、毎年この季節に可憐に咲くのである。しかし、地植した「藤袴」は、「キク科ヒヨドリバナ属の多年生植物」という正式名の本種なのだろうか、と筆者はそこはかとなく訝っている。というのも、環境省のレッドリストでは準絶滅危惧(NT)種に指定されているからだ。今は園芸店などで気軽に「藤袴」が手に入るので、これはほとんど同属他種または本種とかけ合わせた雑種であると、もろもろの本に書かれている。

こういうヤボな詮索をすることが筆者の悪いクセで、こんなことを考えると『源氏物語』第30帖に出てくる<同じ野の露にやつるゝ藤袴あはれはかけよかごとばかりも>(あなたと同じ野原で露に濡れてやつれている藤袴です。せめて、可哀想といって優しい同情の言葉をおかけしてください)というセンシティブな歌は理解できないにちがいない。ちなみに、この歌は夕霧が玉鬘を口説く、たいへんロマンティックな歌なのである。こういうふうに「藤袴」を見て、純粋に文学的瞑想と思考を始めるのがよいのだけれど、筆者の思いはどうも斜めに向う傾向にあり、「瞑想」ならぬ「迷走」に行きがち…。これは反省材料の一つであろうか。

終末の陰毛へ神の震え声   須藤 徹

さて、筆者と『ぶるうまりん』のことが、一部のウェブサイトや新聞などにとり上げられている(これからとり上げられる)ので、それらを紹介してみよう。まず「詩歌梁山泊~三詩型交流企画」と銘打った「詩客 SHIKAKU」というウェブサイトがあり、ここに「七曜詩歌ラビリンス」(筆者=冨田拓也氏)と、「日めくり詩歌」(俳句筆者=高山れおな氏)というひじょうに面白い頁(欄)がある。前者は『ぶるうまりん』17号・18号に言及していただき(7月某日)、後者では拙句<終末の陰毛へ神の震え声>(『幻奏録』所収)を、9月13日にとり上げていただいた。どちらも筆者と仲間を、ありがたく励ましてくれるような書きぶりだった。この場を借りて、お礼申し上げたい。

「詩客 SHIKAKU」 http://shiika.sakura.ne.jp/

また『ぶるうまりん』19号について、関悦史氏のウェブサイト「閑中俳句日記(別館)」では、10月4日にとり上げられている。「特集は『俳句の風景学入門』。オギュスタン・ベルク、中村良夫、独歩の『武蔵野』(及び当然のごとく柄谷行人)などを引いた論考が並ぶ」とし、筆者(須藤徹)の作品のほかに、小倉康雄、田中徳明、松本光雄などの同人の作品が紹介されている。ところで、驚いたことにその翌日(10月5日)、そのウェブサイトを何気なく見ていると、次のように書かれているではないか。「今日、家に泥棒に入られた。工務店への支払いにと用意してあった、現金15万円がそっくり盗まれた。これは屋根にブルーシートをかけてもらったり壊れた瓦を降ろしてもらった作業代で、屋根の修繕は別の瓦屋になるので、そちらはそちらで別途もっと費用がかかる。」東日本大震災で被害を受けた関悦史氏の家に、泥棒が入ったのだ。何ということだろう! ちなみに同氏は、『ぶるうまりん』15号において、「日本景Ⅱ」というタイトルで、俳句作品50句を発表している。

「閑中俳句日記(別館)」 http://kanchu-haiku.typepad.jp/

一方、「金子兜太」というウェブサイトでも、『ぶるうまりん』19号をとり上げている。このウェブサイトでは、毎号『ぶるうまりん』を数ヶ月ごとに出すたびに、必ずとり上げてくれるのだ。筆者の俳句作品も毎回多く掲載してくれる(時々誤植があるが!)ので、その管理人の度量の広さに敬服するかぎりである。ここは、文字どおり俳誌『海程』のウェブサイトであるにもかかわらず、いつも『ぶるうまりん』を懇切に紹介してくれる。それのみならず、「ぶるうまりん俳句会」に五つある句会の日程などにも、こと細かく言及…。管理人の竹丸さん(H.E.さん)、いつも本当にありがとう。

「金子兜太」http://kanekotohta.jp/

さらに、坪内稔典氏からは10月11日に葉書をいただき、11月1日の「毎日新聞」の「季語刻々」(同氏執筆)に拙句が紹介されるという。葉書には具体的に何の句か書かれているけれど、掲載日の前に、それを本ブログに事前告知するのは、ルール違反になるので、それはここに書けない。いえることは、筆者の既刊句集に採録された作品ではなく、『ぶるうまりん』誌既刊号に掲載のものであることだ。仔細に俳誌などを読まれる同氏が、どのような句を紹介されるか、本ブログの読者でご興味をもたれる方は、ぜひ11月1日の「毎日新聞」の「季語刻々」をお読みいただきたい。

写真は10月1日に行われた<依田仁美の「脳内世界」と「現実世界」の相関を探求する>の会場(シーサイドホテル芝弥生)近くの、新交通ゆりかもめ「竹芝」駅付近の風景。この日、筆者は初めて新交通ゆりかもめを利用したのだった。鋭い意見の飛び交う、なかなか白熱したよい会であった。当日の模様は、北冬舎の刊行する『北冬』No.014(2012年初頭発行予定)に、「ライブ版」として収録されるという。