このほど著者の澁谷道さんより『澁谷道俳句集成』(沖積舎)をご恵贈賜った。『嬰』『藤』『桜騒』『縷紅集』『紫薇』『素馨集』『紅一駄』『蕣帖』『鴇草紙』『蘡』の既刊句集10冊と未完句集1冊を含めた俳句集成である。折々にそれぞれの句集や文章集、さらにご自身で編集発行されている俳句と連句の雑誌『紫薇』もいただき、今までおおいに啓発されてきた。
澁谷道さんは独自な深い思索性を秘め、しかも感性豊かで、鋭すぎるくらいの彫琢した美学をもつ、現代女流俳人の高峰中の一人である。以前筆者が所属していた『地表』誌に、1987年(昭和62年)、『紫薇』評を掲載したことがある。単行本未収録のエッセイで、タイトルは「揺れながら」が原題であるけれど、後に「自意識の微粒子」と改題した。まずそれぞれの作品集から2句を掲載し、そして筆者の『紫薇』評(「自意識の微粒子」)を転載する。
駈ける馬に冬山の藍波打てり(『嬰』)
天女に恋教えたし白砂に足埋め(『嬰』)
波音の秋よ固まり難きゼリー(『藤』)
闇におく往診鞄のなか吹雪(『藤』)
まくなぎや夢の墜死は途中まで(『桜騒』)
朱欒に刃絶壁のギリシャがみえる(『桜騒』)
牡蠣啜るシャンデリア雨滴に変る(『縷紅集』)
もう逢わぬ距りは花野にも似て(『縷紅集』)
野に消える雉の繊細さに勝てぬ(『紫薇』)
山ゆるみ川あそぶなり郡上節(『紫薇』)
秋のひと音叉一と打ちしてゆきぬ(『素馨集』)
着水と思い夏野に膝を折る(『素馨集』)
霧迅ければ黒百合の鈴鳴らむ(『紅一駄』)
ひとと逢い北時雨とは燦めくもの(『紅一駄』)
こでまりの揺るるに適う闇の丈(『蕣帖』)
椅子流るるごときめまいや玉霰(『蕣帖』)
つりしのぶ鼓の革のゆるむとき(『鴇草紙』)
縷紅草紅とぎれたる其処に葬 (『鴇草紙』)
革鞄提げたる僧の芒原(『蘡』)
書肆を出で赤信号も秋灯(『蘡』)
あきかぜを停め小面の前屈み(『未完句集』)
麻酔醒むさくらふさふさなわなわと(『未完句集』)
雨上りの重い曇り空の下、緑のしじまの中に、小さな青梅が息づいている。雨のしずくの銀が、一粒二粒その小梅に張り付いており、それはあたかも透明な生き物のようにも見える。狭いながらも密度の濃い空間の中に、びっしりと張りつく梅の微かな吐息がほんの少し聞こえるようだ。
野に消える雉の繊細さに勝てぬ
影ふみの影を匿い朴の花
やはり、俳句は自らの「存在」への切実な問いかけなのであろうか。澁谷道の『紫薇』の作品244句を読んで、私が率直に感じた印象である。濃淡の微妙な「存在」の影と影の繊細な重なり合い。鋭い鳥の鳴き声が響く。「女」の「性」としてのぎりぎりの絞りこみ。底知れない沈潜化の華やぎ。しかし、ここで仮にも「男」とか「女」とかの区別をしたら、作者に失礼だろうし、私も単純にそのようにはとらえたくない。とはいえ、任意に澁谷の作品を抽出、これを静かに読むと、気恥しくも作者の真摯な「息づかい」を感ずる。
逝く夏を揺れながらさかな煮る家
さくらみてゆらぐ微粒子まとい合う
小林秀雄の初期作品に「一ツの脳髄」という創作があって、その中に「揺れる」和船の話が出てくる。波がありもしないのに、自分の機械の振動で、無暗に船はガタガタ慄えるのだ。「私」は他の人と一緒に「揺れる」ことに耐えられない。「─これらの人々が皆酷い奇妙な置物のように黙って船の振動でガタガタ慄えて居るのだ。自分の身体も勿論、彼等と同じリズムで慄えなければならない。それが堪らなかった。然し自分だけ慄えない方法は如何しても発見できなかった。」「堪らない」のは、「自意識」という厳密な男の感受性のためである、ととらえては間違いか。私はこの話を思いだすたびに逆に「女」の「自意識」の本質的差異を詮索したくなる。
たえがたく伏して花野と血が通う
鴨を煮て素顔の口に運ぶなり
結局「個」への追いこみ方の問題なのかなとも思う。究極の「個」化には、常に台風なみの磁気嵐が吹き荒れよう。だが、澁谷道の場合は、どうもそのような大袈裟な磁場ではないようだ。「あとがき」に、次の「ことば」がある。
紫薇とは白さるすべりのことです。揺らぐかにみえて静止し、変と不変を超えたちからを風に消しています。
「個」のちからの潔さ。そして「命」の儚さと尊さ。俳句もまた。
吹き狂い明日七夕の竹になる
(『地表』第255号/1987年6月25日発行/須藤徹「自意識の微粒子─揺れながら」より全文を転載)
◇『澁谷道俳句集成』= 2011(平成23)年11月1日、株式会社沖積舎より発行/定価14175円(本体13500円+税)/ISBN978-4-8060-1668-7
澁谷道さんは独自な深い思索性を秘め、しかも感性豊かで、鋭すぎるくらいの彫琢した美学をもつ、現代女流俳人の高峰中の一人である。以前筆者が所属していた『地表』誌に、1987年(昭和62年)、『紫薇』評を掲載したことがある。単行本未収録のエッセイで、タイトルは「揺れながら」が原題であるけれど、後に「自意識の微粒子」と改題した。まずそれぞれの作品集から2句を掲載し、そして筆者の『紫薇』評(「自意識の微粒子」)を転載する。
駈ける馬に冬山の藍波打てり(『嬰』)
天女に恋教えたし白砂に足埋め(『嬰』)
波音の秋よ固まり難きゼリー(『藤』)
闇におく往診鞄のなか吹雪(『藤』)
まくなぎや夢の墜死は途中まで(『桜騒』)
朱欒に刃絶壁のギリシャがみえる(『桜騒』)
牡蠣啜るシャンデリア雨滴に変る(『縷紅集』)
もう逢わぬ距りは花野にも似て(『縷紅集』)
野に消える雉の繊細さに勝てぬ(『紫薇』)
山ゆるみ川あそぶなり郡上節(『紫薇』)
秋のひと音叉一と打ちしてゆきぬ(『素馨集』)
着水と思い夏野に膝を折る(『素馨集』)
霧迅ければ黒百合の鈴鳴らむ(『紅一駄』)
ひとと逢い北時雨とは燦めくもの(『紅一駄』)
こでまりの揺るるに適う闇の丈(『蕣帖』)
椅子流るるごときめまいや玉霰(『蕣帖』)
つりしのぶ鼓の革のゆるむとき(『鴇草紙』)
縷紅草紅とぎれたる其処に葬 (『鴇草紙』)
革鞄提げたる僧の芒原(『蘡』)
書肆を出で赤信号も秋灯(『蘡』)
あきかぜを停め小面の前屈み(『未完句集』)
麻酔醒むさくらふさふさなわなわと(『未完句集』)
雨上りの重い曇り空の下、緑のしじまの中に、小さな青梅が息づいている。雨のしずくの銀が、一粒二粒その小梅に張り付いており、それはあたかも透明な生き物のようにも見える。狭いながらも密度の濃い空間の中に、びっしりと張りつく梅の微かな吐息がほんの少し聞こえるようだ。
野に消える雉の繊細さに勝てぬ
影ふみの影を匿い朴の花
やはり、俳句は自らの「存在」への切実な問いかけなのであろうか。澁谷道の『紫薇』の作品244句を読んで、私が率直に感じた印象である。濃淡の微妙な「存在」の影と影の繊細な重なり合い。鋭い鳥の鳴き声が響く。「女」の「性」としてのぎりぎりの絞りこみ。底知れない沈潜化の華やぎ。しかし、ここで仮にも「男」とか「女」とかの区別をしたら、作者に失礼だろうし、私も単純にそのようにはとらえたくない。とはいえ、任意に澁谷の作品を抽出、これを静かに読むと、気恥しくも作者の真摯な「息づかい」を感ずる。
逝く夏を揺れながらさかな煮る家
さくらみてゆらぐ微粒子まとい合う
小林秀雄の初期作品に「一ツの脳髄」という創作があって、その中に「揺れる」和船の話が出てくる。波がありもしないのに、自分の機械の振動で、無暗に船はガタガタ慄えるのだ。「私」は他の人と一緒に「揺れる」ことに耐えられない。「─これらの人々が皆酷い奇妙な置物のように黙って船の振動でガタガタ慄えて居るのだ。自分の身体も勿論、彼等と同じリズムで慄えなければならない。それが堪らなかった。然し自分だけ慄えない方法は如何しても発見できなかった。」「堪らない」のは、「自意識」という厳密な男の感受性のためである、ととらえては間違いか。私はこの話を思いだすたびに逆に「女」の「自意識」の本質的差異を詮索したくなる。
たえがたく伏して花野と血が通う
鴨を煮て素顔の口に運ぶなり
結局「個」への追いこみ方の問題なのかなとも思う。究極の「個」化には、常に台風なみの磁気嵐が吹き荒れよう。だが、澁谷道の場合は、どうもそのような大袈裟な磁場ではないようだ。「あとがき」に、次の「ことば」がある。
紫薇とは白さるすべりのことです。揺らぐかにみえて静止し、変と不変を超えたちからを風に消しています。
「個」のちからの潔さ。そして「命」の儚さと尊さ。俳句もまた。
吹き狂い明日七夕の竹になる
(『地表』第255号/1987年6月25日発行/須藤徹「自意識の微粒子─揺れながら」より全文を転載)
◇『澁谷道俳句集成』= 2011(平成23)年11月1日、株式会社沖積舎より発行/定価14175円(本体13500円+税)/ISBN978-4-8060-1668-7