Breathe & Stretch 〜マインドフルネストレーナーのメモ帳〜

縁あって辿りついたマインドフルネストレーナーの仕事。悩みは色々あれど、喜びや楽しみが増えていきますように。

自分の背骨で寛ぐことができること:腰痛とマインドフルネスとソマティクスと

2016-04-15 13:45:32 | 心身一如な日々
昨年の12月から、ずっと鎖骨の下、大胸筋の上部に痛みがあり、胸から上の不快感とともにいました。

1月には、自分の呼吸のパターンにも深い気づきがあり、楽になる方向は少しは見えてきていたのに、
えらく長く続くこの痛み。

結構しんどい時間を過ごしていました。
自分の脳の中で何が起きているんだろうなぁ〜、CTスキャン撮ったらどうなってるんだろうなぁ〜
薬を飲んだら楽になるのかなと思ったこともありました(振り返れば、飲んでも良かったかもとも思う)。

身体は、本当に複雑系を理解する一番近くにあるテキストだなと日々感じているのですが、
「私の場合」は「いい感じ」の動きが実感されても、それに連動して「いい感じ」のところが
増えて行くかというと、長年の身体の使い方のクセや、心の中にブロックしたり、
無駄にしゃしゃり出てくるエゴがあり、なかなか進んでいっていない感じがしていました。

そんな時に、仕事で決別を決断したことで、なんとなく身体の緊張が減り、
ちょっと楽になったかなと思った矢先に、タイヤ交換に出ようとした時に「ぎっくり腰」が・・・

久しぶりに「雷」にうたれた感じでしたが、一方で、何かの終わりもうっすら感じていました。

対処としては、痛みに振り回されてもしょうがないので

・いつもどおりの瞑想を続け、自分の身体の痛み以外の部分についても気づいていること
・そして、痛みなんて実体はない、自分が感じているとだけ観察するということ
・痛み以外の部分までが緊張しないようになるべくなら寛いだ感じでいたいなということ

とは言え、痛いものはやっぱり痛いんですよ。。。

痛みが和らいできた時に、ちょうど日本ソマティック心理協会の
第1回ソマティックダイアログ2016 「マインドフルネス」+「ソマティック」
〜身体のリベラルアーツに触れる〜
というイベントに参加させていただき、大きな洞察を得ることができました。



ソマティック心理学への招待
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それは、長谷川智先生と藤本靖先生の「東洋と西洋の身体技法と哲学」という
ワークショップの中の、身体の「健全」な部分・「影」の部分への焦点をどのように当てるか、
という「問い」への考察の中でおきました。

私は、背骨を中心として関連する箇所に慢性的な痛みがあるのですが、この痛みを見詰めることができます。
そしてどこで逃げてしまうかも体感があります。
そして理屈で解明しようとする自分の傾向を知っています。

翌日、敬愛する友人のSさんから
「泉ちゃんはどうして、そんなに光の部分と影の部分を極端なまでに行ったり来たりできるの?」と
質問されて「ハッ」としたのは、

私は、椎間板ヘルニアのトラウマや背骨に関連する以外に身体症状に悩みはなく、
幼い頃から活発で大病がないこと、これが安心材料であるがゆえに、サバイバル慣れしており、
果敢に痛みという「影」の部分に挑み続けることができてしまうのかと。あと気質の粘着性もあり。
(ホントのところはわかりませんが)

なので、「私の場合」痛みはつながりの中で起きていて、部分的に取り除くことはできないことが、
これまでの施術経験や身体の感覚を通してわかっていても「痛み」との関係はざっくりとでもいいので
知りたいと執着しすぎる。

そんな私のターニングポイントは、
山伏の修行:修験道の知恵を身体技法に取り入れていらっしゃる長谷川智先生が、ワークショップの中で、

「こんな私ですが、精一杯生きて行きますので、どうぞよろしくお願いいたします」

と、言葉にすることで、身体の弱い部分がどう強くなるか試すワークを提供してくださいましたこと。

あら不思議・・・
なんだろうこの背骨に力がみなぎる感は
なんだろうこの足裏への信頼感は

これが「THE受容」ってことじゃないか。。。

そして、自分への気づきは、私は、「光」の部分に感謝し、「影」に屈しないまでも
どれだけ身体に「謙虚」に生きてきたかというということ。

早く痛みから逃れて、何がしたいのか?
トホホ、開封してみると、相変わらずエゴまみれです。

そして、カウンセリング技法もソリューション・フォーカス・アプローチを扱い、
クライアントの上手くいっているところ、強み、つまり光の部分を見て行く技法を扱っておきながら、
自分の身体に対してはどうだったんだ?

マインドフルネスの実践をしながら、
なぜに「自分を慈しむこと」ができないのかと、
なぜに「今、ここで何かしていないと良くならない」と思ってしまうのか、
なぜに「今、ここで何かをして好転させることができないと自分に価値がない」と思ってしまうのか
なぜに「今、ここにある」というだけで喜べないのか、

という疑問が、人生の中で何度となしに、性懲りもなく押し寄せては、エゴが震え
そこを探るセラピー(インナーチャイルド)は何度も繰り返してきている訳だけど、
この押し寄せてはまた忘れられてきた問いと共に、これからも性懲りもなく生きて行くのかもしれないと。

ま、それはそれとして

長谷川先生からのアファメーションを活かせる土台は、
これまでのマインドフルネス実践やフェルデンクライスメソッドの実践で身体から気づきを
得てきたことも十分関連していると思っていて

人が痛みから開放されていく方法に、たった1つの方法もないし、
あの人と私の方法は同じである必要がない。
あの人がよくなったからと言って、私が良くなる保証もない。

だから全てを人任せにしないで、自分なりのやり方で、自分の身体と「いい感じ」でやっていくということを
面倒くさい「学習プロセス」によって体得していくことは「私にとっては」しっくりくるやり方なのです。

そして、痛みを取り除くことがゴールではなく、痛みを通して、自分を学び、
また痛みとともに生きて行くんだと、腹落ちした時に、特に「歩きの瞑想」の時に

背骨の上で寛げるようになった自分

に気づくことが増え、自分への信頼感・喜びがあります。

だいたいこんな風に文字で書いたところで、所詮、自分勝手な頭の中だけのストーリー(妄想)です。

ただ、そうやって身体を通して、自分に気づいたことを言語化し、
こぼれ落ちているものもあったとしても、それは私なりの1つのやり方であり、
それが好きなんだと言えて、自分の身体も好きになってきたと言えるようになっていると思います。

なんとなく安心感を感じている背骨が「そう言ってもいいよ」と言ってくれているような
そんな気がしています。

自分の中の光と影が、こんな面倒くさい対話をしながら、
自分の愛着する「痛み」から少しづつ離れて行くのかも、と。
遠回りしてるけど、それでOKなのです、今のところ。




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