昨日は日帰り出張。深夜に東京に戻り、それから徹夜。寝たほうがいいとは思いつつ、寝ると起きられない気もしてそのまま覚醒状態を維持。何かしてなければ寝てしまいそうなので、またしても半端なメモを書く……。ああ恥ずかすぃ。
〈友人の子供へのプレゼントとして〉
私は知人の家を訪問するとき、そこに子供がいる場合は手みやげ代わりに本を持っていくことが多い。もらった方が嬉しいかどうかは知らないが、まあ嫌なら古書店に売ってくれてもいいし(いつだったか『百万回生きた猫』を2度も持って行ってしまい、そこの子に、この間ももらったけど~と言われたこともある……こっちは記憶力の悪さを棚に上げ、じゃあ友達にあげりゃいいじゃん、とゴマカしておいた)。
先日、友人の家に行ったときは、中学3年生の子供へのプレゼントとして、森毅著『まちがったっていいじゃないか』(ちくま文庫)を持参した。この本は中学生を主な対象として書かれたものである。表現は非常に平易で、小学生でも5~6年生ならば(早熟な子供ならば4年生ぐらいでも)楽に読める。ただ友人が長く海外生活をしていたせいで子供の日本語は日本で生まれ育った子に比べてやや劣る(海外生活中も両親がずっと日本語を教えていたから基本的な部分は遜色ないが、微妙なニュアンスが少し分かりづらいところがあるのだ)ので、まずはこのぐらいから読んでみて欲しいと思ったのだ。
『まちがったっていいじゃないか』は、繰り返して言うが難しい表現はひとつも使われていない。言葉の平易さの程度だけ見れば、「うっ、嘘だぁ、信じられない!」とdr.stoneflyさんが腰抜かしておられたような、文部科学大臣の手紙と大差ないようにさえ見えるほどだ。だが森氏の紡ぎ出す言葉と、文部科学大臣の言葉とは、天と地ほどの差がある。それはおそらく、「自分自身の奥底から迸ってくる、自分の言葉」で語っている森氏と、「秘書か誰かにアリバイ的なものを作らせた」大臣との違いだろう。この文庫本が刊行されたのはおよそ20年も前であるが、幸か不幸かその中に綴られた言葉は今も輝きを失っていない。
〈筋金入りの腰抜け〉
私は森毅という人の「筋金入りの腰抜けぶり」が結構好きだ。数日前に講演会の要旨を記事にした辺見庸氏が「一途で激烈な抵抗精神の持ち主」であるならば、森氏は「ノラクラとしながらも決して屈さない反抗心の持ち主」である。私はマスコミの片隅で生息する者のひとりとして、私などが一生かかっても到達できない地平を獲得した偉大な先輩である辺見庸氏を限りなく尊敬している。こういう激しさを死ぬまで持ち続けたいと思う。彼のように権力と鋭く対峙し続けることができれば、本望であるとも思う。だがそれと同時に、時には肩の力を抜いて、直球以外の球を投げたがっている自分があることも知っている。おそらく私は、この二極の間を永遠に彷徨いつつ生を終えるのだろう。
息せき切った自分に対して、時々「まあまあ、ちょっと落ち着いて座りなはれ。さぶなったなぁ、一杯どないや」と言ってくれる本は数多い。この森氏の著作などもそのひとつである。
ランダムにではあるが、『まちがったっていいじゃないか』から幾つかの文章を紹介しよう。
【やさしさの時代、と言われてきた。そこに少し皮肉な響きのあることが気になる。なぜなら、そうしたなかから「りりしさ」を求める声が生まれやすいからだ。ぼくの子どもの時代、ヒットラーの少年たちが現れた。それは、澄んだ瞳の、りりしい少年たちだった。ファシストは、澄んだ瞳で現れる。戦後では、ファシストというとひどい悪人のように言われていたが、そうではない。大部分は、むしろ「いい子」だからファシストになった。そうした純真な子どもたちをだましたので、悪いおとなのファシストかというと、それも大部分は人のいいおじさんたちだった。善人がファシストになること、それがファシズムというものだ】
【やさしさの世界よりも、ひとつの方向へ向けていさぎよく歩み出す、りりしさというのはかえって進みやすい。最初の歩みに勇気がいりそうだが、「勇気」ということばがの感覚さえが、歩みへの力になる。それに比べれば、やさしさの世界で暮らし続けるのは、むしろ気の張ることだ。(中略)それよりは、りりしさに憧れて、ひとつの方向に飛び立つ方がさっぱりしている。(中略)しかし、いまの時代、りりしさへ向けてとびたつのだけは抑えてほしい。やさしさの世界に生き続けることのほうが、大切なのである。そして、辛抱づよさのいることなのである。その辛抱がなくなったときに、ファシズムはやってくる】
【ぼくが戦争ぎらいなのは、自分が弱虫だったからかもしいれない。しかし、理屈をこえて戦争ぎらいだったような気がする。理屈の上での反戦よりは、こうした体質的なもののほうが根深い。それで、戦争というものよりも、戦争をする集団としての軍隊がなによりもきらいだった。これは体質的なものだから、国籍やイデオロギーを問わない】(注)
注/私も理屈や理論より、感性や体質のほうを重視する人間である。そのあたりはいずれまた書き留めておこうと思う。余談失礼。
【「正義の戦争」「正義の軍隊」もある、という考え方がありうる。たしかに、それはある。しかし歴史を少ししらべれば、たいていの戦争にはいくらかは「正義の戦争」であり、たいていの軍隊はいくらかは「正義の軍隊」であったことがわかる。歴史というのは、こうしたことを知るためにある。そして、もっとも暴力的だったのは、「正義」の名においてそれがおこなわれるときだった、ということもわかる】
【暴力にとっては、正義はいらない。むしろ害になる。最大の暴力としての、戦争だってそうだ。「聖戦」なんかより、ヤクザの縄張り争いのほうが、ずっと気持ちよい】
【ぼくの実感からすると、民主主義とはなまいきになることだ。(中略)身分の秩序をこえて誰もがなまいきになれること、それが民主主義だと思う。下級生のくせに上級生に文句を言うのではなくて、下級生だからこそ、その立場で上級生に文句が言えるのだ。(中略)人間は、どんな身分でも、どんな立場でも、自分の意見を述べる権利があり、自分を律する責任を持っている。それが民主ということだ。それを否定するものは、なんらかの形で差別になる。(中略)そうした民主を抑圧するものが、「なまいき」という表現である】
〈再度――たったひとりの「いくじなし宣言」〉
さっと読まれて、皆さんいかがですか。私は(むろん人間はひとりひとり違うので、100%ではありませんけれども)根っこの部分で共感できるところが多かった。あ、同じような感性――という共鳴。
先述のように難しい表現や専門用語はひとつもないから、小学校高学年程度の日本語力で充分に読める。子供への手軽なプレゼントに最適な本、のひとつでしはあるまいか(文庫本だから廉価だし)。皆さん、今年の子供さんたちへのクリスマス・プレゼントに(安っぽすぎるというのであれば、プレゼントの「おまけ」に)いかがです。むろんこれは子供だけでなく、高校生や大学生、さらには社会に出たオトナにも読んで欲しいと私は思う。平易な表現で何処まで深遠なことを伝えられるか、という手探りのためにも。
ところで――さきほどちょっと言ったが、私は自分がきわめつけの腰抜け(まだ筋金入りの、でないところが情けない。そのうち筋金入りになりたい)であるせいか、森氏の腰抜けぶりにある種の憧憬を抱いてもいる。で、以前「ご一緒に『いくじなし宣言』しませんか」という駄文を書いた。今でもこの思いは続いている。ちなみに私はいくじなしだから(笑)、そういう同盟を立ち上げる気概も気力もありませんが。
嗚呼、同志よ、未生の夢と現世の汚辱と来世の愛を共有した同志たちよ。いくじなしによる、いくじなしのための革命を。世界中のすべての「いくじなし」が、恥辱にまみれたままで煉獄に呻吟せずにすむ社会を。
もうかれこれ40年近く前のこと、京都からの日本海周り青森行きの夜行列車の中で森先生と偶然ご一緒しました。先生の名前とお顔は存じておりましたが、初対面でした。全く一面識もない小生を、先生はきさくに食堂車に誘って下さり、数時間夜汽車に揺られながら楽しいお話を伺うことができました。
実はその時,小生は闘争に疲れて一人北海道へリュックを担いで旅する途中でした。それからいくじなしになりました。
コメントを読んで、考え込みました。
♪~そうよわたしゃ いくじなしでけっこう りりしくなんかなりません お国のためにも誰かさんのためにも 殺されるのはまっぴらよぉ~
……というスタンスなのですがね、ううむ、私の言葉の使い方は間違ってるかなあ。もう少し考えてみよう。
今、教育で競争原理を取り入れようとされていますが、華氏さんのエントリーを読んで、遠山啓さんの「競争原理を超えて」という本を当時読んで感銘を受けたことを思い出しました。しかし、なにぶん昔なもんで中身のほうは、はっきりと覚えていません。探しても見つからず、図書館で借りてもう一度読んでみたいと思っています。
エントリーを拝見しながら斎藤貴男さんの「安心のファシズム」を思い出しました。
そよ風のように忍び寄るファシズム。
人はいつのまにか、その風のささやきに慣れ、いつのまにか考える事をやめ、そして飛び立つ、、、のだろうか?
怖い話です。じつに。
私はいつも「学ぶ」とは「生き抜くこと」と思っています。そのために人類は医学をはじめとした自然科学、そして宗教をも含め社会科学を体系化してきました。そして今もなお。
生き抜くためには「危機管理」としての「臆病」も人は本能として持っています。
「いくじなし」は人が学習で獲得した事と思います。
私も、いくじなしになりたぁ~~~~い。
ところで、森毅さんの「魔術から数学へ」と本について雑感を以前書いたことがあります。
お忙しいとは存知ますが、お時間がありましたらご覧下さい。
私にとって森さんは遠山さん同様、指針であり力づけであります。
政治的主張はどうあれ,このような手段は非常に卑怯なもので,ファシズムと同様な手法だと言って良いでしょう。私の所にも来ましたが,あっさり削除しました。皆さんで,このコメントの削除運動を始めませんか?
んで,ちょっと高価な絵本なんだけど,タイトルのユージーン・トリビザス文,ヘレン・オクセンバリー絵,こだまともこ訳『3びきのかわいいオオカミ』富山房 (ISBN 4-572-00333-5)なんて本もおすすめです。『3びきのこぶた』とはまったく逆の本でして,子オオカミが大豚にいじめられるお話です(笑)
よく考えると,3匹のこぶたというのは,かなり治安の悪い国での話なんですよね。わらの家も木造の家もオオカミに壊されすんでたこぶたは食べられ,丈夫なれんがの家の暖炉で大釜を煮ているこぶたの所にオオカミが落ちて煮えて死ぬわけです。でも,生き残ったのは最後のこぶた一匹だけなんですわ。
3匹のオオカミの話もかなり治安の悪い国での話です。でも,子オオカミたちは何とかして逃げ延びて,最後には大豚と仲直りするという「偽善に満ちた」終わり方をするんですよ。もし子供がこの絵本の結末は現実に即していないと言ってくれたら,その子は一歩成長したんじゃないかなと私はひねくれた読み方をしています(笑)