上記箴言には、敬虔な女性の有様等のサブタイトルがつけられていたりします。そして、この記述を妻の理想像であると考える方々が多いと思います。極端な場合には、奥義書講義所の先輩である大忍に聞いた話ですが、これに見合うような生活をすることを義務付けているような家も有るということです。二人でとんでもない話だと言い合ったことを思い出します。
さて、私、糸田十八は、この箇所については少々異なった理解をしています。妻の理想像を語っているという理解は違うのではないかと思うのです。その理由と、私の理解をご説明させていただこうと思います。
先ず、理由です。神様は私たち人間を色々な性格、賜物、資質を持った存在としてこの世に送り出してくださいました。どの女性でもこの箇所に表されているような女性になることができるということは有りません。それはどだい無理な要求というものです。本気でそのように生活してみようとしたら、余程体力に恵まれているか、大変効果的な健康法を心得ているかしないと、たちまち健康を害して倒れてしまうだろうと思います。創造主である神様は、そういうことは全てご存じですから、非人間的な無理な要求をなさるはずがありません。それに、夫となる人の仕事なども様々で、皆がこの聖書箇所に出てくるような状況になるとは限りません。ですから、この聖書の記述の要点は別のところに有ると考えるのが適切であると思います。
では、どのような理解をすることになるのかということになります。十節は「しっかりした妻」という表現をもって始まります。その「しっかりした」ということのまとめとなる言葉が、三十、三十一節に示されていると考えられます。その中心的な要素は、「主を恐れる女」であることです。神を敬い、全き信頼を持って、自分の為すべきことを行う妻であれば、「ほめたたえられる」に値する女性であるということに焦点が有ると考えられます。
私はこの箇所を更に次のように考えます。天地創造の時、神は人類を創造された時これを「非常に良かった」とされました。(創世記一章三十一節)堕落前の人類は神の賞賛の対象でもあったのです。しかし、罪を犯したために人類は神から与えられていた栄光を取り去られ、その称賛を受けることができなくなってしまいました。その評価は、「人が心に思い図ることは、幼い時から悪だからである。」というものに変わってしまいました。(創世記八章二十一節)ですから、人類は魂の深い所で何等かの賞賛に飢え乾いているのです。それをもう一度満たしていただくためには、「主を恐れる者」となって、イエス・キリストによる神の義を着せていただくしかないのです。
さて、このカテゴリー、結婚関係のあれこれの観点から述べます。夫婦の間でも褒め合うことは大変大事なことです。主に贖われた同士である男女は、イエス・キリストの救いを受けたという意味で完全にされたのですから、賞賛の関係も回復されなければなりません。そして、堕落の時には女性が真っ先に非難の対象になったことと関係が有るかもしれませんが、女性の方は男性よりも賞賛されることを必要としているのです。女性のそういう傾向は、結婚カウンセリングの授業でも指摘され、性差の理解として重要であると言われました。
今回の奥義書の箇所に戻って考えますと、この箴言は、妻をその家庭を築く努力に相応しく、褒めるべきであることを示していると考えることができます。そして、それは場合によっては夫婦だけでなく、コミュニティーの中でも知られるような有様でなされるように夫は気配りをしなければならないという忠告を含んでいます。それが最後の三十一節の「その手の働きの実を彼女に与え、その行いのために彼女を町の門でほめたたえよ。」という部分に現れていると考えられます。
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さて、私、糸田十八は、この箇所については少々異なった理解をしています。妻の理想像を語っているという理解は違うのではないかと思うのです。その理由と、私の理解をご説明させていただこうと思います。
先ず、理由です。神様は私たち人間を色々な性格、賜物、資質を持った存在としてこの世に送り出してくださいました。どの女性でもこの箇所に表されているような女性になることができるということは有りません。それはどだい無理な要求というものです。本気でそのように生活してみようとしたら、余程体力に恵まれているか、大変効果的な健康法を心得ているかしないと、たちまち健康を害して倒れてしまうだろうと思います。創造主である神様は、そういうことは全てご存じですから、非人間的な無理な要求をなさるはずがありません。それに、夫となる人の仕事なども様々で、皆がこの聖書箇所に出てくるような状況になるとは限りません。ですから、この聖書の記述の要点は別のところに有ると考えるのが適切であると思います。
では、どのような理解をすることになるのかということになります。十節は「しっかりした妻」という表現をもって始まります。その「しっかりした」ということのまとめとなる言葉が、三十、三十一節に示されていると考えられます。その中心的な要素は、「主を恐れる女」であることです。神を敬い、全き信頼を持って、自分の為すべきことを行う妻であれば、「ほめたたえられる」に値する女性であるということに焦点が有ると考えられます。
私はこの箇所を更に次のように考えます。天地創造の時、神は人類を創造された時これを「非常に良かった」とされました。(創世記一章三十一節)堕落前の人類は神の賞賛の対象でもあったのです。しかし、罪を犯したために人類は神から与えられていた栄光を取り去られ、その称賛を受けることができなくなってしまいました。その評価は、「人が心に思い図ることは、幼い時から悪だからである。」というものに変わってしまいました。(創世記八章二十一節)ですから、人類は魂の深い所で何等かの賞賛に飢え乾いているのです。それをもう一度満たしていただくためには、「主を恐れる者」となって、イエス・キリストによる神の義を着せていただくしかないのです。
さて、このカテゴリー、結婚関係のあれこれの観点から述べます。夫婦の間でも褒め合うことは大変大事なことです。主に贖われた同士である男女は、イエス・キリストの救いを受けたという意味で完全にされたのですから、賞賛の関係も回復されなければなりません。そして、堕落の時には女性が真っ先に非難の対象になったことと関係が有るかもしれませんが、女性の方は男性よりも賞賛されることを必要としているのです。女性のそういう傾向は、結婚カウンセリングの授業でも指摘され、性差の理解として重要であると言われました。
今回の奥義書の箇所に戻って考えますと、この箴言は、妻をその家庭を築く努力に相応しく、褒めるべきであることを示していると考えることができます。そして、それは場合によっては夫婦だけでなく、コミュニティーの中でも知られるような有様でなされるように夫は気配りをしなければならないという忠告を含んでいます。それが最後の三十一節の「その手の働きの実を彼女に与え、その行いのために彼女を町の門でほめたたえよ。」という部分に現れていると考えられます。
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糸田といたしましては、福音は失われた部分は有りません。有ったら、キリスト教の神は特別啓示すらまともに伝達できない間抜けな神ということになりまして、私としては信仰に値しません。
また、イエスに妻がとかいうのは、イエスの神性に問題が生じ、これもそんな神でありましたら信仰に値しません。
時々確認させていただいておりますが、サブタイトルに示しました通り、私とほぼ同じ教義に立つという意味の、狭義の「仲間」に書き残していこうという姿勢であることをお断りさせていただいております。
いただいた情報の示すところは、使徒達が守ろうとしていた内容にも反しています。故に、大忍を仰せつかっている糸田十八といたしましては、いただいたコメントを他の仲間の目につくところに置くことをよしとすることができません。申し訳ありませんが、公開保留とさせていただきます。