先日列挙した項目の最初の二つを扱います。(二十四章一から三節)
キリストが神殿の石が一つとして積み重なることのない日が来ると述べました。ヘロデによる第二神殿は、その荘厳さで周囲の国々の人々にも印象深いものであった様子が、当時の文献からもうかがえるそうです。ギリシャ人の中には自分達の神々の神殿の方が素晴らしいということを述べた者もいるということです。その建築への評価はいずれにしても、それが壊れてしまうということでした。
そういうことを聞いたキリストの弟子たちは、驚いたはずです。神殿はイスラエルの象徴的なものであり、間もなくキリストによってイスラエルが再興されるのではと期待していた彼らには、神殿が崩されるということは想像できなかったことになります。
しかし、その後弟子たちはキリストに近づいて先ず、何時それは起こるのかを尋ねました。マタイはその部分への答えを記録していませんが、ルカの方は、二十一章二十節で「エルサレムが軍隊で囲まれるのを見たら」という記述をしており、それが70年のエルサレム崩壊であることを預言したものであると理解できます。
弟子たちの質問は更に発展していきます。「あなたがまたおいでになる時や、世の終りには、どんな前兆がありますか。」と尋ねています。どうしてこのような質問に発展したのだろうかと思ったのですが、手元の注解によると、弟子たちの頭にはザカリヤ十四章一、二節が有ったであろうとしています。
ザカリヤ書を見てみると、十二章からエルサレムに関する預言になっていることがわかります。エルサレムが包囲されることへの言及も有ります。また、嘆きが有り、偽預言者が取り除かれ、人々の信仰が試されることが書かれています。そして、その十四章では、エルサレムが敵に打たれることが書かれています。三節には「主が出て来られる」という記述が有ります。弟子たちはそれをキリストであると考えていたという理解のようです。
一節には「主の日が来る」ということが書かれていますし、主がすべての王となった時の記述は、奇跡的な内容になっていますから、それを「世の終わり」と考えることもできます。
これらのことを合わせて、弟子たちの質問は発展したのだと考えることができそうです。
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キリストが神殿の石が一つとして積み重なることのない日が来ると述べました。ヘロデによる第二神殿は、その荘厳さで周囲の国々の人々にも印象深いものであった様子が、当時の文献からもうかがえるそうです。ギリシャ人の中には自分達の神々の神殿の方が素晴らしいということを述べた者もいるということです。その建築への評価はいずれにしても、それが壊れてしまうということでした。
そういうことを聞いたキリストの弟子たちは、驚いたはずです。神殿はイスラエルの象徴的なものであり、間もなくキリストによってイスラエルが再興されるのではと期待していた彼らには、神殿が崩されるということは想像できなかったことになります。
しかし、その後弟子たちはキリストに近づいて先ず、何時それは起こるのかを尋ねました。マタイはその部分への答えを記録していませんが、ルカの方は、二十一章二十節で「エルサレムが軍隊で囲まれるのを見たら」という記述をしており、それが70年のエルサレム崩壊であることを預言したものであると理解できます。
弟子たちの質問は更に発展していきます。「あなたがまたおいでになる時や、世の終りには、どんな前兆がありますか。」と尋ねています。どうしてこのような質問に発展したのだろうかと思ったのですが、手元の注解によると、弟子たちの頭にはザカリヤ十四章一、二節が有ったであろうとしています。
ザカリヤ書を見てみると、十二章からエルサレムに関する預言になっていることがわかります。エルサレムが包囲されることへの言及も有ります。また、嘆きが有り、偽預言者が取り除かれ、人々の信仰が試されることが書かれています。そして、その十四章では、エルサレムが敵に打たれることが書かれています。三節には「主が出て来られる」という記述が有ります。弟子たちはそれをキリストであると考えていたという理解のようです。
一節には「主の日が来る」ということが書かれていますし、主がすべての王となった時の記述は、奇跡的な内容になっていますから、それを「世の終わり」と考えることもできます。
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