今回も、私が避けている主題説教の形になっておりますが、ご勘弁ください。
しかし、さしあたり、わたしの同労者で戦友である兄弟、また、あなたがたの使者としてわたし
の窮乏を補ってくれたエパフロデトを、あなたがたのもとに送り返すことが必要だと思っている。
彼は、あなたがた一同にしきりに会いたがっているからである。その上、自分の病気のことが
あなたがたに聞えたので、彼は心苦しく思っている。
彼は実に、ひん死の病気にかかったが、神は彼をあわれんで下さった。彼ばかりではなく、わ
たしをもあわれんで下さったので、わたしは悲しみに悲しみを重ねないですんだのである。
そこで、大急ぎで彼を送り返す。これで、あなたがたは彼と再び会って喜び、わたしもまた、
心配を和らげることができよう。
こういうわけだから、大いに喜んで、主にあって彼を迎えてほしい。また、こうした人々は尊
重せねばならない。
彼は、わたしに対してあなたがたが奉仕のできなかった分を補おうとして、キリストのわざの
ために命をかけ、死ぬばかりになったのである。
ここにエパフロデトという名前の忍者が登場します。パウロにとって同労者であり戦友であるということです。この箇所に表されている彼の働きや事情はどういうものだったのでしょうか。
先ず、彼の名前に注目してみましょう。彼の名前は、エピという前置詞とアフロディーテという女神の名前で構成されています。アフロディーテが母音で始まる語なので、エピの母音が脱落し、男性の名前の語尾に変化していると考えることができます。意味としましては、アフロディーテに属する、お陰であるというような元の意味を反映し、「美しい・可愛らしい」等の意味になります。生まれた時に大変可愛らしかったとか、両親がアフロディーテの信仰者で、その加護を祈ってつけたなどが想像できます。いわゆるイケメンであったかもしれないという表現も見たことが有ります。
さて、そんな彼が福音に触れて忍者になりました。そして、ローマで投獄されているパウロに献金を届けるためにピリピの教会から遣わされました。しかし、彼はそれだけに留まらず、囚われているパウロの身辺の世話をしたり、彼に代わって牧会伝道の働きにも邁進したようです。その結果、彼は著しく健康を害し、一時は死をも覚悟しなければならないような状態になりました。ようやく健康が回復したので、パウロは彼をピリピに送り返すことを手紙で知らせています。その時に、心無い人の批判を受けないようにという彼の配慮が書面にも表されています。パウロを助けに行ったのに、返って迷惑をかけたではないかというような批判がローマにまで届いていたのかもしれません。
エパフロデトはキリストに賭け、「キリストのわざのために」人生を賭けていました。ここに興味深い偶然の一致が有ります。エパフロデトは実際には「エパフロダイタス」というような発音になりますが、ある注解によると先に述べました通り、「アフロディーテのご加護を」というような意味を含んでおりますので、賭博師がサイコロを投げるときの掛け声でもあったというのです。日本語で言うと仏教的な帰依や助けを求める「南無三」に近い感じではないかと思います。生まれた時にはアフロディーテに帰依する名前をもらいましたが、彼はキリストに全人生を賭ける者となったのです。私たち忍者も、彼と同様に人生の賭けをした者達です。それでは、エパフロデトや私達忍者は、どのような賭けをしたのでしょうか。
私達の賭けは信仰の賭けです。信仰の定義を皆様よくご存知の奥義書の言葉から確認してみましょう。
さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。(ヘブル書十一章一節)
「まだ見ていない事実を確認すること」という表現がされています。信じるというのは、目の前に事実として確認されていないけれども、そうであると考えて受け入れることにするという心の作業です。ドラマなどで、登場人物が「私を信じてくれ!」と言っている時は、確実な根拠や証拠は示せないが、信頼する方を選択してくれと懇願していることになります。換言すれば、賭けをしてくれということになるのです。
信仰の賭けの中心は、キリストの神性、十字架の贖いと復活を信じることです。それは初代教会の時代から容易なことではありませんでした。その様子は、使徒行伝やパウロの書簡から伺い知ることができます。使徒行伝十七章では、パウロがアテネで宣教して死人のよみがえりについて語ると、あざ笑う者やまた後で聞こうと言って去ってしまう者がいたことが記されています。また、コリント前書一章十八節は、十字架の言は信じない者には愚かであると明言しています。しかし、私達忍者は何らかの理由でそれを信じるに到った者達なわけです。ドラマの「私を信じてくれ!」という訴えを信じる場合は、それまでの関係や人柄を根拠にそう考えることに決めたということでしょう。私達の場合は、どんなことを根拠に信じたのでしょうか。幾つか取り上げてみたいと思います。
復活を取り巻く状況を考えてみると、イエス・キリストが復活したというキリストの証人達の言葉を信じても良いだろうという判断材料になる部分が有ります。米国で刑務所伝道をし、クリスチャンの間で問題提起と弁証に勤めているチャック・コルソンという人物がいました。2013年4月に天に召されました人です。彼はニクソン大統領の元で特別補佐官を務め、ウォーターゲート事件に関わったことで、七ヶ月間刑務所で服役しました。彼が出所する時には、大勢の報道陣が詰め掛けて彼からコメントを取ろうとしたということです。「今回のことで何をお考えになりましたか。」という最初の質問に対して、彼は「イエス・キリストの復活は本当であったということだ。」と答えたそうです。どういうことかと訝る記者達に彼が続けてした説明は次のようなものだったそうです。「私はアメリカ合衆国を動かすことができる最強のチームの中にいました。どんなこともコントロールし、秘密も決して漏らすことがないという自信が有りました。しかし、私達の不正は暴かれてしまったのです。翻ってイエス・キリストの復活のことを考えると、もしそれが弟子達による死体隠蔽工作であったならば、もっと容易に暴かれてしまっていたに違いないのです。」これは、私が奥義書講義所にいたとき、師匠の一人から講義中に聞かされたエピソードです。私はなるほど、そう考えることもできるなと思いました。
それから、使徒達の書簡での証言では、宣べ伝えられていることが巧妙に考え出された作り話ではないことが述べられています。信じない者には言うだけ無駄な主張という感じもします。しかし、彼らは、復活のイエス・キリストの目撃者が数百人いたということと、まだそういう目撃者が生存しているということまで述べています。数百人が勘違いをすることは無いし、状況を調べても大きな矛盾が出てくることは無いという自信が有ったことがわかります。そういうことを言い切っても、イエス・キリストの死体が発見されて覆されてしまうということは無かったわけです。
復活以外の状況からも、信じる根拠として良さそうなものは有ります。現代の私達には理解し難いことも含まれているかもしれませんが、ペンテコステの聖霊降臨以降、弟子達によってなされた不思議な業や印によって多くの信じる者が起こされたということが記録されています。実際問題として、それぐらいのインパクトと入信者がいなかったならば、初代教会の発展は難しかったと思われます。エルサレム以外の宣教でも同様の印が伴ったことは読み取れます。
更に考えられるのは、イエス・キリストの公生涯における説き明かしを多くのユダヤ人が耳にしていて、片隅で起きたことではなかったとキリストの弟子も言っている状況だということです。そこには、旧約からのメシア預言の解説と、その成就としてのキリストの奇跡などの業が有りました。現代の私たちには奇跡など信じられないとしても、当時の人々にはメシアの証明であると言える出来事が記録されており、後は彼らがそれを受け入れるか否かというだけの状況になっていたわけです。旧約聖書がおよそ千年に渡って書き綴られた書物であり、それがきちんとイエス・キリストのメシア性を預言し、証言しているといのであれば、それも根拠として加えても良いものであると思います。
これらは、先ほどのドラマの設定に戻って考えて見ます。信じて欲しいと懇願されても、確実な根拠となるものは有りません。最終的には自分の決断にかかっているのです。私達忍者の決断もそういうものです。決断できない人にはできません。しかし、その後の展開で信じて良かったのか否かは判ってくるものです。もちろん死後どうなるかなどということはまだ信仰で捉える事柄であり続けますが、私達の生活や思考が変わることで信仰は生きた体験に変わって行くのです。人生の賭博師エパフロデト、そして私達も同じ賭けをしたのです。そして、生きた信仰の体験によって、時には、エパフロデトがしたような「キリストのわざのために」勤しむということができるわけです。金銭を賭けた賭博でありましたら、負けることも有るでしょう。しかし、私達は決して負けることの無い霊的な賭けをしたのです。そう信じているわけです。
実際の賭博ですと、お試しというものは有りません。しかし、信仰の賭けは、果たして本当にそうなのかということを尋ね求めるには開かれていると思います。どうぞ試してみてください。
さて、私は常日頃、講解説教的アプローチが礼拝には相応しく、同時に奥義書を読む時に持つべき姿勢であるということを述べています。そういう態度を念頭に入れて、この箇所に耳を傾ける時、どのようなことを読み取るべきかも考えてみます。
簡単に幾つかのポイントを確認してみようと思います。
1.聖徒の愛のつながり
パウロ、ピリピの教会の聖徒達、エパフロデトの三者の愛のつながりを私達も心に留め、倣う者になることが必要です。ピリピの教会の聖徒達はパウロを気遣って、支援の金品や物資を送り、彼の不足を補おうとしました。派遣されたエパフロデトは、遣わしたピリピの教会の聖徒達の気持ちを思い、また個人としてパウロへの愛の気遣いをもって様々な働きに心を砕きました。また、自分が重い病気になってしまった時には、そのことが自分を送り出したピリピの教会の聖徒に心配をかけたということを気にしていました。お互いに愛の気遣いが有ったということです。パウロは、送り返すエパフロデトがピリピの教会の聖徒達に受け入れられるように手紙に書き添えているわけです。このように、お互いの愛の心遣いのサイクルが結び合ってつながっている姿が、私達の里においてもはっきり察せられるものでありますように。
2.神の愛と恵を心に留める
この箇所では、神の恵として現われるのはエパフロデトが回復し、エパフロデトに憐れみを示してくだり、同時にそれはパウロへの憐れみでもあったという部分です。しかし、更に大きく考えれば、1.で確認した聖徒の愛のつながりも、神の愛と恵の結果です。そして、それは究極の神の愛と恵であるイエス・キリストの福音が与えられ、それに導きいれていただいた結果なわけです。そのためにこそパウロも奮闘しており、ピリピの教会の聖徒もそれを支援したのであり、エパフロデトも奮闘したわけです。全ての恵の源なる主に心を留め続けることです。
3.この愛のつながりとその源である福音のために奮闘する仲間を尊重する
「また、こうした人々は尊重せねばならない。」と二十九節でパウロは述べています。直訳的には、「そのような人物を、親愛の情を持って・尊んで、関係を保ちなさい・伴いなさい・心に留めなさい・親密に結び合わされなさい。」というような意味になります。それは、持ち上げることでもなく、変に区別して異なった立場を与えることでもなく、肩を並べて共に歩むような、近しい愛の関係の中に結び合わされている姿と言えます。そうでなければ、イエス・キリストの福音の恵に結び合わされた聖徒同士の尊重の姿ではないでしょう。あなたが忍者であるならば、そして、あなたの里の大忍がそれに相応しい人であるならば、そのように歩むことを考えてください。あなたが里の大忍であるならば、忍者との結びつきがそのようなものであるように心がけてください。
私達がエパフロデトと同様な人生の賭博師同士であるならば、負けの無い賭けをした者達であることの証として、そういう愛の結びつきに生き続けようではありませんか。
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