糸田十八文庫

キリシタン忍者、糸田十八(いとだじっぱち)が、仲間に残す、電子巻物の保管場所。キリスト教・クリスチャン・ブログ

人生の賭博師 付録

2013-05-12 21:12:46 | 奥義書講解・牧会書簡
先日書きました「人生の賭博師」というエントリーについて思い出したことがありますので付録としてアップしておきます。

 エパフロデトという人物の名前は、「アフロディーテに属する、のお陰である」等を含意しています。彼はキリストに属するという意味の、クリスチャンというあだ名を着けられる信仰者にになったのですから、異なった神の名を冠した名前は少々違和感が有ったかもしれません。
 そこで考えたことが有ります。私達には二律背反といいますか、異なった面が同時に存在する面が有ります。聖霊と奥義書に導かれていますが、肉性も残っています。パウロが晩年になって、自分の罪深さを嘆く心情を吐露している箇所が有りますが、そういうことは当然有るわけです。
 「罪、汚れはいや増すとも、主の恵もまた、いや増すなり」という聖歌の一節が有ります。私達は、その二律背反を生きざるを得ない面が有り、また、その中で更に主の恵を覚えて感謝することも出てくるわけです。私達は、自分の力で義を保つことはできません。「義人はいない。一人もいない。」と記されている通りです。ただひたすら、私達の全人生を贖い取ってくださった主の義にすがるだけの私達です。アフロディーテの名が残っていようが、肉性の影響を受けようが、絶対的な主の贖いの業の前には、私達の努力も不徳も打ち砕かれるのです。私達はその完全な救いに私達の人生を賭けたのです。そういう賭けをした者らしく考え、行動するべきです。自分の努力で正しい者になるような姿勢や思いを決して持つことが有ってはなりません。



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人生の賭博師 (ピリピ書二章二十五~三十節)

2013-05-12 07:54:18 | 奥義書講解・牧会書簡
今回も、私が避けている主題説教の形になっておりますが、ご勘弁ください。

 しかし、さしあたり、わたしの同労者で戦友である兄弟、また、あなたがたの使者としてわたし
の窮乏を補ってくれたエパフロデトを、あなたがたのもとに送り返すことが必要だと思っている。
 彼は、あなたがた一同にしきりに会いたがっているからである。その上、自分の病気のことが
あなたがたに聞えたので、彼は心苦しく思っている。
 彼は実に、ひん死の病気にかかったが、神は彼をあわれんで下さった。彼ばかりではなく、わ
たしをもあわれんで下さったので、わたしは悲しみに悲しみを重ねないですんだのである。
 そこで、大急ぎで彼を送り返す。これで、あなたがたは彼と再び会って喜び、わたしもまた、
心配を和らげることができよう。
 こういうわけだから、大いに喜んで、主にあって彼を迎えてほしい。また、こうした人々は尊
重せねばならない。
 彼は、わたしに対してあなたがたが奉仕のできなかった分を補おうとして、キリストのわざの
ために命をかけ、死ぬばかりになったのである。

 ここにエパフロデトという名前の忍者が登場します。パウロにとって同労者であり戦友であるということです。この箇所に表されている彼の働きや事情はどういうものだったのでしょうか。
 先ず、彼の名前に注目してみましょう。彼の名前は、エピという前置詞とアフロディーテという女神の名前で構成されています。アフロディーテが母音で始まる語なので、エピの母音が脱落し、男性の名前の語尾に変化していると考えることができます。意味としましては、アフロディーテに属する、お陰であるというような元の意味を反映し、「美しい・可愛らしい」等の意味になります。生まれた時に大変可愛らしかったとか、両親がアフロディーテの信仰者で、その加護を祈ってつけたなどが想像できます。いわゆるイケメンであったかもしれないという表現も見たことが有ります。
 さて、そんな彼が福音に触れて忍者になりました。そして、ローマで投獄されているパウロに献金を届けるためにピリピの教会から遣わされました。しかし、彼はそれだけに留まらず、囚われているパウロの身辺の世話をしたり、彼に代わって牧会伝道の働きにも邁進したようです。その結果、彼は著しく健康を害し、一時は死をも覚悟しなければならないような状態になりました。ようやく健康が回復したので、パウロは彼をピリピに送り返すことを手紙で知らせています。その時に、心無い人の批判を受けないようにという彼の配慮が書面にも表されています。パウロを助けに行ったのに、返って迷惑をかけたではないかというような批判がローマにまで届いていたのかもしれません。
 エパフロデトはキリストに賭け、「キリストのわざのために」人生を賭けていました。ここに興味深い偶然の一致が有ります。エパフロデトは実際には「エパフロダイタス」というような発音になりますが、ある注解によると先に述べました通り、「アフロディーテのご加護を」というような意味を含んでおりますので、賭博師がサイコロを投げるときの掛け声でもあったというのです。日本語で言うと仏教的な帰依や助けを求める「南無三」に近い感じではないかと思います。生まれた時にはアフロディーテに帰依する名前をもらいましたが、彼はキリストに全人生を賭ける者となったのです。私たち忍者も、彼と同様に人生の賭けをした者達です。それでは、エパフロデトや私達忍者は、どのような賭けをしたのでしょうか。
 私達の賭けは信仰の賭けです。信仰の定義を皆様よくご存知の奥義書の言葉から確認してみましょう。

さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。(ヘブル書十一章一節)

 「まだ見ていない事実を確認すること」という表現がされています。信じるというのは、目の前に事実として確認されていないけれども、そうであると考えて受け入れることにするという心の作業です。ドラマなどで、登場人物が「私を信じてくれ!」と言っている時は、確実な根拠や証拠は示せないが、信頼する方を選択してくれと懇願していることになります。換言すれば、賭けをしてくれということになるのです。
 信仰の賭けの中心は、キリストの神性、十字架の贖いと復活を信じることです。それは初代教会の時代から容易なことではありませんでした。その様子は、使徒行伝やパウロの書簡から伺い知ることができます。使徒行伝十七章では、パウロがアテネで宣教して死人のよみがえりについて語ると、あざ笑う者やまた後で聞こうと言って去ってしまう者がいたことが記されています。また、コリント前書一章十八節は、十字架の言は信じない者には愚かであると明言しています。しかし、私達忍者は何らかの理由でそれを信じるに到った者達なわけです。ドラマの「私を信じてくれ!」という訴えを信じる場合は、それまでの関係や人柄を根拠にそう考えることに決めたということでしょう。私達の場合は、どんなことを根拠に信じたのでしょうか。幾つか取り上げてみたいと思います。

 復活を取り巻く状況を考えてみると、イエス・キリストが復活したというキリストの証人達の言葉を信じても良いだろうという判断材料になる部分が有ります。米国で刑務所伝道をし、クリスチャンの間で問題提起と弁証に勤めているチャック・コルソンという人物がいました。2013年4月に天に召されました人です。彼はニクソン大統領の元で特別補佐官を務め、ウォーターゲート事件に関わったことで、七ヶ月間刑務所で服役しました。彼が出所する時には、大勢の報道陣が詰め掛けて彼からコメントを取ろうとしたということです。「今回のことで何をお考えになりましたか。」という最初の質問に対して、彼は「イエス・キリストの復活は本当であったということだ。」と答えたそうです。どういうことかと訝る記者達に彼が続けてした説明は次のようなものだったそうです。「私はアメリカ合衆国を動かすことができる最強のチームの中にいました。どんなこともコントロールし、秘密も決して漏らすことがないという自信が有りました。しかし、私達の不正は暴かれてしまったのです。翻ってイエス・キリストの復活のことを考えると、もしそれが弟子達による死体隠蔽工作であったならば、もっと容易に暴かれてしまっていたに違いないのです。」これは、私が奥義書講義所にいたとき、師匠の一人から講義中に聞かされたエピソードです。私はなるほど、そう考えることもできるなと思いました。
 それから、使徒達の書簡での証言では、宣べ伝えられていることが巧妙に考え出された作り話ではないことが述べられています。信じない者には言うだけ無駄な主張という感じもします。しかし、彼らは、復活のイエス・キリストの目撃者が数百人いたということと、まだそういう目撃者が生存しているということまで述べています。数百人が勘違いをすることは無いし、状況を調べても大きな矛盾が出てくることは無いという自信が有ったことがわかります。そういうことを言い切っても、イエス・キリストの死体が発見されて覆されてしまうということは無かったわけです。
  
 復活以外の状況からも、信じる根拠として良さそうなものは有ります。現代の私達には理解し難いことも含まれているかもしれませんが、ペンテコステの聖霊降臨以降、弟子達によってなされた不思議な業や印によって多くの信じる者が起こされたということが記録されています。実際問題として、それぐらいのインパクトと入信者がいなかったならば、初代教会の発展は難しかったと思われます。エルサレム以外の宣教でも同様の印が伴ったことは読み取れます。
 
 更に考えられるのは、イエス・キリストの公生涯における説き明かしを多くのユダヤ人が耳にしていて、片隅で起きたことではなかったとキリストの弟子も言っている状況だということです。そこには、旧約からのメシア預言の解説と、その成就としてのキリストの奇跡などの業が有りました。現代の私たちには奇跡など信じられないとしても、当時の人々にはメシアの証明であると言える出来事が記録されており、後は彼らがそれを受け入れるか否かというだけの状況になっていたわけです。旧約聖書がおよそ千年に渡って書き綴られた書物であり、それがきちんとイエス・キリストのメシア性を預言し、証言しているといのであれば、それも根拠として加えても良いものであると思います。

 これらは、先ほどのドラマの設定に戻って考えて見ます。信じて欲しいと懇願されても、確実な根拠となるものは有りません。最終的には自分の決断にかかっているのです。私達忍者の決断もそういうものです。決断できない人にはできません。しかし、その後の展開で信じて良かったのか否かは判ってくるものです。もちろん死後どうなるかなどということはまだ信仰で捉える事柄であり続けますが、私達の生活や思考が変わることで信仰は生きた体験に変わって行くのです。人生の賭博師エパフロデト、そして私達も同じ賭けをしたのです。そして、生きた信仰の体験によって、時には、エパフロデトがしたような「キリストのわざのために」勤しむということができるわけです。金銭を賭けた賭博でありましたら、負けることも有るでしょう。しかし、私達は決して負けることの無い霊的な賭けをしたのです。そう信じているわけです。
 実際の賭博ですと、お試しというものは有りません。しかし、信仰の賭けは、果たして本当にそうなのかということを尋ね求めるには開かれていると思います。どうぞ試してみてください。 


 さて、私は常日頃、講解説教的アプローチが礼拝には相応しく、同時に奥義書を読む時に持つべき姿勢であるということを述べています。そういう態度を念頭に入れて、この箇所に耳を傾ける時、どのようなことを読み取るべきかも考えてみます。
 

 簡単に幾つかのポイントを確認してみようと思います。
 1.聖徒の愛のつながり
   パウロ、ピリピの教会の聖徒達、エパフロデトの三者の愛のつながりを私達も心に留め、倣う者になることが必要です。ピリピの教会の聖徒達はパウロを気遣って、支援の金品や物資を送り、彼の不足を補おうとしました。派遣されたエパフロデトは、遣わしたピリピの教会の聖徒達の気持ちを思い、また個人としてパウロへの愛の気遣いをもって様々な働きに心を砕きました。また、自分が重い病気になってしまった時には、そのことが自分を送り出したピリピの教会の聖徒に心配をかけたということを気にしていました。お互いに愛の気遣いが有ったということです。パウロは、送り返すエパフロデトがピリピの教会の聖徒達に受け入れられるように手紙に書き添えているわけです。このように、お互いの愛の心遣いのサイクルが結び合ってつながっている姿が、私達の里においてもはっきり察せられるものでありますように。

 2.神の愛と恵を心に留める
   この箇所では、神の恵として現われるのはエパフロデトが回復し、エパフロデトに憐れみを示してくだり、同時にそれはパウロへの憐れみでもあったという部分です。しかし、更に大きく考えれば、1.で確認した聖徒の愛のつながりも、神の愛と恵の結果です。そして、それは究極の神の愛と恵であるイエス・キリストの福音が与えられ、それに導きいれていただいた結果なわけです。そのためにこそパウロも奮闘しており、ピリピの教会の聖徒もそれを支援したのであり、エパフロデトも奮闘したわけです。全ての恵の源なる主に心を留め続けることです。

 3.この愛のつながりとその源である福音のために奮闘する仲間を尊重する
   「また、こうした人々は尊重せねばならない。」と二十九節でパウロは述べています。直訳的には、「そのような人物を、親愛の情を持って・尊んで、関係を保ちなさい・伴いなさい・心に留めなさい・親密に結び合わされなさい。」というような意味になります。それは、持ち上げることでもなく、変に区別して異なった立場を与えることでもなく、肩を並べて共に歩むような、近しい愛の関係の中に結び合わされている姿と言えます。そうでなければ、イエス・キリストの福音の恵に結び合わされた聖徒同士の尊重の姿ではないでしょう。あなたが忍者であるならば、そして、あなたの里の大忍がそれに相応しい人であるならば、そのように歩むことを考えてください。あなたが里の大忍であるならば、忍者との結びつきがそのようなものであるように心がけてください。


私達がエパフロデトと同様な人生の賭博師同士であるならば、負けの無い賭けをした者達であることの証として、そういう愛の結びつきに生き続けようではありませんか。
 





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気を付けていなさい テトス書より

2009-01-14 18:43:06 | 奥義書講解・牧会書簡
はじめに
先に、「気を付けていなさい」という題で、ルカによる福音書十七章一節~四節を確認しました。躓きが起きるのは避けられないという事実が有り、躓きをもたらす忌まわしい者、パリサイ人や偽教師が存在し、キリストの弟子達は、互いに躓きとならないように、また、キリストが小さき者達と呼んだ一般の人達を躓かせないように気を付けていなければならないということを確認しました。躓くというのは、罪を犯すようになることや、間違った教えに迷い出る、陥ることを指しています。
(一つ前のエントリーをご覧ください)

キリストがそういう警告をしたおよそ三十年後、今度はパウロが自分の弟子であるテトスに、似通った状況でより詳しい内容の指示を与えています。このようなキリストとパウロの教えの接点を見つける度に、パウロは本当にキリストの弟子であったと思います。また、使徒の一人に数えられるべき人物だと思います。

パウロはある目的のためにテトスをクレテ島に残してきました。クレテ島に有る諸教会に長老を任命することでした。そこには、キリストの表現を借りると、躓きをもたらす忌まわしい者、ユダヤ主義者達が居ました。躓きが起きないように気を付けているべきキリストの弟子の働きをする長老を任命するためだったのでした。

そこで、今回は、テトス書から読み取れる、気を付けているための三つのポイントを確認してみようと思います。節を追った解説ではなく、大まかに捉えて進めてみたいと思います。(一度テトス書全体をお読みください。)



第一のポイント:主の為された御業と主の御心を知り、わきまえること。
 パウロはこの書簡の書き出しの挨拶に、自分が何者であるかという自覚を書き表しています。そこには簡潔に主の為された御業と主の御心が示されています。パウロは短い挨拶の中で、すでにこの書簡のエッセンスと言える内容を盛り込んでいるのです。
 神ご自身が定められた時に私達に救い、永遠の命の希望を与えてくださったという神の御業が示されています。そして、完全な真理の知識は私達を敬虔な生活に導き、その敬虔な生活、敬虔な生き方こそが神の私達キリスト教徒への御心であるということを読み取ることができます。そのことは、二章十一節からの一段落及び、三章四節からの一段落にも示されています。
 二章においては、十一節と十四節が神の御業に言及しています。そして、十二節と十三節が神の御心について述べています。「不敬虔とこの世の欲とを捨て」「敬虔に生活し」という表現が有ります。敬虔な生き方が神の御心であることが、パウロの挨拶の言葉に続き、ここでも述べられていることになります。
 私達が敬虔に生きる者達となるように神が為された恵みの大きさを、パウロは三章四節から七節までで再度確認をしています。この箇所を見ると、四節に父なる神の慈愛が、五節に聖霊の清めと新生が、六節、七節にはキリスト・イエスの恵みによる義化が述べられています。三位一体の神の全位格が、私達の救いのために働いてくださったのであり、その三位一体の神の全位格が、キリスト教徒の敬虔な生き方のために働き、それを望んでおられるのです。
 私達が躓かないように、また、他の人達を躓かせないように気を付けているためには、このことの深い認識と確認がいつも必要なのです。

第二のポイント:主の望まれる敬虔な生き方の現われをよく知ること。
 パウロは先ず一章で、敬虔な生き方の模範となるべき長老の資質を述べています。続いて二章では年の進んだ女性、若者、奴隷、などの一般のキリスト教徒が示すべき敬虔な生き方の具体例が示されています。また、三章の十三、十四節では、ゼナスやアポロのために十分気を配ることを敬虔な生き方の実例として挙げ、そのような生き方を勧め励ましています。
 主の望まれる敬虔な生き方の要素を表すために繰り返し用いられている語が幾つか有ります。自制心の有ることと、良いことです。良いことというのは、単純に良いということではなく、尊く、益となり、相応しいこと、推奨されること、賞賛されること、誉の有ること、気高いこと、道徳的であることなどの要素が入っています。そして、キリストにある永遠の命の望みによってそのように生きることが、キリスト教徒にとって相応しい行いなのです。これは、心からキリストを信じ、キリストを敬い従う者達でなければ、自覚して取り組むことが難しい部分が有ると感じます。
 時々キリスト教徒達は、自分の生き方が、神の為された業を心に留め、神の御心が何であるかを確認した者達の生き方になっているかを立ち止まって確認する必要が有るのではないでしょうか。また、その具体的な現れのリストが、テトス書には与えられています。時々それを確認してみることも有益でしょう。
 ルカ十七章でキリストが弟子達に気を付けるように命じた時、弟子達がパリサイ人達のような偽教師にならないように、逆に良い模範となるようにということが含意されていただろうと思われます。パウロのテトスへの指示にもそういう面が有ります。日本語の聖書はニュアンスがうまく出ていないと思いますが、三章の一節には、「良いことをする準備・心構えができているべきことを思い起こさせなさい(糸田十八の便宜上の訳)」という命令が含まれていて、その理由が二節に「本当の謙遜を全ての人に示すためです(糸田十八の便宜上の訳)」となっています。思い起こさせるということは、教えるということでしょう。三章の四節から七節までに、神の為された救いと清めの業が示されて、その続きの八節から、そういうことを教えなさいという指示が有りますが、その目的は、主に信頼する者達が良いことをすることに専心するようになるためだとしています。指導的な立場の者達は、模範となり、且つ教えなければならないということがわかります。しかし、そのためには、やはり、主の望まれる敬虔な生き方の現われをよく知ることが大事であり、それが「気を付けていること」につながると考えられます。

第三のポイント:躓きをもたらす者達の性質を知り、拒絶すること。
 クレテの諸教会に入りこんだ偽教師達がどんな種類のものであるかは、一章十節に示されています。割礼を受けた者達ですから、パリサイ人系の律法主義者、ユダヤ化主義者だったでしょう。そういう表向きの分類よりも、さらにその基本的な性質を警戒することが大事です。
 十節に示されている、反抗的、空論に走る、騙す者という性質は、神に反抗して堕落し、エバに近づいて神の言わなかったこと持ち出して、空論で惑わし、騙したサタンの在り方と同じです。忌まわしい者達の裏に有るのは、サタンや悪霊の働きなのです。これを知り、拒絶しなければなりません。パウロは、クリスチャンが、こういうサタンの働きを知るに至って、それを拒絶して神の方に転換した者達であることを、三章三節で思い起こさせています。三位一体の神の働きと洗いと新生によって捨て去った在り方に戻るようなことが有ってはなりません。
 人間的な方に目を留めると、偽教師の有様はどう理解することができるでしょうか。長老の資質のリストの中に、「~ではなく」という否定表現が含まれているものが有ります。その「~」という部分に現れる性質は、偽教師の性質であると理解することができます。その内容は「わがままでなく、短気でなく、酒飲みでなく、けんか好きでなく、不正な利を求めず、(一章七節 新改訳)」となっています。プライド、腕力、弁論術、酒、財力などが、自分を満足させる手段であることが伺えます。つまり、偽教師達は、神に頼らず、神でないものに頼っていることになります。それは、形を変えた偶像礼拝 です。神ならぬ存在を神としていることになるのです。しかし、キリスト教徒は、神のみを頼りにし、それらに頼ることを拒絶しなければなりません。
 サタンの性質や偶像礼拝につながる態度が知らないうちに私達の生き方の中に忍び込んでくることが有るでしょう。それを聖書の言葉に従い、神の力に頼って拒絶し、追い出さなければなりません。
 そして、実際に偽教師と言えるような行動をし、間違った教えを広める人が身近に居たらどうするのでしょうか。長老や監督の立場に居る人達が、そういう人達を「黙らせ(一章十一節)」「厳しく戒め(同十三節)」「一、二度警告し(三章十節)」もしそれでもだめであったら、「関係しないようにする、言い換えれば除名する(同上)」という形で拒絶しなければなりません。これは、偽牧師についても同様です。偽教師、偽牧師は決してのさばらせてはいけないのです。


まとめ
繰り返して確認します。
私達は気を付けていなければなりません。

気を付けているためには
1)主の為された御業と主の御心を知り、わきまえることが必要です。
2)主の望まれる敬虔な生き方の現われをよく知ることが必要です。
3)躓きをもたらす者達の性質を知り、拒絶することが必要です。

このために、私達キリスト教徒は、繰り返しテトス書を確認しても良いのではないでしょうか。一年通してずっとテトス書を繰り返し確認するというような取り組みも有って良いのではないでしょうか。

最後に一つだけ取り上げて確認するとしたら、

「神様の御心は、私達キリスト教徒達が、自制し、良いことをして、敬虔な生き方をすることです。」

と申し上げたいと思います。






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