善鸞は親鸞の長男(あるいは次男)で、親鸞帰洛後の東国信徒の動揺(造悪無碍(ぞうあくむげ)ー阿弥陀仏の本願を頼りに悪事をほしいままになすことーの拡大、門徒間の勢力争い)を鎮めるために、東国に派遣されたものの、父親鸞から夜中ひそかに特別な法門を伝授されたと称したこと(秘事法門)などによってかえって信徒の動揺を拡大、親鸞(84歳)により義絶された人である。唐木順三の表現では,「善鸞は自分一人が父から直々に秘密の法門を授かっていること,それが唯一絶対の他力門で,まさに他力の中の他力であること,従来の道場主が説く念仏の宗旨は己の秘伝にくらべればまことに「しぼめる花」にすぎないこと」などと説いたとされる(「親鸞の一通の手紙」)。
善鸞は、統一された教義のもと東国の信徒を組織化しようとして、失敗したのだろう。彼の意図は、後に覚如(本願寺の実質的開基者)が意図したところー教団の開基ーと同じだったと思う。しかし、状況を読み違え、また彼自身の父の宗旨の理解の浅さもあり,見事に失敗した。義絶後、門徒は彼のもとから去り、善鸞は大きな挫折を味わったと推測される。善鸞はいわば宙に浮いた。『最須敬重絵詞』巻5に、「初は、聖人の御使として、坂東へ下向し、浄土の教法をひろめて、辺鄙の知識にそなわり給けるが、後には、法文の義理をあらため、あまさえ巫女の輩に交て、仏法修行の儀にはずれ、外道尼乾子の様にておわしければ、聖人も御余塵の一列におぼしめさず。所化につらなりし人々もすてて、みな直に聖人へぞ、まいりける」とあるところをみると、密教的なもの、修験道に自己のアイデンテイテイを求めようとしたようだ。覚如が後に東国で2回目撃したところによれば、善鸞は男女200、300騎の修験者(神子ー拝み屋)たちの棟梁として馬上にあった。そして、2度とも父親鸞から与えられた無碍光如来の名号を首に掛けて、念仏をとなえていたというから、一種凄絶だ。馬上行くことで、彼なりのやり方で失われたものを埋めようとしたのだろう。善鸞には偉大な父をもった子のつらさを感じる。
「善鸞の生涯に思う」は,80歳に至らんとする麻田和尚が,ときに大胆な想像をまじえながら,愛情をもって善鸞を論じた本である。親鸞と恵信尼との京都での結婚,善鸞が恵信尼の子であること,善鸞が恵信尼を「ままはは」と呼んだのはレトリックであること(第18願を「しぼめる花」と形容した善鸞なら,たしかに実母を「ままはは」と呼び,話をはぐらかすくらいやりそうだ)など説得力があると思って読んだ。とくに,善鸞義絶後の親鸞の自然法爾の境地の記述は秀逸だと思った。第5章で、「慕帰絵詞」などにえがかれている親鸞と善鸞が火鉢を囲んで話し合う場面が(王御前(覚信尼ー親鸞の末娘)と如信(善鸞の子)の努力が実り)両者が和解したシーンとして述べられている。その通りならうれしいが、東国派遣前のシーンであるような気もする。
善鸞義絶を告げる親鸞の手紙
おおせられたる事、くわしくききてそうろう。なによりは、あいみんぼうとかやともうすなる人の、京よりふみをえたるとかやともうされそうろうなる、返々ふしぎにそうろう。いまだ、かたちもみず、ふみ一度もたまわりそうらわず、これよりももうすこともなきに、京よりふみをえたるともうすなる、あさましきことなり。また、慈信房のほうもんのよう、みょうもくをだにもきかず、しらぬことを、慈信一人に、よる親鸞がおしえたるなりと、人に慈信房もうされてそうろうとて、これにも常陸・下野の人々はみな、しんらんがそらごとをもうしたるよしを、もうしあわれてそうらえば、今は父子のぎはあるべからずそうろう。また、母のあまにもふしぎのそらごとをいいつけられたること、もうすかぎりなきこと、あさましうそうろう。みぶ*612の女房のこれへきたりてもうすこと、じしんぼうがとうたるふみとて、もちてきたれるふみ、これにおきてそうろうめり。慈信房がふみとてこれにあり。そのふみ、つやつやいろわぬことゆえに、ままははにいいまどわされたるとかかれたること、ことにあさましきことなり。よにありけるを、ままははのあまのいいまどわせりということ、あさましきそらごとなり。また、この世にいかにしてありけりともしらぬことを、みぶのにょうぼうのもとへも、ふみのあること、こころもおよばぬほどのそらごと、こころうきことなりと、なげきそうろう。まことにかかるそらごとどもをいいて、六波羅のへん・かまくらなんどにひろうせられたること、こころうきことなり。これらほどのそらごとは、このよのことなれば、いかでもあるべし。それだにも、そらごとをいうこと、うたてきなり。いかにいわんや、往生極楽の大事をいいまどわして、ひたち・しもつけの念仏者をまどわし、おやにそらごとをいいつけたること、こころうきことなり。第十八の本願をば、しぼめるはなにたとえて、人ごとにみなすてまいらせたりときこゆること、まことにほうぼうのとが、また五逆のつみをこのみて、人をそんじまどわさるること、かなしきことなり。ことに、破僧罪ともうすつみは、五逆のその一なり。親鸞にそらごとをもうしつけたるは、ちちをころすなり。五逆のその一なり。このことども、つたえきくこと、あさましさ、もうすかぎりなければ、いまは、おやということあるべからず、ことおもうことおもいきりたり。三宝・神明にもうしきりおわりぬ。かなしきことなり。わがほうもんににずとて、ひたちの念仏者みなまどわさんとこのまるるときくこそ、こころうくそうらえ。しんらんがおしえにて、ひたちの念仏もうす人々をそんぜよと、慈信房におしえたるとかまくらまできこえんこと、あさましあさまし。
五月廿九日 在判
慈信房御返事
(御消息拾遺http://www.fureai.or.jp/~bandou/sinsyu/syo_ju.txt)
善鸞は、統一された教義のもと東国の信徒を組織化しようとして、失敗したのだろう。彼の意図は、後に覚如(本願寺の実質的開基者)が意図したところー教団の開基ーと同じだったと思う。しかし、状況を読み違え、また彼自身の父の宗旨の理解の浅さもあり,見事に失敗した。義絶後、門徒は彼のもとから去り、善鸞は大きな挫折を味わったと推測される。善鸞はいわば宙に浮いた。『最須敬重絵詞』巻5に、「初は、聖人の御使として、坂東へ下向し、浄土の教法をひろめて、辺鄙の知識にそなわり給けるが、後には、法文の義理をあらため、あまさえ巫女の輩に交て、仏法修行の儀にはずれ、外道尼乾子の様にておわしければ、聖人も御余塵の一列におぼしめさず。所化につらなりし人々もすてて、みな直に聖人へぞ、まいりける」とあるところをみると、密教的なもの、修験道に自己のアイデンテイテイを求めようとしたようだ。覚如が後に東国で2回目撃したところによれば、善鸞は男女200、300騎の修験者(神子ー拝み屋)たちの棟梁として馬上にあった。そして、2度とも父親鸞から与えられた無碍光如来の名号を首に掛けて、念仏をとなえていたというから、一種凄絶だ。馬上行くことで、彼なりのやり方で失われたものを埋めようとしたのだろう。善鸞には偉大な父をもった子のつらさを感じる。
「善鸞の生涯に思う」は,80歳に至らんとする麻田和尚が,ときに大胆な想像をまじえながら,愛情をもって善鸞を論じた本である。親鸞と恵信尼との京都での結婚,善鸞が恵信尼の子であること,善鸞が恵信尼を「ままはは」と呼んだのはレトリックであること(第18願を「しぼめる花」と形容した善鸞なら,たしかに実母を「ままはは」と呼び,話をはぐらかすくらいやりそうだ)など説得力があると思って読んだ。とくに,善鸞義絶後の親鸞の自然法爾の境地の記述は秀逸だと思った。第5章で、「慕帰絵詞」などにえがかれている親鸞と善鸞が火鉢を囲んで話し合う場面が(王御前(覚信尼ー親鸞の末娘)と如信(善鸞の子)の努力が実り)両者が和解したシーンとして述べられている。その通りならうれしいが、東国派遣前のシーンであるような気もする。
善鸞義絶を告げる親鸞の手紙
おおせられたる事、くわしくききてそうろう。なによりは、あいみんぼうとかやともうすなる人の、京よりふみをえたるとかやともうされそうろうなる、返々ふしぎにそうろう。いまだ、かたちもみず、ふみ一度もたまわりそうらわず、これよりももうすこともなきに、京よりふみをえたるともうすなる、あさましきことなり。また、慈信房のほうもんのよう、みょうもくをだにもきかず、しらぬことを、慈信一人に、よる親鸞がおしえたるなりと、人に慈信房もうされてそうろうとて、これにも常陸・下野の人々はみな、しんらんがそらごとをもうしたるよしを、もうしあわれてそうらえば、今は父子のぎはあるべからずそうろう。また、母のあまにもふしぎのそらごとをいいつけられたること、もうすかぎりなきこと、あさましうそうろう。みぶ*612の女房のこれへきたりてもうすこと、じしんぼうがとうたるふみとて、もちてきたれるふみ、これにおきてそうろうめり。慈信房がふみとてこれにあり。そのふみ、つやつやいろわぬことゆえに、ままははにいいまどわされたるとかかれたること、ことにあさましきことなり。よにありけるを、ままははのあまのいいまどわせりということ、あさましきそらごとなり。また、この世にいかにしてありけりともしらぬことを、みぶのにょうぼうのもとへも、ふみのあること、こころもおよばぬほどのそらごと、こころうきことなりと、なげきそうろう。まことにかかるそらごとどもをいいて、六波羅のへん・かまくらなんどにひろうせられたること、こころうきことなり。これらほどのそらごとは、このよのことなれば、いかでもあるべし。それだにも、そらごとをいうこと、うたてきなり。いかにいわんや、往生極楽の大事をいいまどわして、ひたち・しもつけの念仏者をまどわし、おやにそらごとをいいつけたること、こころうきことなり。第十八の本願をば、しぼめるはなにたとえて、人ごとにみなすてまいらせたりときこゆること、まことにほうぼうのとが、また五逆のつみをこのみて、人をそんじまどわさるること、かなしきことなり。ことに、破僧罪ともうすつみは、五逆のその一なり。親鸞にそらごとをもうしつけたるは、ちちをころすなり。五逆のその一なり。このことども、つたえきくこと、あさましさ、もうすかぎりなければ、いまは、おやということあるべからず、ことおもうことおもいきりたり。三宝・神明にもうしきりおわりぬ。かなしきことなり。わがほうもんににずとて、ひたちの念仏者みなまどわさんとこのまるるときくこそ、こころうくそうらえ。しんらんがおしえにて、ひたちの念仏もうす人々をそんぜよと、慈信房におしえたるとかまくらまできこえんこと、あさましあさまし。
五月廿九日 在判
慈信房御返事
(御消息拾遺http://www.fureai.or.jp/~bandou/sinsyu/syo_ju.txt)
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