インド仏教の再生

2006-05-29 | zen
TBS「世界ふしぎ発見!」は,TV東京の「お宝鑑定団」と並んで好みの番組だ。いつもチャンネルをあわせるというほどでもないが,ときおり見ては楽しんでいる。

先週は「インド 巨大石窟に封印された伝説の都を求めて!」と題して,インド仏教再生の指導者,インド仏教遺跡発掘の指導者(現代のシュリーマン)として大活躍の佐々井秀嶺師をとりあげていた。

インドに渡って仏教の布教活動を続けている日本人僧がいるという話は耳にしていたが,番組を見て佐々木師の情熱に大いに感銘を受けた。画面に映る佐々井師は,ものにこだわりをもたない痛快な人物とお見受けしたが,彼はカースト制度に苦しんできたインドの人々(多くが仏教徒に改宗中)の堂々たるリーダーだった。

ネットで調べたところ,
http://homepage2.nifty.com/munesuke/india-sasai-ambedkar-buddhism-etc.htm
が充実していた。2004年くらいから,わが国のいろいろメデイアで紹介されはじめていたようだ。例により私はうっかり見落としていた。

それらによると,佐々井師は「インド仏教再生の父」ともいうべきアンベードカル博士の後継者。アンベードカル博士とは?

(「仏教に改宗 カースト制と闘う」によると)
アンベードカル博士とは、不可触民出身ながら独立インドの初代法務大臣を務め、平等を保障したインド憲法の起草者だ。博士は不可触民同胞の解放のため生涯をヒンドゥー支配層と闘い、国民から「独立の父」と英雄視されるガンジーと激しく対立した。ガンジーが、不可触民を「ハリジャン(神の子)」と呼びながら、実はカースト制を守ることに固執したからだ。

最下層の権利を無視し続ける支配者層に絶望した博士は、ヒンドゥー教がインドの発展と民主化を阻止していると見限り、一九五六年、五十万人の不可触民とともに仏教に集団改宗した。仏教を選んだのは、インド古来の文化であり、ブッダの説く自由、平等、友愛の精神は民主主義に欠かせない生活原理だと考えたからだ。

改宗で生まれ変わった人々は博士を「アンベードカル菩薩」と呼びブッダと同格に信仰する。だが、集団改宗から二ヶ月後、博士は急逝し仏教徒は指導者を失った。そこへ現れたのが日本人僧の佐々井秀嶺師(六八)だった。

次は,佐々井師のインタビュー記事(「問答有用」 (週刊エコノミスト 2004年8月31日号掲載))の一部。
-----インドはどんな国ですか。
佐々井 過去と現在と未来が一緒になって動いている国。過去の世界がまだある一方で、未来の世界もある。カーストの弊害でお互いに、信用しなかったり、憎悪しあったり、陰謀をめぐらしたり、足を引っ張り合う悲惨な国、不幸な国である。
 インドには二つの顔がある。世界や日本が知っているのは、中級以上のバラモン世界の国。もう一つの顔は中級以下の人の国。つまり、何千年もの間、間として扱われた人たちの世界です。その姿を見ないでインドの真実を語ることはできない。外国人は化粧し道化したインドを見ているだけだ。
---インド人には宗教を信じるあつい信仰心がありますが、日本人にも信仰心は必要でしょうか。
佐々井 日本の坊主が尊敬される人間にならなければ信仰なんかできませんよ。坊主が裸踊りをしたり、衣来て酒飲みにいったり、麻雀をやってみたりでは、信仰も何もない。人々のためとなる菩薩行ができないといけない。日本人の信仰心を失わせているのは日本仏教界の罪です。
-----日本仏教界はそういう罪を意識しているのでしょうか。
佐々井 意識なんかしているわけがないでしょう。もちろんそうでない人もいるでしょうが。今の仏教界を見るとまず不可能だね。政治を牛耳ったりするようでは。

豪快。もちろん,日本に言及している部分については「そう大ざっぱにくくられるのは不公平で大迷惑」というご意見もあるでしょう。私は,前回の投稿のせいか,「坊主」というところを(いくつかの地方公共団体の)「教育委員会」もしくは「政治家」と置き換え読んで,妙に納得した。

「無へ 禅・美・茶の心」を読む

2005-11-11 | zen
泉田宗健著,文英堂。泉田和尚は奈良大宇陀・大徳寺松源院住職。和尚のお名前は「大徳寺の禅」というすばらしい文章で存じ上げていたが(拙稿「独座大雄峰底」),この春「無へ 禅・美・茶の心」という本を出されたことを知り,取り寄せ読ませていただいた。

観阿弥・世阿弥の能,村田珠光の茶道からガンダーラ仏,ミロのヴィーナス,フェルメールの絵までさまざまな話題がとりあげられていて,興味深く拝読した。私にはとくに第2章「禅をたどる」が参考になった。そこでは,釈迦から達磨,慧能,さらにわが国の「応燈関一流の禅」へと至る禅の流れが見事に整理されている。各禅師のエピソードが興味深く,かつ楽しい。また,第1章「禅との出会い」中の「芭蕉の生きざまに触れて」で紹介されている「猿を聞く人 捨子に秋の 風いかに」の句の話も印象的だった。

うかつといえばうかつだが,読みながら釈迦とソクラテスがほぼ同じ時代を生きたことに気づいた。釈迦の亡くなったのが紀元前383年,ソクラテスの刑死は同399年だ(ただし,釈迦の生誕没年については他説ありとのこと)。ソクラテスが公共的な議論によって「真理」に到達できることを説いたのに対し,釈迦や達磨の後継者たちは,真理は到達可能だが議論を通してではない,それとはまったく別の道を通って到達されるのだ,と説いた。日常の作務,座禅,公案,詩ーソクラテスの伝統とは異なる方法論だが,禅は魅力的な伝統だと思った。偉大な禅師たちのエピソードを読むにつけ,インドで生まれ東アジアで発展した禅の伝統は,今日なお東西のいろいろな人々を引きつけうる普遍的な価値を保持していると思う。

「はじめに」の最後に述べておられるが,「禅は不立文字といって,真理はとうてい文字言句で表現できるものではないと表明しており,”黙”によろしい,という」。そのなかであえて,禅の心についてわかりやすく語っていただいている。感謝。

狂雲集に迷う

2005-09-06 | zen

柳田聖山訳「狂雲集」の序文<「狂雲集」の仕掛け>を読む。2度目。平行して水上「一休」を拾い読み。森に迷った気分で、なかなか楽しい。途中で森女と出会わないかと期待するものの、そうは問屋がおろさない。迷ったついでに、柳田聖山「一休さんの作戦」(京都仏教会)を見つけ、読む(http://www.kbo.gr.jp/
kaihou/56-1.htm)。これは、<「狂雲集」の仕掛け>のコンパクト版。失礼ながら、拾い読みすると・・

漸く七十才に近づくと、薪(現田辺町)に妙勝寺を中興し、大応国師の塔主と名のり、酬恩庵を興すのだが、ここを生涯の道場ときめて、自から夢閏と名のる。後にいうように、夫婦のベッドを夢みる意。三国仏教を仰天させる、美人との私語の時(「美人の瑶水を吸う」、「美人の陰に水仙の香有り」)。/ ・・(しかし)実をいうと、美人とは大灯国師であり、虚堂であり、松源、臨済のこと。別に驚くことはないのだが、品性のわるい読者は、とかく曲解邪推する。言うならば夢閏と名のった時、自から仕掛けた禅学装置の一つ。/ 晩年の一体さんは、渇病にかかっている。今の医者の診たてで、糖尿病。昔、卓文君とかけおちして、成都の裏町で酒場を営んだ司馬相如、古代中国文学の神さまも、晩年は渇病に苦しんでいる。一体さんは司馬相如気どりで、渇病を楽しむのである。のどがかわくと、谷川の夢をみる。寒い夜は、毛皮の夢をみる。女人のベッドを夢みるのは、ボクの育ちのせいか。もちろん谷川も毛皮も美女のこと。老狂を装うことで、六〇〇年もつづく、すさまじい夢閏のタイムトンネルに、一体さんは人々を誘いこむ。/ 一体さんは狂気を装い、色気にかくれて、巷をさまよう屈原である。楚の屈原は入水するが、一体さんは入水をも装う。ドブロク造りの名手。日中文明を総括して、世界の中世を開く。

うーむ、糖尿病にかかった老人のヴァーチャル・リアリテイか。「良寛の生まれ変わり」を公言する柳田師、妙に説得力がある。

Note.屈原は中国戦国時代の楚の政治家・詩人。君を愛する忠信の心と国をおもう憂愁の情とをもつも、讒言にあい江南に流刑。憂苦のうちに汨羅の川に身を投じた。しかし、もし一休が屈原なら、安宅説(細川勝元の“知恵袋”説)もありうるかも。なお、一休楠氏血統説は水上「一休」(中公文庫)、306ページで言及されていた。

Note.酬恩庵(一休寺):一休は、鎌倉時代の禅僧、大応国師(南浦紹明)の法系。大応国師は、初祖、達磨大師の直系。唐へ渡って虚堂智愚(きどうちぐ)の弟子となり大悟を認められて、33歳で帰国(茶も伝える)。弟子に、大徳寺開山、大燈国師(宗峰妙超)や妙心寺開山、関山慧玄。一休の師、華叟やのちに柳生宗矩の師となる沢庵、白隠もこの法系。大応国師が薪村に建てた禅の道場「妙勝寺」が戦乱で焼け、荒れ放題になっていたのを放浪中の一休が見て修復を決意、国師の坐像を開山堂に安置し、塔頭として「酬恩庵」を建てたのが始まり。(http://www.osakanews.com/mite-mite-kansai/ikkyu021203.htm一部加工)

Note.達磨大師:禅宗の祖,6世紀頃の人。インドで生まれて中国に渡り崇山少林寺で9年間座禅を組んで悟りに達したといわれる(「面壁九年」)。達磨が中国に到着した時,梁の国の武帝(在位502-549)と交わした会話。武帝が「私は今までたくさん寺を造り僧を育てて来た。これはどのくらいの功徳になっているだろうか」と聞くと達磨は「功徳は何もない」と答え、「では仏教における聖なる真理は何か」と聞くと「空っぽで何もない」と答え、更に武帝が「何もないというのなら、お前は何者だ」と聞くと「知らぬ」と答えたという。(http://www.ffortune.net/social/people/china-nan/daruma.htm)秀逸。

狂雲集

2005-08-30 | zen
手元に、水上 勉「一休」、坂口 尚「あっかんべエ一休」(上)(下)(講談社漫画文庫),柳田聖山訳「狂雲集」がある。水上「一休」はあまりの充実ぶりに疲れて、途中で一休み。しばらくそうしていたところ、以前注文してあった「あっかんべエ一休」が入ってきたので早速読む。力作。楽しく読んだ。勉強にもなった。能への興味発生。以前読んだ「おーい竜馬」と同じ感覚。絵で読めるのはありがたい。さて、一休とは誰か。晩年の「森侍者」との交情は実際にあったことなのだろうか。

一遍のところで見つけた「みてみて関西」に直行した。森侍者はフィクションだという説が2種類紹介されていた。

一つは、(「いま最も一休を理解できている人」と松岡正剛がいうhttp://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0927.html)柳田聖山の説。
 「一休は81歳で大徳寺四十八世の住職になるが、狂雲集はその歴史的大事件をテーマにした虚々実々の一大叙事詩なんです。森はその叙事詩を完成させるための文学的仕掛けだった」
 「大徳寺仏法の嗣法者は、一休の兄弟子で法敵でもあった養叟一派が正統派だった。一休は、入山にあたってその法系を消す必要があった。そこで住吉大社の神主の家系の出身で、大徳寺八世にまでなった卓然宗立という異質の僧を登場させ、卓然の袈裟を着て入山するんです。卓然を登場させるための文学装置が森だった」と、柳田さん。
 超世代の嗣法を正当化させるために、“神がかり”もできる森女をフィクションとして登場させたのだという。森も一休一流の“煙幕”だったというのだ。
(http://www.osakanews.com/mite-mite-kansai/ikkyu021204.htm)

いま一つは、安宅雅夫説。
 一休は、応仁の乱で山名宗全の西軍と死闘を演じた東軍、細川勝元の“知恵袋”だった、というのだ。
 乱の勝敗が決まったのは文明3年(1471)、越前の守護大名、斯波義廉の下で、守護代だった朝倉孝景が、守護になることを条件に東軍へ寝返ったのが端緒といわれる。朝倉の進撃で斯波は“落城”、隣国の加賀の半分を支配していた東軍の赤松政則が山名の支配する播磨へ攻め入り、これが決定打となって、山名は東軍に降伏する。
 浄土真宗・本願寺八世、蓮如が越前の吉崎に御坊(城塁)を築いたのも文明3年。南北朝時代の武将、楠木正成が真宗に帰依していたことから、旧南朝勢力も続々吉崎へ集結し、朝倉は、これを見届けたうえで東軍に寝返った、という。
 「一休の母は楠木氏の出であり、また、大徳寺仏法の嗣法者として、一休は細川陣営の策謀に加わっていた。森女との情交が文明三年の春から始まったのも朝倉を反転させたことと関連しており、もしこれが明らかになると一休の命はひとたまりもない。そこで、森女を登場させ、“美人の淫水を吸う”など、ドギツイ詩を作り、宣伝につとめた」と、安宅さんは住吉大社の研究誌「すみのえ」(昭和54年秋季号)に書いている。
(http://www.osakanews.com/mite-mite-kansai/ikkyu021205.htm)

大徳寺の住職になることが歴史的大事件であることがピンとこない私にとって、後の安宅説が興味深かった。
楠木正成が浄土真宗に帰依していたこと、それゆえ旧南朝勢力が蓮如の吉崎御坊へ集結したこと、一休の母が楠木氏の出であることなどをはじめて知った。一休と蓮如との親交の理由の一端もこれでわかる。たしかに、応仁の乱は民衆に地獄の苦しみを与えていたから、それを終わりにすることは(もしそのようなことができるのならば)、一休にとっても最重要な課題でありえただろう。

煙幕、とんちの一休ならばたしかにやりかねないが、さてどうだろうか。森侍者フィクション説の根拠は,狂雲集以外の著作(一休およびその周辺の人々の著作)に彼女が登場しないということのようだ。もちろん、ピカソのエロイカ風「森侍者」は、大徳寺住職でもあった一休のイメージにあわない、というのが根本にあるだろう。そうでもないようにも思えるが、どうだろうか。柳田聖山訳「狂雲集」が手元にある。楽しみだ。

君看双眼色

2005-05-07 | zen
  君看双眼色 不語似無憂

しばらくこの句は良寛作と思い込んでいたが、そうではないとのことだ。もともとは

  千峯雨霽露光冷 (せんぽうあめはれて、ろこうすさまじ)
  君看双眼色   (きみみよそうがんのいろ)
  不語似無愁   (かたらざることうれいなきににたり)

という連句で、大燈国師の句に白隠禅師が第2句以下をつけたものだということを、戸所宏之氏の「君看よ双眼の色」(http://www.gpwu.ac.jp/door/todokoro/solilo/sogan.html)で知った。ちなみに、大燈国師、白隠禅師をネットで調べてみると

大燈国師:鎌倉後期の臨済宗の僧。後醍醐天皇、花園上皇の帰依を得て大徳寺を開く。
白隠禅師:江戸時代の臨済宗の僧。駿河の人。正受老人の法を嗣ぎ、京都妙心寺第一座となったが、名利
を離れて諸国を遍歴教化、臨済宗中興の祖と称される。42歳の秋、「法華経」を読誦中に、こおろぎの
 なく声をきいて生涯で最高の悟りをえたという。

とある。つまり、大燈は白隠にとって臨済禅の大先輩で、両者は世を隔てている。白隠の句を愛唱した良寛は、最後の愁を憂にかえた上で書としたとのこと。

さて、白隠の句はふつう、上で右に書き下したように読まれる。つまり「きみみよそうがんのいろ かたらざることうれいなきににたり」(ほんとうはうれいあり)と読まれる。私もそのようにとっていた。しかし、大燈国師の句を前提とした場合、これは間違った読みだろうと戸所氏は指摘されている。戸所氏によれば、大燈国師の句は

  見渡す限りの山々の一本一本の木々の葉が、今あがったばかりの雨の湿り気を帯びて爽やかに、
  涼やかに、静かな光を発してゐる、さういふ光景を詠ってゐる。山水画の光景だ。しかし、これは
  同時に禅のさとりの境地でもある。雨が降れば濡れる、霽れば光る。融通無碍の世界が詩的情緒を
  伴って示されてゐる。

これを受けるのに、「わたしの眼をみよ 何も語らないということは憂いがなにもないということではない」では不適切だろう、というわけである。その上で、戸所氏は、白隠の最初の句のなかの

  双眼とは千峯のことだ。おほらかな世界が開かれてゐる。双眼はひとの眼ではない。宇宙全体が
  双眼だ。

といわれる。そしてさらに、第2句について、

  不語は「語らざれば」と読みならはしてゐるが、むしろ、不語のままの方がいい。私は、「不語即ち
  無憂に似たり」、と読みたい。語ってゐないのではない、不語といふ語りをしてゐるのだ。千の峯々
  はさうやって昼も夜も語ってゐる。それを白隠は不語と読んだ。

  憂ひ無きに似る、といふ句は実にあやしい句だ。誘惑に満ち満ちてゐる。本当は憂ひがあるのだが、
  何も語らないあなたはまるでそんな風には見えない、誰もがうっかりさう読んでしまふ。さうではな
  いのだ。そんな風に日常世界のありやうを忖度した歌ではない。「憂ひ無し」と否定文に読むのでは
  なく、「無憂」といふ絶対の肯定、つまり、至福そのままの姿に似てゐる、といふ風に読みたい、
  いや、読むべきだ。

  似るといふのは禅の世界のとんでもないものの言ひ方で、道元禅師も「魚行いて魚に似たり」と素晴
  らしい直証をされてゐる。魚が魚に似るといふ時、主語の魚は我々の知ってゐるあの魚ではない。千
  峯を魚と言ってゐる。双眼を魚ととりあへず呼んでゐる。大いなるものがとりあへず魚のすがたをか
  りてこの世のあらゆる存在を和ませてゐるさまを「魚に似たり」と言ってゐるのだ。

  「似無憂」も同様だ。似るとは大いなるものの働きそのものを指してゐる。大いなるものはあれ、
  これ、と指で指し示すことはできない。我々としては似てゐるさまを感受するのみだ。   

と指摘される。細部はともかく、大燈国師の句を前提とした場合、たしかにこれは説得力ある読み方だと思う。「似る」は微妙な表現で、念のためネットで調べたところ、道元の「魚行いて魚に似たり」について、次の解説があった。(http://www.rose.sannet.ne.jp/yukakosansuian/dogen/dog13.html)

  宏智の「坐禅箴」は、「魚行いて遅々たり、・・・鳥飛んで杳々たり」で終わる。「遅々、杳々」
  は、機鋒峻烈な見性禅に対し、鈍な趣きのある默照を肯定的に形容するものだろう。それを道元は
  《坐禅箴》で、〈魚行いて魚に似たり、・・・鳥飛んで鳥の如し〉と変えた。それは坐禅のところか
  ら、人は法に叶って生きることができる。その如法が、〈似たり、如し〉である。「似たり」は、
  人が仏に似るのではない。〈鳥飛んで鳥の如し〉といわれるように、もともとそうである自分が、
  その本来の自分になるのである。

魚行は座禅をあらわすようである(「坐禅の功徳、かの魚行のごとし」《坐禅箴》)。魚は水のなかを行くことによってはじめて魚になる。

すると、戸所氏のラインで私なりに整理すると、

  君看双眼色 
  不語似無憂

という句は、大燈国師による大自然・融通無碍の世界の開示を受けて、(戸所氏の読みと比べてはなはだ散文的で恐縮だが)

  きみみよ 双眼に映る千峯の山々の景色を
  語らぬこと 無憂に似たり
  (ことばが憂いを生むのだ)

と読めそうだ。つまり、最後の句を「不立文字」の表現としてとして読む。ただ、大燈国師の句から切り離して白隠の句をよむことはもちろん可能で、その場合通常の読みでさしつかえあるまい。それはそれで「不立文字」、「以心伝心」を語っている。良寛も1字を差し替えることにより、そのようなモード変更していたのかもしれない。

追記 

なお、上の連句は『槐安国語』(かいあんこくご)あらわれるもので、『槐安国語』そのものは大燈国師が書いた『大燈録』に、後年白隠が評唱を加えたものであるとのこと。
<htttp://www.niji.or.jp/home/yanto/kaian/kaianhyosi.htm>には、鈴木大拙による書評が紹介されている。

『槐安国語』を読みて―「著語」文学の将来などにつきて(初出『哲学季刊』昭和21年)

 日本撰述の禅書も数多い事であるが、その中に最も目につくものは、さきには道元禅師の『正法眼蔵』、後には『槐安国語』と云ってよいと思ふ。固より此外に多くの日本禅者の手になつた著述もあるにはあるが、特に異色の著しいと云ふべきは、これら二書であらう。両書は何れも其難解の点において、相伯仲すると云つてよい。前者については既に多数の学者がその研究の成績を発表して居る。どの程度に成功したかは第二の問題であり、また今までので其研究すべきものを、どの程度まで手を著け得たかも、固より問題ではあるが、『槐安国語』につきては研究など云ふものは何もない。臨済各派の叢林の奥の方でお師家さんが講座の上から提唱なるものをやるにすぎないのである。一般の世間ではその名も知らないであろう。
 槐安国は淳于が槐樹下の蟻穴に入りて統治した国の名で、所謂南柯の夢の世界である。白隠は自分の著述をその国の語と見立てたのである。此「語」は大徳寺の開山の大燈国師の語録に対して、圜悟の『碧巌録』に模して、吐出せられたものである。白隠(及彼弟子)は、その禅経験と、学得底の漢文学知識との全部を傾倒して、六冊の『国語』を作成したのであるから、読者にとりては容易ならぬ難解の書物だと云ってよい。大燈国師自身が既にその語録において胸中の薀蓄を披瀝したところへ、兼ねて白隠禅師のを添加したものであるから、此書は日本的禅経験と禅表現の極限に達したものと謂はなくてはならぬのである。

「日本的禅経験と禅表現の極限に達したもの」とのことだから、わかりやすく理解しようなどと考えるほうが土台間違っていたのかもしれない。それにしても「槐安国(かいあんこく)は淳于が槐樹下の蟻穴に入りて統治した国の名で、所謂南柯の夢の世界である。白隠は自分の著述をその国の語と見立てたのである」とあるが、私はこういうファンタジック&パロデイ風な思考は大好きである。