夏への扉、再びーー日々の泡

甲南大学文学部教授、日本中世文学専攻、田中貴子です。ブログ再開しました。

教員養成6年制ーー石原千秋氏の提言を読んで

2010年02月02日 | Weblog
 朝日新聞1月31日付朝刊「私の視点」に、早稲田大学教育・総合科学学術院教授、石原千秋氏による教員養成6年制問題についての提言が掲載された。昨年秋、民主党が2011年から実施したい旨を明らかにしている問題である。これは小中高のみならず、「養成」を行う大学側にも大きな影響を与える改革であり、今まで現場の(小中高の)教員を中心にブログ等で意見が出ていたが、石原氏の場合は養成を行う機関からの問題提起として貴重なものであると思われる。
 私が六年制問題に関心を持つに至った理由は、非常に内輪的なものも含めていくつかある。それは以下の通り。

1、数年前に『検定絶対不合格教科書 古文』(朝日新聞出版)という本を書いてしまい、そのときに国語教育を中心として教育制度の問題に直面したこと。

2、勤務する大学には教員免許状を取得できるシステムがあり、かつ、大学院(修士、博士課程後期)を擁しているため、「専修免許」も取得可能なので、それらに関わっている私は否応なく教員養成の問題に敏感にならざるを得ないこと。

3、私が所属する文学部日本語日本文学科は、いわゆる「不要な学問」「実用にならない」などとして文科省から切り捨てられつつあるのだが、そうしたなかで志願してくれる学生の多くが「教員免許をもらえること」=資格取得という動機を持っていること。

4、一部を除き、私学の大学院はなかなか定員を満たすことができず、入学しても研究者としての道はまずない状態なので余計に志願者が減っている。そんななか、「専修免許がもらえる」ことを理由に志願する学生が多いこと。

5,しかし、大学院(主に修士課程)を出て専修免許を持っていても、教員採用試験に有利になるわけではなく、採用試験浪人が出てしまうこと。そして、教員以外の職業をめざそうとしても、文系修士にはほとんど行き場がないこと。

 このような現状で、教育大学ではない私立大学の文学部が生き残る一つのすべとしてある教員免許状取得が6年制になったとき、おそらく大きな混乱が起きると思われるのである。
 石原氏の記事の数日後、2月1日夜10:00から放映された「TVタックル」がちょうど教員免許と免許更新講習、民主党の教育政策をテーマにしたものであったので、それらを読み、見た感想を記しておきたくなった。また、石原氏の意見は実にもっともと思われたが(おそらく元の内容はもっと突っ込んだものであったのであろう。しかし、無味乾燥な新聞記事にするに当たって、削られたものが多かったのではないだろうか。勝手な想像だが)、これに加えて、「非教育系」の大学が抱えてしまう悩みも書き加えておきたい。なお、これは勤務校における統一見解ではまったくなく、あくまで私個人の意見であることを念押ししておきたい。

 順番が逆であるが、「TVタックル」の内容についての意見を述べておく。TV番組に「識者」を読んで討論させるという形式は、「生の議論が聞ける」というふうに見られがちであるが、結局時間切れになり司会者がまとめるという半端な終わり方をするものである。今回の番組もまさにそうであった。民主党側と自民党側の議員が出席するのは当たり前であり、民主党と「手を組んでいる」などといわれる日教組側、実際に教育改革を行った東京区立中学校の元校長なども呼んでいたのは興味深いが、議論は「学力低下の原因はどこにあるか」ということが主となってしまい(これも大問題だが)、その責任を違いになすりつけあうような応酬が目立ったのは筋書き通り。意見の一致を見たのは「力ある教員を育てる」ことだったが、ではその具体策となる(といわれる)教員養成6年制については実状を踏まえない議論ばかりで、今までいわれてきた「フィンランドの真似にすぎない」だの、「先生は早く現場に出てもまれたほうがいい」といったものに終始し、具体的な案や6年制を実行する、あるいはその欠点をつく意見はついに聞かれなかった。まことに非建設的な一時間だった。
 石原氏の記事は、こうした「教育がひどい→すぐ精神論や理想論にいっちゃう。あるいは責任のなすりつけになる」という不毛さを救う、非常に具体的な提言であり、私もほぼ同意するものになっていた。こうした記事を載せた朝日新聞と、あえて提言された石原氏は評価されるべきであろう。
 
 石原氏は単に6年制を批判するだけでなく、建設的な提言をしている。とくに、

1、教員採用試験で大学院修了者を別枠として優遇する。

2、大学院進学後に教職につけば返済が免除される奨学金を用意する。

という二点は、もし6年制を実施するのであれば必須であろうと思う。薬学部が6年制になって志願者が激減したことは大学関係者なら周知の事実だが、それはひとえに「あと二年分の学費」という経済的負担と、「二年余計に勉強しても得にはならない」という不満があるからで、これは教員養成6年制とまったく重なる問題点なのである。国立大学法人でも今や文系の学費はうなぎ上り。私立だと一年間で安くても60~90万円程度かかる。学費が払えずに除籍になる学部生が増えてもいる。そんななか、大学院の二年間にかかるコストとそれによって得られるものがまったくつりあっていないのである。
 ただし、もし修了者を別枠で優遇したとしても、それが即、教員の質の向上につながるかといえばまったくの未知数であろう。それは、二年間で学ぶ内容が「教育のための教材研究」ではなく、あくまで従来の「研究方法」であるからだ。研究者と教育者とが同じ資質を有するわけではないことは、私を見てもらえばわかる、というのは冗談としても、大学院修了者が教育の即戦力になるとは限らない。しかも、二年の間、大学院の授業をこなしながら非常勤講師などで経験を積もうとする学生がよくいるが、修士論文が書けないという場合が多く、結果的に修士課程修了の条件である修士号が得られないという悲劇が起こることがある。
 
 ここで、民主党のマニフェストを見直すと、6年制には条件として「(修士)」という ()で囲んだ項目があることに気づかされる。これは曖昧な表現で、「修士課程の単位を修得すればよい」だけなのか、それとも「修士号を得ること」なのかわからない。現在の大学院では、「修士課程修了」とはイコール修士号取得であり、その前提として(ほとんどの大学では)修士論文が修士号取得の条件になっている。
 とすれば、修士課程の二年間で専門の研究を行い、修士論文も提出しなければならないわけで、実質的に今までの「研究者の性母細胞」(修士修了だけでは研究者のタマゴともいえない現状だから)を作り出すだけとなり、そうした学生が教育の現場に出たときどれくらい力を発揮できるのかは疑問なのである。
 つまり、今の研究主体の大学院で二年間学ぶことが教員の質向上につながるとは、私にはとても思えないのである。

 そうすると、石原氏が提言している、

1、教職についてから10年以上20年以内の間に、最低1年異だ、大学院で学び直す機会を作る

2、教職大学院とは別に、既存の大学院に最新の学問を学べる1年制のコースを整備すればいい。

という案が浮上してくる。私も、6年制よりもこのほうがずっと現実的であり、かつ現場の先生方の要望(学問に再度触れることでリフレッシュできる)にも沿っていると思う。今でも県によっては公の研修期間(たいがいは1年)を設置し、出身大学以外のどの学部や大学院でも学び治せるシステムを作っている。一例を挙げれば、私の大学の同級生には中高の国語教員になった人が多いが、その一人(静岡県)は一年間公費で東京大学の大学院に研修に行っていた。彼女は専門であった国文学ではなく、教育学を学んだと聞いている。大学における学外研修(サバティカル)と似た制度であろう。ただし、全員希望して行けるのかどうかは県によって違うようである。
 
 ところが、この案には早稲田大学にはわからないだろう大きな問題点があり、それが、今すぐにでも出来そうなシステムがなかなか稼働しない原因となっているのである。
 それは、大学側の事情による。私は今まで、授業を持たない助手であったときを除いて非教育系の私立大学でしか働いたことがないので、これはあくまでもそういった大学の事情だと思っていただきたい。
 まず、旧来の二年生修士課程と、一年生コースとの棲み分け、あるいは扱い方の問題である。
 もしかりに1年制コースを作った場合、次の二つの形態が考えられる。

1、旧来の二年制修士課程の学生と同じ授業をとらせる。(一年間なので単位は変わってくるにしても)

2、旧来の二年制修士課程とは別に、一年制コースを設ける。授業は別になる。必要単位も別に定める。

 1の場合、一年で修士論文を提出するのは無理なので、二年制修士課程とは別に必要単位を決め、修士論文は免除することになろう。すると、修士号取得は最初から考えないことになる。
 2の場合、「学び直し教員」用の授業を別に設けるとなると、大学院担当教員の授業数が増加し、指導も含めて負担が大きくなる。
 今でも授業だけでなく校務、学生指導に追われて研究時間が削られている大学教員にしてみれば、2の案はありえないといえる。また、別授業をとらせれば、最新の学問に触れる機会を得るため、という一年制コースの目的からは外れてしまう。従って、2案は避けるべきであろう。
 これでは明らかに1案の方が実践しやすく、無理がないということになる。その場合、「修士号をとる必要はない」「定められた単位をとればよい」という二点が了解されている必要がある。「定められた単位」の数や授業の内容については、国が決めるのか大学が個々に決めるのかわからないが、公費による定められた研修である以上、国が統一基準を設けるべきだと思う。
 
 ほかにも、教職大学院と一般大学院での研修に差をもうけない、などの細かな了解事項が必要であろうが、あくまで「教員の(学力的な)質向上」を目指すのであれば、「最新の学問に触れる機会をつくる」ことだけを考えればよいのであって、もしこの1年制コースに「教育学関係の単位も必要」などとすると、一つの大学院だけで学ぶことが難しくなってしまう。万一そうさせたいならば、(事務は混乱するだろうが)複数の大学院で所定の単位をとることができる、といった制度にしないといけないだろう。
 多々問題点はあろうが、「何を教えるか」というコンセンサスや費用についての取り決めがまったくないまま各大学に丸投げされた教員免許更新講習よりは数段ましで現実的な案であると私は思う。

 なお、石原氏は触れておられなかったが、現在民主党が主張している「教育実習1年」についても非常に問題が多い。これは簡単に記すが、今でも扱いに困ることが多い教育実習生が、教職免許を持たないまま一年間も小中高にいるということになると、以下のような事態が起こるのではないだろうか。

1、実習生は教育現場において「お客さん」扱いされ、実際的な現場に踏み込むことが許されないまま微妙な1年を送り、受け入れ校と送り出した大学では指導に苦慮する。

2、学校によっては「お客さん」扱いではなく、ボランティアとして使い回すこともあるかもしれない。これは、過去にあった(1946~1968年まで実施)医師のインターン制度と同じ過ちを引き起こす。無免許の実習生と無免許の医師の立場はよく似ている。

3、実習期間中、授業に出ないのに大学院に学費を払うという無駄が出る。また、受け入れ校も無償で半人前の学生を引き受けるのであるから、経済的・人的損失が大きい。送り出した大学が実習期間中も責任を持って指導することになると学費は必要だが、教育実務が専門でない大学の教員が実習生の振るまいに責任を持つことは難しい。何か事故があったとき、受け入れ校と送り出し校のどちらが責任を負うのか、あるいは実習生自身の責任はどうなるのか、まったく議論されていない。

 以上のような事態を考慮すると、一年実習は無謀な案であろう。
 
 民主党政府が掲げた教育改革がすこぶる曖昧であり、実現不可能なものばかり打ち上げた感があるのは、票獲得と党の刷新イメージを優先したからのように思えてならない(かといって自民党やほかの党がよいわけではない)。教員養成6年制を無理矢理実施しようとするとどのようなきしみがあるのか、保護者の方、現職教員、大学教員すべてがよく考えてゆく必要があろう。


*ホンネ少し*
文学部の資格のウリが教免であるのは仕方ない事実で、進学相談会などで保護者や受験生から資格取得についてたくさん質問が出るのも仕方ない現状である。大学側の人間として、本当はほとんど採用試験に通らないことを棚上げにし、「資格はとれます」というのは(私は)とても浅ましく感じる。だから、では、文学部志願者がどんどん減っているときに何ができるか、というと、「文学部で何を学びそれが人生でどのように役立つか」という問題の前に立ちすくむ自分を感じてどないしょうもなくなる。なぜ文学部がなくなったら困るか、という問いに対して、「自分が職を失うから」という答えがホンネとして絶対あることを思う自分がたまに嫌になる。そこんとこ、ちゃんと答えられるようにはなりたいけれど、衣食住と研究足りて礼節を知る、のは事実である。葛藤しております。

 



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