夏への扉、再びーー日々の泡

甲南大学文学部教授、日本中世文学専攻、田中貴子です。ブログ再開しました。

め・が・ね

2008年12月26日 | Weblog
 久しぶりに眼鏡を作った。
 もちろん、老眼鏡である。老眼鏡としては二つ目で、ほとんど度は進んでいないのだが、今度は「近・近両用」というレンズを入れたのだ。これは、デスクトップPCの画面と手元の文字とを違和感なく見られるものである。今までは、ずっと使っている乱視用と手元用の老眼鏡とを併用していたのだ。老眼鏡だと、かけたまま歩くのが辛く、やや離れたPC画面が見づらいことがあったし、乱視用だと手元の大蔵経なんかの漢字がすこぶる見にくかったのである。
 ふだんはメタルフレームにしているが、今度は淡いピンクのセルフレームにしてみた。鏡を見ると、ちょっと変わったようでなんだか嬉しい。
 「眼鏡美人」ということばがある。今ではほめことばになった(眼鏡が似合う、という意味である)が、かつては「眼鏡なんかかけて生意気な女」といった揶揄的な意味だった。私は、この前者の方の「眼鏡美人」である。
 眼鏡をかけていると、似合うといわれることばかりなのだ。
 他にも、「帽子美人」であるともよくいわれる。帽子が似合うらしい。背が高い方なので、帽子にトレンチコート、そしてサングラスなどという格好をしていると八割増しで「美人」に見られる(ほとんど顔が見えないからだろう)。寝癖がついているときや、時間がなくてすっぴんのときなど、結構役に立つのは事実である。
 

 私の免許証には、しっかり「眼鏡等」の但し書きがある。近視より乱視が強いので、ちょっと離れた標識の文字が読めないのである。乱視用眼鏡はほぼ運転用に使っており(映画の字幕や、美術館の説明書きも読みづらくなったので、そういうときにも使う)、いつもは裸眼でいる。私の鼻の骨の形状のせいで、長時間の眼鏡着用は鼻の根もとが痛くなって跡がつくから避けているのだ。
 乱視になった理由は、バスや電車で本を読んでいたせいだといわれるのだが、よくわからない。乱視の方は実感できると思うが、夜に三日月を見上げるとたいてい三つくらいにだぶって見える。これを見るたびに私は思う。

 「長寛勘文(熊野縁起のもっとも古いもの)を書いた人は、きっと乱視だ」

 「長寛勘文」には、熊野にやってきた権現さんが三つの月として出現したというのだが、その様を現代においてリアルに感じられるのは、乱視の人であろう。ホントに三つに見えるのだ。案外、「奇蹟」とかいったものはこうしたことが原因で語られるようになったのではないだろうか、などと思う。
 疲れがこうじると乱視もひどくなり、特に夜、外出すると、イルミネーションやら何やらがにじんで適度に美しく見える。すれ違う人もなんだかきれいだ。

   今宵あふ人 みな美しき

というのはこういうことだろうか(晶子も乱視だったのか?)。ひととき、俗塵界を忘れる。

 さて、眼鏡を作るときは新しく度を測ってもらうのだが、今回おもしろいことがあった。
 私は、凝ったフレームがほしいときは京都市中京区麩屋町三条の「ロジータ」であつらえるのだが(ここは、おしゃれ用にはとってもいいのがあります。おすすめします)、老眼鏡はとくに凝らないので、近所の眼鏡屋に行った。
 機材で測定が終わり、調整されたレンズを試しにかけてみて、字を読んでみる。最初に時刻表を渡されたのだが、私はほとんど横書きの数字は読まないので、縦書きの文字が書いてあるのはないか、と聞くと、とっても古そうな薄い本を出してきてくれた。
 ○○博士考案、などとある視力検査用の本である。奥付には初版発行昭和33年とある。

 「この本、いつから使ってられますか?」

と店員に聞くと、この店が出来てからずっとあると思う、との答え。
 で、本を開いてみたところ、すぐさま飛び込んできたのが和歌の列。

 秋きぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる

と大きく書いてある。これは読めるな、と思いつつ、ずっと細かな文字へ移ってゆくと、なんと、いくら矯正視力であってもおそらく読めないだろう細かな文字まで読めちゃうんである。
 考えてみると、この和歌の列はすべて百人一首などにある有名(すぎる)ものばかりであったので、最初の文字がわかると、文字自体は読めなくても、覚えているから「読めて」しまうのであった。「は」とあると、後はなんとなく、小野小町のあの歌だとわかるのですらっと読める。どんどん文字は小さくなってゆくが、「も」なら「ももしきや」だし、「あ」なら「あきのたの」だし、なんとか全部読んで(読めて)しまった。これでは視力検査にはならない。記憶力検査である。
 
 「これ、代えてくれませんか。知ってる歌ばかりだから、見えなくても読めてし まうので」

 私が言うと、私の職業を知っている店員さんは「そういえば、そうですよね」といって、新聞を渡してくれた。
 実によく読めたので、私はこのレンズで発注をし、満足して帰宅したのである。
 視力検査に、あまり古い本を使ってはいけない場合が、あるんですねえ・・・。


*くりきな通信*
 ようやく年内の仕事が終わり、冬休みになった。くりこときなこの動向を引き続きお知らせする。
 くりこはまだきなこに慣れない。きなこの丸い顔が、しきりとなっている磨りガラスの扉に映ると、

 「北○○からテポドンが来た、来た、来た!」

といったように騒いで走り回る。
 そうか、このドアは北緯38度線なんだな。
 ママ(私)は、板門店をまたいで「北」と「南」を行き来する毎日。
 きなこはうちに来て20日になるが、みるみる大きくなった。天真爛漫で単純な男子として、のびのび元気にすごしている。ただ、いろいろなおもちゃで遊んでいても、すぐに飽きるのが困りものだ。もっともシンプルな「パタパタ」(いわゆる猫じゃらし)がいちばん飽きないようである。この男子、私の机の上でねそべるのが好きで、シンポジウム用のパワーポイントのスライドを作っていたら、いちいち手を出してキーや私の指を触る。ふっと眠気が襲ってきて、一瞬寝ていたらしい後、PC画面を見ると、25枚しか作っていないはずのスライドが250枚目になっております。何で? 見ると、きなこがマウスを「たんたん、たんたん」とクリックしていた。「ファイルの複製」が10回行われたらしい。
 猫の手も借りたい、ときなのに・・・。
 三人の生活は、まだまだ始まったばっかりだ。

日本古典文学大系本の注と山田孝雄

2008年12月15日 | Weblog
 今年は山田孝雄没後五十年のようらしい(未確認情報、来年だったかも知れぬ)。山田一家といえば、息子を総動員して岩波の日本古典文学大系本の『今昔物語集』の校注を行ったことで、私などには知られている。国語学者一家なのである。
 岩波大系本の注はほとんどが語学的な注なので、内容の理解についてはあまり役に立たない。また、同じことばが出てきたら「→○○頁注○」とされているので、別の巻をめくらなければならないのが大変面倒くさい。
 ただ、この時代に今昔の天竺・震旦部の注をよくつけてくれた、という「学恩
はたいそうなものである。

 さて、今年度は二年次生の演習で『今昔』巻二十八を読んでいる。
 うちの大学では、二年生から各ゼミに所属して演習発表をすることになっている。私の学部時代では、三年生(関西では三回生、というが)から演習があり、それも一人の先生ではなく二人くらいの先生の演習が選択できた。二年生からの演習はちょっと早いのではないか、とも思うのだが、卒業論文作成のことを考えると、これくらいからやっていないと無理、という今の現実もある。
 私のゼミは、平安時代から室町時代の散文を専攻する学生のためのゼミであるが、大変人数が少ない。今の二年生は五人、三年生も五人である。厳しいという噂が飛んでいるからであろうが、私は少人数ゼミなら全然厳しくないよ。
 二年生の演習は、本格的に『今昔』をやるわけではなく、今後古典文学を読むうえで必要不可欠な作業、つまり、どんな辞書や参考書、注釈書を読めばよいのか、また、論文や参考文献の検索はどうするのか、とか、問題意識はどう持つか、ということを学ぶためのものである。従って、『今昔』や『宇治拾遺物語』のようなメジャーな作品を取り上げている。注釈書が古典大系、新大系、全集、新全集、新潮集成、朝日古典全書、角川文庫、岩波文庫、と揃っているからである。それらをすべて見て、注釈書がいかに諸説いろいろであるかを実感させるのが目的で、その結果、自分はどのように考えるかを実践するのが最終段階となる。

 ところが、今年はこの演習でおもしろいことがいろいろあった。
 以前なら何も気が付かなかったことである。それは、大系本の注そのもののことばが、すでに今の学生にとって古くさくて理解できない、ということだった。
 たとえば、注に「ピケを張る」という表現が出てきて、学生は、

 「ピケって何ですか」

と聞くのである。私だって、実際にピケを張ったような経験はないが、これはかつて学生運動や労働運動が盛んだった頃、新聞などでよく見かけたものだ。腕などを組んで、「体制側」の進入を阻むような行為である。それを説明すると、

 「ああ、人間の鎖、みたいなものですね」

という。ちょっと違うと思うが・・・。
 自分の「ことばの老齢化」を感じたものである。

 ほかにも「奴さん」という注にも大きな反応があった。これは、

 「わぜう」

という、ややおとしめるような、やや親密な感じもあるような二人称なのであるが、その訳として、大系本は「奴さん」とやっちゃうんである。
 聞いてみると、そもそも「奴」というものがわからんという。
 私は、小学生の頃日本舞踊で「奴さん」という男踊りをやったことがあるので、発表会で奴さんの扮装をしたことがあるし、昔見た古い時代劇の映画には多々登場したからだいたいわかる。ところが、学生は、

 「凧ですか?」

とか、

 「冷や奴と関係ありますか?」

と口々に「推理」をたくましゅうするのである(なぜ冷たいお豆腐を「やっこ」というのか、確かに疑問だが)。
 私は、「凧あげ」などなくなっているこの自分に「凧」といった学生がいたことに少し感激を覚えたが、その学生も実際に奴さんを描いた凧で遊んだ経験はないそうだ。
 こういう俗っぽいことばは、学生たちが持っている電子辞書にもあまり載っていないので、困りものである。

 学生たちの「発見」は、大系本の注は「ヘン」、集成本の注や解説は「おたくっぽい」ということであった。
 集成本の校注をしたのは、川端善明氏と、私の学部時代の恩師である本田義憲先生なんだけど・・・。たしかに、往年の「本田節」の雰囲気はあるなあ。
 今度は、全集本の注の特徴を調べてみようと思う。(学生にいわせれば、全集本と新全集本はほとんど同じなので、手抜きに思える、とのことだった)

 それにしても、国語学者というのは本当にいろいろな文献(非常に俗なものでも)にも目を通している。いつだったか、山田一家の誰か(失念、沢山いるので)が雑誌に「身を粉にする」という表現について書いていた。山田某氏はある日、『マリ・クレール』という女性雑誌を読んでいたところ、

 「ジャンは店がはねてからバーへよった」

とかいう表現に目をとめ、「店がはねる」を「働いている店が閉店する」という意味で使っている新しい例として採集した。また、その雑誌に、

 「身を粉(こな、とルビあり)にして」

とあることに違和感を覚えた直後、孫が見ていたTVアニメで、

 「おれたちが身を粉にして地球を守っているから」

というような表現を耳にし、内心にんまりしているのである。
 どんな種類のメディアやテクストでも、沢山読んでいると何がしか発見があるものなのだ。年をとっても、好奇心と行動力が必要であると痛感した次第。



*くりきな通信*
 その後の「くりこ」と「きなこ」の動向をお伝えする。
 二人はやはりうち解けるまで行かず、マンションの真ん中にあるドアを閉めて、書斎と書庫空間をきなこに、居間と寝室をくりこに明け渡して、家庭内別居生活を営んでおります。
 私はその二つを行き来して、二匹を平等にかわいがろうとするのだが、いかんせん、新入りの方がよく遊ぶので相手する時間が多く、くりこの目に不満のほむらがかいま見える。困った。これって、妻と愛人との間を行き来する男みたいじゃないの。
 ただ、妻も愛人もどっちもかわいい、という心理は今回よーくわかったように思う。かわいがり方が違うのである。私は二股かけるようなことはしたことがないし、出来ないたちであるが、「二股」というような単純なものではないのである。
 でも、夜は「本妻」のいるところで寝ております。「愛人」は遊んでやったらこてんと寝てしまうので、「泊まっていって」などというようなことはしないのが救いである。
 二匹の今の楽しみは、新しく買った電子辞書についている「音を聞く」という機能で、鳥や虫の声を聞くことだ。猫の好きな鳥や虫の声は確かにあるようで、種類によって反応が顕著に異なるのが面白い。
 なお、本場の方の「トルコの音楽隊」の行進曲は、ほぼすべての猫の好むところであることが、私の長年の猫生活によって裏付けられている。あの音に、猫の反応する音が含まれているからだろうと思う。
 猫がいるお宅は、一度おためしください。
 

きなこ童子、相模国から上洛す

2008年12月07日 | Weblog
 昨日、相模国まで子猫を迎えに行った。
 かねて、現在十三歳で老齢化している「くりこ」が寂しそうな様子をしているのが気になっており、また、くりこに万一のことがあったときのことも考えて、もう一匹同居猫を増やす計画を立てていたのである。
 猫好きの友人の言によると、老齢猫が子猫によって刺激を受けて長生きするという説もあるというので、慣れるまでが大変ではあろうが、ペレストロイカよろしく三人家族態勢への移行を挙行したのであります。

 初めは女の子を希望していたのだが、エキゾチックという種類の猫がなかなか見つからない。最近でこそ名が知られるようになったが、ペルシャといろいろな種類を交配し、顔はペルシャで体は短毛(長毛も生まれるが)という「毛の世話が便利」な猫は以前ほとんどキャットショーにも出なかったらしい。
 次生まれるまで待つか・・・と思っていた矢先、ひょんなことから養子話がとんとん決まり、人なつっこい男の子を迎えることになったのである。

 彼は薄い茶色で全身を覆われている。名前は、薄い色なら「きなこ」、濃い色なら「あんこ」と決めていたので、迷わず「きなこ」になった。つぶれた顔は、まるできなこ餅。四ヶ月くらいで、けっこう大きく見える。若いブリーダーさんは大変親切で、掃除の行き届いたお部屋にはきなこの父母もいて、みんなに挨拶。
 さて、きなこをケージに入れ、グリーン車を奢って新横浜から乗車したのだが、名古屋が近づく頃からきなこがせつなげに鳴く。どうやらお水が飲みたいようだ。だが、少しでもケージの扉を開けると頭突きの要領で出ようとするので、何とかなだめて帰宅した。

 ケージをみつめる先住猫・くりこの目に、おびえと威嚇の炎が宿る。すくっと立ち上がって、きなこの丸い顔を注視している。
 きなこは状況を把握していないようで、おそるおそるくりこに近づいていった。
 すると、くりこは、

 「あれ、推参な仏御前なり。我は祇王ぞ、身分をわきまふべし」

とでもいうような姿でシャーッと威嚇攻撃。とたんにきなこも背を思いっきり丸くして後じさった。
 しかし、すぐにまた近づこうとする。こんな感じで。

 「何をお言ひか。仏もただの凡夫なり」

 前進してゆくきなこの足は、まるで今様を舞うかのごとし。そろり、そろりと、である。

 結局、びびったくりこが、先に嵯峨野の奥の庵室にひっこんでしまった。
 まるで、平家物語と、コンラッド・ローレンツとを同時に読んでいるような、緊迫の一瞬でありました。

 きなこは、まだ子どもなので「童子」としてくりこの眷属になるべく修行を続ける予定。
 くりこ姫は、きなこ童子を使わしめとして使役する術を覚えてもらわにゃならん。
 しかし・・・こちらはまたしても締め切り前日なのに、寝不足で歯が痛い。きなこは、少しでもゴミやほこりが落ちていると手でちょんちょんと触って確認するので、まるでこちらの掃除の不備を指摘されているようだ。今朝はかなりしっかり床の掃除をしたものの、なぜかきなこは部屋の隅っこで丸まっている。君、ゴミ好きなのか、嫌いなのか。どーなの? (来てすぐに、私が日頃「掃除しなあかんな」と思っていた、玄関先のいちばん汚れた床を探し当てて、そこで大小の用をすませんた。これって思いやりか? )。

 
 次は、「冬のお布団攻防戦」が展開されると思われる。姫と童子の渋沢龍彦ふう物語は、ずっと続くのだ。


方言について放言

2008年12月01日 | Weblog
 かなり前のことになってしまったが、十一月九日に名古屋で行われた「エンジン01 文化戦略会議 IN 名古屋」の1パートにゲストとして出かけた。実は以前この会議のメンバーであったのだが、目的が当初とかなり異なってきたのと、単なるお祭り騒ぎのような気がしたので、やめたのである。今回は、源氏物語の現代語訳、というよりも源氏を題材とした小説を小学館の『和楽』という雑誌に連載しはじめた林真理子氏のいつものお相手である山本淳子さんが欠席なので、ピンチヒッターである。
 だいたい、源氏物語を私に語らせようというのが間違っているのだが、しかし、古典文学に詳しい人が誰もいないということで、かつ、ファンの某氏ともお目にかかれるとのことで、出演することにした。
 源氏千年紀のためか、この講座がいちばん最初に売り切れたという。

 林氏とは三回目の顔合わせとなろうか。もう十年以上前、秋田で佐伯順子氏、竹山聖氏との四人で女性のことについて講座を開いたの最初である(奇妙なメンバーではあるなあ)。
 林氏の小説は、大学の卒業論文でとりあげる学生がいるので、私はかなり読んでいるほうだと思う。昔の頃のエッセイや小説は、堂々と自分を笑いものにするところが面白かったが、最近は・・・(と発言規制する)。林氏の小説で私がいちばんびっくりしたのは、山梨の葡萄農家の「嫁」を描いた『葡萄物語』で、何に驚いたかというと、山梨弁が活写されていることであった。

 山梨のみなさん、ごめんなさい。
 こんなに「きたない」言葉だとは思わなかった。
 私は「方言は文化であるから軽重はつけるべきではない」と常々思っていたのであるが、この小説に書かれている方言はバルバロイ以外の何者でもなかった。それを書きしるした林氏を、私は一瞬尊敬したものである。おそらく、実態はもっと異なるのだろうけど、この衝撃は、中沢新一氏の『ぼくの叔父さん 網野善彦』で、網野氏が、

 「新ちゃん、来たんけ」

と方言で言っていたことと同等以上のものだった。語尾に「け」をつける方言は、私にとってたいそう違和感があり、かつ、西国では「いやしい」感覚さえあるのだった。

 日本語学の八亀裕美さんが『本』(講談社のPR誌)に書かれていたが、兵庫県の西部方言は敬意を表すのに「はる」(「先生~しはる」というようなの)を使わないので誤解を招くという例がある。

 学生「先生、知っとったったん?」

といった物言いである。これは、私もやられました。学生の本意としては「先生、ご存じだったのですか」という丁寧な言葉遣いなのだが、「はる」敬語の文化圏にいる人にとっては「~しとる」というのは「乱暴」で「粗野」な語感しかないのだ。
 私の場合は、やや免疫があった。大学院の後輩であるKくんが、兵庫県の加西市出身であり、ふだんから「~しとったった」という言葉遣いだったからである。最初は「何こいつ無礼な」と思っていたが、だんだんわかってきたので気にならなくなった。
 まあ、京都で「はる」使っても、決して敬意を表しているわけではないのだが。
たとえば、

 「隣の犬がまたうちの庭でうんこさんしたはる」

というのはいかが。庭で用を足されるのは迷惑なのだが、そこに「はる」をつけることにより、いわば敬意の逆を表しているのである。あるいは、皮肉や揶揄をこめて使っているともいえよう。
 以前、私が高校の同級生でパリに留学経験のある女子大教員と話していたときのことである。私はそのころ(いまだに、であるが)聖遺物やら死体信仰について調べており、彼女から、パリの某所に「ほとんど生みたいなミイラ状の聖遺物」があると聞いていた。
 どんなふうなん? と聞く私に、

 「あんなあ、ふっと見たら、そばに立ったはんねん」

と彼女は答えた。
 ミイラ状のものは、たいていの人にとって不気味であろう。「ふっと見た」彼女はびっくりしたと思う。それを、

 「立ったはんねん」

と敬意表現するか。するんですね、「はる」を多用するところでは。

 さて、名古屋のさるお嬢さま大学(地元では、そこの付属校からエスカレーター式に大学へ進学した学生を「純金」というらしい)で教えていたある人から聞いた話。
 その人が赴任して早々、名古屋巻できれいにメイクした女子学生たちが研究室の前で、

 「先生、見えてござる」

と言ったらしい。「見えて」も「ござる」も当然敬意表現の方言である。しかし、そのお嬢様たちの容姿とのあまりのギャップに、非常な異文化を体験した思いがあったという。
 ただし、愛知県は三河と尾張の方言が違うから、このお嬢様がどちらの出身かは私にはよくわからない。

 方言について、私がしばしばその道の者でもないのに発言するのは、自分が方言で思考する人間だからである。言葉の違いと思考方法の違いというものがある、と思うからだ。
 ラジオなどに出演すると、「田中さんはあまりなまりがないですね」とか「京都のひとらしくないですね」などといわれることが多いが、それはアクセント以外共通語にしているからであって、もっともべたな方言を話していないからである。
 それにしても、「なまりがないですねえ」というラジオ局のスタッフのいくちらいかは、明らかに北関東の「なまり」があった。本人は気づいていないだけだろうし、東京は大きな地方のかたまりなので、「なまり」がない人のほうがおかしいのである。
 
 林氏らとの講座については、いずれどこかで書くこともあろうから、今回は省略に従う。いかに源氏がイメージ先行で語られるかの見本のようなものだった。
 源氏千年紀の損得については、京都新聞の連載でルポしたので、十二月第三週をごらんください。

*お仕事通信*
・東本願寺発行の『同朋』12月号に、「物語はもっと豊かだ」というテーマでインタビューを受けています。

・近刊の『むらさき』で、研究余滴「柏木の東下り」を書いています。