朝、本来なら周知活動をするはずの月に一度の水曜日。シルシはただベンチに座って遠くからいつも自分がいた場所を眺めていた。こんな平日の朝なら変哲もない場所だけど、シルシが立っていた場所にはマキーナのファンたちの自作ステッカーがガードレールや鉄柱に幾重にも貼られていて、まるでそこだけ現代アートのでき損ないみたいになってる。
「今日はしないの?周知活動…」
ふと誰かの声がした。
「…ああ」シルシはその声に答える。
「今日ってなんの日か覚えてる?ウケイ先生に初めてシルシ君を紹介された日なんだよ」
アキラはそう言ってシルシの隣に腰を下ろした。
「ほんの二年半ほど前のこと。でも、ものすごく遠いことに感じるのは、それだけ変わったってことなんだよね」
「…アキラは変わったよ」シルシは視線を前に向けたまま言う。
「うん。シルシくんもね。自分でも思うよ。本当に悩んでばかりでね。毎日自分の体を呪ってた…でも、そんなこと言ったらヤエコちゃんにも悪いよね。少なくともボクはあの時も今と同じく生きていたんだから。ウケイ先生はボクに色んな嘘の中にいることを許してくれた。ボクが女の子であること、ボクが先生を好きなこと…思えばボクたちは嘘が得意だったんだ。ねえ、ボク達の周りで起こってることなんてただの化学反応だよ。この感情もボクの存在も全部そう。だから足元の小石と夜空の星との間に何の優先順位もないんだ。でもね、それじゃ味気ない。何かそこに意味があると信じられるだけの理由が欲しい。それだけのためにみんな色々嘘をつく。それを信じこむ。その内に嘘かどうかもわからなくなってしまう」
「それじゃまるで…」
「そう、まるでスフィアみたいだよね。最近気づいたんだ。スフィアの連中とボク達とはそんなに変わらない」
『ボク達』シルシにはアキラのその言葉が引っかかった。
「…アキラ、何が言いたい?」
アキラは頬杖をついて、ただ街の様子を眺めながら、屈託もなくこう聞いた。
「…ねえ、シルシ君、ボクに嘘ついてない?」
二人の視線の先ではスクランブル交差点の信号が赤から青に変わる。残り時間を教えるバーの数を一つ一つゆっくりと減っていくのをただ待つようにシルシは黙っていた。怒ることもできたかも知れないが、も嘘の時機も逃したと感じてる。
「そんなこと言われたの最近じゃあ二人目だよ。一人目は、その時はあの場所で、初めて会ったアノンだった。で、二人目がおま…」
「本当のことなんだよね?」
アキラはあの時のアノンとまるっきり同じ言葉をついた。とぼけたふりをして犯人しか知らないはずの出来事を再現してみせる探偵のように。
「アキラだってなんどもあのビラ見てるだろ?当時の新聞の切り抜きだってあるんだ」
シルシもアノンの時と同じだ。
「でも、それが違ったら?」
「…怒らせたいならもっと他の方法でやれよ」
シルシが語気を強めると、アキラは身体を起こして初めてシルシを見つめた。その目は静かでまっすぐにシルシに向けられている。
「ボクは嘘でも信じるんだ。でも、その理由を知りたい。どうして?教えて」
アキラはかまをかけてるんじゃないことはその様子で分かる。彼女はもう全て知っている…それでシルシに最期の機会を与えようとしてる。
「…アキラに疑われるなんて残念だよ」
そう言ってシルシはその場を立ち去ろうとした。
「待って」
アキラはシルシの手を取って引き止めた。
「ボク分かったんだ。イナギの起こした事故は、ただの模倣なんかじゃない。それに単にシルシ君達を殺しに来たんじゃない。彼は事故の真相を知っていた。シルシ君の事故の忠実な再現だったんだ。アノンちゃんやシルシ君を轢こうとしたのもその一環。動機は分からないけど、そうしなくちゃいけない事情があったんだと思う」
「お前までそんな馬鹿げたことを…」
その時、
「これ」
そう言ってアキラは透明なファイル入れに挟んだ新聞の切り抜きをシルシに差し出した。シルシはそれを手に取ることもしない。彼にはそれが何を意味するのか見なくても分かっていた。
「…シルシ君の言ってることと違うことが載ってるんだ…あの事故の死傷者は三人。助かったのはシルシ君。後の二人は死んだんだ。シルシ君のお父さんとあと女の子。この女の子はヤエコちゃんのはずだよね。でもね、これがおかしいんだ。一人の女の子は身元不明だって、そう書いてある」
シルシは言葉を失っていた。それまで胸の奥でくすんでいた恐怖が血の巡りと一緒に全身を捉えて、シルシは思わずめまいを覚えた。ただ脳裏に一瞬ある光景がよぎった。車のフロント・バンパーと壁の間に挟まれ、まるで壊れた人形のように力なく頭をぶら下げてたくさんの血が彼女の長い髪を伝って胸まで血で染めて、二つの真っ白な腕を力なくボンネットの上に乗せている女の子の姿。その姿はまるで…いや、違う。そんなはずがない。僕はひどい傷を負ってあの時のことは何も覚えてないんだ。夢でも何度も見たあの時の光景は僕の想像の産物だ。そうに決まってる。それなのに、なんであの夢はあんなに鮮やかで明け方僕を悩ませ続けるんだろう?その記憶の中で決まって僕は血に染まった彼女の顔を覗く。それはその面立ちはまるでアノンだ。いや、だが違う。似ているが、別人だ。
‐る…く…ん
「…シルシ君…」
遠くの方でアキラが呼びかけてるのが聞こえる。
「…ねえ、シルシ君。なんで?」
深い井戸の底でうずくまっているシルシを呼びかけているような、そんな声だった。
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