『聞こえてますか?シルシです』今日も何の反応もない。机の上に置いてあるデジタル時計は0時丁度を表示している。そろそろ寝よう。僕はインカムを外してPCの電源を切るとベッドに寝転ぶ。小さな音楽プレーヤーのイヤフォンを耳につけて、部屋の電気を消して目を閉じた。
-雑音の混じった人の声が遠くで聞こえてくる。時おり、マイクの近くで何かがこすれる大きな音がする。そのうち女の子の澄んだ歌声が聞こえてくる。それはまた何回か物音に邪魔されながら、はっきりと近くに聞こえてくる。
それはヤエコの声だ。喉元で震えるような綺麗で少し幼い声。歌詞は適当らしくて,異国の言葉の風にでたらめな発音をしているようだった。ヤエコの歌。僕はこの歌をそう呼んでる。それから突然、大きな音が鳴ったと思うとヤエコの声が
『お兄ちゃん、いつからそこにいらしたの』と部屋に響いた。
『今来たところだって』と僕が言ってる。
『いや、本当だよ、ヤエコ。君がオリジナル・ソングを歌っていたなんて全然分からなかったのだ』
その中年男性の声は『研究所』でのヤエコの主治医だったウケイ先生だ。病弱なヤエコは事故で死ぬ前の数年間を『研究所』で過ごした。幼い頃から病院生活が長く、日頃から年上の人ばかりと接してきたヤエコは敬語で話す癖がついていた。
『それもしかして録音してらしたんですか?』ヤエコの声。
どういう動機のいたずらだったのかは今となってはもう思い出せない。
『別にしてないよ』僕がごまかそうとしていると
『いや、仮にもアイドルを目指すものとしてはこういうのを恥ずかしがってはいかん』とウケイ先生が真面目ぶっていった。
多分、こういう反応がヤエコを余計に刺激してしまったようだった。『でも、そういうの卑怯だと思います…自分の声って聞くとすごく変に感じるでしょう?この前聞いてちょっと落ち込んだんですから。だから、恥ずかしいから消してください』
『いい歌だったよ』
『そうだ。初々しさが実に良かったぞ。乙女の秘した切ない恋心を感じた』とそれに応じるウケイ先生。
『ちょっと何をおっしゃるんですか?かくなる上は…』ヤエコがそういうと急に雑音が大きくなった。
『こら、やめろ。壊れるから乱暴するなよ。借り物だから』
『内緒で撮るのが悪いんです』
『落ち着くんだ、ヤエコ。身体に毒だ。これは主治医としての忠告だ。我々は観察環境に影響されないヤエコを記録してみたかっただけなのだ。それにな、被験者に実験内容を悟られないダブル・ブラインド方式は行動心理学の研究において必須だ』
『何言ってるんです、このばーか』
『ヤエコ、なんて口の聞き方だ』僕がヤエコをたしなめている。
『考えてもみるんだ、ヤエコ。例えば、コップの中に入ったお湯の正確な温度を計ろうとしても、温度計を入れた時点で、温度計自体の温度が影響してしまう。これは量子力学を生み出した重要な概念であり、光の波と粒子という二つの性質を同時に観測することもまた不可能だ。また、文化人類学におけるアマゾンの熱帯雨林に住む手付かずの文明を持った原住民族との接触においてもまた同様の矛盾が生じてしま…』
『えいっ』
『こら、やめ…ッ』
僕が叫んだところで音声が終わっていた。でも、どうにかこの音声ファイルは生き残っている。今では貴重なヤエコの遺品の一つだ。
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