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ヨハネの黙示録 13章

2023年04月29日 | ヨハネ黙示録
ヨハネの黙示録 13章
獣・反キリストは聖徒に戦いをいどんでこれに勝つことを許され、さらに、すべての部族、民族、国語、国民を支配する権威を与えられた。(13・7)


第13章は〝獣〟についての預言です。聖書では、神に敵対する存在を〝獣〟と象徴的に表現しています。たとえば、創世記では、アダムとエバを誘惑したヘビを野の獣の中で最も狡猾な……と記しています(創3・1 新改訳)。またその後、ヘビは獣の中で最も呪われるとも言われています(創3・14)

極めつけは、ダニエル書で預言されている種々の獣です。獣は神に敵対する帝国や王のことで、歴代の帝国を獣として表しています。

第1の獣〝獅子〟はバビロン帝国です。
第2の獣〝熊〟はメディアペルシャ帝国。
第3の獣〝豹〟はギリシャ帝国でした。

そして次に登場する帝国は第4の獣です。獅子と熊と豹とを合わせた……それ以上の凶暴な特別な獣として描かれています。

実は、この第4の獣は歴史の順序でいえばローマ帝国に相当します。そして事実、ローマ帝国の時代にキリストは殺され、キリスト教会は大迫害を受けました。この邪悪ぶりはまさに獣でした。ですから、初代教会の迫害時代のことが、黙示録の預言する患難期であると解釈する神学もあります。

しかし、その歴史的な経過を見ると黙示録の預言通りには展開しませんでした。ローマ帝国は第4の獣の要素を含んではいましたが、さらに終わりの時代に究極の獣の時代が来るのです。それが、黙示録に登場する海からの獣です。

黙示録ではふたつの〝獣〟が登場します。海からの獣地からの獣です。両者は別の獣ですが、その背後にあって働くのは龍でありサタンです。順をおって見てみましょう。

(1)海から上ってくる獣、それは反キリストだ。

〝獣〟とは、ひとりの人物であると共に、彼が統治する帝国のことです。この獣こそ反キリストとか不法の者とも呼ばれる存在です。これがダニエル書の第4の獣です。※不法の者は第二テサロニケ書2章3節によれば、神殿にて自分を神だと宣言するが、再臨のキリストによって滅ぼされることになっている。

この獣には10本の角と7つの頭があり(13・1)第4の獣と形態が酷似しています(ダニ7・7)。10本の角は10人の統治者とか、10ヶ国の連合体のような帝国を表していると思われます。獣の国は10ヶ国連合です。 ※現在の欧州連合(EU)のことだとの指摘は早計である。かつて10か国であった加盟国も現在では27か国。これは患難期時代に登場する国である。

ダニエル書によれば、10本の角の中から1本の角が出て来たために10本のうちの3本が引き抜かれることになります(ダニ7・8)。その後、登場する1本の角が反キリストであり、獣の国を代表する支配者になるのではと考えられています。

また、獣の7つの頭とは、獣の帝国の統治における7段階を表すという説があるが、理解しやすい解釈だと思います。それによれば、患難期に登場する反キリストは最後の段階……つまり7番目の頭の時代の統治者であるわけです。※詳細は17章を参照。

すでに先の12章で見たように、赤い龍(サタン)も10本の角と7つの頭がありました。つまり、龍と獣は根は同じです。獣とは、龍(サタン)が人間の姿でやって来たような人物と考えてよいでしょう。

御子イエスが人として世に来られたのは、父なる神の栄光を見える姿で現すためであったのと同様に、獣は見えないサタンの邪悪さを見せてくれる人物です。御子イエスが「天の父とひとつである」お方であるように、獣は龍の化身のような人物です。彼らは根っ子ではひとつです。

とはいえ、獣は優秀で卓越した人物です。その秀でた才能ゆえに人々から称賛を浴び、人々は彼を全世界の統治者として承認するようになるでしょう。それほどのカリスマ的な人物です。

この獣すなわち反キリストは、何らかの事件で殺されたのですが復活を遂げます。「その頭の一つが、死ぬほどの傷を受けたが、その致命的な傷もなおってしまった」のです(黙13・3)。しかも、その反キリストがあのふたりの証人に打ち勝ったのですから、地上の人々は彼を統治者として承認し、崇めるようになるのです。その様子がこう預言されています。

龍がその権威を獣に与えたので、人々は龍を拝み、さらに、その獣を拝んで言った、『だれが、この獣に匹敵し得ようか。だれが、これと戦うことができようか』。」(13・4)

龍である悪魔は、自分も神のように賛美を受ける者になりたいと願って堕落した元天使です。自分が神としてこの世を支配し、人々からの礼拝を受けたい。これが悪魔の本性です。だから、こうして龍は自分の化身である獣に力を与え、獣を通して自分が崇められるように画策するのです。

真実な礼拝は、神の御子イエス・キリストを通して天の父を礼拝することですが、この時代は大きな惑わしによって、獣礼拝は地にはびこることになります。 ※昔から悪魔礼拝をする人々がいるが、一般人にはおぞましくて身近な事ではない。しかし、この時代になると様態を変えて公然と獣への礼拝がなされるであろう。

(2)地から上ってくる獣、それはにせ預言者だ。

11節には、地から上ってくるほかの獣が登場します。「ほかの」とは、〝まったく同じ性質であるほかの〟という意味です。ですから、龍と海からの獣と、そしてこの地からの獣とは形こそ違いますが同質の存在です。

この獣には小羊のような角が二つあるのですが、これは宗教的な活動を意味します(13・11)。先の獣すなわち反キリストを神として礼拝するために、宗教活動をする獣です。

さらに龍のように物を言ったとあるので、悪魔の代弁者です。巧みな言葉と説得力ある情報発信によって、人々を獣礼拝へと駆り立てるのでしょう。この獣なるお方こそ世界を救う神であると説明し、人々を惑わすのです。まるで預言者です。 ※インターネット上のフェイクニュースやAI技術によるフェイク動画が世界を惑わすだろう。技術が進めば見分けるのは至難のわざだ。「地からの獣」はそれらを巧みに利用するだろう。

かくして、民衆を獣礼拝へと導くのですから、この獣は別名〝にせ預言者〟と呼ばれます。初代教会の時代にも、にせ預言者に注意せよと警告がありましたが、彼らの背後には獣と龍の働きがあります。そして、患難期にいたって究極の〝にせ預言者〟が登場し暗躍するというわけです。※黙示録も「地からの獣」が「にせ預言者」だと証言している(16・13、19・20)

にせ預言者なる獣の宗教政策は徹底しています。獣礼拝のために獣の像を各地に建立して礼拝を強要します(13・14~15)。また、獣を礼拝する者に刻印を押して、刻印のない者は経済活動ができないようにします(13・16)

獣が人々の額か手に刻印を受けさせるわけですが、例えば微細な電子チップを埋め込むことも考えられます。実際に犯罪歴のある人に実用化され、行動を管理しています。また、自ら進んでチップを埋め込んで、その電子データでドアや車の開閉やカード決済をする人もいます。いまや現実の世界です。

電子決済が飛躍的に進み、インターネットによって経済活動は捕捉されて行きます。だれが何を買ったのか、どんなネットにつながっているのかをAIが管理しています。それは、やがてネットを牛耳る者が人々を支配する環境作りになるでしょう。

イエスを信じる私たちには聖霊の刻印が押されます(エペソ1・13)。聖霊の刻印を受けた者は偽りの神々を礼拝しません。否、したいと思わないのです。獣を拝むなら、内なる聖霊も我が霊も苦しみ悲しむからです。だから古代ローマ時代の聖徒たちも、この聖霊ゆえに、イエスを主と告白し殉教して行きました。ここにも聖徒たちの忍耐と信仰があります。 
 
(3)獣の支配は一時的だ。必ず終わりが来る。

獣は終わりの時代に世界を支配し、その悪魔的な本性を現します。しかし42ヶ月の間活動する権威を与えられたに過ぎないのです(13・5)。それをゆるされたのは神です。

冒頭の聖句も彼は聖徒たちに打ち勝つことをゆるされた(13・7)とありますが、それをゆるされたのも神です。いかに獣が力があるようでも、神のゆるしがなければ彼は何もできません。

「神様!ひどいじゃないですか」と訴えたくなりますが、神はあえてそうなさる時があるのです。

総督ピラトはローマ帝国の権威の下で、イエス様を尋問してこう言いました。「私にはお前をゆるす権威も十字架につける権威もあるのだ」と。そのピラトに対してイエスは、「神がその権威を与えなければ何もできないのだ」とお応えになりました(ヨハネ19・10~11)。そうです。神にこそ本当の権威があり、すべてはその支配の下にあるのです。

私たちが順調な時、それは主がゆるされなければあり得ないことですから、高慢になることなく感謝しなければなりません。逆に、何もかもうまく行かない時、それも主がおゆるしになったのですから、意味のあることです。すべては神の御業が現れるためです。主を賛美しましょう。ここに〝聖徒たちの忍耐と信仰〟があります(13・10)

(4)神は〝獣〟と〝家畜〟を区別される。

そもそも、神はなぜ、反キリストを〝獣〟と呼ばれるのでしょうか。

神は動物を創造なさったとき〝獣〟と〝家畜〟を区別して創られました(創1・24)。犬は家畜ですがオオカミは獣です。馬とシマウマ、猫とヤマネコ等々同様の区別です。似ていますが、獣と家畜は違います。 ※進化論では、人類がオオカミを飼い慣らしてやがて犬なったと説明する。オオカミと犬のDNAはほとんどが同じだが、残りの数%の違いは大きな差である。動物園の調教師はライオンや熊を飼い慣らしている。だからといってDNAの変化は起こりえない。遺伝子学の立場からは、オオカミと犬との違いには超えることのできない大きくて高い隔たりがある。この「遺伝子の壁」を乗り越えられない。

家畜は人になつきますが獣はなつきません。家畜は主人に仕える性質を持っていますが、獣にはありません。自分が主人です。反キリストも偽預言者も、そういう意味で〝獣〟です。

神に仕えず自らを神として生きる者は〝獣〟です。どんなに教養や能力があっても、神を主人とする謙遜と従順がない者は〝獣〟です。

私たちクリスチャンは獣ではなく家畜です。家畜の羊です。羊は弱い存在ですが、牧者に従います。牧者がいなければ生きられない存在です。まことの羊飼いであるイエスに聞き従う者です(ヨハネ10・1~6)

牧者であるイエスに対して、常に謙遜と従順をもって仕える者でありましょう。ここにも〝聖徒たちの忍耐と信仰〟があります。


ヨハネの黙示録 12章

2023年04月28日 | ヨハネ黙示録
ヨハネの黙示録 12章
兄弟たちは、小羊の血と彼らの証しの言葉とによって、彼に打ち勝ち、死に至るまでもそのいのちを惜しまなかった。
(12・11)


第7のラッパが吹き鳴らされると、7つの鉢のさばきが始まることは先に説明しました。そこに至るまでの経緯が、第12~14章に記されています。ですから、過去の出来事もふくめて包括的に述べられています。特にこの12章は過去の歴史的な出来事も含めて記されているので、時間軸は前後しますが、混乱のないようにお読みください。

大いなるしるしが天に現れた。ひとりの女が太陽を着て、足の下に月を踏み、その頭に12の星の冠をかぶっていた(12・1)。この〝ひとりの女〟とはだれのことでしょう。

女といってもある特定の婦人のことではありません。この場合、人間の集団のことです。黙示録には3つの〝女〟が登場します。今日の箇所の「ひとりの女」と、「大淫婦」とよばれる女と、「キリストの花嫁」としての女です。 ※聖書では人間を〝女性〟として表現する聖句は随所にある。

「太陽と月と星」で思い出されるのは、創世記37章9~11節の記録です。ヨセフが見た幻が記されているのですが、その場合、太陽は父ヤコブ、月は母ラケル、星は兄弟たちを現していました。つまり、太陽・月・12の星とはイスラエル民族を表しています。

ですから、黙示録12章1節の〝ひとりの女〟はイスラエル民族のことです。この女は子を宿しており、産みの苦しみと悩みとのために、泣き叫んでいたとあります(12・2)。イスラエルは世にキリストを生み出す使命を受けた民族ですが、キリストの誕生を阻止する悪魔による長年の執拗な攻撃によって、苦しみながらキリストを世に送り出したのです。

だからこう記されています。「見よ、大きな、赤い龍がいた。それに七つの頭と十の角とがあり、その頭に七つの冠をかぶっていた。その尾は天の星の三分の一を掃き寄せ、それらを地に投げ落した。龍は子を産もうとしている女の前に立ち、生れたなら、その子を食い尽そうとかまえていた。」(12・3~4) ※「龍」は「竜」とも表記される。

この赤い龍とはサタン悪魔のことです龍はその尾で天の星の3分の1を地に投げ落とした……とありますが、サタンが天の御使たちの3分の1を引き連れて地に落とされたことを意味しています。 ※龍の形態は後に登場する獣と酷似している点に注目。その意味は13章で読み解くことにする。

この赤い龍は女が産もうとしている男子(キリスト)を食い殺そうと待ちかまえています(12・4)。これは、クリスマスの時、サタンがヘロデ王を用いてベツレヘムの幼子を皆殺しにしたことを暗示しています。

女が産んだ男子は鉄のつえをもってすべての国民を治めるべき者である。この子は、神のみもとに、その御座のところに、引き上げられたとあるように、神の御国の王として統治するお方であり、かつ、みもとに引き上げれるようにして、復活して天に上げられたことからも、イエス・キリストのことです。

ここまでは、歴史上確認できる内容です。つまり、すでに実現しています。

しかし、6節の女は荒野に逃げたとは、これからのことだと考えられます。反キリストが神殿にて我こそ神であると宣言し、その偶像を神殿にすえる時が来ます。その時、女すなわちイスラエルは「荒野に逃げる」ことになるでしょう。

そのタイミングはイエスも指摘なさっています。預言者ダニエルによって言われた荒らす憎むべき者が聖なる場所に立つのを見たならば読者よ、悟れ、そのとき、ユダヤにいる人々は山へ逃げよと予告された時のことです(マタイ24・15~16)

これは、反キリストが患難期の半ばで契約を破棄する時のことです(ダニ9・27)。それまでは、世界平和に貢献する良き指導者を振る舞っていましたが、いよいよ反キリストが本性をあらわにし、神の民に向かって牙を剥くことになります。

このタイミングでイスラエルは山に逃げ、1260日の間守られます(黙12・6)患難期の後半の3年半にあたります。ここで、イスラエルは悔い改めてキリストを信じるに至るのであろうと思われます。

民が逃げ込む〝山〟とは、エドム地方のボツラであると考えられます。死海のほとり南東に位置する町です。この預言はイザヤ書63章1節に記されているのですが解説の詳細は割愛します。 ※「ボツラ」はエドムの主要都市でギリシャ語では「ペトラ」である。岩をくり抜いた町で荒野における要塞である。

12章7~9節は、サタンがどのようにして天から地に投げ落とされたのかが記されていますが、そのサタン(悪魔)は「龍」とか「へび」と呼ばれています。エデンの園でアダムとエバをだましたのは「へび」でしたが、この黙示録の記述によって、その正体は悪魔であったと分かります。

悪魔は天の戦いで敗れて地に投げ落され、その使たちも、もろともに投げ落されたとあります(12・9)。患難期の出来事であろうと予測されるのですが、地に落とされる以前でも悪魔はこの地上で働いていました。すでに悪魔は「空中の権をもつ者」ですから、地上をはじめ宇宙空間でも働いてきました。時には神の霊界である天にでさえ顔を出すこともありました(ヨブ1・6)。しかし、黙示録12章9節の段階で、その活動範囲は地上に限定されたという意味でしょう。

だから地に投げ落とされたが意味するところは、悪魔および堕天使たちの活動は地上においては激しさを増すことを表しています。それは、地上に住む者たちにとってはわざわいです。しかし、天上においては勝利と完成に向けて大きな前進ですから、喜びがあります(黙12・12)

さて、龍は、自分が地上に投げ落されたと知ると、男子を産んだ女を追いかけたとあります(12・13)。この記述は先の12章6節から跳び越えるようにしてつながっています。 ※7節~12節は悪魔についての説明が挿入されている。

悪魔がイスラエルを滅ぼそうとするのは、この時に限ったことではありません。歴史の中で何度もくり返されてきました。

旧約の歴史の中では、エジプト王パロはイスラエル民族の男児殺害を実行しました。また、ペルシャ帝国の時代、ハマンは法律によってイスラエル民族を抹殺しようとしました。このように、歴代の帝国はユダヤ人を迫害しました。 ※ダニエル書ではこの帝国を種々の〝獣〟にたとえて記している。

新約の歴史の中では、中世の教会がキリスト教に改宗しないユダヤ人を迫害しました。各地でなされたホロコーストも宗教の違いによる憎悪が理由です。宗教的な反ユダヤ主義です。

また、近代に入ると民族的な反ユダヤ主義に転換してきました。ナチスによるユダヤ人大量虐殺は顕著な例です。そして、現代に至っては紛争の火種になっているイスラエルを問題視するかたちで、政治的な反ユダヤ主義へと変貌を遂げています。

このような一連の反ユダヤ主義思想の背後には赤い龍、すなわち悪魔の働きがあるのです。

悪魔が反ユダヤ主義を画策する理由とは何か。それは、イスラエル(ユダヤ人)を通して神のご計画が実現することになっているからです。それを阻止するために、悪魔は人類に反ユダヤ思想を植えつけて、いまもその力は働いています。

そして、世の終わりの患難期において、サタンによるユダヤ人迫害は頂点に達するでしょう。しかし、そのような中でも神はイスラエルを3年半の期間守られるはずです。こう預言されています。

女は自分の場所である荒野に飛んで行くために、大きなわしの二つの翼を与えられた。そしてそこで、へびからのがれて、1年、2年、また半年の間、養われることになっていた。(12・14) ※この保護は12章6節で説明したとおりである。ボツラ、別名ペトラの要塞で守られることになるであろう。

イスラエル民族はサタンの攻撃―反キリストによる迫害―によって苦しみますが、死に至るまでいのちを惜しみません(12・11)①小羊の血と、②証しの言葉が彼らを強めます。

これは今日の私たちも同じです。小羊なるイエスの血は私を救う血であり、きよめる血です。私たちには小羊の血が塗られています。この血は救いのしるしです。死さえも過ぎ越してしまうしるしです。

もうひとつは、証しの言葉です。イエスを信じた体験の言葉とも言えるでしょう。実際に体験した証言は、力強い希望となります。

サタンの攻撃はなおも増してきます(12・17)。また、サタンは私たちを日夜訴えるのです(12・10)

しかし、勇気を出してください。私たちには小羊の血証しの言葉があります。そればかりか、主イエスはすでに世に勝っています(ヨハネ福音16・33)。しかも、その勝利は勝ち得て余りがあるほどなのですから(ローマ8・37)


ヨハネの黙示録 11章

2023年04月27日 | ヨハネ黙示録
ヨハネの黙示録 11章
この世の国は、我らの主とそのキリストの国となった。主は世々限りなく支配なさるであろう。
(11・15)


第11章からは、エルサレムの街と神殿 ――「聖所」とは神殿のこと―― に舞台が移ります。この記録は、長い間、現実のものとは思われませんでした。

なぜなら、ヨハネが黙示録を記録した時点では、すでにローマ軍によって都エルサレムは陥落し、神殿は破壊され、ユダヤ人たちは離散の民となっていたからです。ですから、神殿を舞台とする記述は、当時としてはあり得ない環境なのです。 ※エルサレム陥落が紀元70年。ヨハネが黙示録を記録したのは紀元90年代であったので、その時点で神殿は存在していない。

この聖書預言が実現するには……、
 ①エルサレムの都が再建されている。
 ②そこにユダヤ人たちが住んでいる。
 ③神殿が再建されていなければなりません。

ところが、1900年以上の歳月を経て、今や①と②が実現しているのです。黙示録11章の預言が実現する舞台が整いつつあるのです。ですから、やがて神殿も再建されるでしょう。しかし、かつて神殿が建っていた場所に、現在はイスラム教のモスクが建っています。容易い話ではありません。

この難題がどのように解決されるのかは、さらに時を経てみなければ分かりません。ただ考えられることは、反キリスト(「獣」と呼ばれる人物と帝国)とイスラエルとの契約によって、何らかのかたちで神殿再建が可能になるのかも知れません。

さて、その神殿について命令がありました。神の聖所と祭壇と、そこで礼拝している人々とを、測りなさい(11・1)。測るとは吟味することです。終わりの時代のイスラエルの信仰のあり方を、神はお調べになるのでしょう。

しかし、聖所の外の庭はそのままにしておきなさい。それを測ってはならない。そこは異邦人に与えられた所だから。彼らは、42か月の間この聖なる都を踏みにじるであろうと記されています(11・2)

旧約の律法によれば、神殿の外庭は「異邦人の庭」と呼ばれ、異邦人が入ることのできる場所として定められています。この患難期の神殿の場合は、異邦人(反キリストの民のこと)によって42ヶ月の間(3年半)踏みにじられるのです(11・2)

ここで思い出されるのが、ダニエル預言の最後の1週7年間の半ばに、反キリストが契約を破棄して神殿をけがすという預言です(ダニエル9・27)。ダニエル預言の〝1週〟と黙示録の〝7年の患難期〟がここでも符合します。

次に、患難期にはふたりの証人が活動します(黙11・3)。彼らの活動する期間も1260日つまり3年半です(1年を360日で計算)。これは7年の患難期前半の3年半です。
ふたりの証人は7章4節にある14万4000人の伝道者とは別の人物ですが、ふたりはイエスの証人であり、ふたりの言動はユダヤ人をはじめ全世界の人々に影響を及ぼすことになるでしょう。

ふたりの証人のことを全地の主の御前に立っている二本のオリブの木、また、二つの燭台であると説明しています(11・4)この描写はゼカリヤ書4章にも描かれています。2本のオリーブの木から油が供給されることで燭台の灯火が煌々と照る幻です。ふたりの証人たちの働きは聖霊の油を世に供給し、世の光として照らす働きとなるのでしょう。

ふたりの証人の活動拠点はエルサレムです。その街でふたりの証人は、先にイスラエルと契約を結んだ反キリストの正体をあばくでしょう。彼はいかにも自分こそがイスラエルを救い、世界さえも救うキリストであるかのように振る舞うが、その正体は偽キリストであり反キリストであると証言します。

ユダヤの人々よ目をさませ。イエスこそキリストであると証しをするのです。こんなことを証言されては反キリストも黙っていません。彼らを殺害しようとするのですが、1260日の期間が満ちるまでは手出しできません(11・5~6)

こうして、ふたりの証人は、神の御怒りのさばきがくだることを世界に知らせると共に、人々に悔い改めをうながします。

かつて、モーセとアロンのふたりが、エジプトのパロに災いをもってさばきを警告し、悔い改めを迫りました。あのエジプトの事件は、世の終わりに実現する世界的規模のさばきの「ひな型」です。

そして、エジプトから神の民を救出されたように、神は、終わりの時代に、激しい御怒りを下しつつも、その中から神の民を救い出されます。そのために「ふたりの証人」を遣わされるわけです。そして、獣である反キリストを信じるのか、それともイエスこそキリストだと信じるのかが問われるのです。

彼らがそのあかしを終えると……と記されているように、ふたりの証人の活動が終わります。ここで患難期前半の3年半が終わるわけです。すると底知れぬ所からのぼって来る獣が、彼らと戦って打ち勝ち、彼らを殺すのです(11・7)

この獣とは反キリストのことです。彼は「底知れぬ所からのぼってくる」とあるように、一度は死んだかに思われたのですが、奇跡的に生き返って、ふたりの証人を殺すのです。 ※13章3節の「その頭の一つが、死ぬほどの傷を受けたが、その致命的な傷もなおってしまった」とはこのことを意味するのであろう。

それまで誰も太刀打ちできなかったふたりの証人を殺したことで、反キリスト(獣)は人々から称賛され、その地位を強固にすると思われます。そして、彼は勝利を誇示するために、ふたりの証人の遺体をエルサレム※の大通りにさらします(11・8~9)。 ※「ソドムやエジプトにたとえられている大いなる都」とはエルサレムのことである。聖なる都であるはずのエルサレムが、反キリストを迎え入れてソドムやエジプトのように堕落していることを表している。

処刑の様子はネット配信で世界中に拡散されることでしょう。これは大ニュースです。速報が撃たれます。それどころか、ふたりの証人の処刑を歓迎する多くの人々が、贈り物をして喜び祝うというのです(11・10)。これは異様な光景です。

反キリストを支持する人々の目には、患難期の災いは、このふたりの証人が元凶だと見ていたからです。彼らさえいなくなれば一連の天変地異は終わると考えたのでしょう。だから、人々はこの処刑を喜び、贈りものを取り交わすのです。

しかし、神は、ふたりの証人を復活させ、天に引き上げられます(11・11~12)。この状況も、インターネットのライブ配信を介して、瞬く間に全世界の知るところとなるでしょう。

ヨナのしるし(復活のこと)以外にしるしはない(マタイ16・4)とイエスが言われたように、患難期においても、ふたりの証人の復活は、人々が救いを受ける最後のしるしとなるのです。

2千年前のイエスの復活の時もそうでしたが、罪人の心はかたくなです。それでも悔い改めない者へのさばきが遂にくだります。それが、第7のラッパに込められたさばきです。

この第7のラッパのさばきは「7つの鉢のさばき」のことで、具体的には第16章から記されています。まさに最後のラッパです。これによって悪を滅ぼし、神の支配なさる御国が完成します。

ですから、天では神の御国の完成の喜びを先取りするかのように賛美が歌われます。この世の国は、我らの主とそのキリストの国となった。主は世々限りなく支配なさるであろう(11・15)。主イエスの再臨を待ち望む現代の私たちも、この賛美を先取りして日々の礼拝で歌うのです。

黙示録のメッセージは一貫しています。どんな厳しい状況を経ようとも、神の御国の計画は実現に向かって力強く前進するのだ。だから希望をもって戦いつづけよとのメッセージです。

だから祈ります。御国が来ますように……と。


ヨハネの黙示録 10章

2023年04月26日 | ヨハネ黙示録
ヨハネの黙示録 10章
私は御使の手からその小さな巻物を受け取って食べてしまった。すると、私の口には蜜のように甘かったが、それを食べたら、腹が苦くなった。
(10・10)


第7のラッパが吹き鳴らされると、いよいよ最終段階に入るのですが、この第10~14章までは、ことの詳細を補足説明するようにして挿入されてる章です。途中、11章15節で「第7のラッパ」が吹かれるのですが、時間経過は記されていません。

もう一度整理します。

この第10~14章までは、第6のラッパと第7のラッパが吹かれるまでの間に、時間的に前後しておこる出来事を総じて説明しています。

第7のラッパが吹き鳴らされると、「神がそのしもべ、預言者たちにお告げになったとおり、神の奥義は成就される」のですが(10・7)、その前にひとりの御使(天使)が登場します。彼は小さな巻物を手にしていました(10・2)

この御使が手にした小さな巻物と小羊イエスが手にした巻物とは別物です。前者は〝開かれた〟小さな巻物ですが、後者は〝7つの封印〟のある巻物ですから違うものです。

さて、この小さな巻物を手にした天使が叫ぶようにして語りました。その内容はおそらく、小さな巻物の内容であろうと思われます。ヨハネはそれを書きとめようとしたのですが、書きとめるなと禁じられました(10・4)

ですから、内容は私たちには分かりません。ヨハネにだけ伝えられたことで、私たちに知らせる必要のないことです。自分に向けて語られた御言は書きとめるのではなくこのあとに記されているように食べるのです(10・9~10)

ただ、少なくとも言えることは、ヨハネをはじめ同時代に苦難の中にあった聖徒たちへの励ましの言葉であったと思われます。

だからこう述べられています。もう時がない。第七の御使が吹き鳴らすラッパの音がする時には、神がその僕、預言者たちにお告げになったとおり、神の奥義は成就されるのです(10・6~7)

この宣言は、流刑の身であるヨハネをはじめ迫害下にある人々に勇気を与えたことでしょう。もうすぐだ。期待して待っておれ……と主イエスは励ましてくださっているのです。

さて、ヨハネはこの小さな巻物を受け取ると、取って、それを食べてしまいなさい。あなたの腹には苦いが、口には蜜のように甘いと言われました(10・9)

終末の預言を知ることは、ヨハネが巻物を食べたように、〝預言のことばを食べる〟のです。神の御言は知的な理解で終わりません。それを食べるのです。いのちのパンのようにして食べます。

それを食べると、私の口には蜜のように甘かったとヨハネは告白しました。

神のご計画を学びその御心に触れることは、エキサイティングで刺激的なため口には甘く感じます。詩篇の作者もこう歌いました。「あなたの御言はいかに我があごに甘いことでしょう。蜜にまさって我が口に甘いのです」(詩篇119・103)

しかし、腹には苦く感じます。なぜなら、重要な神のご計画を知ったことで責任を感じるからです。神の御言は私を励まし養いますが、同時に使命を受けることでもあるからです。内容が重要なだけに責任の重さを感じて、腹には苦みを味わいます。

こうして御言の甘みを味わった私たちは、次に苦みを感じつつ、その御言を伝える者として遣わされるのです。


ヨハネの黙示録 9章

2023年04月25日 | ヨハネ黙示録
ヨハネの黙示録 9章
これらの災害で殺されずに残った人々は、自分の手で造ったものについて、悔い改めようとせず、また悪霊のたぐいや、金・銀・銅・石・木で造られ、見ることも聞くことも歩くこともできない偶像を礼拝して、やめようともしなかった。
(9・20)


まことの神は愛なるお方であると同時に義なるお方でもあります。愛と義は、互いに相反するもののように思われますが、その両者を矛盾なく両立なさっているのが主なる神です。

神は最後の最後まで、人間が悔い改めて救いを受けることを願っておられます。これは神の「愛」のご性質です。しかし、いつまでも時をのばして、罪を放置なさるのでもありません。必ず罪をさばかれます。これは神の「義」なるご性質です。

黙示録の出来事は、この神の愛と義の緊張関係の中で受け止めるべきことがらです。

引き続きラッパの預言を見て行くわけですが、第5のラッパからさばきの厳しさが各段と増します。

だから、第5のラッパのさばきを、わざわざ第1のわざわいと言い直しているのです(9・12)。それに続いて第6のラッパのさばきを第2のわざわいとよび、つづいて、第7のラッパのさばき以降のことを第3のわざわい」と呼んでいます(11・14~15)。それだけ、今までの患難とはレベルの違う厳しいさばきを表しています。

第五のラッパが吹き鳴らされると……

ひとつの星が天から地に落ちて来るのを見た。この星に、底知れぬ所の穴を開く鍵が与えられたと記されています(9・1)

この「星」は文字通りの天空の星々のことを意味することもあれば、御使(天使)を意味する場合もあります。9章1節の「星」は後者の御使と解釈すべきでしょう。では、神の御怒りを世に現すための天使なのか、それとも、堕落した天使である悪魔のことなのでしょうか。

これは「悪魔」のことであると考えられます。悪魔のことをイザヤ書では「明けの明星」と星にたとえています(イザヤ14・12~15)。この預言によれば、この〝星〟は天から落とされたのです。 ※黙示9章1節の「地上に落ちた」とは、悪魔の働きが非常に過激になることを意味するのであろう。それまでも、悪魔の働きはあったが患難期の悪魔の働きは桁違いであろう。

この悪魔は「底知れぬところの穴を開くかぎ」を使って、そこに閉じ込められていた〝いなご〟を解き放ちます(9・2~3)底知れぬ穴とは悪霊たちが閉じ込められている霊界です。イエスによって追い出された悪霊たちは、この底知れぬ穴に入れないでくれと懇願しています(ルカ8・31)。つまり、ここに入れられてしまうと活動できないからです。

しかし、閉じ込められていた悪霊たちも、患難期には解放されて、最後の大足掻きを働くのです。その結果、「いなごが地上に出てきたが、地のさそりが持っているような力が彼らに与えられた」(9・3)とあるように、いなごは悪霊たちであり、彼らにはサソリのような力が与えられます。それがどんな力なのかは分かりません。

いなごである悪霊たちの標的は、額に神の印のない者たちに向けられます(9・4)。殺すのが目的ではなく、5ヶ月のあいだ苦しめることにあります。ひと思いに死んでしまった方が楽だと思うのですが、「死」が逃げて行くのです(9・6)

一瞬にして死んだら、悔い改めの機会がありません。悪霊によって苦しみがもたらされるのですが、神はそれを悔い改めの機会に用いるのです。ここにも、神の厳しい義の中に愛が示されています。

第六のラッパが吹き鳴らされると……

大ユウフラテ川のほとりにつながれている〝四人の御使〟を解いてやれという声が響きます(9・14)。この4人の御使とは、悪魔と道連れに堕落した天使たちで、活動できないように〝つながれていた〟のであろうと考えられます。

先ほどの天から落とされた「星」である悪魔、次に底知れぬ穴に閉じ込められていた「いなご」すなわち悪霊たち。そして、ユフラテ川につながれていた「4人の堕天使」の活動……と展開して行きます。こうして、総動員された悪しき霊たちによる災いがなされて行くわけです。

9章15~16節に記されている、人類の3分の1を滅ぼすためにやって来る2億からなる騎兵とは、文字通り2億の軍人の数なのか、あるいは多数の霊的存在なのか。解釈は分かれます。ましてや、某国の軍隊であると特定するのは間違っています。

先ほどの文脈からすれば「2億の悪霊たち」と理解して良いのではと思われます。人間である2億人の軍人が進軍するのは、近代戦では現実的ではありません。 ※兵站はどうするのか。食糧や兵器の供給を考えると無理が多い。近代戦では無人兵器とかサイバー攻撃などが主流になって行くだろう。

17~19節では2億の騎兵の描写が記されていますが、これが何を意味しているかは不明です。未来の兵器の描写だとの解釈もありますが、こじつけにならないように留意すべきでしょう。

ただ言えることは、この段階になって人類の3分の1が死んでしまうことです。衝撃的な事態です。すでに4分の1が死んでいますから(6・8)、これによって人類は半減したことになります。こんな危機的事態になって、残された人々はどうでしょう。

これらの災害で殺されずに残った人々は、自分の手で造ったものについて、悔い改めようとせずとあります(9・20)。彼らは、あのエジプトのパロのように、かたくなな心の持ち主です。

彼らは、悪霊のたぐいや、金・銀・銅・石・木で造られ、見ることも聞くことも歩くこともできない偶像を礼拝して、やめようともしなかったのです。愚かな姿です(9・20)

偶像とは本当の神ではありません。偽者ですから、「見ることも聞くことも歩くこともできない」のです。心がかたくなになると、偽者と本物の分別もつかなくなります。

旧約の時代、神がイスラエル民族にくり返し言われてきたことは、「あなた方の心をかたくなにしてはならない」ということでした。このメッセージは万民に通じるものです。

私は願います。何か事があったら、心をかたくなにする者ではなく、素直に悔い改める者でありたいと思います。「私は間違っていない」と自己正義をつらぬいて、自分で自分のいのちを救おうとするよりも、悔い改めることによって―それが、自分の面子をつぶすようなことであっても―霊的ないのちを失うことがないようにと願います。

きょう、あなた方が御言を聞いたなら、あなた方の心をかたくなにしてはいけません(ヘブル3・7~8)。悔い改めてイエスに立ち返ってください。


ヨハネの黙示録 8章

2023年04月24日 | ヨハネ黙示録
ヨハネの黙示録 8章
香の煙は、御使の手から、聖徒たちの祈りと共に、神の御前に立ちのぼった。
(8・4)


第7の封印が解かれると7つのラッパのさばきが現れるのですが、その前に「半時間ばかり天に静けさがあった」と記されています(8・1)。嵐の前の静けさを思わせる不気味な静けさです。

いよいよ、7つのラッパのさばきが現れます。そのラッパも次々と吹かれ、最後の7番目のラッパが吹き鳴らされると、7つの鉢のさばきが現れます。

先にも申し上げたように、封印ひとつが1年を表しているのではありません。従って、7つのラッパ預言も7番目の封印の後に起きるのではありません。時間的な順序ととらえるより、むしろ、7つの封印に啓示されている出来事の詳細が「ラッパの預言」で明らかにされると考えるべきでしょう。

「封印」および「ラッパ」が啓示するような疫病・異常気象・戦争などによって世界情勢は大きく変化するでしょう。

第一のラッパが吹き鳴らされると……

「血のまじった雹と火とがあらわれて、地上に降ってきた。そして、地の3分の1が焼け、木の3分の1が焼け、また、すべての青草も焼けてしまった」と記されています。血のまじった雹が何なのかは分かりません。

第二のラッパが吹き鳴らされると……

「火の燃えさかっている大きな山のようなものが、海に投げ込まれた」とありますが、「山のようなもの」とは隕石なのでしょうか。

それが海に落下すれば大津波で船舶の被害があるでしょう。また、そうなれば海洋生物の死滅による赤潮が発生し、海が血のようになるのかも知れません。黙示録ではさらにこう預言されています。

「海の3分の1は血となり、海の中の造られた生き物の3分の1は死に、舟の3分の1がこわされてしまった。」(8・8~9)

第三のラッパが吹き鳴らされると……

「たいまつのように燃えている大きな星が、空から落ちてきた」と記されています。大きな星とは何でしょう。彗星が地球に衝突することなのか。もし、それが彗星であれば、その大きさによっては地球規模の大災害になるでしょう。

また、聖書では「星」は御使をあらわすことが多いので、何らかの使命を受けた天使、あるいは堕落した天使による働きだと解釈することもできます。具体的な解釈は断定できません。

いずれにせよ、その結果……、

「それは、川の3分の1とその水源との上に落ちた。この星の名は『苦よもぎ』と言い、水の3分の1が『苦よもぎ※』のように苦くなった。水が苦くなったので、そのために多くの人が死んだ」のです(8・10~11)。 ※1986年チェルノブイリ原発事故が起きた。チェルノブイリがロシア語で「苦よもぎ」を意味することから黙示録預言と関連づける解釈もあるが間違いだ。預言されている事象はチェルノブイリの規模をはるかに上まわる。

※世界中には多くの原発や原子力船や核弾頭が現存する。それを保守管理するだけの経済力と統率力がある国は安全に管理しているが、やがて、経済破綻や政変によって安全に管理できなくなった時代に、それが地球規模の危機を招くことになるだろう。

第四のラッパが吹き鳴らされると……

「太陽の3分の1と、月の3分の1と、星の3分の1とが打たれて、これらのものの3分の1は暗くなり、昼の3分の1は明るくなくなり、夜も同じようになった。」(8・12)
隕石とか彗星の衝突があれば、大規模な噴煙が発生し、それが太陽や月星の光をさえぎることで光の3分の1を失うでしょう。

さて、このような最終的なさばきに至るまでに、いかに沢山の「聖徒」と呼ばれる信者たちの祈りがささげられてきたことでしょう。

つらい出来事が預言される中でも、香の煙は、御使の手から、聖徒たちの祈りと共に神の御前に立ちのぼったという記録は希望の光です (8・4)

ここでは、御使(天使)が金の香炉をたずさえていますが、これは祈りをあらわしています。聖徒たちの祈りを御使が天へ持ち運ぶ姿です。旧約の神殿には、「金の香壇」が据えられていました。そこで祭司たちは香をたきましたが、それは祈りをあらわしていました。今や新約の聖徒たちの祈りは、祭司が香をたくようにして天に届けられるのです。

香をたくと、その煙が聖所に立ちのぼって満ちます。それと同じように、私たちの祈りは天使によって神の御前に立ちのぼり天に満ちます。どんな悲惨な状況の中でも、聖徒たちの祈りは天に届いています。ですから、あきらめずに忍耐強く祈りましょう。

暴虐が満ちる世界に終わりが来ますように。神の正しいさばきがなされて、神の義の支配する御国が来ますように。この地に神の御心が完全になされますように……。祈りの香が天に満ちるまで祈るのは、新約の祭司である私たちの務めです。


ヨハネの黙示録 7章

2023年04月22日 | ヨハネ黙示録
ヨハネの黙示録 7章
彼らは大きな患難を通ってきた人たちであって、その衣を小羊の血で洗い、それを白くしたのである。
(7・14)


第7章の記録は、すにで見てきた第1から第6の封印が預言する事柄と平行しておきる出来事だと考えられます。

もう一度整理しておきましょう。第1の封印から始まる患難期は、イスラエル(ユダヤ人)を中心に展開する時代です。それ以前の時代は――つまり今の時代は――異邦人の時代です。教会時代とも言います。

異邦人の期間は、異邦人の完成する時までのことです(ロマ11・25)。この「異邦人の期間」は、ダニエル預言の70週のうちの69週と残りの1週との間に割り込むようにして入っています。

異邦人の時代の主役であった教会が天に引き上げられると、第1の封印から始まる患難期へと入って行きます。

すると、再びイスラエル(ユダヤ人)が歴史の表舞台に登場します。

それは、旧約聖書に預言されている「神の御国」が成就する最終段階であり、イスラエル(ユダヤ人)を軸に展開されます。ダニエル預言の70週の〝最後の1週すなわち7年〟が時を刻み始めます。

旧約で預言されている内容とは……、
①終わりの時代にメシヤ(キリスト)が来られてイスラエルを救う。そして、
②罪と悪で満ちたこの世界をきよめる。その結果、
③メシアを王とした神の御国が実現する……というものです。

この旧約の預言(神の御国の預言)を象徴表現だと解釈する神学もあります。その場合、神の御国はキリスト教会によって実現されるのだと考えます。つまり、イスラエルに対する旧約預言は文字通りイスラエル民族に実現するのではなく、新約のキリスト教会に実現するのだと説明します。約束がイスラエルから新約教会に置き換わったのだという意味で、それを置換神学と呼びます。

しかし、この「朝マナ」では、旧約で約束された神の御国の預言は文字通り実現すると解釈しています。神の御言は永遠に変わらないのであって、イスラエル民族に約束されたのですから、その通りイスラエル民族に実現します。

さて、第7章4節に記された〝14万4000人はイスラエル民族の中からイエスを信じた特別な人々です(7・4~8)彼らは患難期にイエスの証人として世界中に派遣されるでしょう。 ※文字通りイスラエル民族の中からである。異邦人の救われる人数ではない。なぜなら、異邦人で救われる者は「数え切れない」と記されている(7・9)。某宗教団体はこの数字を根拠に、救われる人数には限りがあると教え、その中のひとりに入るようにと恐怖をあおって伝道しているが、間違った解釈である。

世界宣教のために、彼らの額には神からの「印」が押され(7・3)、この印によって患難期のあいだ保護されます。異邦人の時代のクリスチャンにも、聖霊によって証印が押されています(エペソ1・13)。何という恵みであり、そして使命でしょう。こうして聖霊に満たされた14万4000人の伝道者よって患難期に多くの人々がイエスを信じるようになります。

先には、キリスト教会の携挙――世間一般にはクリスチャン失踪事件として多くの関心を集めるであろう――があったのですから、事の真相を突きとめようと人々は聖書を調べるでしょう。その結果、大リバイバルの契機となるのです。

しかし、反キリストの圧政下で信じるのですから、多くの人々が殉教するでしょう。あらゆる国民……から、数え切れないほど大勢の群衆が白い衣をまとい神を讃美していますが(9)、彼らは患難期に14万4000人の伝道者によって救われた人々です。彼らは大きな患難をとおってきた人たちです(14)。 ※この大群衆の中に教会時代のクリスチャンも含まれているとする解釈もある。「患難期中期携挙説」あるいは「患難期後期携挙説」に立つなら教会も患難期に存在するからである。本書は「患難期前携挙説」に立っている。

患難期では、イエス・キリストの伝道者に水1杯でも飲ませる者は報いを受ける時代です。イエス様はそのことを次のように預言されました。

「わたしの弟子であるという名のゆえに、この小さい者のひとりに冷たい水一杯でも飲ませてくれる者は、よく言っておくが、決してその報いからもれることはない。」(マタイ10・42)

反キリストが血眼になってイエスの証人たちを殺そうとする時代に、彼らに差し入れをしたり見舞うことは命がけの行為です。これは立派な信仰告白です。彼らは救われます。
ですから、イエスはさらにこう言われました。

「その時、王(キリスト)は右にいる人々に言うであろう、『わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなた方のために用意されている御国を受けつぎなさい。あなた方は、私が空腹の時に食べさせ、渇いていた時に飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、裸であった時に着せ、病気の時に見舞い、獄にいた時に尋ねてくれたからである』。」(マタイ25・31~46)

イエスの証人たちに施したことは、キリストに対してであり、信仰告白なのだという意味です。

このように患難期は激しい試練の時です。では、異邦人の時代は試練がないのかといえば、そんなことはありません。今の時代も試練はあります。平穏な日本のクリスチャンでも、各自の人生の中で大なり小なり試練を通過します。

しかし、患難期は短期間に凝縮された試練です。異邦人の時代であろうが患難期であろうが、私たちが神の国に入るのには、多くの苦難を経なければならないことに違いはありません(使徒14・22)

試練は私たちをきよめて本物にするためです。試練という道を経て、きよめられてから神の御国に入る。これが神のご計画です。

ですから試練の時、神への不平や不満で己を汚してはなりません。小羊イエスの血に信頼しましょう。この血を信じる者は衣生き方を白くすることになるでしょう。彼らは大きな患難を通ってきた人たちであって、その衣を小羊の血で洗い、それを白くしたのであるとはそのことです(黙7・14)

イエスの血を信頼して試練を通過した者に、神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださるのです(7・17)

今の時代は患難期のような厳しい時代ではありません。むしろ、今は恵みの時、救いの日です。今日という日に信じてください。そして、キリストの花嫁として、花婿なるキリストの来臨を待つ者になってください。キリストの花嫁である教会は、患難期を前に天に引き上げられます。これが今は恵みの時、救いの日であるということの意味です。


ヨハネの黙示録 6章

2023年04月21日 | ヨハネ黙示録
ヨハネの黙示録 6章
地の王たち、高官、千卒長、富める者、勇者、奴隷、自由人らはみな、ほら穴や山の岩かげに身をかくした。御怒りの大いなる日が、すでにきたのだ。だれが、その前に立つことができようか。
(6・15~17)


いよいよ小羊によって巻物の7つの封印が解かれます。7年の患難期の始まりです。ダニエルが預言した70週のうちの最後の1週が動き始めるのです。

ひとつの封印が1年に相当するのではありません。封印は年数をあらわしていません。7つの封印で語られる預言は、この患難期全体の大まかな内容を示しています。その詳しい内容は、その後に続く「ラッパの預言」「鉢の預言」で明らかにされると解釈するのがよいと思っています。

7つの封印を順々に解いて行き、7番目の封印を解くと、7つのラッパの預言が出てきます。これも順々に吹き鳴らされて各々の預言が語られます。

7番目のラッパが吹き鳴らされると、7つの鉢の預言が出てくる……といった構図になっています。ロシア人形のマトリューシカに似たところがあります。では、順に封印を解いてみましょう。

第一の封印……白い馬(支配者登場)

彼こそ反キリストです。サタンが人となったような人物です。テサロニケの手紙では「不法の人」とも呼ばれています。

彼は弓を手に持っており、また冠が与えられ、勝利の上にさらに勝利を得ようとして出かけた(6・2)と預言されているように、反キリストは卓越した手腕で世界的なリーダーとして台頭し、様々な戦いを足がかりにして権力を手中におさめるでしょう。

ダニエルの預言によれば、この反キリストはイスラエルと契約を結ぶことになっています(ダニ9・27)

その画期的な契約によって、世界の火薬庫と呼ばれる中東問題を解決するのではないかと思われます。その功績が評価され、反キリストは世界的なリーダーとして台頭するようになり、人々の目には世界を統治するにふさわしい〝救い主〟のように見えるでしょう。そのため人々は彼の世界統治を承認するのです。 ※混乱した時代になればなるほど強力な統治を必要とする。戦争や紛争、世界規模の感染症等々に協議や多数決では時間がかかりすぎて、人々は疲弊し、民主主義より強力な独裁者を切望する気運となるだろう。それが正しい独裁者なら良いが……それはあり得ない。混乱した世界情勢は獣と呼ばれる反キリストの登場につながるだろう。

第二の封印……赤い馬戦争

「それに乗っている者は、人々が互に殺し合うようになるために、地上から平和を奪い取ることを許され、また、大きな剣を与えられた」とあるように(6・4)、戦争によって世界の平和は瓦解します。

第三の封印……黒い馬飢饉

すると「小麦1枡が1デナリ、大麦3枡も1デナリ」という状況が記されています(6・6)。当時の物価で小麦8枡が1デナリでしたから、その水準からすれば異常な物価上昇です。庶民の穀物である大麦でさえも3枡が1デナリというのは激しい高騰ぶりです。戦争よって食糧難が発生するのでしょう。

第四の封印……青白い馬

その者の名は「死」です(6・8)。地上の4分の1の人々を死に追いやることになります。戦争や飢餓によって多くの人が死滅するようです。このような多くの死は、疫病によってもあり得ることです。

かつて14世紀に欧州で流行したペストによって欧州人口の3分の1が死亡、1918年のスペイン風邪※によって6億人が感染し4~5千万人が死亡しました。このような記録は黙示録の預言を想起させます。

  ※20世紀初頭に流行ったスペイン風邪は鳥インフルエンザに由来するものであった。日本では人口5500万人のうち39万人が死亡。人の往来いちじるしい現代であれば被害は爆発的なものになるだろう。また、原発とその使用済み核燃料の事故も原因になるかも知れない。
 ※21世紀に入って「新型コロナウィルス」が全世界に猛威を振るっている。人類は昔からウィルスと共存してきた。多数の死者を出しながら免疫を獲得しつつ現代まで来ているが、未知のウィルスは無数である。人類は未開の地に足を踏み入れ、深海にまで手を伸ばしてる。どんなウィルスと遭遇するか未知数である。その度に多くの死者を出すだろう。

第五の封印……殉教

神の言のゆえに、また、その証しを立てたために、殺された人々の霊魂が、祭壇の下にいるのを見た(6・9)と記されているのは、患難期に入ってからイエスを信じ、それゆえに殉教した人々です。

この人々とは、教会が天に引き上げられた後、つまり携挙の後にイエスを信じた人々です。この中には、かつては信仰が曖昧だったがこの期に及んで明確に信じて殉教に至った人もいるでしょう。以前は、福音を聞いたが侮ったり、信じ切れずにいたのですが、携挙という出来事を目の当たりにして、改めて聖書を読み、信仰に目覚める人もいます。

また、第7章で取り上げることになりますが、イスラエル(ユダヤ人)の14万4000人の伝道者によって世界宣教がなされるでしょう。すると、これによって、長い間、心をかたくなにしてきたユダヤ人がイエスを信じるようになるはずです。また、その世界宣教よってユダヤ人以外の多くの人々も信じるようになるでしょう。

こうして、神の刈り取りの時代……つまり、大収穫の時代を迎えるのです。この時代ほど、主イエスの御言が現実味をおびて感じられる時代はないだろうと思います。

主イエスは、「肉体を殺しても魂を殺すことのできない者どもを恐れるな」と言われました。それは、反キリストが実権を握る時代にイエスを信じることは殉教を意味するからです。

患難期に殉教した人々の霊魂が祭壇の下で叫んでいます(6・9)。旧約のレビ記によるなら、犠牲の血は祭壇の下に注ぎました。まさに殉教者の血もそのように祭壇の下で叫んでいます(レビ4・7)

聖なる、まことなる主よ。いつまであなたは、さばくことをなさらず、また地に住む者に対して、私たちの血の報復をなさらないのですか(黙6・10)。しかし、最終的な神のさばきはもう少し後のことになります。でも、確実にさばきはなされます。

黙示録の預言は、さばきによって滅び行く悲惨な出来事に注目しがちですが、一方でこの10節のように、正しいさばきを切望しながら非業の死を遂げた人々の叫びを忘れてはなりません。最終的には、神はご自身の義を基準に公平におさばきになるのです。

第六の封印……天変地異

神はなぜこのような恐ろしいことをゆるされるのですか。黙示録だけを見てそう感じてしまうのも仕方がありません。しかし、旧約から今日に至る罪の歴史を知ると、いかにおぞましく、かつ多くの血が流されてきたことでしょう。患難期の出来事は、そのような罪に対する神の御怒りです。サタンとそれに追従した者たちへのさばきなのです。

それと同時に、神は人類に悔い改めを迫っておられるのです。

出エジプトの直前になされたエジプトへの神のさばきを思い出してください。エジプトの王パロは、悔い改めるチャンスがあったにもかかわらず、何度も心をかたくなにしました。

患難期における人々の反応はふたつに分かれます。悔い改めて神に立ち返る者と、心をかたくなにして神をのろう者とのふたつです。

黙示録の預言では、多くの人々は神の御怒りから逃れようと、ほら穴や岩かげに身を隠します(6・15)。そして言うのです。我々をおおって御座にいます方の御顔と小羊の怒りとから、かくまってくれ。御怒りの大いなる日がすでに来たのだ。だれが、その前に立つことができようか。(6・16~17)

そうです。だれも神の御怒りから逃れることはできません。しかし、唯一の隠れ場所があります。それは主イエスの十字架です。この十字架だけが、神の御怒りからかくまってくれます。

前述の出エジプトの際にも、神のさばきとして10の災いが臨みましたが、神を信じていたイスラエルの民は守られました。

これは終末の患難期の予表でもあります。エジプトでは最後の10番目の災いの時、小羊の血を玄関に塗ったイスラエルの家だけが死をまぬがれました。神の小羊であるイエスの血、十字架の血は私たちを御怒りから救うのです。主イエスこそ我が隠れ場です。詩篇の作者も次のように告白しました。あなたは我が隠れ場、我が盾です(詩119・114)


ヨハネの黙示録 5章

2023年04月20日 | ヨハネ黙示録
ヨハネの黙示録 5章
あなた(小羊イエス)こそは、その巻物を受け取り、封印を解くにふさわしい方であります。
(5・9)


黙示録に記された患難期の預言は、恐怖心をあおるのが目的ではありません。むしろその逆です。患難期は神の御国の実現に向けて経なければならないきよめの期間です。つまり、きよめられた先に希望があるわけです。だから、「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」のです(マタイ24・13)。主を信頼して耐え忍ぶようにと教えています。

さて、天上では封印された巻物が登場します(黙5・1)。この巻物には世の終わりの、しかも最終段階について記されています。それは、神が御国を完成なさる最終段階のことであり、その直前には患難の期間があるのだと記されています。

世の終わりと御国の完成を預言したダニエル書は、この言葉は終りの時まで秘し、かつ封じておかれますと記録しています(ダニ12・9)。つまり、最終段階のことは封印されています。その封印は解かれないまま患難期まで持ち越されたと考えられます。

冒頭の聖句が示すように、神の小羊であるイエス・キリストこそ封印を解くにふさわしいお方です。つまり、封印された預言を成就するのはイエス・キリストだという意味です。その封印が解かれる毎に、患難期がひとつずつ実現するわけですが、同時に御国の完成へとひとつずつ近づくことになります。

神の国の完成のために、神はどのようなご計画をお持ちなのでしょうか。再びダニエル書をひもとくことにします。

あなたの民と、あなたの聖なる町については、70週が定められています。これは咎を終らせ、罪に終りを告げ、不義をあがない、永遠の義をもたらし、幻と預言者を封じ、いと聖なる者に油を注ぐためです。(ダニ9・24)

預言によれば、神の御国が完成するために70週が定められています。この場合の1週は7年を意味します。さらに預言は続きます。

エルサレムを建て直せという命令が出てから、メシヤ油注がれた者なるひとりの君が来るまで、7週と62週あることを知り、かつ悟りなさい。その間に、しかも不安な時代に、エルサレムは広場と街路とをもって、建て直されるでしょう。(ダニ9・25)

※一般的にこの70週のことを〝ダニエルの70週〟とよぶ。その内、9章25節では「7週と62週」が経過、つまり70週のうち69週が経過する。この聖句は口語訳を要参照。

エルサレムを建て直せとは、紀元前445年ペルシャのアルタシャスタ王の勅令のことです。聖書の記録によれば、ネヘミヤがエルサレム再建のために派遣された時のことです(ネヘ2・1~8)。その時から7週と62週……合計69週を経て「エルサレムは広場と街路とをもって建て直され」ました。

こうして69週(7年×69=483年)を経てキリストが登場すると預言されています。しかし、キリストは「断たれる」のです。

その62週の後にメシヤは断たれるでしょう。ただし自分のためにではありません。またきたるべき君の民は、町と聖所とを滅ぼすでしょう。その終りは洪水のように臨むでしょう。そしてその終りまで戦争が続き、荒廃は定められています。(ダニ9・26)

預言通りキリストはエルサレム再建命令(ネヘ2・1)から483年を経て来られましたが、十字架で殺されました。つまり〝メシヤは断たれた〟のです。

その後、エルサレムの都と神殿は、来るべき君の民―反キリストの軍隊のこと―によって破壊され、その荒廃は終わりまで続きます(ダニ9・26)。ここまでが70週の内の69週までの預言です。

残っているのは1週……つまり7年です。この最後の1週についてこう預言されています。

彼は1週の間、多くの者と堅く契約を結ぶでしょう。そして彼はその週の半ばに、犠牲と供え物とを廃するでしょう。また荒す者が憎むべき者の翼に乗って来るでしょう。こうしてついにその定まった終りが、その荒す者の上に注がれるのです。(ダニ9・27)

このとは、文脈上はエルサレムを破壊した軍隊の「君」であり、ダニエルの預言した第四の獣のことです。この人物こそが反キリストです。預言では、残りの1週に彼がイスラエルと契約を結ぶことになっていますが、これはまだ実現していません。

つまり、69週までは実現していますが、残りの1週はこれからです。69週と1週との間に〝挿入された期間〟が生じています。

これが異邦人の救いの完成する期間、あるいは教会時代とも呼ばれる期間のことです。この異邦人の救いの期間とか教会時代が終わると、教会は天に引き上げられます。つまり携挙が起こるわけです。この時を契機に最後の1週(7年)が始動することになるはずです。

黙示録を読み進めて行くと分かることですが、患難期は7年続きます。この患難期の半ば、つまり3年半の時点で反キリスト(獣)は契約を破棄し、自分こそ神であると宣言して本性を現します。 ※この1週の後半……最後の3年半が最も厳しい時代になるので、〝大〟をつけて「大患難期」とよぶこともある。

こうして見ると、ダニエル書に預言された70週の最後の1週が、黙示録の患難期に相当することが分かります。患難期は大変な時代ではありますが、それは失望ではありません。神の御国の完成を目前にしているのです。このことは、どんなに厳しい時代を迎えても、そこには希望があることを教えています。

この巻物の封印がひとつひとつ解かれることによって、地上では神のさばきが始まります。神の御国を完成するために、サタンとその悪しき業をさばいてきよめるのです。

この時、サタンの側について罪にとどまり続ける人々は、サタンと一緒に神の御怒りのもとに滅ぼされます。しかし、イエスを信じた者はこのさばきを受けません。なぜなら、主がすでに十字架で代わりにさばきを受けてくださったからです。今後この世界がどのようになって行こうとも、この約束にしっかりとどまっていてください。

前置きが長くなりました。本題に戻ります。封印された巻物を手にしているのは、天の御座についておられるお方です(5・1)。このお方は4章2節でも記されていますが、姿や形は描写されていません。天の父なる神であると思われます。

この父なる神から〝小羊〟が巻物を受け取り、封印を解いて行かれるわけです。この小羊とはイエス・キリストです。神の御子です。小羊なる御子イエスが巻物を手にして、いよいよ最後の預言が成就して行きます。さばきであると共に完成の時です。ですから、天では賛美の大合唱がささげられます。

四つの生き物と24人の長老たちの賛美(5・8~10)。数え切れない程の天使たちの賛美(11~12)。そして、被造物たちによる大合唱です(13~14)。天での荘厳な礼拝です。圧巻の風景です。

その賛美の言葉に共通しているのは小羊こそ〝ふさわしい〟という表現です。小羊であるイエスこそ、巻物の封印を解くのにふさわしいお方です(9)。神の御国の完成に向かってさばきをなさるのは、イエス・キリストが一番ふさわしいです。適任です。他のどんな人物も神の国を完成することはできません。

また、小羊なるイエス・キリストこそ力と、富と、知恵と、勢いと、ほまれと、栄光と、さんびとを受けるにふさわしいお方です(12)。さらに御座にいますかたと小羊とに、さんびと、ほまれと、栄光と、権力とが、世々限りなくあるようにです(13)

逆に言えば、神以外のいかなる者も相応しくないのです。天使が、力や富・知恵・勢い・ほまれ・栄光・賛美を受けるのは相応しくありません。しかし、受けようとして堕落した天使がいます。サタンとその仲間たちです。

人間も同じです。どんなに優秀な人間でも、賛美と誉れと栄光と権力を受けるのは相応しくありません。それを自分が受けようとして、人は堕落し破滅してしまいます。われらの神、イエス・キリストにこそ栄光がありますように。

◆◆◆◆◆◆

封印された巻物といえば、もうひとつ興味深い記録があります。それは旧約の預言者エレミヤが甥の土地を買い戻した時、土地の所有権を記した巻物に封印をした出来事です(エレミヤ32章)。

時はすでにバビロン軍に包囲されており、侵略と破壊が間近に迫っていました。そんな状況で、土地の所有権など何の意味があるでしょう。

それなのに、神はその土地を買い戻すように命じられ、エレミヤは命令に従って土地を買い戻し、土地の買い戻しの権利書を「封印」して壺に入れ、その土地に埋めました。

これは何を意味するのでしょうか。たとえこれから混乱した時代になっても、神はご自分の所有としたものを必ず買い戻すことの意思表明です。

全地は創造主である神の所有です。神の栄光のために造られたこの世界は神のものです。しかし、アダムとエバがサタンにだまされて以来、サタンが支配するところとなっています(Ⅰヨハネ5・19)

そこで神は、それを買い戻すために御子イエスの血を流されました。あの十字架の血は、人類を贖うためでありましたが、同時に全世界を贖うための支払いでもありました。

このように、神は、人類を買い戻すだけでなく、万物をも神の所有として買い戻すおつもりです。あの十字架の支払いによって、神は買い戻しの権利証書を手にしておられます。あとは、その権利証書にもとづいて実行に移すだけです。

それをなさる権威と力のある方はイエス・キリストですいよいよ小羊なるキリストが封印を解いて、この地を神の国として買い戻す計画が実行に移されようとしているのです。

御国が来ますように祈りましょう。国と力と栄光はイエス・キリストのものなのですから…。


ヨハネの黙示録 4章

2023年04月19日 | ヨハネ黙示録
ヨハネの黙示録 4章
24人の長老は、御座にいます方の御前にひれ伏し、世々かぎりなく生きておられる方を拝み、彼らの冠を御座の前に投げ出して……
(4・10)


先の第2~3章はキリスト教会に対する主イエスからのメッセージでしたが、第4章からは場面が変わります。その後、わたしが見ていると、見よ、開いた門が天にあったとあります(4・1)。その後とは〝教会時代の後〟という意味です。

教会時代とは、イエスを信じる人々によってキリストの花嫁が形成される時代のことです。この時代は、ユダヤ人の他に異邦人も加わり、隔ての中垣をこえた〝ひとりの人〟として形づくられる時代のことです(エペソ2・15)。その〝ひとりの人〟とはキリストの花嫁という〝ひとり〟です。

後に、キリストの花嫁なる教会の構成員はユダヤ人よりも異邦人の数が圧倒的に多くなりました。そこで、教会時代のことを〝異邦人の期間〟とも言います。異邦人の期間には終わりがあります(ルカ21・24)。それは「異邦人が完成する時」です(ロマ11・25)。この期間が終わると、スイッチが切り替わるようにして次の段階へと展開します。

そこで黙示録につながるわけです。教会時代が終わって、その後のことです。異邦人の期間が終わって、その後のことが黙示録4章からの記録です。

教会の時代は、〝教会が天に引き上げられる〟ことで終わります。教会時代の様々な試練を経て養われたキリストの花嫁なる教会は、天でキリストとの婚礼を迎えるために引き上げられるわけです。その出来事を神学用語で携挙と呼びます。

ですから黙示録4章では、教会が携挙されて場面は天上に移ります。

黙示録は象徴的な表現が多いため解釈も様々に分かれるところです。ですから、心を広くして、心のポケットをたくさん用意して読んでください。

いずれにしても、黙示録の文言だけによる性急な解釈は避けるべきです。多くのキーワードは旧約聖書にあります。そして、新約聖書もふくめた聖書全体からの理解が必要となります。

話しをもどして結論から申し上げます。第4~5章は、天に引き上げられた教会の様子が預言されており、第6~20章は、教会時代の後の地上における患難期の預言です。

この患難期を前に、キリストの花嫁である教会は天に引き上げられるのです。つまり携挙が起きます。携挙について聖書はこう記しています。

「すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、それから生き残っている私たちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう。」(Ⅰテサロニケ4・16~17)

すでに死んだクリスチャンが復活し、それと同時に、その時点で地上で生きているクリスチャンは一瞬にして復活の体に変えられて、天に引き上げられます。とても不思議な出来事です。

「ふたりの者が畑にいると、ひとりは取り去られ、ひとりは残される」とイエスが言われたことも、この時の出来事、つまり携挙をあらわしていると考えられます(マタイ24・40)

携挙が実現した日を境に世界情勢は激変するでしょう。多くのクリスチャンが忽然と姿を消してしまうのですから、残された人々はいったい何が起こったのか、にわかには理解できないはずです。

しかし、地上に残された人々は聖書(特に黙示録)を手がかりにこの出来事が携挙であり、その後の患難期が何を意味しているのか、そして、この期間をどう生きるべきなのかをやがて理解することでしょう。そして、この「朝マナ」も、その人々に重要な視座を提供することになるでしょう。 ※携挙は〝患難期の直前〟にあると私は考えている。他にも、患難期の中期に携挙されるという説、患難期の最後だとする説もある。

教会(イエスを信じる人々)が〝患難期の前に〟携挙されると解釈する根拠が幾つかあります。ひとつは、患難期を預言している第6章以降に「教会」が登場しません。教会については第2~3章で記され、第4章からは「その後のこと」が記録されています(4・1)。つまり患難期は教会時代の後のことです。

いまは「教会の時代」です。教会はユダヤ人から始まりましたが、結果的には異邦人を中心に形成されました。旧約ではユダヤ人が中心でしたが、新約ではユダヤ人は隅に追いやられた格好です。

ユダヤ人(イスラエル)はイエスをキリストとして受け入れなかったので、もはやユダヤ人は歴史の表舞台から消えたかのように思われています。では、旧約で預言されていたユダヤ人の救いの計画は頓挫してしまったのでしょうか。

そんなことはないと聖書は主張しています。ユダヤ人(イスラエル)がイエスを信じないで心をかたくなにしているのは一定の期間であって、異邦人の救いが完成する時までです(ロマ11・25~26)

異邦人の期間が終わると、再びユダヤ人が歴史の表舞台に登場するはずです。患難期は民族的な救いを熱望するユダヤ人と、その実現を阻止しようとする反キリストを中心に展開するのです。

さて、先ほどの「異邦人の救いが完成する時」とは、教会時代の終わりを意味しています。異邦人を中心にして形成された教会が、キリストの花嫁として完成する時です。

その時が満ちたら、花婿なるキリストは花嫁を迎えるために天からくだって来られ、教会を天に引き上げられます。これが携挙です。

ですから教会は―クリスチャンは―花婿を待つ花嫁として、きよさを保って準備する者たちです。たびたび聖書は「目を覚ましていなさい」と警鐘をならしているのはそのためです。

かくして、花婿なるキリストは、愛する大切な花嫁を患難期の地上に放置しておくはずがないのです。その前に携挙されるでしょう。

以上が終わりの時代のアウトラインであり、黙示録を理解するための骨組みです。

さあ、天に引き上げられた教会の様子を見てみましょう。まず、天にひとつの御座とそこに着座しておられるお方があります(4・2)。父なる神であろうと思われます。5章1節からは、この御座に着くお方が巻物を手にしておられ、それをキリストである小羊が受け取る様子が描かれています(5・7)

次に、四つの生き物が描かれています(4・7)。これは、エゼキエル書1章に記されている幻と同じです。神なるキリストの属性を象徴的に表現する天使です。王である獅子、しもべである雄牛、人、そして神である鷲です。 ※これと連動するように、マタイ福音書は王なるキリスト、マルコ福音書はしもべなるキリスト、ルカ福音書は人であるキリスト、ヨハネ福音書は神であるキリストを描いている。

天では、主なる神への礼拝がささげられています。御座のまわりには24の座があって、24人の長老が白い衣を身にまとい、頭に金の冠をかぶって、それらの座についていたと記されています(4・4)

24人の長老とは、祭司として神に礼拝をささげる教会の姿をあらわしています。24は祭司の組分けの数であり、24人の祭司を筆頭に他の祭司が属する神殿礼拝のならわしに従っています(歴代上24章)

この24人の長老たちは、天に引き上げられたクリスチャンたちの代表であり象徴と考えられます。

天に携挙されたクリスチャンたちは、白い衣と金の冠をかぶっています。白い衣は聖徒たちの正しい行い、は地上での信仰の戦いと苦労に対する報いです。何と光栄ある主からの待遇でしょうか。

ところが、最高の栄誉である冠も、神の御前にはそれを投げ出して礼拝をします。24人の長老は、御座にいます方の御前にひれ伏し、世々限りなく生きておられる方を拝み、彼らの冠を御座の前に投げ出して…とあるとおりです(4・10)

これこそ、神が求めておられる〝まことの礼拝者〟の姿です。神の御前では、どんな冠も誇りも自慢も何もかも投げ出して、神をほめたたえます。

聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、全能者にして主なる神。昔いまし、今いまし、やがてきたるべき者と……。このような天での礼拝を、地上でもささげようではありませんか。


ヨハネの黙示録 3章

2023年04月18日 | ヨハネ黙示録
ヨハネの黙示録 3章
見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその中に入って彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。
(3・20)


(5)サルデスの教会(3・1~6)

「あなたは、生きているというのは名だけで、実は死んでいる」と指摘されています(3・1)。信仰はあるけれど〝死にかけている教会〟です。だから、「目をさましていて、死にかけている残りの者たちを力づけなさい」と主は励ましておられます(2)

死にかけているとは霊的な死のことです。それは霊的に眠っている状態のことです。あまりにも眠りが深くて、瀕死の状態です。そんな眠り込んだ教会にとって、主イエスの再臨は突然のように感じられることでしょう(3)

この教会がかろうじて立っていられるのは、少数ではありますが「衣を汚さない者」が生き残っているからです(4)。「衣」とは「行い」を意味します。信仰に基づいたきよい行いが、教会のいのちを吹き返すことになります。

信仰の価値観が軽んじられ、世俗化する中にあって、時代に流されず衣を汚さない少数の存在が、教会にとっていかに重要なことでしょうか。自分もそのひとりになろうと決心する者は幸いです。

教会の問題点をあれこれと批判するのは簡単なことです。このサルデスの教会も批判にさらされたなら、いくつもボロが出てくるような教会です。でも、その中にあって〝衣を汚さない者〟がいるからこそ、教会のいのちが保たれています。

そして、この〝衣を汚さない者〟たちによって教会は改革されて行きます。彼らは、霊的に死にかけている信者たちを励まし、信仰復興へと導くのです。私もそのひとりであろうと心に定めることは神の御心にかなう生き方です。

教会史でいえば宗教改革の時代です。中世の逸脱によって霊的いのちを失いかけた教会に、真のいのちを取り戻そうと取り組んだ時代です。その基本は聖書に立ち還ることです。イエスの「愛しなさい」との命令に愚直に立ち続けることです。

終わりの時代は、そのような宗教改革によってキリストの体としての本来の姿を回復する教会と、逆に、大きく逸脱する教会とに別れてくるでしょう。

次のフィラデルフィア教会とラオデキア教会はその両者の姿を啓示しています。

(6)フィラデルフィアの教会
(3・7~13)


フィラデルフィアの名のごとく、この教会は〝互いに愛し合う教会〟です。彼らは、「少ししか力がなかったにもかかわらず、わたしの言葉を守り、わたしの名を否まなかった」教会です(3・8)※「兄弟愛」の意味。

どんなに小さくても、イエスの御言を守り、イエスの御名を否まない教会です。おおぜい集まっていても、迫害の時、主を否んで雲散霧消してしまう集いであれば何になるでしょうか。

イエスの御言を守るとは、イエスが言われた「互いに愛し合いなさい」という命令のことです。イエスの御言は聖書をひもとけばたくさんあります。でも、何が一番大切かと問うならこの御言です。終わりの時代に、「互いに愛し合う教会」に向かって教会は完成して行きます。

イエスの御名を否まなかったとは、イエスだけを礼拝する教会のことです。終わりの時代は、偶像礼拝が世界を取り巻くでしょう。そのような中で、イエスこそ主であると告白し、その礼拝を貫く教会です。聖書に啓示された神の意図は「まことの礼拝者を得る」ことです。偶像ではなく、イエスの御名だけを礼拝する者を、神は求めておられるのです。

私たちは、このフィラデルフィアの教会を目指します。互いに愛し合い、イエス・キリストだけを礼拝する教会です。キリストの花嫁にふさわしい教会として、完成を目指します。

フィラデルフィアのような教会には、だれも閉じることのできない門が開かれています(3・8)

これは主イエスとの親しい交わりの門です。その門はいつも開かれています。それを妨害するサタンの力も、その門を閉じることはできません。

私たちは、イエスを神の御子キリストだと告白します。この告白という〝岩〟の上に、キリストの教会は建てられています。ハデスの門もその教会に打ち勝つことはないとイエスは言われました(マタイ16・18)。つまり、死に至らしめるハデスの門―黄泉の力―に教会は打ち勝つのです。

それは、先ほどの「誰も閉じることのできない門」が教会に開かれており、この門を往来してキリストとの豊かな交わりがあるからです。これをサタンは閉じることができません。このような教会が、私たちの目指す姿です。教会史的に見れば、最後に完成するキリストの花嫁の教会です。

(7)ラオデキアの教会(3・14~22)

ラオデキアの教会に対しては、称賛の言葉がありません。形骸化した教会です。完全に眠った教会です。その目は世の事柄に向いています。

この教会に主は、あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしいと命じておられます(3・16)。しばし、自分がそうなっていないか吟味しなければなりません。

当時のラオデキヤは裕福な都市でした。地上の豊かさは祝福ですが、しかし、いつの間にか地上の富が主人になってしまいます。ラオデキア教会はそんな教会をあらわしています。これは〝富を主人とする教会〟です。

富が主人として居座っているので、キリストは中に入れなくて、「戸の外に立って」おられます。教会の中で「主人」であるべきお方が、なんと外に立っておられるのです。ラオデキア教会とは〝主イエス不在の教会〟です。

そこで主は、富を主人としないで、地上の富と引き替えにしてでも、金と白い衣と目薬を買いなさいと言われます(3・18)。「金」は永遠のいのち、「白い衣」は正しい行い、「目薬」は見えないものを見る目をあらわしています。

もちろん、それらをお金で買えるわけではないのですが、「富を主人としない」という意味で「買いなさい」と言っています。主人である富を差し出して、得なさいという意味です。

さあ、自分自身を点検してみましょう。主イエスは戸の外ですか。それならすぐにでもお迎えしなければなりません。主は親しく私たちと食事をしてくださいます。「食事」は聖書的には「最も親しい交わり」を意味します。

さて、すでに主イエスをお迎えしたものの、いまだにお入れしたことのない秘密の部屋はありませんか。応接間にはお入れしたのですが、「ここだけは、主よ、ご覧にならないでください」とお断りしている部屋はありませんか。

そんな部屋の外で主はノックして「この部屋はどうなっているのかね」とたずねておられます。開かずの部屋は、いつの間にか心の闇を作り出してしまいます。光である主イエスに入っていただきましょう。

その部屋は過去の出来事で傷ついて暗くなっている部屋です。また、自分を守るために過去を美化している部屋です。頑固さゆえに鍵のかかった部屋です。でも、大丈夫です。大切なことは、光である主イエスに入っていただいて、その部屋を栄光で照らしていただくことです。

イエス様は私の中で主人となるべきお方です。だからどの部屋にも自由に出入りしていただくべきです。なのに、応接間だけにお迎えして、客人のように扱われるのはなんと窮屈なことでしょう。

祈りましょう。主よ。私の中で主人となってください。そして、親しく食事をなさってください……と。


ヨハネの黙示録 2章

2023年04月17日 | ヨハネ黙示録
ヨハネの黙示録 2章
わたしが来る時まで、持っているものを堅く保っていなさい。
(2・25)


黙示録2~3章は、7つの教会にあてたイエス様からのメッセージです。①エペソ教会 ②スミルナ教会 ③ペルガモ教会 ④テアテラ教会(以上2章・以下3章) ⑤サルデス教会 ⑥フィラデルフィア教会 ⑦ラオデキヤ教会。この7つの教会です。これらの教会は当時の小アジアに現存していました。

2章~3章の預言は、この7つの教会宛てに記されているのですが、〝7〟が完全性を表していることからすると、この預言は全世界の教会に語られているとも解釈できます。ですから、現代教会も、7つの教会のどれかに当てはまります。あるいは、各自の信仰の状況に該当するとも言えます。

また、次のようにも解釈できます。7つの教会は初代教会から始まるキリスト教会の歴史として読むことができるのです。2千年の教会史のなかで、キリスト教会は様々な道を歩んできました。過去を振り返ってみると、キリスト教会は黙示録の7つの教会の歩みをたどってきています。

(1)エペソの教会(2・1~7)

信仰熱心な教会です。主はそれを褒めておられます。しかし、責めることがあります。それははじめの愛から離れてしまったことです(4)

どんなに熱心であっても、キリストの愛から離れると、やがてその熱心は「疲れてしまう熱心」に変質します。イエスへの真実な愛で始めたことが、いつの間にか競争心で駆り立てられることもあります。熱心さに疲れたなら、もう一度、はじめの愛に立ち返ってみてはどうでしょうか。頑張ることもできない罪人の私を、キリストはそのまま受けとめてくださったではありませんか。それがはじめの愛です。

また、キリストの愛から離れた熱心は「他者を責める熱心」とか「他者をさばく熱心」に変質します。これも困りものです。迷惑な熱心です。人にではなく、キリストに対して熱心であるべきです。

こんな時も「はじめの愛」に立ち返るのです。私たちの拠り所は、いつもキリストの愛です。わたしの愛のうちにとどまりなさいと言われイエスの御言を思い起こすのです。

教会史でいえば初代教会の時代です。この時代は聖霊に燃え、愛に溢れていました。キリストの愛が充満している時代です。ただ、このことから離れて、間違った教えが忍び込む時代でもありました。だから、使徒ヨハネはその手紙で何度も愛を強調しました。また、パウロの晩年の手紙では、はじめの愛から離れ堕落していく人々も報告されています。

※6節の「ニコライ宗の人々」とは、教会に階級制度を持ち込むことだと解釈される。教職者と信徒を区別し、教職者の中にも序列を設けたピラミッド型の教会形態である。

初代教会は愛を基としたネットワーク型の教会であり、ピラミッド型ではなかった。彼らは「ニコライ宗の人々のわざを憎んだ」。イエスもこれを追認なさっている。

(2)スミルナの教会(2・8~11)

迫害を受けながらも善戦している教会です。これからも受けるであろう試練のことを主はよくご存知です。9節のユダヤ人と自称してはいるが、その実ユダヤ人でなくてサタンの会堂に属する者たちにそしられているとは、ユダヤ教の律法主義者からの執拗な迫害のことと思われます。

迫害はなおも続くことが予告されています。投獄や殉教もあります。でも、終わりは必ずあります。「十日の間」とは、それが限られた期間であることを意味しています(10)

教会の試練はイエスご自身の戦いです。ご自分の体である教会が迫害を受けているのに、主が戦われないはずがりません。

だから、恐れてはならない」「死に至るまで忠実であれと励ましてくださいます(10)。その者には「いのちの冠」という賞が約束されています。スミルナの教会は責めるところがない教会です。迫害下にありながら善戦し、信仰を全うした教会だからです。

教会史でいえば、2~3世紀の「ローマ帝国による迫害を生き抜いた教会」に相当します。この時代は迫害に次ぐ迫害の時代でしたが、よくぞ生き抜いてくれました。彼らの殉教がなければ、今日まで信仰は受け継がれなかったでしょう。

(3)ペルガモの教会(2・12~17)

サタンの働きのまっただ中で勝利した教会です。「わたしはあなたの住んでいる所を知っている。そこにはサタンの座がある。あなたは、わたしの名を堅く持ちつづけた」とはそのような状況です(13)。この勝利に至るまでには、最後まで信仰を捨てずに殉教した聖徒アンテパスもいました(13)

しかし、勝利の喜びで油断して、逸脱して行く危険性をはらんでいました。責むべきことが少しばかりあるというのです。それはバラムの教を奉じている者があるからです(14)

バラムとは、バラク王に買収された預言者のことです。旧約の民数記に記されています。バラムは異教の娘たちを利用してイスラエルの男たちをたぶらかし、偶像礼拝の習慣をイスラエルに持ち込むことを提案した男です。このことでバラムはバラク王から報酬を得たのでした。

そんな旧約時代の悪習慣が新約のキリスト教会にも入ってきました。バラムが王と結託して報酬を得たように、バラムの教えとは、国家権力とか世の利権と結びつくことを示しています。宗教と世俗の権力とが協力し合って共存共栄を目指したのです。

旧約聖書では、世俗の権力に取り入る生き方を「霊的姦淫」だと指摘しています。イスラエルにとって愛すべき夫である神を信頼せずに、エジプトとかアッシリヤと同盟を結んで生きのびようとしたのです。なのに、ペルガモ教会もそのバラムの教えを受け入れてしまったのです。

教会史でいえば、迫害に勝利したものの、ローマ帝国と同盟を結びローマの国教となった教会です。

紀元313年、キリスト教はローマ帝国の公認宗教となりました。迫害の時代がようやく終わりました。でも、キリスト信仰は世俗の国家権力に承認されなければ成り立たないのですか。世が否定しようとも、神が義と認めてくださることこそ真の承認です。

やがて380年、ローマ帝国はキリスト教を国教として法律で定めました。これによりローマ帝国はキリスト教国となりました。ただ、この時点では他宗教も認められていましたが、392年にはキリスト教以外の宗教を禁じることになり、キリスト教徒でなければ不利な立場におかれる時代になりました。かつてはキリストを信じていると処罰されたのに、逆転して、キリストを信じない者が処罰される時代です。

こうしてキリスト教会は帝国と共に発展することになりました。キリストの花嫁であるはずの教会が、ローマ帝国の妻に成り下がってしまったのです。とはいえ、社会的には地位も上がり地上の豊かな富に潤うことになりました。

この時代は、バラムの教えの深みにのめり込んだキリスト教会です。だから、悔い改めなさいと主は言われます(16)。悔い改めないなら、キリスト自らが教会と戦われるとまで言われます。このままではキリストの敵となってしまいます。

15節ではニコライ宗の教えが入り込んできたことも指摘されています。エペソ教会では拒絶していたのに、ついにペルガモ教会では階級制度が導入されてしまいました。国教化された教会では、国の監督の下に教職者から信徒まで階級で統率され、世俗的な支配体制は強固なものになりました。

(4)テアテラの教会(2・18~28)

責められる点の多い教会です。でも主は、「あなたの行いと愛と信仰と奉仕と忍耐を知っている」と言ってくださっています。責められることのある私たちに対しても、主は公正にご覧になっています。そんな主の御前に、正直に歩む者でありたいと願います。

しかしながら主はイゼベルの働きを受け入れていることを責めておられます。「あのイゼベルという女を、そのなすがままにさせている。この女は女預言者と自称し、わたしの僕たちを教え、惑わして、不品行をさせ、偶像にささげたものを食べさせている」のです(20)

イゼベルという名の女預言者が当時いたのか、あるいは象徴表現としての「イゼベル」なのかわかりません。いずれにせよ、かつてイスラエルに偶像礼拝を持ち込んだイゼベルの働きを指摘しています。

かつてのイスラエルの王アハブは、異教の国シドンの王の娘であるイゼベルと結婚することによって、政治の安定をはかりました。しかし、それが霊的ないのち取りとなりました。

このイゼベルによってイスラエルに偶像礼拝が持ち込まれ、イゼベルの尻にしかれたアハブは、主の憎まれる悪を重ねた王として有名です。

このイゼベルのような働きは、昔も今も教会の中にあります。中世の教会もこの「イゼベルの教え」にすっかりやられてしまいました。異教の習慣を取り入れ、イエスではなくマリヤや聖人を崇拝し、教会の本来の姿から大きく逸脱しました。

イゼベルは、やがて黙示録後半から登場する大淫婦を想起させます。大淫婦は教会に霊的な姦淫をもたらす女として表現されていますが、このイゼベルのなれの果てと言えるでしょう。

そんな中でも、自分の持っているもの……つまり、キリストへの貞操であり、信仰を堅く保ちなさいと、冒頭の聖句は命じています(25)。信仰を堅く保つ者は「勝利を得る者」(26)です。

テアテラ教会は、教会史でいえば中世のキリスト教会の時代を現しています。

異教の日本、偶像に満ちた日本でイエスへの礼拝をまっとうするには、多くの試練を受けることでしょう。でも、主は、そのような日本で私たちが勝利者になることを願っておられます。それには報いがあります。「諸国民を支配する権威」です。これは来たる千年王国での栄誉ある立場のことです。

7つの教会すべてに、勝利する者への報いが記されています。教会が悔い改めて勝利することを願っておられます。神は、永遠の褒美を用意して、私たちの勝利を応援してくださっています。


ヨハネの黙示録 1章

2023年04月15日 | ヨハネ黙示録
ヨハネの黙示録 1章
恐れるな。私は初めであり、終りであり、また、生きている者である。私は死んだことはあるが、見よ、世々限りなく生きている者である。そして、死と黄泉との鍵を持っている。
(1・17~18)


キリスト教会への迫害は、ローマ皇帝ネロによる迫害が有名です。紀元60年代のことです。この場合、ネロ自身の異常性からくる猟奇的なものでした。残虐性では際立つのですが、国家レベルの迫害ではありませんでした。

さらに歴史は進み90年代になってドミティアヌス帝の時代には、皇帝崇拝が強要されることで、国をあげての迫害となって行きました。従来の教会では「世俗の権威であっても従え」(ローマ13・1)と教えられてきましたが、皇帝崇拝は「神だけを礼拝せよ」との信仰の根幹に反することなので、クリスチャンは従わなかったのです。 ※その後も2~3世紀にわたってローマ帝国の迫害が続くが、各皇帝の時代によって迫害にも緩急の差があった。

使徒ヨハネが黙示録を記録したのは、ドミティアヌス帝時代にパトモス島に流刑された時のことです(黙1・9)。そんな試練の中で、イエス・キリストによって啓示された内容を記録したものです。

流刑の地でヨハネが見たのは栄光に輝くイエス・キリストでした。見よ、彼は、雲に乗ってこられる。すべての人の目、ことに、彼を刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見るであろう。また地上の諸族はみな、彼のゆえに胸を打って嘆くであろう。しかり、アァメンと記されています(黙1・7)

イエス様は復活後、雲に乗って天に引き上げられ、それと同じ有様で再び来られると約束されているのですが、そのことを指し示しています(使1・11)。また、預言者ダニエルが語ったキリストの来臨の様子も同じ描写です(ダニ7・13)

さらに、キリストの来臨を見る者は、かつて十字架で〝刺し通した〟あのイエスがキリストであると知って嘆く姿も、ゼカリヤ書12章10節に預言されているとおりです。

さて、ヨハネが目撃したキリストの様子が1章13~16節に記されているのですが、文字通りを絵にしてみるなら恐ろしお姿です。イエスの力強さや気高さを象徴的に現す描写であろうと思われます。このお方からの第一声が冒頭の聖句です。

(1)恐れるな。わたしは初めであり、終わりである。

私たちは「今」しか見ることができずに、今に振り回されます。今だけを見ていると、状況が悪くなれば恐れます。今に一喜一憂します。

しかし、 主イエスは、すべての事を始めたた方であり、終わりまで責任を持たれる方です。初めであり終わりであるとはそういう意味です。ですから途中である「今」は偶然ではなく、終わりの完成に向かっている今である故に恐れてはいけません。

私たちの「初め」は何ですか。それは、私たちが主イエスに似せて創造されたことです。私たちの「終わり」は何ですか。それは、私たちがイエスに似た者として完成することです。

私たちの主は、事をはじめておきながら、結末をこれから考えようというのではありません。気分屋さんが何となしに事を始め、迷いながらどこに向かおうかと模索しながら進んでいるのでもありません。

つまり、初めから終わりまで、すべて神の御手の中にあります。これが「初めであり、終わりである」「アルファでありオメガである」と言われる主イエスの宣言です。そんな主を信頼する故に「恐れるな」と言われています。

(2)わたしは生きている者である。

「生きている」が2回も述べられています。イエスは生きておられる方です。「死んだことはあるが、見よ、世々限りなく生きている」お方です。

この力強い宣言は、迫害下にある人々に励ましと勇気を与えます。十字架の死は終わりではありません。永遠のいのちの始まりです。

生きておられる主を普段は見ることができません。でも、生きておられて私たちと共におられます。だから恐れてはいけません。

不慮の事故で失明した妻を支えた某夫の実話です。

目の見えない妻が職場に通うために、当初、夫は妻につきそって出勤し、帰宅時間になると、再び彼は自分の仕事を切り上げて妻の職場に行き、帰り道もつきそいました。

数ヶ月後、夫は、「ぼくも自分の仕事が忙しくなるので、これからは君ひとりで通勤してくれ」と提案しました。そして、そのために練習と準備を重ねて、ついに彼女はひとりで通勤することになりました。

初日はやっとの事で通勤できました。そして数日が経過した時のことです。ある人が彼女に、「あなたは愛されているんですね」と声をかけてくれました。

その人が言うには、彼女がバスに乗り降りするときも、家に入るときも、陰でそっと見守っている男性がいると言うのです。その服装や様子からして、その男性は自分の夫だと分かりました。

彼女は、自分に付き添ってくれない夫を冷たい人だと思っていたのですが、実は、彼女が自立できるように見守っていてくれていたことを知り、深い感動で涙したそうです。

イエス様は私の目には見えないだけで、この夫のように、いつも見守っていてくださいます。だから、恐れることはありません。

(3)わたしは死と黄泉ハデスとの鍵を持っている。

黄泉(ハデス)とは「死者の行く所」です。イエス様はその黄泉と死に関する鍵をお持ちです。死の牢獄から私たちを解放してくださるのは、その鍵を持っておられるイエスだけです。

また、罪ある者たちを死の牢獄に投げ込むのも、その鍵をお持ちであるイエスです。そのようなイエス様を、私たちは信じているのです。何を恐れることがあるでしょうか。

黙示録が記された迫害の時代と同様に、今日も不安や恐れの時代です。イエスがどのようなお方かを知ることこそ、恐れに打ち勝つ基本です。

さて、最後にひとこと。ヨハネの黙示録は難解な書物であるため人々は敬遠しますが、この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて、その中に書かれていることを守る者たちとは、幸いである。時が近づいているからであるとあります(1・3)。ですから読み続けることです。そして、この書に込められた再臨のキリストを待ち望むことの幸いを受けてください。

※随所に記されている「七つ」という表記は「完全性」を意味する。「七つの御霊」は直訳すれば〝七つの霊〟。つまり完全な霊という意味で聖霊のことである。聖霊が七つあるという意味ではない。同様に、「七つの教会」はすべての教会のこと。「七つの星」は「七つの教会の御使たち」と説明がある(20)。〝御使〟の原意は〝使い〟。それを天使だと解釈もするが、神から遣わされた使いの者という意味で、預言者や祭司の場合にも「主の使い」と表現される。つまり、教会に仕えるために主から遣わされた〝牧師たち〟とも解釈できる。「七つの燭台」は七つの教会を表すのであれば、同じ文脈では「七つの星」は七人の牧師たちという意味に解釈するのが妥当だと思われる。また、教会のことが「燭台」にたとえられている。世の光として燭台の火を消してしまわないようにとの御心が込められている。

ユダの手紙

2023年04月14日 | ユダ書
ユダの手紙
最も神聖な信仰の上に自らを築き上げ、聖霊によって祈り……
(1・20)


間違った信仰を持ち込む人々が教会の中にしのびこんで来ました(4)。彼らは不敬虔な者たちで、「神の恵みを放縦な生活に変えてしまう人々」でした。放縦な生活とは、勝手気ままな生活。肉の欲するままの生活のことです。

いったいどういう経緯で、「神の恵み」が「放縦な生活」へと変化してしまうのですか。信じていることとやっていることが違うじゃないですか。

実は、それが「不敬虔」という意味です。不敬虔な者の理屈はこうです。神の恵みがあるのだから、放縦な生活もゆるされるのだと。 ※口語訳の場合、「不信心」と訳されたところは「不敬虔」の意味。

彼らはグノーシス主義に影響を受けた人々でした。先のヨハネの手紙で見たように、グノーシス主義では肉体を卑しいもの、即ち悪とみなし、霊的なことこそ善であり重要であると見なしました。

そのような発想をするグノーシス主義は〝二つの極端〟に陥りました。

第一は、肉体は悪なのだから、肉体を卑しめて禁欲主義になりますそして、霊的なことだけを追い求める人々が登場します。彼らは、肉体に与えられた恵みを否定して、霊的なことこそ重要だと考えました。そして、霊的なことがらを追及するあまり神秘主義に陥りました。

第二は、霊的な知恵に目覚めることが重要なのであるから、霊的な知恵の領域に達することができたなら、あとは肉体のおもむくままに生きても大丈夫だと考える人々が登場します。霊的覚醒を理由に彼らは放縦な生活に陥りました。

ヨハネの手紙では前者の場合が取り上げられていましたが、ユダの手紙が指摘しているのは後者の場合です。両者とも不敬虔です。敬虔とは、信じている内容を生活にあらわす生き方のことですが、彼らの場合、霊的といいながら生活はでたらめです。

今日の聖句で、最も神聖な信仰の上に自分自身を築き上げるとは、信仰という土台の上に、信仰と矛盾しない生活を建て上げることです。

信じている内容と、その上に築かれた生活とが食い違っていると、土台と上物である家とがねじれた状態です。そのような建物は地震があれば崩壊するように、人生も破綻してしまいます。

さて、教会の中に忍び込んできた不敬虔な人々に対するさばきは、すでに旧約の時代から警告がなされてきました。ユダの手紙は3つの事例をあげて説明しています。

① 荒野で滅ぼされた人々の場合(5)

彼らが荒野で滅びたのは、彼らが最後まで神を信じなかったからです。信じ切れなかった原因は、出エジプトした目的を見失ったからです。

あなた方が救われたのは神の性質にあずかる者となるためでした(Ⅱペテロ1・4)。これを忘れてはなりません。この召しと選びを確かにしていれば、過ちに陥ることはなかったのです。

② 天で堕落した御使の場合(6)

彼らが堕落したのは、自分たちの身分をわきまえなかったからです。本来なら、神に仕える天使であるのに、自らも神になろうとしました。

彼らについては、自分たちの地位領域を守らず、自分のおるべき所を捨てたと指摘されています。私たちは造られた者です。被造者です。被造者である私たちは、創造者である神を礼拝し仕える身分であることを見失ってはなりません。

③ ソドムとゴモラの場合(7)

彼らへのさばきは、肉の欲望のままに動かされたからです。

肉体は悪ではありません。内なる聖霊によって支配を受けるとき、肉体は良いことに用いられますが、肉の欲するままに行動するなら放縦な生活のために肉体は用いられます。

ですから、肉の欲しいままに動かされないためには、聖霊のご支配を受けることです。理性も禁欲主義も賢いもののように見えるだけで、実際は何の役にも立ちません。

不敬虔な人々のことを、聖書はこの人たちは、御霊を持たず、分裂を起こし、生まれつきのままの人間だと指摘していますが、御霊(聖霊)を受けていない人々です。

知識や知恵が豊富で人並みはずれた努力家であっても、聖霊によらなければ信じている内容を生活に表すことができません。この聖霊の助けを得て、信じた内容の上に実際の生活を築き上げるのです。

かくして、「最も神聖な信仰の上に自らを築き上げ、聖霊によって祈る」という冒頭の聖句になるわけです。
 

ヨハネの第三の手紙

2023年04月13日 | ヨハネ書
ヨハネの第三の手紙
真理のうちを歩いていることを聞く以上に、大きい喜びはない。
(1・4)


私たちには様々な喜びがありますが、主にある兄弟姉妹が真理のうちに歩んでいることを聞くことは、何にもまさる喜びであり、また励ましです。

兄弟姉妹が困難な状況にありながらも、イエス様を信頼して歩んでいることは、私たちの喜びであり励ましです。当人としては目の前のことで精一杯で、だれかを喜ばせているとは思ってもいないでしょうが、信仰をもって生きる姿はだれかに喜びを与えることになるのです。

私も、ある兄弟が遠くの某教会で信仰を持ち続けていると聞くと、とても深い喜びを受けます。良かったなぁ~。イエス様につながっていてくれているんだ。ハレルヤ……と。

私たちは主にある仲間のために何ができるでしょうか。自分自身がイエス・キリストを信じてしっかりと歩みつづけること……、これは兄弟姉妹に対して私たちができる大切な愛の働きです。

ヨハネ第二の手紙でもそうでしたが、真理のうちを歩くことは愛する生き方を貫くことだと教えています。第三の手紙もその点で同じです。

手紙の著者であるヨハネは、真理のうちを歩む信徒のガイオから喜びを受けていました。そして励ましを受けていました。

といっても、ガイオは特別に目立って活躍する人のようではりません。むしろ、伝道者や働き人を助ける裏方の働きに徹していました。そのガイオについてこう記されています。

あなたが、兄弟たち、しかも旅先にある者につくしていることは、みな真実なわざである。彼らは、諸教会で、あなたの愛について証しをした。」(5~6)

ガイオは地道に働く人であり、他者に仕える人でした。そのことを見せびらかすような人ではなかったようです。しかし、その愛を受けた兄弟たちが証しをしてくれて、手紙の筆者である使徒ヨハネの知るところとなったわけです。

ガイオは特別に大きな働きをしているわけではありませんでした。それらの人々を、神のみこころにかなうように送り出してくれたら、それは願わしいことである。彼らは、御名のために旅立った者であってとあるように、巡回伝道者をもてなし、次の任地へと送り出していたようです(6~7)。 ※新改訳では「彼らを次の旅に送り出してくれるなら、それは立派なことです。彼らは御名のために出て行きました」と翻訳。

自分は巡回伝道者の器ではない。でも、自分にできることをして仕えよう。ガイオはそんな心で彼らを愛し仕えたのだと思います。

そして、こう勧めています。それだから、私たちは、真理のための同労者となるように、こういう人々を助けねばならない(8)。この聖句は新改訳で私たちはこのような人々をもてなすべきです。そうすれば、私たちは真理のために彼らの同労者となれるのですと翻訳しています。

つまり、ガイオのような愛する者たちのことを、聖書は真理のための同労者と表現しています。何という光栄でしょう。逆に、愛さない者は同労者ではないということです。

愛すること。それが「真理のうちを歩くこと」なのです。真理のうちを歩くとは、聖書をよく知っているとか、難しい神学理論を知っていることとは別次元のことです。また、教会で目立った活躍をすることでもありません。愛することが、すなわち真理のうちを歩むことなのです。

勿論、聖書はよく学んでほしいです。教会の任務にも熱心であってほしいと願います。しかし、この「愛すること」を見失うなら、それは真理のうちを歩んでいることにはならないという視点は決して見逃してはなりません。

先の手紙で述べたようなグノーシス主義の人々は、神学的な知恵を求め、それが真理だと自負していました。しかしそれに対して、手紙の著者ヨハネは、愛することが真理なのだと教えています。

単純なことのようですが、神の愛を受け、神の愛を現し、神の愛のうちを歩むことが真理なのです。異端者が陥るような、論理をひねくり回した神学や哲学ではありません。

◆◆◆◆◆

さて、このガイオとは対照的な人物で、デオテレペスについて述べておきましょう。聖書は彼のことをこう記しています。

「みんなのかしらになりたがっているデオテレペスが、私たちを受けいれてくれない。だから、私がそちらへ行った時、彼のしわざを指摘しようと思う。彼は口ぎたなく私たちをののしり、そればかりか、兄弟たちを受けいれようともせず、受けいれようとする人たちを妨げて、教会から追い出している。」(9~10)

彼は仕える人ではありませんでした。自分が主導権を握りたい人のようです。たとえば、世の権力者たちも〝かしらになりたがる〟人々です。だから政敵をののしり、やがて追い出して行きます。

とはいえ、デオテレペスはあからさまに悪口を言ったり、追い出すようなことをする人ではないと思います。そんな人は教会にはいません。でも、結果的にそうしていたのです。

回りくどい言い方で、うわさ話のようにして他者をののしったり、悪評を立てたりします。教会を良くしようという熱心さが、結果的に気にくわない信者や牧師を追い出すのです。

しかし、教会の真のリーダーは違います。愛して仕える人です。つまり真理のうちを歩む人です。そのような人を、周囲はおのずとリーダーとして認めて行きます。リーダーになろうとする人ではなく、他者からリーダーだと認められる人です。

両者の典型としてデオテレペスとガイオの名が聖書に記されています。あなたは〝デオテレペス型のクリスチャン〟ですか。ガイオ型クリスチャンですか。

さあ、今日も真理のうちを歩むことができるように祈りましょう。あのガイオのように地道な愛をあらわすことができますように。そして、真理の同労者となることができますように。