詩篇72:1 神よ、あなたの公平を王に与え、あなたの義を王の子に与えてください。
王のために祈る詩篇です。国の支配者である王が、神の豊かな祝福を得て、この国を、そして全世界を正しく納めることが出来るようにと祈る詩篇です。
冒頭に「ソロモンの歌」とありますが、末文は、「こうして、ダビデの祈りは終わった」とあるので、父ダビデによる、息子ソロモン王の統治のための祈りと考えるとよいでしょう。
その祈りの冒頭は、「神よ、あなたの公平を王に与え、あなたの義を王の子に与えてください」というものです。どうか、王が、神からの公平と義をもって国を治めることが出来るようにと祈っています。
私たちの国にも、このような神の公平と義をもって治める為政者が必要です。
神の公平ではなく、私利私欲が優先していないだろうか。自己保身や、自分の支持母体を守ることを優先していないだろうか。神の正義よりも、国家のエゴイズムという名の「義」が主張し、個人の自己正義という「義」が幅を利かしていないだろうか。
こんな偽りだらけの「公平」と「義」で、国が治まるわけがありません。
だから、この詩篇のように、国の為政者たちについて、「神よ、あなたの公平を彼らに与え、あなたの義を彼らに与えてください」と祈る必要があります。
と同時に……です。そのような真の王はイエス・キリストを他にしておられないことも事実です。キリストにこそ、神の公平がやどり、神の義が表されています。このお方のご支配の下には、公平と義が実現されます。
そうです。ダビデが、息子のソロモン王のために祈った祈りは、まさに神の国の王であるキリストの統治を祈る祈りであり、預言となっています。詩篇の「彼」の箇所を「キリスト」と読みかえればピッタリと当てはまります。
たとえば……
「キリストは民の貧しい者の訴えを弁護し……」(4)、「キリストは日と月のあらんかぎり、世々生きながらえるように……」(5)、「キリストは牧草地に降る雨のように、地をうるおす夕立のように下ってくる」(6)……等々。
こんなキリストの王としての支配を祈ろうではありませんか。主イエスよ、来て下さい……。詩篇の祈りは、そのような祈りです。(Ω)
詩篇71:9 私が年老いた時、私を見離さないでください。私が力衰えた時、私を見捨てないでください。
この詩篇のうたい手は年老いています。彼(彼女)は幼い時から主を信じて、信仰の道を歩んできました。「主なる神よ、あなたは私の若い時からの私の望み、私の頼みです」という告白にそれは現れています(71:5)。
さらに、自分が世に生まれる時も、神のご支配があったことを告白しています。偶然に生まれてきたのではない。神の意図のもとに、母の胎の中に宿ったときから、神は私に目をそそぎ、見守ってくださっていました。
「私は生れる時からあなたに寄り頼みました。あなたは私を母の胎から取り出されたかたです。私は常にあなたをほめたたえます」(71:6)。
そうです。私たち一人ひとりは、たまたま生まれてきたのではありません。それぞれが神の目的をもって世に誕生しました。ひとりとして無駄ないのちはありません。だから、私たちは、私を世に生みだしてくださった神を賛美します。
「だれが、生んでくれって、たのんだのだ!」と、親に対する捨てぜりふは痛々しい響きがあります。自分を生みだしてくださった神を知るまでは、この悲しい捨てぜりふは続きます。神は、神のご目的をもって、あなたの父母を通して、あなたを世に送られたのです。
それは、神の愛を学ぶためです。それは、神を愛し、自分を愛し、隣人を愛する愛を学ぶためです。私たちが世に生まれたのは、愛されるためであり、愛するためです。そのような聖なる目的を知って、私たちは神を賛美します。
こうして愛を学んだものの、やがて年老いて行きます。だれもが迎えなければならない人生の終末です。年老いるということは、人生で得てきた様々なものを捨てて行く作業です。そして、なくてならぬものだけを持って天に帰る準備をします。
健康を得た。富を得た。地位や名誉を得た……といっても、年老いるにつれて、それらを否応(いやおう)なしに手放さなければなりません。最後に残るのは神への愛です。神の愛を信頼する信仰だけです。
だから、今日の聖句のように祈ります。「私が年老いた時、私を見離さないでください。私が力衰えた時、私を見捨てないでください」……と。
神は、この祈りにどのように応えてくださるでしょうか。主はこう言われます。「わたしはあなたがたの年老いるまで変らず、白髪となるまで、あなた方を持ち運ぶ。わたしは造ったゆえ、必ず負い、持ち運び、かつ救う」(イザヤ46:4)。
いかがですか。神は、目的をもって私を世に生みだしてくださったがゆえに、最後まで責任を負ってくださるお方です。「わたしは造ったゆえ、必ず負い、持ち運び、かつ救う」のです。このような神である主を賛美します。(Ω)
詩篇70:5 神よ、急いで私に来てください。
「主よ、ためらわないでください」……新改訳では「主よ、遅れないでください」と、続けて訴えかけられています(70:5)。
自分としてはすぐに解決してほしい。急いで、この試練を取り除いてほしい。そんな願いで、私たちはイエス様に申し上げる場合があります。しかし、時には、遅すぎたか……と思える時もあります。
娘が死にかかっている状況で、ヤイロはイエス様をお連れして道を急いでいました。しかし、そんな道中で、長い間やんでいた婦人が、イエスの衣に触れさえすればいやされると信じて出てきたのです。
「イエス様、そんな婦人のことより、私の娘を……。主よ急いでください」。ヤイロはそんな焦る気持ちでいっぱいだったことでしょう。
そんなやり取りをしている間に、ヤイロの家から使いがやって来て、「お嬢さんは亡くなりました」という報告を受けました。だから、急いでくださいって言ったのに……。あぁ遅かったか!とヤイロの心はくずおれたことでしょう。
しかしイエスは、「恐れることはない、ただ信じなさい」と言われ、ヤイロの家に行って娘を死者の中から生き返らせなさいました。人には遅かった……と思えることも、神には遅いことはありません。神の「時」があるのです。
また、マルタとマリヤの弟であるラザロが重病との知らせが届いたときも、イエスは遅れて到着なさいました。この時すでに遅し。ラザロは死んで墓に葬られていました。姉妹たちは、「もっと早く来て下されば」と訴えました。しかし、イエスはラザロを墓から呼び出されました。
神には遅すぎることがありません。神には、神の時があるのです。
そのことを信頼して、今日の詩篇のように叫ぼう。「神よ、急いできてください」。「主よ、ためらわないでください」……と。(Ω)
詩篇69:5 神よ、あなたは私の愚かなことを知っておられます。私の諸々のとがは、あなたに隠れることはありません。
自分を取り囲む敵どもに、神が報復なさいますようにと祈っている詩篇です。しかし、もし、上記の5節がなかったら、詩篇69編は単なる自己中の歌にさえ聞こえます。
私はこれだけ正しい。だから、その私に敵対する者どもは滅びて当然だ……。私はこれだけ頑張っている。だから、頑張らないあの人が滅びて行くのは当然だ……。
はたしてそうなのでしょうか。
自己正義に立った「正しい人」が返って、他者を傷つけることだってあります。熱血漢の頑張り屋さんがさばき主になって、他者を切り捨て、世から「あわれみ」という豊かさを排除してしまうこともあります。
今日の詩篇は、そんな自己正義に立った訴えではありません。そんな熱血漢の怒りの歌でもありません。
彼は、自分の愚かさを知っているのです。いえ、神に知っていただいているのです。
自分の愚かさを神に知っていただく者は幸いです。神のあわれみ深さを知ることになるからです。こんな愚か者が神に愛されているのです。ここから、「あなたの敵をも愛せよ」といわれる新約の世界にとびらが開きます。(Ω)
詩篇68:16 峰かさなる諸々の山よ、何ゆえ神が住まいにと望まれた山をねたみ見るのか。まことに主はとこしえにそこに住まわれる。
この詩篇は、ダビデが契約の箱をエルサレムの都にかつぎのぼったときの歌だと言われています。「契約の箱」とは、その中に「十戒の板」「アロンの杖」「マナの入った壺」の3点が納められた箱で、神聖な箱です。
イスラエル民族が荒野を旅する段階で、神が「幕屋」を建造するように命じられましたが、その幕屋の最も神聖な場所である「至聖所」に置かれたのが「契約の箱」です。 ※「幕屋」とはテントで出来た移動式神殿。
荒野の旅を終え、イスラエル民族が約束の地カナンへ入り定着してからは、幕屋の形態は崩れていったようで、その心臓部分といえる「契約の箱」が各地を転々とし、礼拝の中心となっていました。
その契約の箱を、イスラエル王国の都であるエルサレムに安置しようと、そのために盛大なパレードを計画し、ついにエルサレムに契約の箱を迎えることができました。その時の祝いの賛美がこの詩篇だと言われています。
やがてソロモン王の時代に、この契約の箱を中心に石造りの神殿が建立されるわけですが、このように、エルサレムは神の住まわれる街と呼ばれるようになりました。
エルサレムは小高い丘の街で、「シオンの山」とか「シオンの丘」とも呼ばれます。神はご自分の住まいを、そのような小さな山、小さな街に定められました。それは、神がかねてからご計画なさってきたことでした。「わたしの名を置くところ」として、定めておられた場所です。
さて、古来から人々は荘厳な山々に神が住まわれるという思想を持っています。山岳信仰とでも言ったらよいでしょうか。日本でもそうです。富士山は神の山としてあがめられ、「霊山」と言われ、神秘的な力が得られるとして、多くの宗教団体が富士山の麓(ふもと)に拠点を構えています。
そのような思想は中東にもあって、エルサレムのような小さな山より、もっとすごい山々が「神の山」として人々からあがめられていました。
「バシャンの山」と呼ばれる山もその内のひとつです。ゴラン高原にある山だと言われています。その他にも「峰かさなる諸々の山」もありますが(68:16)、ヘルモン山連峰のことかと思われます。
そんな荘厳な山々が嫉妬するほどに、主なる神は、ご自分の住まわれる場所を小さなシオンの丘・エルサレムに定められました。
神は、姿形の良いところに共におられるのではありません。人が見向きもしないような小さな場所を選ばれます。幼な子のような小さな場所を選ばれます。威厳に満ちた場所ではなく、謙遜で身を低くする場所を選ばれます。
自分自身はどんな存在でしょうか。ヘルモン山やバシャンの山のようでしょうか。それとも、神を歓迎し、身を低くするエルサレムのような丘の姿でしょうか。(Ω)
詩篇67:2 これはあなたの道があまねく地に知られ、あなたの救の力がもろもろの国民のうちに知られるためです。
私たちは、神の豊かな祝福があるようにと祈ります。今日の詩篇もそのような祈りで始まっています。「どうか、神が我らをあわれみ、我らを祝福し、そのみ顔を我らの上に照されるように」(67:1)。
この祝福は、「神が共におられる」という祝福です。それは具体的には、病のいやしであったり、豊かな食物であったり、家庭の平和であったりもします。神は、それらを豊かに与えることの出来るお方です。私たちは遠慮せず、それらを大胆に求めて良いのです。
しかし、それが単に、私たちが他の人より快適な生活をするためであるなら、エゴイステックなご利益宗教に成り下がってしまいます。私たちが祝福を求めるのは、この祝福が私だけにとどまらず、全世界の人々に及ぶためです。
今日の詩篇は、何度も「諸々の国民が……」と、その目は世界に広がっています。
「神よ、民らにあなたをほめたたえさせ、諸々の民にあなたをほめたたえさせてください」(67:3)。「諸々の国民を楽しませ、また喜び歌わせてください。あなたは公平をもって諸々の民をさばき、地の上なる諸々の国民を導かれるからです」(67:4)。
神は、アブラハムを祝福されました。それは、アブラハムを「祝福の基(もとい)」とするためでした。つまり、祝福がアブラハムから諸々の民に広がるためです。基とは祝福の出発点であり、祝福をお配りする基地のようなものです。
このアブラハムに告げられた約束は、今やクリスチャンである私たちに受け継がれています。クリスチャンの皆さん、どうぞ大いに祝福を受けてください。それは霊的な祝福……罪のゆるし、神が共におられるという祝福……だけでなく、物質的な祝福も含めて受けてください。
それは、そこから祝福の分かち合いが周囲に広がるためです。そして、「諸々の国民」におよぶためです。(Ω)
詩篇66:10 神よ、あなたは我らを試み、銀を練るように、我らを練られた。
この詩篇では、神の大いなる救いの御業を賛美しています。「あなたの御業は、なんと恐ろしいことでしょう。偉大な御力のために、あなたの敵は、御前にへつらい服します」(66:3)。
かつてエルサレムがセナケリブ率いるアッスリヤ軍に完全包囲されたのですが、ユダの王ヒゼキヤとユダの民はひたすら主なる神を信頼し、賛美しました。
すると、あの誇り高ぶるアッスリヤ軍はある夜突然戦場に倒れ……疫病ではなかったと言われている……、母国への帰還を余儀なくされました。それは、紅海を渡った出エジプトや、ヨルダン川を渡ってカナンの地に入った時の御業にも匹敵する出来事でした(66:6)。
でも、そんな御業がトントン拍子になったわけではありません。
聖書の神は、困っている私たちにすぐに手を差し伸べて、赤子をあやすように私たちを取り扱われるお方ではありません。困った時にすぐさま解決してくれる神……そんな都合のよい人間の願望に仕える奴隷のような神ではありません。
むしろ逆で、私たちこそ、神のしもべとなって謙遜に仕えるべき存在です。
神は、私たちを訓練なさるお方です。愛するがゆえに試練を通して、私たちを練りきよめるお方です。今日の御言は、銀を練るように、試練を通して私たちを練られたと言っています。
銀は純銀のまま土に埋まっているわけではありません。岩石の中に様々な不純物と混ざって含まれています。そこで、純銀を得るために、高温の火の中で不純物を焼いて取り除きます。
丁度、神が私たちに与える試練も、その銀を製錬する工程のようです。
神は、困難という火の中をくぐらせて、神を信頼しない心……それは神から見れば不純物……を取り除こうとされます。また、時には、試練の中で、憎しみとかゆるさない心……それは神の御国には相応しくない不純物……をきよめようとなさいます。
こうして、「我らは火の中、水の中を通った。しかし、あなたは我らを広い所に導き出された」(66:12)という恵みに至るのです。
多くの場合、試練や困難に出会うと、それをどのように乗り切ろうかということに関心が注がれます。しかし、重要なことは、神はこのことを通して、何を訓練なさろうとしているのだろうかということです。
神は、私たちを子として取り扱っておられるのです。神の子に相応しい者にするために、試練を通して私たちの心を「精錬」なさるのです。この目的を見失わないで、火の中、水の中を通過する者は幸いです。
その人は「広い所に導き出される」のです。新改訳では「豊かな所へ連れ出される」と訳しています。そうです。本当の豊かさを得るために、私たちは試練という荒野を通過して約束の地に入って行くのですから……。(Ω)
詩篇65:3 咎(とが)が私を圧倒しています。しかし、あなたは、私たちのそむきの罪を赦(ゆる)してくださいます。
苦しみの中にも、主のご支配のあるところに、平安のある恵みが歌われています。
「幸いなことよ。あなたが選び、近寄せられた人、あなたの大庭に住むその人は。私たちは、あなたの家、あなたの聖なる宮の良いもので満ち足りるでしょう」(65:4)。
どんなに困難が私たちを覆っても、神の御側には平安があります。「聖なる宮」とは、神に最も近い場所のことを表しています。
神に近づくことのできる道を知っている人は、何と幸いなことでしょうか。多くの場合、こんな罪人が今さら神に近づくなんて……と思っています。ある人は、「もう少しきよい人間になってから教会に行きます」と言います。
旧約の時代は、神の宮に行くためには「いけにえの血」をたずさえて出るようにと、律法に定められていました。「いけにえの血」とは、罪のきよめのために、罪の代価であるいのちが注がれた“しるし”を意味します。
新約に時代には、イエス・キリストがその血を十字架で流されました。この血をたずさえて、神の御側に近づくことができます。動物のいけにえの血は、あくまでも代用です。本当のいけにえとはなり得ません。しかし、イエスの血は完全ないけにえの血です。
イエス・キリストが十字架で流された血は、神が用意された究極の「いけにえの血だ」と信じる人は、この血を受けた人です。あなたは、このイエスの血をたずさえて、神の御側に大胆に近づくことができます。
私たちの日常はあいかわらず「咎が圧倒しています」。この「圧倒」ゆえに押しつぶされそうです。でも、イエスの血を信じる者には、神に近づく道が開かれています。イエスの血によって、私たちの一切の罪は赦されているからです。
「咎が私を圧倒しています。しかし、あなたは、私たちのそむきの罪を赦してくださいます」。(Ω)
詩篇64:7 しかし神は矢をもって彼らを射られる。
今日の詩篇には、神をあなどり、神を畏(おそ)れることを知らない人々の姿がえがかれています。ダビデはそのんな人々に悩まされていました。
神を畏れずあなどる人々は、「その舌を剣のように、とぎすまし、苦い言葉の矢を放ちます」(64:3)。矢の先に毒が塗られています。その言葉の矢で傷つき、その言葉の毒が心をむしばみます。
今度出会ったこんな風に言ってやろうと心の中で何度もシュミレーションをする……。こうして「舌を剣のように研ぎすます」のです。しかも、それは「苦い言葉」となって放たれます。そうではなく「塩で味付けられた言葉」をもちいたいものです。
神を畏れず、あなどる人々の悪巧みは一見、順調にさえ進みます。だから、彼らは言うのです。「だれがわれらを見破ることができるか。だれがわれらの罪をたずね出すことができるか。われらは巧みに、はかりごとを考えめぐらしたのだ」(54:5-6)。
神は見逃しておられるのだろうか。神の目は節穴(ふしあな)なのであろうか。
いいえ、神に隠れているものなど何ひとつありません。ただ、神は忍耐深いお方であるので、人は、その忍耐深くあられることをいいことに、神をあなどるのです。
「しかし神は……」です。今日の御言はそう告げています。「しかし神は……」。この事を忘れてはなりません。神が彼らに正式に報いられます。私のすべきことは、神の御前に「直ぐなる者」であることです。 ※神を畏れ正直な者。
私は常々祈ります。「神を畏れる正直な人々を起こしてください」と。政治家の中にも、官僚の中にも、ビジネス界の中にも、教育界の教師の中にも、神を畏れる正直なリーダー達が起こされますように……。(Ω)
詩篇63:3 あなたの恵みは、いのちにもまさるゆえ、私のくちびるは、あなたを賛美します。
この時のダビデの様子は非常な困難の中にありました。但し書きには、ユダの荒野にあった時と記されているので、サウル王に追われ逃げまどう時のことだと思われます。
非常な困難の中で、私たちは何を求めるでしょうか。主よ、水と食糧を与えてください……と求める人もいるでしょう。またある人は、敵の手から逃れさせてください……と求めるでしょう。
しかしダビデは、主である神ご自身を求めました。
「神よ。あなたは私の神。私はあなたを切に求めます。水のない、砂漠の衰え果てた地で、私のたましいは、あなたに渇き、私の身も、あなたを慕って気を失うばかりです」(63:1・新改訳)。
ここに聖書が指し示す信仰の真髄があります。
聖書が教える信仰とは、地上で快適に生きるために食物や安全を得るための“手段”ではありません。神を得ること……これが信仰です。たとえ、満ち足りた食糧があっても神不在の人生なら……つまり、永遠のいのちを失ったら何の益があるでしょうか。
双子の兄弟であるエサウとヤコブのことをご存知でしょう。兄エサウは目先の食物を優先しました。だから、空腹ゆえに、目の前にある煮物を得るために長男の祝福の権利を弟のヤコブにくれてやりました。
そしてついに、弟ヤコブがその祝福を受けました。この祝福とは「神が共におられる」という特権です。兄エサウは食物を得、弟ヤコブは神ご自身を得たのです。地上的にどんなに豊かであっても、もし神が共におられない人生であるなら、それは空しい人生です。
しかし逆に、たとえ肉体のいのちを失うことになっても、もし神が共におかれる人生であるなら、それは神不在のままの百歳にまさる祝福です。
だから、ダビデは告白したのです。「あなたの恵みは、いのちにもまさるゆえ、私のくちびるは、あなたを賛美します」と。
神を得ること……それは、すべての根源である方が私と共におられるという祝福です。否、祝福とはまさに「神が共におられる」ことそのものです。ですから、このお方を得ているのであれば、食物も、地位も、寿命も必要に応じて与えられるのは至極当然のことです。
神ご自身を求めよう。神は、そのひとり子をお与えになるほどに世を愛された……とは、神がご自分を私たちに下さったということです。こんな祝福を受けないで、それ以外の何を求めるというのですか。
たとい、この肉体のいのちを差し出してでも、神ご自身を受け取ることは幸いです。なぜなら、「神の恵みは、いのちにもまさるゆえ……」だからです。(Ω)
詩篇62:1 わが魂はもだしてただ神を待つ。わが救は神から来る。
「もだして」とは、「黙って」「沈黙して」という意味です。それは「不平を言わないで」という意味です。もちろん、単に不平を言わないだけなら消極的な「待つ」です。そうではなく、神の御言を信頼するがゆえに、黙って待つということです。
神の御言は必ずそうなるからです。
この詩篇を歌ったダビデも、「あなたはイスラエルの王になるのだ」という神の御言(約束)を受けました。でも、トントン拍子に王になる階段を駆け上ったのではありませんでした。
むしろ「王になる」とは正反対の境遇を何年も味わいました。主君のサウル王から謀反の嫌疑をかけられ、いのちを狙われ、逃亡生活を続けました。つまり、神の御言通りになんかならないじゃないか!という不平や不満を言いたくなるような状況に何年もおかれたのです。
しかし、神が言われたことは、その通りになると信じたのです。この「御言を信じる信仰」という土台の上に立って、「わが魂はもだしてただ神を待つ。わが救は神から来る」と告白したわけです。
キリストを身ごもったマリヤもそうでした。
「お言葉どおりこの身になりますように」と、神の御言を受け入れたマリヤは、どんな状況の中にあっても「これらのことを心に留めていた」女性でした。黙って、神の御言を信頼して、御言が成就するのを待った人です。
さあ、御言を信頼して今日も待つことにしようではありませんか。私たちの本当の救いは「神から来る」のですから……。ダビデは自分の手でサウル王を打つチャンスがありましたが、それをしませんでした。なぜなら、本当の救いは「神から来る」ことを心得ていたからです。
「待つ」ことは時間のかかることです。合理的で利便性ばかりを追及する現代社会では、「待つ」ことは似合わないことです。時代遅れの方法です。でも、私たちは、この「待つ」という道を選択します。
時間はかかっても、それが最も確実な道だからです。主を待ち望め。その者は鷲のように翼をはって舞い上がるからです。その者は走ってもたゆまず、歩いても疲れないのですから……。(Ω)
詩篇61:12 わが心のくずおれるとき、私は地のはてからあなたに呼ばわります。私を導いて、私の及びがたいほどの高い岩にのぼらせてください。
人生の中で「心がくずおれるとき」があります。新改訳では「心が衰え果てるとき」と訳していますが、立ち上がろうにも立ち上がる元気がまったく無くなってしまった時のことです。神からも、遠~く離れてしまったような感覚です。
でも、そんな時でも、私たちには呼び求めることの出来るお方がいらっしゃることを忘れないでください。
この詩篇を歌ったダビデもそんな経験の中で、「私は地の果てからあなたに呼ばわります」と告白しました。「地の果て」とは、まさに、神から遠く離れてしまったような場所を表しています。
しかし、どんなに離れているような所でも、私たちは神に呼び求めることが出来ます。だれも神の愛から、私たちを引き離すことが出来ないからです。
この詩篇は、後代になってユダヤの民がバビロンに捕囚された地で歌われるようになりました。まさに、その時代にあって、バビロンはエルサレムからすれば「地の果て」です。
エルサレム……その名は「神の平安」……から遠く離れた地と境遇に追いやられた民の心は「くずおれた」状態だったことでしょう。しかし、彼らも地の果てから、神に呼ばわりました。「私の及びがたいほどの高い岩にのぼらせてください」と(61:12)。
その後、ユダヤの民はペルシャ王クロスによって解放され、エルサレムに戻ることができました。まさに、「私の及びがたいほどの高い岩」にいたる劇的な展開を迎えました。想像にも及ばないような導きを、神はなさいます。
いま、あなたがいる場所は「地の果て」でしょうか?。しかし、そこからでも神に呼ばわることが出来ます。そして、思いもよらない「高い岩」へとのぼらせてくださいます。そんな神である主イエスを信頼して、今日もイエスの御名を讃美しよう。(Ω)
詩篇60:11 われらに助けを与えて、あだに向かわせてください。人の助けはむなしいのです。
ダビデはサウル王のもとで仕えた時もそうでしたが、王となってイスラエル王国を盤石なものとするまでにも、数々の戦いを経ました。しかし、いつも勝利の連続ではありませんでした。大きな痛手を被ることもあったようです。
今日の詩篇では、そんな痛手を負った時の様子がえがかれています。神から見捨てられたような敗戦であったようです。
「神よ。あなたは私たちを拒み、私たちを破り、怒って、私たちから顔をそむけられました」(60:1・新改訳)。自分の力で勝利できるという思い上がっていたダビデの鼻をへし折るような敗戦であったのではなかったかと思われます。
今日の詩篇は、神を信頼せず我力に頼った傲慢を悔い改める祈りです。
冒頭の但し書きでは、「ダビデがアラム・ナハライムおよびツォバのアラムと戦い、ヨアブが帰って来て塩の谷で12000人のエドム人を討ち取ったとき」と記されていますが、この悔い改めの結果に得た勝利の歌であったと思われます。
大勝利を得たときの歌ですが、それを単なる武勇伝の歌にしないで、高慢ゆえに失敗したときのことを告白し、主が共に出陣してくださった故の勝利であると歌い上げたのです。
これは大丈夫だと思い上がると、主をより頼むことを忘れてしまいます。自分の経験を頼ったり、手勢の数の多さに慢心したりして、主が共に戦ってくださることをないがしろにしてしまいます。
ダビデは、神が共に出陣してくださなければ、それは空(むな)しい戦いであると告白しています。
「神よ。あなたご自身が私たちを拒まれたのではありませんか。神よ。あなたは、もはや私たちの軍勢とともに、出陣なさらないのですか」(60:10)。
神が共におられること……これより素晴らしいことはありません。これ以上の祝福はありません。人を頼みとし、数や能力におごっていても、神が共におられないのなら、「人の助けは空しいのです」(60:11)。
これぐらい自分で大丈夫だと慢心しないで、小さな事でもひと言祈ろう。「主イエス様、どうか共に歩んでください」……と。(Ω)
詩篇58:11 まことに正しい者には報いがある。まことに地にさばきを行われる神がある。
現世は不条理に見えます。正しい者が報いられず、悪しき者が勝利者のように生きているからです。しかし、神は、必ず報いられるお方です。正しい者には祝福をもって報い、悪しき者にはさばきと滅びをもって報いられます。
今日の詩篇はその神の正しい報いを語っています。だから、私たちは目先の損得勘定に流されないで、正しく報われる神を意識して生きることを教えています。
さて、「報いる」ことは神がなさることです。でも、神のなさる「時」を待ちきれなくて、自分で「報い」を成そうとするので、混乱が起きます。
悪に対して、自分が報いたくて復讐します。つまり自分が報復するのです。こうして報復の連鎖を生み出します。本当は神がなさるべきことです。神の領域を、人間ごときの自分がするので大きな重荷を背負います。
また、善に対しても、神からの報いを待ちきれません。人からほめてもらいたくて自己顕示欲に振り回されます。そのような人に対しては、「天で受けるべき報酬をすでに受けてしまった」とイエスは言われました。
報いることは神がなさる領域です。
さて、今日の詩篇では、悪人が神からさばかれ、滅ぼされることを喜ぶといった記述があります(58:10)。その気持ちは分からないわけでもありません。
しかし、そう思うのは、自分が「正しい者」の側にいると“誤解”しているからです。ひょっとして、自分は悪しき者の側かも知れません。この詩篇が述べているように、悪人が滅ぶことを高笑いするような態度は、神の御心なのでしょうか。
この詩篇が記された後の時代になって、神は預言者を通して次のように語られました。
「主なる神は言われる、わたしは悪人の死を好むであろうか。むしろ彼がその行いを離れて生きることを好んでいるではないか」(エゼキエル18:23)。
これが神の御心です。さらに神はこう言われます。
「あなた方がわたしに対して行ったすべての咎(とが)を捨て去り、新しい心と、新しい霊とを得よ。イスラエルの家よ、あなた方はどうして死んでよかろうか。わたしは何人の死をも喜ばないのであると、主なる神は言われる。それゆえ、あなたがたは翻(ひるがえ)って生きよ」(同18:31-32)。
この御心にフォーカスを合わせよう。(Ω)