朝マナ

人はパンだけで生きるのではなく、神の御言によって生きる。
聖書を一日一章、読んでみませんか。

士師記 9章

2017年07月31日 | 士師記
士師記9:56 このように神はアビメレクがその兄弟七十人を殺して、自分の父に対して犯した悪に報いられた。

エルバアルと呼ばれたギデオンには70人の子供の他に、女奴隷の子アビメレクがいました。

先のミデアン人との戦いに勝利した以後、ギデオンの生き様はどのようなものであったのでしょうか。子供の数からしても分かるように、多くの妻をめとり、その生活にはおごりが感じられます。

彼が作った「金のエポデ」に象徴されるように、ミデアン人との戦いの勝利が、神への礼拝と謙遜にいたるのではなく次なる支配者を巡って権力争いへと展開して行きました

アビメレクは異母兄弟の69人を殺害し、実母の出身地であるシケムの人々の支持を得て王となりました。さらに、ギデオンの子で生き残りのヨタムが反対したので、その同調者1千人を焼き殺しました。

イスラエルは神の民であるはずなのに、このような悪が入り込むとは何ということでしょうか。

偶像礼拝という罪の根が抜かれないまま、それが苦い根となって人々を汚します。イスラエルはそのような根を抜ききれないまま、これから進んで行きます。

士師記は、罪の根を残したままの人間の混沌とした姿を描いています。それは、旧約聖書のテーマでもあります。

人間の根本的な罪……それは、神を認めない罪です。神への礼拝を捨て、偶像を拝む人間の罪です。裏をかえせば自らを神とする罪です。これが〝根っ子の罪〟です。神学用語では原罪と呼びます。

でも、主はそれをいつまでも放っておかれません

悪を重ねたアビメレクが名もない女が落としたひき臼の石で殺されたのは、神がアビメレクの罪に報われたのだと記されているように、神は罪を放っておかれません。

そのように、神は人類の根っ子の罪を放っておかれません。それを、完全に引き抜いてくださる時が来ます。御子イエス十字架の死による解決です

御子イエスの十字架の死によって罪が滅ぼされるまで、なお時を待たなければなりませんでしたが、士師記の著者は、神による報いにる解決に希望を託しながら、アビメレクの記録を残したのです。(Ω)

士師記 8章

2017年07月29日 | 士師記
士師記8:27 ギデオンはそれをもって一つのエポデを作り、それを自分の町オフラに置いた。イスラエルは皆それを慕って姦淫をおこなった。それはギデオンとその家にとって罠となった。

先のミデアン人との戦いで、ギデオンは大勝利をおさめたので、イスラエルの人々はギデオンを王として擁立しようとしました。

「イスラエルの人々はギデオンに言った、『あなたはミデアンの手から我々を救われたのですから、あなたも、あなたの子も孫も我々を治めてください』」(8:22)

人々から担ぎ出されると、ふと魔がさすものです。いい気になってしまいます。そんな時、自分がひれ伏すべき神を知っている人は幸いです。礼拝すべき神を知ることは、〝謙遜という名の砦を持っている人です

かろうじて、ギデオンはこの誘惑をいなすことができました。

私はあなた方を治めることはいたしません。また私の子もあなた方を治めてはなりません。主があなた方を治められます(8:23)私たちの王となるべきお方は、主なる神イエス・キリスト以外に居られません神の御国は神が王となって支配なさる国です。

勝って兜(かぶと)の緒を締めよ」ではないですが、勝利のあとに誘惑があります。成功のあとに油断が生じます。それは、自分が王となる誘惑です。自分が栄光を受けようとする誘惑です。

だから、私たちは礼拝を第一にするのです礼拝を通して栄光が神にあることを告白し、神の御前にひざをかがめるのです。

ところがギデオンの心に隙間が生じました

「ギデオンはまた彼らに言った、『私はあなた方に一つの願いがあります。あなた方のぶんどった耳輪をめいめい私に下さい』。ミデアンびとはイシマエルびとであったゆえに、金の耳輪を持っていたからである」(8:24)。

もちろん、それくらいのことならおやすいご用ですと言わんばかりに、人々は金の耳輪を集めたところ約20㎏の金になりました。そこで、ギデオンは今回の勝利を記念して「金のエポデ」を作ったのです。エポデとは祭司の服のことで、それを金でかたどって作ったのでしょう。

しかし聖書は、このことがギデオンとその家の者にとって罠となったと、記しています。

勝利を神に感謝し、神に目を向けるべき記念のエポデが、人々の御利益の対象となって行ったのです。自分もギデオンのような成功にあやかろうとエポデを崇拝する人々がでてきました。こうして金のエポデは霊的姦淫をおかす原因となりました

せっかくの勝利の証しが、後生にゆがんで伝えられるようになってしまいました。

どんなにすばらしい証しでも、それが自慢話になってしまうのか、それとも、勝利を与えて下さった神への感謝と謙遜へと導かれるのか……、これは大きな違いです。

それを考えれば、ギデオンはこのようなモニュメント作るべきではありませんでした。いつしか、勝利が自分の栄光になってしまうような証しのモニュメントは不要です

私たちが目指すべき事は、神への礼拝と謙遜です。この軸をずらしてはなりません。(Ω)

士師記 7章

2017年07月28日 | 士師記
士師記7:2 主はギデオンに言われた、「あなたと共におる民はあまりに多い」。

ミデアン人と戦うためにギデオンのもとに集結した人々の数は、32,000人の大軍団となりました。ところが神は、「多すぎる」と言われるのです。その理由は、「イスラエルは主に向かって自らを誇り、『自分自身の手で自分を救ったのだ』と言うから」です。

私たちが神の御前で学ぶべき大切なレッスンは神への礼拝と謙遜です。これは人としての本分であり、基本中の基本です。

神は、神の御国をお建てになるにあたって、国としての体裁を整える前に、内側をつくられます。それは、神への礼拝と謙遜を、人々の中に徹底させることです。これを失うならサタンの二の舞です。

ですから、イスラエルが、兵士の数の多さゆえに勝利したことで高慢にならないように、神は兵士の数を減らせと言われるのです。

人の感覚では、数が減ることは心もとないことであり、逆に数が増えることは何とも頼もしく感じるものです。それが、「肉の感覚」です。

人は霊的存在であるのに、罪によって霊的な感覚が麻痺(まひ)しています。霊的な感覚が麻痺しているので、神を正しく礼拝できませんし、霊的な自分を活かす道を選び取ることができません。

アダムが罪をおかして以来、人類は肉の感覚で生きてきたので

肉の感覚は、神を礼拝するより、肉体を喜ばせようとします。肉の感覚は、見えない神よりも、見える世界を優先しようとします。肉の感覚は、霊的な自分を愛することができません。

肉の感覚は、数が多ければ大丈夫だと思い、数の多さを自慢します。そして、持っている武器がすごければ大丈夫だと思い、自分の能力を誇ろうとします。

このような肉の感覚が神を拒絶し、謙遜を失い、礼拝をおろそかにします

主なる神は、私たちが肉の感覚にとらわれていることを、よくご存知です。肉の感覚が邪魔をして、神の栄光を見ることができないでいることも、よくご存知です。

だから、32,000人は多すぎる。減らしなさいと言われるのです。

私たちは人数が多い方が良いと思います。あれもこれもあれば良いと思います。しかし、数の問題ではありません。信仰の問題です。霊的な問題です。

どんなに数があっても、それが肉の力であれば、神の働きを妨げます。だから、私たちの肉の力を減らすように、神は導かれます。私たちの肉の感覚を打ち砕くように、神は導かれます。

イエス様を喜ばせようと、マルタはあれもしようこれもしようと、接待のことで一生懸命でした。でも、それは彼女の肉の力でした。肉の力でやっていると、人と比較したり、うまく行かないとイライラします。

だから、マルタは腹を立ててイエスに言いました。「妹のマリヤにも接待を手伝うように言って下さい」。その時、イエスは言われました。「無くてならぬものはそう多くはない」。

そうです。無くてならぬものは信仰です。マリヤがイエスの膝元で御言に聞き入ったように、神の御言に聞き従う信仰です

それなのに、私たちは、肉の力であれもこれもと、多くをしようとしています。数をこなそうとしています。でも、そのような結果は、やがて自分を誇り、少ない人や、やらない人をさばくようになります。

それでは、神への礼拝が生まれてきません。神の御前での謙遜を失ってしまいます。だから、主は言われるのです。

多すぎる」と。つまり、肉の力が多すぎるのです

ギデオンは神の御言に従って、結局は300人に減らしました。そして、300人でいなごのような大軍に打ち勝つことができました。

祈りましょう。肉の力が減ることに対する恐れから解放してください。そして、信仰による勝利を信じる勇気を与えて下さい。(Ω) 


士師記 6章

2017年07月27日 | 士師記
士師記6:12 主の使いは彼に現れて言った、「大勇士よ、主はあなたと共におられます」。

士師記は再び悲しい記録から始まります。「イスラエルの人々はまた主の前に悪を行ったので、主は彼らを7年の間ミデアンびとの手にわたされた(6:1)

懲りないですねぇ。でも、これが罪人の姿であり、私の姿です。危機に直面すると、「主よ助けてください」と呼び求めるのですが、調子がよくなると、主なる神を忘れおろそかにしてしまうのです。

そんな私たちに対して、なおも忍耐と哀れみをもって共に歩んでくださる神の慈愛の記録それが士師記です。

そのようなわけで、ミデアン人の支配の下で人々は苦しんでいました。第6章で登場するギデオンも、ミデアン人を恐れて細々と農業を営んでいる男でした。しかし驚くべきことに、神はそんなギデオンを士師としてお選びになりました。

彼が酒ぶねの中で麦を打っていたのは(6:11)、ミデアン人が襲撃しては作物を収奪して行くので、隠れて作業をしていたわけです。そんな臆病で小心者のギデオンに、主の御使いは、「大勇士よ、主はあなたと共におられます」と語りかけました。 
※新改訳では「勇士よ」との呼びかけだが、口語訳では「大勇士よ」。

小心者のギデオンが大勇士ですって?。神の御言は現実とかけ離れているように思えます。

しかもギデオンは不信仰です。「主が共に居られるのなら、どうしてミデアン人に苦しめられるのですか」と、主に不平をぶつけています。「神がいるならどうして戦争が……、どうして悲惨な事件が……」と文句をつける私たちと同じですね。

しかも、「主が私たちをお見捨てになったからだ」と、責任を神に押しつける始末です。イスラエルの民が主を捨てて、異教の神々を拝むようになったことを棚に上げて、よくも言えたものです。

でも、そんな恥ずかしいことを、私たちも言っているのです

そんなギデオンですが、神は彼を「大勇士」と呼んでくださいます。現実は大勇士とはとても言えない状況なのですが……。

人はこう言います。「聖書はそう言うけれど、現実は違うんだよ」と。彼らの理屈は現実が真理だというのです。いいえ、神の御言が真理です。神の御言は、私たちを「大勇士よ」と呼ぶのです。なぜなら、神が共におられるからです(6:12)

神の御言が、ギデオンのセルフイメージを変えはじめました。それまでのギデオンがいだくセルフイメージは、「何もできない臆病者」でした。

皆さんは、イエス様に出会う以前、どんなセルフイメージをいだいていたでしょうか。ギデオンのように否定的なセルフイメージだったでしょうか。あるいは、逆に、自分は出来る人間だというセルフイメージでしょうか。肯定的で良さそうですが、高慢ゆえに神を否定するかも知れません。

いずれにせよ、悪魔が私たちに刷り込んだセルフイメージは、否定的にして奈落の底に落としたり、肯定的にして神をも認めない傲慢をいだかせて、散々おだて上げてから突き落とします。

神の御言によって養われたセルフイメージこそ、健全なセルフイメージです。

神は、ギデオンが臆病者であることをご存知なかったのでしょうか。彼が不信仰な者であることをご存知なかったのでしょうか。いいえ。よ~くご承知の上でギデオンを選ばれたのです

主イエス様は、私の弱さも、卑怯なことも、怠け者であることもご存知で、牧師としてお選びになりました。これは紛れもない事実です。しかし、その事実がすべてではありません。

神が共に居られるという最も重要な事実を忘れてはいけません。神が共に居られるので、私は大勇士です。罪の力に勝利できる大勇士です。悪魔の誘惑を退けることのできる大勇士です。

これが、神の御言に裏付けられたセルフイメージです。

ギデオンは手のひらを返したように、勇敢な人になったわけでも、急激に信仰深くなったわけでもありません。「大勇士よと呼びかけてくださる神の御言によって、正しいセルフイメージをいだき始めたに過ぎません

祈りましょう。聖書の御言と現実の私がかけ離れていようとも、聖書の御言の通りに、私の身になりますように……。(Ω)

士師記 5章

2017年07月26日 | 士師記
士師記5:3 もろもろの王よ聞け、もろもろの君よ、耳を傾けよ。私は主に向かって歌おう、私はイスラエルの神、主をほめたたえよう。

女預言者デボラと将軍バラクは、カナン人の王ヤビンとその将軍シセラに打ち勝つことができました。それはイスラエルの実力による勝負ではなく主なる神が共に戦ってくださったからです。

第5章は、その勝利を主に感謝する歌です。

主なる神は、どんな戦いにおいても、人間的な力で勝利できたのではないことを見せてくださいます。だからこそ、私たちは主を賛美せずにはおれないのです。

今回の戦いもそうでした。賛美の歌はこう告げています。「イスラエルの四万人のうちに、盾あるいは槍の見られたことがあったか(5:8)

イスラエルには武器といえるようなものは、ほとんどなかった状態でした。片や敵対するカナン軍は鉄製の武器をはじめ戦車900両を持つ強固な軍隊でした。どう見ても、勝算の見込みのない戦いでした。

でも、主が共に居られるなら大丈夫です

イスラエルの人々は、主から離れてしまった結果、カナン人に支配される20年を経験しました(4:3)。しかし、悔い改めて主に立ち返るとき、大した武器もないにもかかわらず勝利できました。

このことを通して、弱小民族のイスラエルであっても、主が共に居られるのなら大丈夫だということを、彼らは学ぶべきでした。そのために、主を第一として、主を礼拝することの大切さを学ぶべきでした

新約の時代でも同じです。5つのパンと2匹の魚があれば大丈夫。それがイエス様の御手の中にあるとき、5千人以上の人々が空腹を満たすことができたのですから……。

イエス様はこう言われます。「わたしの力は、あなたの弱い所に完全に現れるのだ」と(Ⅱコリント12:9)

このことを学ばせるために、神は、不信仰なイスラエルが敵に攻撃されるのを痛恨の思いで見守っておられます。そんな時こそ、「主が共に居られるのだから大丈夫という信仰に立ち返ろう。(Ω) 

士師記 4章

2017年07月25日 | 士師記
士師記4:8 バラクは彼女に言った、「あなたがもし一緒に行ってくだされば、私は行きます。しかし、一緒に行ってくださらないならば、行きません」。

士師記」という書名の由来を述べておかなければなりません。士師とはヘブル語の「シャファト(さばく者)」を漢字表記で訳したものです。古代中国において刑罰をくだす役人のことを「士師」とよんだことからこの語が適用されました。ですから士師のことを、別名「さばきつかさ」とも呼びます。

古代イスラエルは王政はなく、神の律法に従う各部族の共同体として存在していました。神である主こそが王ですが、見えない王であるゆえに、人々は時として求心力を失って堕落して行きました。

そこで、神は「士師」となるべき人物を召して、イスラエルを悔い改めに導き、神に立ち返るようになさいました。残念なことですが、この士師が活躍している間は太平を保つのですが、士師が不在だと民は堕落し、敵に支配されるということをくり返します。

このイスラエルの愚かな姿は、私たちの姿でもあります。イスラエルの民は、神の栄光のために用いられることもあれば、人間の愚かさの見本としても用いられることもあります。彼らの失敗に学ぶ者でありたいと思います。

さて、士師として召された人物は、ケナズの子オテニエル(40年の太平)、ゲラの子エホデ(80年の太平)、アナテの子シャムガル。この3人の活躍は第3章に記録されています。

つづいて女預言者デボラが召されました(4:4)。主なる神はデボラに命じて、バラクを将軍に任命して、カナン軍と戦うために戦場に行くことになりました(4:6-7)

将軍に任命されたバラクは心細かったのでしょう。デボラに「どうぞ一緒に(戦場に)行って下さい」と願いました。

デボラが一緒に行かなくても、神が、「ヤビンの軍勢の長シセラとその戦車と軍隊とをキション川に引き寄せて、あなたに出あわせ、彼をあなたの手にわたす」(4:7)と言われるのですから、その御言と一緒に行けば良いのです。

御言があるとき、主が共におられます。御言が一緒に行ってくだされば、それは主が共に行ってくださることです。

ところが、将軍バラクは、目に見えない神の御言では頼りなく思えて、目に見えるデボラが同行してくれるなら心強いと思ったのです。

信仰にも、見て確認する段階もあれば、見ないで信じる段階もあります。見ないで信じることを神は求められますが、恵み深い主は、バラクの申し出も受け止めてくださり、この戦いに勝利させてくださいました。ただし、敵軍の将を討ち取るという光栄はバラクには与えられないと言われています(4:9)

主は、私たちが見ないで信じる信仰へと強められるようにと、忍耐強くつきあってくださる神です。祈りましょう。信仰の弱い者ですが、どうか御言を信じて踏み出す勇気を与えつづけてください。

さて、この戦いの敵軍の将であるシセラについて述べておきましょう。彼は戦車900両という強固な軍事力を誇っていました。しかし、実際の戦いでは、この戦車から飛び降りて徒歩で逃げ出してしまう始末です(4:15)

さらに、シセラは人脈を頼ってケニ人へベルのもとに逃げ込みます(4:17)。ところが、へベルの妻ヤエルによって殺害されてしまいました(4:21)

強固な軍事力も人脈も助けてはくれませんでした。目に見えるものに頼るのか、それとも神の御言に信頼するのか。第4章は、そのような問いかけを投げかけています。(Ω)

士師記 3章

2017年07月24日 | 士師記
士師記3:1 すべてカナンのもろもろの戦争を知らないイスラエルの人々を試みるために、主が残しておかれた国民は次のとおりである。

神のご計画は、この地に神の御国をお建てになることです。その御国を通して、神の栄光を全世界に照らそうとなさっています。そのために、神はイスラエルを選び、御国のために用いられるのです。

ですから神は、イスラエルに、カナンの地から偶像礼拝の民を除き去れと命じられたわけです。しかし、イスラエルは徹底的に除き去らなかったため、禍根を残すことになりました。

禍根とは〝わざわいをもたらす根〟のことですが、雑草を根っ子から抜かないと再び生えてくるように、偶像礼拝の民を残したことで、イスラエルはその悪影響を受けて堕落してしまいました。「彼らは、あなた方にとって、わなとなり、落とし穴となり、あなた方のわき腹にむちとなる」と預言された通りになりました(ヨシュア23:13)

このように、偶像礼拝の民を追い出さず、残しておいたのはイスラエルだったのですが、今日の聖句は、「主が残しておかれた国民は……(3:1)とあります。つまり、〝主が〟残されたのです。

主がそうなさった目的は、後の世代を試みるためです(3:1)

神は、私たちを無菌室で純粋培養するのではなく、あえて罪や悪の働く世界で訓練し、育てられるのです。「試みるため」とは、「訓練するため」という意味です。
 
幼児がストーブで火傷しないために、親が幼児の手を取ってストーブに近づけて怖さを教えてあげるように、神はあえて、私たちが失敗することをおゆるしになります

罪による痛みや悲しみを知ったからこそ、神の救い、神のきよさのすばらしさが分かります。偶像礼拝の民が残っていることは、一面では失敗ですが、もう一面では、神の救いを経験する〝教材となります。

カナンの地から偶像礼拝者たちを滅ぼしつくさなかったことは、イスラエルの失敗であることには間違いありませんが、しかし、神はあえて、その失敗を教材として用いられるのです。成功にも失敗にも良いことにも悪いことにも主なる神の御手があるのです主の御手の中にあることを感謝しましょう

そうは言うものの、あやまちの結果を刈り取ることはつらいことです。でも、その痛みを通して、神に立ち返ることを学ぶのです。神に立ち返ることを学ばせるために、神はあえて、私たちがあやまちをおかすことを容認され、その結果の痛みを受けるようになさいます。

イスラエルの人々はそれを学ぶ必要がありました。そして、私たちも学ぶ必要があります。主の愛の訓練として受け取る者は幸いです。(Ω)

士師記 2章

2017年07月22日 | 士師記
士師記2:10 その同世代の者もみな、その先祖のもとに集められたが、彼らのあとに、主を知らず、また、主がイスラエルのためにされたわざも知らないほかの世代が起こった。

先のヨシュア記は勝利の記録でしたが、この士師記は勝利のあとの堕落悔い改めの記録です。

私たちの人生で、信仰の勝利を味わうこともあれば、堕落と敗北を味わうこともあります。しかし、そのような死の谷の陰を歩むような時にも、主はのがれの道を用意なさっています。士師記はそんな教訓を与えてくれます。

さて、ヨシュアに導かれて勝利を得たにもかかわらず、イスラエルの民が堕落して行った原因は何だったのでしょうか。

そのひとつは、第1章にも記されていたように、偶像礼拝の民を追い出さなかったからです。そのため、異なる神々を拝む人々の習慣や価値観が、神の民の中に忍び込んで来たのです。

もうひとつの原因は、新しい世代に信仰の継承がなされていないことです。新しい世代は、主を知らない世代だ、主がイスラエルになさったことを知らない世代だと、今日の聖句は指摘しています(2:10)

先の世代の人々……つまり、ヨシュアにひきいられてカナンに入ってきた当時の人々は、主が成してくださったことを目の当たりにしたはずです。そして、その経験は父から子へと語り継がれたのでしょう。

では、どうして信仰の継承が途中で途絶えてしまったのでしょうか。

ひとつには、信仰は自動的に継承できるものではないからです。自分が体験したキリストを後生に語り継ぐことと同時に、その証しを聞いた者も、それを自分のこととして体験して行くことが必要です。

信仰は聞くことから始まります。だから語り継ぐことは重要です。しかし、聞いてそれを体験することによって、信仰は自分のものになって行きます。聞いているだけでは、それは先祖の信仰であって、自分の信仰にはなりません。

かつて、荒野を旅したイスラエルの人々は、モーセを通して神の御声を聞きました。それは、「カナンの地に入ってそれを支配せよ」という御言でした。

しかし、イスラエルの先祖は、せっかく聞いた神の御言を体験しようとしませんでした。聞き従わなかったのです。それは、「聞いた御言が、信仰によって結びつけられなかったからだ」と聖書は説明しています(ヘブル4:2)

聞いた御言を、信仰によって結びつけるとは自分に語られた言葉として聞くこと従うべき神の命令として聞く……ということです。

聖書の御言を昔話としてではなく、神が私に語りかけてくださっている命令として聞くとき、神の御言は信仰になります。そして、その御言は私に結びつき、私の体験となります。(Ω) 

士師記 1章

2017年07月21日 | 士師記
士師記1:19 主がユダと共におられたので、ユダはついに山地を手に入れたが、平地に住んでいた民は鉄の戦車をもっていたので、これを追い出すことができなかった。

士師記は、カナンの地に入ってからイスラエル初代の王サウルの登場までの約400年間……学者によっては年数が異なる……の出来事が記されています。ヨシュアの死後、イスラエルは各部族からなる共同体として、カナンの地を支配するのですが、王による中央集権国家ではありませんでした。

イスラエルにとって王とは主なる神です。民が神に聞き従うとき平和が保たれるのですが、神に背を向けるとき、他民族の攻撃や支配に苦しむといったことが今後くり返されます。

ヨシュアにひきいられてカナンに入った当時、イスラエルの人々は信仰に燃えていました。神から与えられた嗣業の地を、神の栄光の現れる国にすることが、イスラエルに与えられた使命でした。

しかし、それを妨害する働きもあります。それは、外側からは異教の民による攻撃や影響であり、内側からはイスラエルの不信仰と堕落でした。このことでイスラエルの民は悪戦苦闘します。そして、その悪戦苦闘は、今日の私たちの姿でもあります

さて、イスラエルの各部族は、それぞれ受け嗣いだ地を完全に支配できていませんでした。つまり、偶像礼拝の民がまだ残っていたのです。

第1章には、「住民を追い出さなかった」という記録がくり返されていますが、イスラエルの人々は、神の命令に徹底できていなかったわけです。徹底できなかった原因は何だったのでしょうか

今日の聖句は、ユダ部族の取り組みが記されています。

ユダ部族の人々は山地を支配することができました。それは、主が共に居られたからです。しかし、平地を支配することができませんでした。その理由は、敵が鉄の戦車を持っていたからだと記しています。

どういうことでしょう。神が共に居られるのに、鉄の戦車を持っている敵には勝利できないのでしょうか。 
※戦車とは馬に引かせて戦う馬車。槍や剣が装備された当時最強の武器であった。

そうではありません。ユダの人々は、鉄の戦車を持っている敵に対しては、恐れをなして、主が共に居られることに信頼できなかったので、闘うことができなかったのが真相です。

自分の力で何とか対処できると思える敵(問題)に対しては神に頼るが、自分の手には負えない敵(問題)に対しては、さずがの神でも打ち負かすことができないと思って、神により頼まない……。

こんな態度を、私たちはしていないだろうか

私たちは、自分に出来そうもないことは、神にもできないと思いやすいのです。そうではありません。「人にできないことも、神にはできる」のです(ルカ18:27)

敵が強いか弱いかで態度を変えるのをやめよう。問題が大きいか小さいかで態度を変えるのをやめよう。敵(問題)が大きかろうと、小さかろうと、神が共に居られるなら同じです。

自分で対処できそうな敵だと、勝利の兆候が見えるので、もうちょっとだと思って、「主よ助けてください」と祈るが、何の兆候も見えないと、不可能だと思って祈らないという態度はないだろうか。

これは、共に居られる神を信頼しきっていない態度です。勝利の兆しがなくても、「神にはできる」と信じて祈りましょう

ユダの人々は、鉄の戦車を持っている敵には無理だと思って、戦おうとしませんでした。そして、そのことがやがて妨害となり、罠となりました。

私たちは、この問題は無理だと思って放置していることはないだろうか。その放置した問題(敵)が、やがて信仰生活の妨害となり罠となってしていないだろうか。

自分には解決できなくても、神にはできます。祈って、神に対処していただこうではありませんか。(Ω)

ヨシュア記 24章

2017年07月20日 | ヨシュア記
ヨシュア24:23 あなたがたのうちにある、異なる神々を除き去り、イスラエルの神、主に、心を傾けなさい。

ヨシュアの遺言はつづきます。

父祖アブラハムから今日に至るまで、主なる神が成してくださった恵みを顧みています。今あるのは、主が与えて下さった恵みであることを忘れてはならないと語られています(24:1-12)

自分たちが労しなかった土地を受け、自分たちが労しなかった家、作物、富を得ている。これは主が与えて下さったのだと語られています(24:13-14)この恵みを忘れて、自分の力で成し遂げたと思う傲慢から堕落が始まります

新約聖書でも、こう告げられています。「あなたの持っているもので、もらっていないものがあるか。もしもらっているなら、何故もらっていない者のように誇るのか(Ⅰコリント4:7)

すべてを与えて下さっている神を忘れることが傲慢です。だから、私たちはすべての根源である神を礼拝します礼拝とはすべてが神のものであるとの告白です。自分さえも自分のものではなく、神よ、あなたものですと告白するのが礼拝です。この礼拝を忘れると人は傲慢におちいります。

主なる神への礼拝を第一としよう

ヨシュアは、何度も偶像礼拝を警告しています。神ならぬものを神として礼拝すること……これが偶像礼拝です。ですからヨシュアは、「あなたがたのうちにある、異なる神々を除き去り、イスラエルの神、主に、心を傾けなさい」と命じました(24:23)

今日のクリスチャンが神社・仏閣で拝むことなどしないでしょう。むしろ、偶像(異なる神々)私の中に潜んでいるのです

主イエス以上に頼りにしているもの。主イエス以上に愛していて、それとイエスとどちらを選ぶのかと問われたら、主イエスを捨てて選んでしまうものそれは偶像であり、異なる神々です

ヨシュアは、そのような異なる神々を捨て去れと命じました。そうすることによって、心を主に傾けるのだと教えました。つまり、私の中に偶像があると、主イエスに心を傾けなくさせるのです

祈りましょう。主イエスに心を傾けることを妨げている偶像があるなら、主よ示してください。そして、それを捨て去ることができるようにして下さい。(Ω)

ヨシュア記 23章

2017年07月19日 | ヨシュア記
ヨシュア23:6 あなた方は堅く立って、モーセの律法の書に記されていることを、ことごとく守って行わなければならない。それを離れて右にも左にも曲ってはならない。

イスラエルの民を導いたヨシュアも晩年を迎えるにあたり、民の長老たちを集め、遺言を語りました。第23~24章はその内容です。イスラエルの民に残すべき大切な教えが語られています。

律法(神の御言)を守れ(23:6)

御言から離れて右にも左にも曲がってはならない。人はパンだけで生きる者ではありません。パン(ご飯)は肉体を養う食物です。しかし、私たちの霊魂は、霊的な食物で養われます。それは神の御言です。

旧約時代の御言は「律法」でしたが、新約時代の御言は「福音」です。イエスをキリストとして信じる信仰から離れてはなりません。この福音から右にも左にも曲がってはなりません。

他の国民と交わってはならない(23:7-8)

このことは誤解しないようにしてください。当時、イスラエル民族以外の国民は、偶像礼拝者たちです。神ならぬ神を拝み、神の忌み嫌われる習慣を持っていました。

神は、イスラエル民族を神の国民、聖なる民として選び育てようとなさったので、このような命令が与えられました。他の国民と交わったり、婚姻することで、偶像礼拝をイスラエルに持ち込ませないためです。

ところが、この後のイスラエルは、この点で多くの失敗をしました。そして、まことの神から離れ、堕落し、逸脱して行きました。新約時代のクリスチャンにとって、これは霊的教訓です。

しかし、このことを極端に解釈して、未信者と関わりを持たないようにするのは間違いです。クリスチャンはイエス様を宿している者たちで、すでに聖なる者たちです。

未信者の人々と関わりを持ったからといって、自分が駄目になるような弱い存在ではありません。主があなたの中に住まわれていることを忘れないでください。むしろ、積極的に出ていって福音を伝える存在です。

ただ、注意すべきことは、偶像礼拝にかかわってはならないということです。これは、主なる神に仕える者にとって、とても重要な課題です。

ひとりで千人に当たることができる(23:9-10)

今日に至るまでの勝利は、イスラエルが強かったからでもなく、優秀であったからでもありません。ひとえに、主なる神が共におられたからです。このことを忘れてはならないと教えられています。

このように主が共におられるなら、ひとりが千人に当たることができると、励ましの御言が与えられています。

ヨシュア記に一貫して流れているテーマは、「インマヌエルの神」です。主が私たちと共におられることです。

このことは、イエス・キリストによって私たちに成就しています。今や、私たちはイエスの中に居り、私の中にイエスが居られます。イエスこそ、インマヌエルの神です。

神が共に居られるなら、ひとりで千人に当たることができると、主は約束されています

現在の日本のクリスチャン人口は1%と言われています。つまり、100人にひとりの割合です。何と少ないことでしょうか。

さらに、実際に教会に集って明確な信仰をもって生きているクリスチャンともなればもっと少なくなると言われていますから、1000人にひとりという割合になるかも知れません。

でも、人数が問題ではありません。主が共に居られるなら、ひとりで千人に当たることができると主は言われるではりませんか。

勇気をもって立ち上がりましょう。そして祈りましょう。どうか私を、ひとりで千人に当たることのできる者にして下さい。(Ω)

ヨシュア記 22章

2017年07月18日 | ヨシュア記
ヨシュア22:10 ルベンの子孫、ガドの子孫、およびマナセの部族の半ばが、カナンの地のヨルダンのほとりにきた時、その所で、ヨルダンの岸べに一つの祭壇を築いた。それは大きくて遠くから見える祭壇であった。

イスラエルは12の部族からなっていますが、その内の「ルベン族」「ガド族」「マナセ族の半分」の人々は、すでに、ヨルダン川の東側の地を受け嗣ぐことになっていました。

実は、神がイスラエルに与えると約束なさった地は、ヨルダン川の西側です。しかし、上記の2部族と半部族の人々は、東側の地が気に入ったので、それを自分たちのものにしたいと申し出たのでした。

神のご計画よりも自分たちの要望を優先したことになります

そこで、モーセは彼らの要望を認める代わりに、ヨルダン川の西側を獲得するまで、兵士を派遣して共に戦うという条件を与え、彼らはそれに従ったわけです。そしてついに戦いも終結し、ルベン族とガド族マナセの半部族は、ヨルダン川の向こう側、東の地に戻ることになりました。

今でこそ橋や道路といったインフラが整っていますが、当時、川によって隔てられることは、文化的にも信仰の面でも、隔たりが生じることは当然のことでした

そのことを危惧した2部族と半部族は、ヨルダン川のほとりにひとつの祭壇を建設しました。

ところが、他の部族からすれば、シロの幕屋とは別にもうひとつの祭壇を築くことになり、それはイスラエルの分断をもたらす危険性があるとして、人々は異議を唱えました。

彼らは戦争をも辞さない覚悟で、東側の人々に詰め寄った結果、「シロの幕屋に代わる祭壇ではない」、「東側の民は、西側の民とひとつであることの証しの祭壇である」という見解を得て一件落着とあいなったわけです。

さて、これが本当に「一件落着」であったのかどうか……。時を経なければ分からないことがあります。

神が用意なさった約束の地は、ヨルダン川の西側です。自分の都合を優先して東側にとどまり、川を渡ろうとしなかった人々は、その後スラエルの歴史から姿を消してしまいます

証しの祭壇」と呼び名は美しいのですが、気に入った領地も欲しいが、信仰的な祝福も手放したくない……そんなわがままを両立させる人工的な記念碑に過ぎなかったのではないかと思います。

主イエスは、「神と富との両方を主人とすることはできない」と言われましたが、ヨルダン川の東側の人々は、神と富との両方を主人としようとした姿ではないだろうか。考えさせられる課題です。

川を渡って神の約束の地に入り、そこにとどまるべきではなかっただろうか。イスラエル人の別名は「ヘブル人」ですが、その名の由来は「川を渡ってきた者」です。

世俗の側から神の側へ、罪の世界から神の光の世界へ、川を渡って来た者がヘブル人です。歴代の信仰の父祖たちは、数々の川を渡ることで、それ以前の生き方を葬って神と共にある新しい生き方へと渡って来たのですこれこそがヘブル人としての霊的な意味です

このヨルダン東岸のイスラエルの事例を通して、私はヘブル人となっているだろうか、と自問してみるのは大切なことです。(Ω)

ヨシュア記 21章

2017年07月17日 | ヨシュア記
ヨシュア21:41 イスラエルの人々の所有のうちに、レビびとが持った町々は、合わせて四十八であって、それに属する放牧地があった。

イスラエルの各部族には嗣業としての相続地が分割されたことは、すでに見たところです。そして、レビ族だけは分割地がなく、幕屋(神殿)で神に仕えることが嗣業という名の分割地でした。

とはいえ、レビ族の人々の居住地は必要です。そこで、12部族の分割地からレビ族が居住できる町と放牧地を提供することになりました。その町の数は48であったと記されています。

こうして、レビ族の人々はイスラエルの各地に分散して居住することになりました。

彼らが仕えるべく幕屋は、エルサレムの町から北に約30㎞のところにあるシロという町におかれていました。

レビ族の人々は、このシロの幕屋に出掛けて礼拝にかかわる働きをなすと共に、居住地では人々に律法を教え人々の信仰を養う働きをしました。このようにして神は、レビ族を各部族の中に住まわせて神の律法(御言)を伝える働きをさせました。

神の御言を伝え教える働きはとても重要です

もし、レビ族の働きがなかったら、イスラエル民族は雲散霧消していったことでしょう。人々はカナンの習慣に埋没し、異教の神々の影響を受け、信仰を失うことになったことでしょう。

今の時代も同じです。私たちの目や耳を通して入ってくる情報の99%以上が、この世に属するものです。神に属する情報、天に属する情報は、どれぐらいあるでしょうか。

今日、世俗からの情報量はますます増えています。テレビ、雑誌、インターネット等々……。情報の洪水の中で溺れそうです。ある人は、「情報断食」なるものの必要を提案しています。

それほど、現代社会のような環境の中で、イエス・キリストについて知ることは難しいことであるし、だからそれを語り伝える働きは重要です。

祈りましょう。レビ族の人々が地域に分散して、神の律法(御言)を伝えたように、私たちがイエス・キリストを伝えることの出来る存在となり得ますように。(Ω)

ヨシュア記 20章

2017年07月15日 | ヨシュア記
ヨシュア20:2-3 のがれの町を選び定め、あやまって、知らずに人を殺した者を、そこへのがれさせなさい。

私たちは故意に罪をおかすこともあれば、誤っておかしてしまう罪もあります。そこで神は、あやまって人を殺してしまった者を保護するためにのがれの町」を定められました。

律法では、「目には目を、歯には歯を」と言われているように、目が被害を受けたなら、おなじ目でもって償わなければならないと定められていました。 
※これは「やられたらやり返せ」と報復を奨励しているのではない。目をやられたら目だけにしておけという意味。過剰な報復を戒めている

ですから、殺人に対しては死をもって償わなければなりませんでした。これが原則です。しかし、故意によらない殺人もあります。事故や自己防衛の場合が考えられるのですが、そのような場合、「死には死を」を根拠に報復してしまわないために、のがれの町は定められました。

のがれの町は、イスラエルの各地に点在し、どこからでも1日路ほどの距離にありました。

あやまって人を殺した人が、のがれの町に逃げ込んだ場合、町は彼を保護し、彼はこの町で正当なさばきを受けることができました。このように、助かりたい者は、のがれの町逃げ込むことができました

神は、罪人が滅びるのを喜ばれません悔い改めて生きることを願っておられます(エゼキエル18:32)。その悔い改めて生きようとする者が生きられる方法が「のがれの町」だったのです。

まさにイエス・キリスト新約時代「のがれの町」です

旧約ののがれの町は過失の罪をおかした者に対する保護とゆるしでしたが、新約のイエス様は〝誰でも〟です。

新約には〝誰でも〟という語に特徴があります。「誰でも重荷を負って苦労している者は、私のもとに来なさい。あなた方を休ませてあげよう」。「今やキリスト・イエスにある者は誰でも罪に定められることがない」。

旧約時代に定められたのがれの町は、やがて実現するイエス・キリストによる救いを予表しています。

旧約時代ののがれの町が救済できる罪人には限度がありましたが、イエス・キリストにあっては〝誰でも〟です。このイエス様にのがれる者は、誰でも救われます

旧約の律法によれば、油断してのがれの町を出てしまうなら、追っ手によって彼は殺されることもありました。そのように、イエスから出てしまうなら、追っ手である悪魔は私たちの罪を根拠に容赦なく責めて滅ぼしてしまうでしょう。

イエス様から出てはいけません。イエスの中にとどまってください。イエスの中で私たちはゆるされ、イエスの中で救われ、イエスの中でいのちを得るのですから。(Ω)

ヨシュア記 19章

2017年07月14日 | ヨシュア記
ヨシュア19:49 こうして国の各地域を嗣業として分け与えることを終ったとき、イスラエルの人々は、自分たちのうちに、一つの嗣業を、ヌンの子ヨシュアに与えた。

ようやくイスラエルのすべての部族に嗣業の地が与えられました。ところが、最も功労のあるヨシュアの住む土地が決まっていませんでした。彼は、自分の居住地を後回しにして、民の居住地を優先したのです。

ヨシュアの立場と功績を考えるなら、最も良い地を得てもよいはずなのですが、ヨシュアはあえて、エフライムの山地にあるテムナテ・セラという町を選びました(19:50)

エフライムの山地にあるテムナテ・セラは、偶像礼拝の盛んなところであったと考えられています。地誌学によれば、太陽神を拝む言葉が町の名の由来だそうです。

そんな所にわざわざ出ていって、そこを建て直そうというのです。そのことを聖書は、「彼はその町を建てなおして、そこに住んだ」と記しています(19:50)

ヨシュアはすでに高齢に達していました。もう隠退してもよい境遇でしたが、彼はこの偶像礼拝の町を建て直すことに残りの生涯を費やしたのです。

神からの使命に年齢差はありません。青年には青年の使命があります。壮年には壮年の、老人には老人でなければならない使命があります。何歳になっても、今の私に与えられた神からの使命を果たす者でありたいと願います。

さて、一連の嗣業(相続地)の割り当ては〝くじ〟をひいて決めたと何度も記してあります。重要なことをくじ引きにするなんて……と思います。民主主義が定着した現代では、何でも話し合って決めるのが常識だからです。

しかし、人間の小賢しい意見や下心が行き交う会議の結果、得られた結論にも疑問符が灯ります。何かを決めるというのは難しいものです。そこで〝くじ〟の登場です。神に決めてもらおうじゃないかという訳です。

意外とくじ引きには神の御心が反映されているのではないかと思います。自分の人生を振り返って見ても、自分で決めたとおりになったことは何割でしょうか。1割あるでしょうか。特に重要なことはもっと低いかも知れません。

なぜ、藤原家の次男坊に産まれたのか。京都の田舎に生まれたのか。なぜ日本人なのか。なぜ昭和の時代なのか。どれをとっても〝くじ〟で決められたかのような人生です。

でも、そこに神の御心があるのです。そこに、神が与えたもうた嗣業があるのです。ならば、これを由として受けとめようではないかと思うのです。

私には私の、あなたにはあなたの、それぞれの嗣業があるのですそれを誠実に生きようタラントを増やすように生きよう。そんな人生であるように祈ります。(Ω)