朝マナ

人はパンだけで生きるのではなく、神の御言によって生きる。
聖書を一日一章、読んでみませんか。

詩篇 150篇

2015年01月22日 | 詩篇 第5巻

詩篇150:4 鼓と踊りとをもって主をほめたたえよ。緒琴と笛とをもって主をほめたたえよ。

最後の詩篇です。先の148篇ではすべての被造物が主を賛美せよと命じられ、149篇では新しい歌で主を賛美せよと命じられ、今日の150篇では様々な方法で主を賛美せよと命じられています。

人をはじめとして被造者の本分は「主である神を賛美すること」です。すべては、主への賛美に向かっています。

様々な楽器で主を賛美するようにと命じられていますが、踊りをもって賛美するようにも命じられています。つまり、様々な方法で主を賛美するのです。手拍子でもよいでしょう。合唱も良いでしょう。オーケストラによる賛美もすばらしいです。

それだけはありません。私たちの生活そのものが、主を賛美する生活であるべきです。奉仕するのも賛美です。仕事に行くことも神への賛美です。家事仕事も賛美です。ありとあらゆる生活のスタイルが、主を賛美するものとなりますように。

150篇にも及ぶ詩篇の中には、嘆きの歌もありました。悲しみや懺悔の歌。憎しみや呪いの歌さえありました。いろんな所を通って最後にたどり着くのは今日の詩篇です。

主を賛美せよ……ここに、私たちの人生は向かっています。私たちはそのために創造され、ここに置かれているのです。(Ω)








 


詩篇 149篇

2015年01月21日 | 詩篇 第5巻

詩篇149:1 主にむかって新しい歌をうたえ。

先の148篇は、すべての被造物は主をほめたたえよと、号令がかけられていましたが、今日の詩篇は、新しい歌をもって主をほめたたえよと呼びかけています。

「新しい歌」とは何でしょうか。

ひとつは、文字通り「新曲」を神にささげるという意味でしょう。教会の専属オルガニストとして仕えたバッハは、毎週の礼拝ごとに新しい賛美を作曲して神にささげたと伝えられています。

しかし、そのような取り組みは、一般の人々にはできそうにはありませんね。

では、逆に、古い歌とは何でしょうか。それは、神を賛美するのではなく、この世の色恋沙汰を賛美する歌です。自分の歌唱力を自己誇示する歌です。また、恨みや憎しみをこめた歌でもあります。

人類は、心にある諸々の感情を歌に託して表現してきました。でも、その多くは、神へ向かう歌ではなく、人間賛美、自然賛美、さらには悲しみや憎しみのはけ口ともなりました。それらは「古い歌」です。

そうではなく、神を賛美する歌……それは、新しい歌です。今まで世にはなかった「新しい歌」です。イエスを信じる以前は歌ったことのなかった「新しい歌」です。

今日も、あなたの口から、どんな新しい歌が歌われるでしょうか。神をほめたたえ、主イエスの御名が賛美される歌が、この口からでてきますように……。

主イエスを信じる者にはしるしが伴います(マルコ16:17-18)

そのしるしのひとつは、「新しい言葉を語る」のです。今まで愚痴ばかりこぼしていた口から、神への感謝の言葉が出てきます。恨み言ばかりの口から、ゆるしの言葉が出てきます。

そうです。新しい言葉が出てきます。それは新しい歌となって、メロディーがつけられ、私たちの口から出てきます。そんな、救われた者のしるしが、私たちの口に溢れますように……。(Ω)





 


詩篇 148篇

2015年01月20日 | 詩篇 第5巻

詩篇148:3 日よ、月よ、主をほめたたえよ。輝く星よ、みな主をほめたたえよ。

私たちが賛美べきお方は万物の創造主です。くり返し、「主をほめたたえよ」と呼びかけられています。創られた側の私たちは、創ってくださった方を賛美する……これが基本的な姿勢です。

人間である私たちだけが、創造主を賛美するのではなく、今日の詩篇は「すべての創られたものたち」は、主を賛美するように命じられています。

太陽にも月にも星々にも、天の天にある者にも、天使たちにも。また、地にある巨獣にも、山々にも、丘にも、そして嵐や雹にも、「主をほめたたえよ」と命じられています。

太陽や月や星、山や丘にいたるまで、ありとあらゆるものは、主を賛美するために創造され、置かれているのです。

そういわれれば、燦々と輝く太陽は、神の偉大さを賛美するように栄光を放っています。暗い夜空の中でも、希望は主にあると賛美するように、月や星は輝いています。

今朝もどこかしら鳥たちのさえずりが聞こえてきました。カッコウの声も聞こえます。人間が目覚めるよりも先に目覚めて、主を賛美しています。いやフクロウなどは、暗やみの中でも賛美しています。

こんなふうに、大自然の生き物たちや自然現象をとらえると、自分も賛美しなくっちゃと思いますよね。創造主である神を賛美することと……これは、私たちに与えられた使命です。

なのに人間は、時々……否、しょっちゅう……自分がほめたたえられたいという願望が湧いてきます。もちろん、人が自分のことを誉めてくれることは嬉しいことです。「誉めて育てる」というのもあります。

しかし、主をほめたたえることを忘れた人間賛美、自然賛美は過ぎたることです。


自分が誉められて小鼻がピクピク動き始めたときは要注意!。そんな時は、この私を創造し世に置いてくださった主を賛美しよう。主こそ賛美すべきお方であることを告白しよう。(Ω)






 


詩篇 147篇

2015年01月19日 | 詩篇 第5巻

詩篇147:4 主はもろもろの星の数を定め、すべてそれに名を与えられる。

この宇宙に星の数はどれほどあるのでしょうか。私たちは数え上げることが出来ません。毎年、天文学者たちは新しい星を発見しては、その星に名を付けていますが、それでも、名付けられた星の数はほんのわずかです。

しかし神は、「すべての星に名を与えられる」と言われます。忘れ去られたような星にも、だれも見つけてくれそうもない星にも、神は名を付けておられます。

この詩篇の詩人は、星に自分の姿を重ねるようにして、神を賛美しています。名もない星のような自分にも、神はそれに名を付け、私を知ってくださるのです。

ある時、神は、アブラハムに数え切れないほどの夜空の星を見せて、あなたの子孫はこの星の数ほどになると約束され、やがて、その子孫は星の数ほどに増え広がりました。

詩人は思います。神は、父祖アブラハムのことはご存知だ。また、その子のイサクやヤコブはご存知だ。しかし、その末裔(まつえい)の私などをご存知だろうか。

ところが、神はそれに名を与えられると言われるのです。

そのように、神は、私たち一人ひとりに名を付けて、私をご存知なのです。名は親が付けたようですが、親を通して、神が名付けてくださったのです。だから、神はあなたの名をご存知です。

名を付けるとは知っているということです。

「私はあの人を知っている」といいながら、その人の名を知らないなら、それは知っているとは言えません。名を知ることが、知ることの始まりです。

名を知るとは、他のものと区別するということです。名を知らなければ、他のものとまぜこぜで、みな一緒です。つまり“その他おおぜい”というわけです。

神は、私を“その他おおぜい”でひとくくりになさっているのではありません。私に名を付け、私の名を知っておられるのです。神が、私の名を知ってくださるのは、何と幸いなことでしょうか。

イエス様は始めて会ったザアカイに、「ザアカイよ」と呼びかけられました。主はザアカイの名をご存知だったのです。名をご存知なので、彼のことを知っておられます。彼の所に宿泊しなければならないほど、彼の霊魂が飢え渇いていることをご存知だったのです。

すべての星の数をさだめ、名を付けられる神を信頼してください。と同時に、私も神を知らなければなりません。神を知ることのはじめは、名を知ることです。

神を信じている」とか「知っている」という人は多いでしょう。しかし、では、その方の名は何というのですか、とたずねると答えられません。それでは、神を知らないのと同じです。

神の御名を知ってください。その方の名はイエスですこの方の名を知って呼んでください。

名前で呼ばれることは、人間でも嬉しいことです。お歳を召した方にも、「おじいさん」「おばあさん」といった総称で呼ばないで、ちゃんと名前で呼びかけると喜ばれます。個人の尊厳を認め大切にすることだからです。

神に対しても、「神様」と呼びかけるのは、「おじさん」とか「おばさん」と呼びかけるのと同じです。「おばさん」と呼びかけたら、自分はおばさんだと自覚している複数の婦人が振り向くでしょう。

同じように、「神様」とよんだら、いろんな神々が、「オレのことか?」と振り向きます。偽者の神と関わりをもってどうするのですか。本当の神の名は「イエス」です。

「イエス様」と呼びかけて、まことの神を知ってください。まことの神との聖なる交わりをもってください。(Ω)




 


詩篇 146篇

2015年01月17日 | 詩篇 第5巻

詩篇146:3 もろもろの君に信頼してはならない。人の子に信頼してはならない。彼らには助けがない。

冒頭の1節は、口語訳で「主をほめたたえよ」と訳されていますが、新改訳と新共同訳では「ハレルヤ」と原文のまま記されています。ハレルヤではじまりハレルヤで閉じる詩篇が以後150篇までつづきます。

さて、146篇では、信頼してはならない存在として、「王」と「人間」があげられています。

「人の子」とありますが、御子イエスのことではなく、文字通り人間のことです。また、王も、御国の王であるイエス様ではなく、人間の王のことです。

両方とも人間です。「その息が出ていけば彼は土に帰る。その日には彼のもろもろの計画は滅びる」という点で共通しています。「息」とは「霊」のことです。※新共同訳では「霊」と翻訳。

人間とは、息(霊)が去ってしまえば土に帰るしかない存在です。弱さと限界のある存在です。どんなに壮大な計画を立てても、息が絶えてしまえば、それは途中で終わってしまいます。

しかし、神は永遠のお方です。神のご計画は途絶えることなく成就します。

ですから、息が出ていったら終わってしまう人間を頼りにするのではなく、それを創造なさった神こそ信頼すべきお方であると、賛美しているわけです。このお方は天と地と、海と、その中にあるあらゆるものを造り、とこしえに真実を守るお方だからです(146:6)

私たちは、つい、見える者に信頼したくなります。見えるものが確実だと思うからです。しかし、見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくことを再確認しよう(Ⅱコリント4:18)

信仰とは、見えるものが見えないものから成り立っていることを知ることです(ヘブル11:3)。見えないものとは何ですか。それは神であり、神の御言です。見える世界は神の御言によって創造され、神の御言によって保たれています。

ですから、見える世界は、見えない世界の「影」のようなものです。影をつかんでも、本当はつかんでいないように、見えるものは確実ではありません。お金をつかんだようでも、影のようにやがて消えて行きます。

そのような見えるものに信頼するなと聖書は教えるのです。それを創造なさった神こそ信頼すべきです。そして、それを創造した神の御言こそ信頼できることです。

不安や恐れが生じたとき……それは、見える何かに影響を受けているからです。上司や知人、お金や環境といった見える世界から影響を受けています。

しかし、それらを創造し支配しているのは、見えない神です。神の御言が見える世界を支配し保っています。そのことを信頼することが信仰です。

視覚ではなく聴覚の世界を大切にしてください。視覚の世界を重んじるあまり、イエスが言われたように、「見えると言い張るところに罪がある」ということになります。

神を見ることはできませんが、御言を聞くことは出来ます。そして、信仰は聞くことから始まります。(Ω)






詩篇 145篇

2015年01月16日 | 詩篇 第5巻

詩篇145:1 わが神、王よ、私はあなたをあがめ、世々かぎりなく御名をほめまつります。

今日の詩篇では、主である神をと告白しています。この詩篇では、われらの神こそ王としてふさわしい支配者であり審判者であると賛美しています。

この告白に至るには様々な歴史がありました。

そもそも、イスラエルがエジプトから導き出された当初は、主である神こそが統治者であられました。しかし、やがてカナンの地に定着し始めると、人々は近隣諸国のような王を求めました。

目に見える王、力をおびた王こそが自分たちの国には必要だと人々は考えたのです。しかし、それは堕落の始まりでした。その後の歴史は、王たちとその王国の栄枯盛衰は列王紀に記されているとおりです。

こうしてバビロン捕囚を経験した帰還後の民は、神である主こそがまことの王にふさわしいお方であるという告白にいたり、神が遣わされるメシヤ(油そそがれし王)を待望する信仰へと展開していった訳です。

しかし、何ということでしょう。御国の王として来られたイエス・キリストを、人々は歓迎しませんでした。ポンテオ・ピラトのもとで審判を受けられたイエスに対して、人々はカイザル(ローマ皇帝)以外に王はいないと叫んで、真の王を退けました

イスラエル民族を始め人類は、まことの王を求めて彷徨(さまよ)っています。カイザルという名の人間の王をもとめた時代もありました。やがてそれを拒絶し、民主主義という王を擁立して理想郷を実現しようという時代も経験しました。

いずれもまことの王ではありませんでした。神の御子キリストを王として迎えるまでは、なおも人類は彷徨い続けることでしょう。この詩篇の告白に至るまで……。

しかし今や、イエスを信じる人々から、まことの王の統治が始まっています。イエス・キリストこそ王です。このお方の統治なさるところに、すでに神の御国は始まっています。

主の祈りで「御国を来たらせたまえ」と祈りますが、その御国は、「私の王はイエスです」という告白から始まります。今日も、イエス様こそ私の王と告白し、王であるイエスに従おう。(Ω)





 


詩篇 144篇

2015年01月15日 | 詩篇 第5巻

詩篇144:3 主よ、人は何者なので、あなたはこれをかえりみ、人の子は何者なので、これを御心にとめられるのですか。

今日の詩篇も「ダビデの歌」です。ダビデの生涯は、失敗を通して神への謙遜と従順を学ぶ旅でした。

多くの人々は平穏無事で実り豊かな人生を求めます。それが人生の目的であり、幸せだと考えています。そのような価値観からすれば、ダビデの生涯は正反対の人生でした。

王としてイスラエルを統一するという偉業を成し遂げたものの、失敗と失意の連続でした。しかし、あやまちの度ごとに、彼は神の御前にへりくだり、悔い改めました。

そして、神は、そのようなダビデを祝福されました。それは、ダビデが失敗の無い人だったからではありませんでした。そうではなく、失敗を通して、ダビデが神への謙遜と従順を学んだからです。あやまちを通して、神を愛する愛を学んだからです。

人生の目的は何でしょうか。より高い地位に就くことでしょうか。有名になることでしょうか。それを通して自己実現をすることでしょうか。

そうではありません。神が、私たち人間に人生をお与えになったのは、この失敗多き人生を通して、神を愛する者となるためです。挫折や試練を通して、神への謙遜と従順を学ぶためです。

このことを無視して、平穏無事で世に富んだ人生をすごしても、それはむなしい人生です。空(むな)しい……まさに空(から)っぽの人生です。実のない籾殻(もみがら)のように、最後には火で焼かれてしまいます。

ダビデは失敗や挫折のたびに悔い改めました。そして、そのたびに神からのゆるしと祝福を受けました。

ですから、今日の詩篇のように、主よ、人は何者なので、あなたはこれをかえりみ、人の子は何者なので、これを御心にとめられるのですかと祈りました。

神は、私たち人間を、失敗のない者とするために創造なさったのではありません。むしろ、逆です。失敗する弱さを持つ存在として、神は人を創造されました。

あやまちのない完全な存在とするためなら、神は、人を肉体を持つ存在には創造なさらなかったはずです。この肉体は、空腹になれば食べなければならず、疲れたら眠らなければならない弱さを持っています。

肉体とは、限界のあるいのちです。時間の経過と共に朽ちて行くいのちです。血を流せば死んでしまういのちです。ですから、その弱さの故に、人は誘惑を受け、罪をおかし、失敗もします。

人は霊的な存在でありながら、肉体という、霊的な基準からすれば不利と思える体を受けました。同じ霊的存在である天使は、眠らなくてもすみます。ご飯を食べなくてもすみます。なのに、人は、神の喜ばれる働きをしようにも、この肉体の弱さゆえに、誘惑を受け、罪をおかします。

でも、その弱さには意味があります。神を愛し神に信頼して生きるために、人は弱い存在なのです。神への謙遜と従順を学ぶ者となるために、神は人を弱い存在として創造されたのです。

だから、神は、人をかえりみてくださるのです。だから、神は、人をあわれみ、御心にとめてくださるのです。

神は、人を弱く造っておいて、失敗したからといって、地獄行きのさばきをなそうと待ちかまえる非情なお方ではありません。むしろ、神は、人が失敗することをご存知で、人を肉体のある霊的存在として創造なさいました。

神が人を創造してみて、「なんだ、人間は失敗が多いな」と嘆かれたと思いますか?。創造してみて、人間が罪をおかすものだから、あわてて、御子を十字架に付ける計画をお立てになったと思いますか?。そんな行き当たりばったりの神ではありません。

神は、人が失敗を通して、悔い改める者になるようにご計画なさいました。そして、悔い改めて、神に対する謙遜と従順を学ぶようにと定められました。

神は、罪をおかした人が、悔い改めて神のゆるしを受けるようにご計画なさいました。それは多くゆるされた者が、多く愛する者となるためです。

あの失敗したペテロに対して主イエスは、「どうして失敗したのか」とは質問なさいませんでした。そうではなく、わたしを愛するかと質問なさいました。失敗は、私たちが神を愛する者となるための教材です。

さあ、神を愛する者となろう。神への謙遜と従順を身につける者となろう。それが、この弱さのある肉体を宿として生きている、私・霊魂の使命であるからです。(Ω)





 


詩篇 143篇

2015年01月14日 | 詩篇 第5巻

詩篇143:10 あなたの御旨を行うことを教えてください。あなたはわが神です。恵みふかい御霊をもって私を平らかな道に導いてください。

「ダビデの歌」と表題がつけられたこの詩篇は、心の底から神を求めるダビデの祈りがにじみ出ています。

ダビデは王としての立場に傲(おご)ることなく、神の御前にへりくだることを忘れなかった人です。人としては最高位の身ですが、自分にはひざまずくべき本当の王である神の存在を認めました。

生ける者はひとりも御前に義とされないからです(143:2)

この告白には、自分は王だからといって大目に見てもらえるわけではない。人間同士の比較では正しく思えても、神の御前ではあわれな罪人に過ぎないことを告白しています。

ダビデ王は失敗の多い人でした。特に女性関係と子育てにおいては大きな痛手を負いました。

ウリヤの妻バテシバとの不倫問題によって、ウリヤを死に追いやり、多くの人々を傷つけました。また、息子アブサロムは父に敵して挙兵し、国を二分する戦いによって国民は疲弊しました。

彼は、人間的な頑張りの限界を体験しました。それは、単に気を付けていれば何とかなるという問題ではありませんでした。アダム以来、罪によって支配された霊の深いところから生じる問題でした。

ですから、この詩篇では、私の霊は私のうちで衰え果て、私の心は私のうちでこわばりましたと告白しています(143:4 新改訳)主よ。早く私に答えてください。私の霊は滅びてしまいます(143:7)

表面的に整えればうまく行くというわけではありません。わが内なる霊魂の問題です。樹木にたとえるなら、枝葉の問題ではありません。根っ子の問題です。

ダビデは失敗を重ねるごとに、問題の根は霊魂にあることに気がつくようになりました。


だから、今日の冒頭の聖句のように、あなたの御旨を行うことを教えてください。あなたはわが神です。恵みふかい御霊をもって私を平らかな道に導いてくださいと祈りました(143:10口語訳)

ダビデの洞察力は新約聖書のパウロに通じるところがあります。ある人はこの143篇を「パウロ的詩篇」と呼びましたが、なるほどと思います。

「義人はいない」と告白したパウロは、こんなみじめな罪人をだれが救ってくれるのかと嘆きましたが、彼が到達した結論は、イエス・キリストを信じる者が御霊によって歩むことによる救いでした。

その力強い告白を確認しておきましょう。

こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放したからである(ロマ8:1-2)。(Ω)






 


詩篇 142篇

2015年01月13日 | 詩篇 第5巻

詩篇142:1 私は声を出して主に呼ばわり、声を出して主に願い求めます。

この詩篇は、「ダビデがほら穴にいたときのもの」と記してあるように、サウル王からいのちをねらわれ、逃亡生活をしているときの祈りです。

ダビデはこの試練の中で、本当に助けになるのは主なる神のみだと学びました。主こそ「わが避け所」です。みすぼらしいほら穴の中ではありましたが、主にかくまわれるようにして、そのほら穴で守られました。

さて、今日のダビデの祈りで、声に出してという点に注目しましょう。祈りは「声に出して」なのです。心の中で念じることではなく、声に出すことが大切です。

神は全知全能のお方だから、私が声に出さなくても私の気持ちを察してくださるだろう……と考える人がいますが、それは、神との交わりが、人格的な交わりであることを無視した考え方です。

人間同志でも、心を察してくれとぞばかり声に出さずにいるなら、人格的な交わりを保つことは出来ません。

もちろんイエス様も、律法学者らが心の中で「この人はどうして罪をゆるす権威があるのか」と疑っているのを見抜かれたという記事が記されていますが、大概は悪い心の場合です。

信仰による交わりの時は、意図的に声に出すようにと導かれました。

盲人に向かって、何をして欲しいのかと質問されました。目が見えるようになることであるのは百もご承知の上でです。また、ベテスダの池のそばでふせっている男に、直りたいのかと質問されました。直りたいからベテスダの池にやって来てるのですから、当たり前です。

でも、主は、あなたの口で言いなさい、と求めておられるのです。

私たちが声に出すとき、それは私の意思が表れるからです。心で思っている程度では、意志が明確ではありません。信じているのか信じていないのか曖昧(あいまい)です。

声に出してハッキリと申し上げないので、祈りの応えもハッキリとしません。自分は何を求めていますか。声に出してください。何をしようとしていますか。声に出して祈ってみてください。(Ω)





 


詩篇 141篇

2015年01月12日 | 詩篇 第5巻

詩篇141:3 主よ、わが口に門守を置いて、わがくちびるの戸を守ってください。

先の詩篇は、敵の放つ悪しき言葉の矢から守られるようにという祈りでした。ダビデは、敵の言葉だけを警戒していたのではありませんでした。

今度は自分の言葉です。私の口に門守(かどもり)を置いてくださいと祈りました。「門守」とは「門番」とか「見張り」のことです。

他者の言葉によって傷つけられることもありますが、逆に、私の言葉が他者を傷つけることだってあります。だから、私がどんな言葉を発するのか、それを見張らなければなりません。

当時の町は城壁で囲まれていました。町の外と内は城壁で区切られていました。唯一の出入り口は「城門」です。悪いものが入ってくるのも門を通してですし、悪いものが出て行くのも門を通過します。

ですから、門を見張る門守は重要なポジションです。彼が怠けていると、町全体が大変なことになります。

そうです。私の口の門番が怠けていて、とんでもない言葉が出ていっては悪さをし、不要な戦いを引き起こすなんてことは、日常茶飯事です。それが高じて、「全身を汚し、生存の車輪を燃やし、自らは地獄の火で焼かれる」(ヤコブ3:6)ということに成りかねないのです。

では具体的に、私の口を見張る「門番」とは、どんな存在でしょうか。それは聖霊によるご支配です。ですから、こう祈ります。聖霊なる神さま、どうか私の口から出る言葉を見張ってください……と。

その祈りと共に、何か言葉を発するときに、「ひと呼吸おく」という工夫は効果的です。その「ひと呼吸」の間に、聖霊の助けを求めることです。(Ω)



 


詩篇 140篇

2015年01月10日 | 詩篇 第5巻

詩篇140:7 わが救の力、主なる神よ、あなたは戦いの日に、わが頭をおおわれました。

詩人(ダビデ)は敵の攻撃にさらされていました。特に彼を苦しめたのは敵の放つ矢でもなければ、剣でもありませんでした。それは、彼らの口から放たれる口汚い言葉でした。

彼らは蛇のようにおのが舌を鋭くし、そのくちびるの下にはまむしの毒があります(140:3)。言葉には剣に似たある種の鋭さがあります。

神の御言も鋭さがありますが、聖書はこう証ししています。

神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、魂と霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます(ヘブル4:12)

神の御言の鋭さは、私たちの心にある悪い考えを切り取ることの出来る鋭さです。ちょうど、手術によって癌細胞を取り除くようにして、神の御言は、私たちの心に増殖した悪しき考えを切り取ります。

しかし、悪意に満ちた人の言葉の鋭さは逆に作用します。人の心を傷つけ、不信感をいだかせ、傷口からは腐りが広がるのです。

ダビデも、主君サウルから何度も裏切りの言葉を受け、そのことによって傷つけられたことでしょう。また、アブサロムによるクーデターでは、シメイらの嘲(あざけ)りの言葉によってダビデの心はうなだれました。

そのような修羅場を乗り越えてきたダビデだからこそ、今日の冒頭の聖句のように祈ったのだと思います。

ここで述べられている、「神は戦いの日に、我が頭(こうべ)をおおわれました」とは、第一義的には文字通りのかぶとのことでしょう。しかし、神にかぶせてもらわなくても、かぶとは自分でかぶるものです。

神が、わざわざかぶせてくださった「かぶと」とは、目に見えないかぶとです。それは、敵の鋭い言葉の剣から守られるための「かぶと」のことです。

邪悪な言葉は、まず私たちの頭……つまり、思考の中に鋭く入ってきます。剣のように鋭い邪悪な言葉は、私たちの思考を混乱させ、神への信頼を疑わせます。それは、毒が全身に行き渡るように、思考全体をゆがんだものにします。

マイナス思考。否定的・悲観的な思考。自己卑下。愛の冷え切った思考……等々。

エデンの園でサタンがエバに語りかけた言葉も、毒の入った言葉でした。本当に神はそう言われたのですか」。その言葉の毒が、エバの思考を狂わせ、神の御言への不信感をいだかせ、ついに悪魔の手の中に落ちたのです。

だからこそ、頭に「かぶと」が必要です。悪しき言葉から守られる「かぶと」を、かぶせてください……と、ダビデのように祈る必要があります。(Ω)




 


詩篇 139篇

2015年01月09日 | 詩篇 第5巻

詩篇139:24 私に悪しき道のあるかないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。

今日の詩篇は、すべてをご存知である神への信頼がテーマです。

主よ、あなたは私を探り、私を知りつくされました(139:1)という告白からはじまり、神よ、どうか、私を探って、わが心を知り、私を試みて、わがもろもろの思いを知ってください(139:23)という祈りに至ります。

それは、私が永遠のいのちに導かれるためです(139:24)

神は全知なるお方です。神はあなたのことを、そして私のことも、よ~くご存知です。神に対しては隠すことが出来ません。

あなたはわが座るをも、立つをも知り、遠くからわが思いをわきまえられます。あなたはわが歩むをも、伏すをも探り出し、わがもろもろの道をことごとく知っておられます。私の舌に一言もないのに、主よ、あなたはことごとくそれを知られます(139:2-4)

こんなに知られているのは嫌だと思って、神から遠く離れようと思いますか?。それとも、すべてをご存知であるが故に安心を得るでしょうか?。

でも、あなたが、神から遠く離れて、神から隠れようと思っても、神は遍在(へんざい)なるお方です。

私が天にのぼっても、あなたはそこにおられます。私が陰府(よみ)に床を設けても、あなたはそこにおられます(139:8)

「『闇は私をおおい、私を囲む光は夜となれと私が言っても、あなたには、闇も暗くはなく、夜も昼のように輝きます。あなたには、闇も光も異なることはありません(139:11-12)

このように、どこにでもおられる神を鬱陶(うっとう)しいと思いますか?。それとも、どんな場所でも、どんな境遇の中でも、共におられる神の存在を力強く感じますか?。

神から離れていたい、神から隠れていたいという思いは、罪人が持っている性質です。

人類で最初に罪をおかしたアダムは、神が近づいてこられるのを感じて、彼は木陰に身を隠しました。ありのままを見られたくないという思いが、アダムを支配していたからです。

この性質は今も私たちの中に流れています。

ありのままを見られたくないという思いは、また、ありのままの自分を認めたくないという思いにもつながります。ですから、人類はこの時以来、様々なもので自分を飾り、自分を守ろうとしてきました。

それまで、アダムは裸であったのですが、恥ずかしく思い、イチジクの葉で服を作りました。この時から人類は、布製の服だけではなく、「うそという服も着ます。「学歴とか身分という服も着ます。

文明という服を着て、人は高度に進歩して、罪の呪いから自由になったのでしょうか。また、「文化という服を着て、人は死の恐怖から解放されたのでしょうか。

人は、本当の自分の姿を見失っています。罪人であり、死の恐怖のもとで奴隷となっている自分の本当の姿を見ようとしません。

いいえ、怖くて見ることができないのです。

多くの人は、自分のことは自分が一番知っていると思っています。そこで、自分のことを良く知っているので、注意して失敗しないようにするのですが、ある時、自分の醜さを知って愕然(がくぜん)とします。

人は、そんな自分の愚かさを“いま”知ったのですが、神は“はじめから”ご存知です。

ペテロが「イエスを知らない」と言ってつまずくことを、主イエスははじめからご存知でした。ですから、そのようなつまずきの中でも、信仰を失わないようにと、主は祈ってくださいました(ルカ22:31-34)

本当の私の姿を知っておられるのは、神です。私を世に送り出し、母の胎に宿る以前からご存知である神です。

「あなたは最もよく私を知っておられます。私が隠れた所で造られ、地の深い所でつづり合わされたとき、私の骨はあなたに隠れることがなかったのです(139:14-15)

この創造主である神と出会うとき、私たちは本当の自分を知ります。すべてをご存知である神がご一緒であれば、本当の自分を見つめる勇気をいただくことができます。

罪人である自分の姿を見つめる時も、十字架で罪の代価を支払ってくださったイエスと共に見つめるのですから、そこには、つらさの中にも恵みがあふれています。

死に定められた自分の姿を見つめる時も、十字架の死から復活なさったイエスと共に見つめるのですから、そこには、肉体の死の向こう側にある、栄光の体への復活が輝いて見えます。

ですから、「私に悪しき道のあるかないかを見て、私をとこしえの道に導いてください」と祈ることができます。すべてをご存知である主の前では、自分を飾る「服」を脱いで、正直に祈ることができます。(Ω)





 


詩篇 138篇

2015年01月09日 | 詩篇 第5巻

詩篇138:2 あなたは、ご自分のすべての御名のゆえに、あなたの御言を高く上げられたからです。

バビロン捕囚から解放されてエルサレムに戻ってきた詩人は、まだ荒れ果てた神殿の前で、神への感謝の祈りをささげました。

旧約聖書には2つの大きな出来事があります。それは、第一に奴隷の地エジプトからの解放であり、第二に捕囚の地バビロンからの解放です。

いずれも、人知を超えた神のみわざでした。イスラエルにとって、この出来事は信仰の原点ともいえるものであり、詩篇などでは何度も取り上げられているテーマです。

さて、詩人はバビロンからの帰還を感謝しているのですが、それは単に、自分にとって都合の良いことが起きたから感謝してるわけではありません。

冒頭の聖句は何と言っていますか。あなたは、ご自分のすべての御名のゆえに、あなたの御言を高く上げられたからですと告白しています。

捕囚からの解放は、神の御言の通りであったことを感謝しているのです。自分が願ったとおりになったから感謝しているわけではありません。彼はきっと、バビロン滞在中ず~っと、預言者によって語られた捕囚解放の約束の御言を握りしめて祈ったのです。

周囲からは様々な人間的な言葉が聞こえてきます。そんな夢みたいなことがあるはずないだろ。いくらなんでも、こればかりは無理だ。そんな人間のむなしい言葉をさしおいて、神はご自分の御言を高く上げられたのです。

私たちの周りには様々な声(言葉)が聞こえてきます。おとしめる言葉、否定的で悲観的な言葉、疑いの言葉、あきらめの言葉。

それらはみな人間の言葉であり、神の御言ではありません。闇の世に属する言葉、悪魔が吹聴する言葉であって、神の御言ではありません。どんな言葉が行き交おうとも、神の御言だけが最後まで残り、その通りになるのです。

そんな御言の通りがわが身になることを信じて、御言を身ごもる者は幸いです。(Ω)




 


詩篇 137篇

2015年01月09日 | 詩篇 第5巻

詩篇137:1 われらはバビロンの川のほとりにすわり、シオンを思い出して涙を流した。

人々にとってバビロン捕囚は悲しくつらい思い出です。詩人はその時のことを思い出しています。奴隷としての重労働もつらかったけれど、それ以上につらかったことは、主を馬鹿にされたことでした。

バビロンの人々からは、「お前たちの神はどこにいるのか?。そんな当てにならない神よりは、バビロンの神々を拝んだらどうだ」と、からかわれ、笑われたのです。

詩人はその時の様子を述べています。

我らをとりこにした者が、我らに歌を求めたからである。我らを苦しめる者が楽しみにしようと、『シオンの歌をひとつ歌えと言った。我らは外国にあって、どうして主の歌を歌えようか(137:3)

「シオンの歌」とは、主への賛美歌のことです。つまり、バビロンの人々は酒宴の席で、「お前たちの神をほめたたえる歌でも歌って見ろ!」と、おもしろ半分にけしかけたわけです。

そこで、「我らの主は全地を支配される神……」などと歌おうものなら、彼らは、あはは~っと笑って、「それなら、どうしてお前たちは奴隷なのだ。お前たちの神は無能なのか。そんな神など早く見切りをつけてしまえ!」と大いに侮(あなど)ったのです。

今日のクリスチャンにも同じような状況があります。イエス様を信じていても、すべてが順調なわけではないからです。私たちの信仰は、悪いことが起きないための「お守り」ではないのです。

ですから、失敗や挫折のどん底を味わうこともあります。つまり、「バビロン捕囚」といえる出来事があります。そして、世の人々からは、それでもイエスは神なのかとからかわれます。

私たちが馬鹿にされる前に、十字架上の主がそうでした。「お前が神の子なら、何で十字架になんかに付けられているのか。おりて見よ。そうしたら信じてやるよ」と侮られました。

苦しみや悲しみに意味を見出せない「ご利益主義の人々に、キリスト教は分かりません。そして、そのような人々は、「バビロン捕囚」に出くわすと、キリストから離れて行くのです。

この詩人の友人たちの中にも、信仰を捨てた者もいたことでしょう。そんな悔しい思いをしながら、彼はバビロン川のほとりで涙しながら祈りました。

エルサレムよ、もし私があなたを忘れるならば、わが右の手を衰えさせてください(137:5)とは、どんな不利な状況の中であっても、神への信仰を捨てることがないように……という願いを込めた誓いです。

あなたにとってバビロン捕囚と言える出来事は何でしょうか事業や家庭の破綻でしょうか。親しい家族や友との死別でしょうか。人には様々な「バビロン捕囚」と言える試練があります。

でも、この詩人のように、なおも主を信じ続ける中で、神の深いなぐさめと出会いが導かれるに違いありません。

人間的に見れば、バビロン捕囚は、神から見捨てられたことをあらわしていました。しかし、そのような苦境の中にも、神は共におられることを知ることは何と幸いなことでしょうか。

バビロンで苦しみの中にある民に向かって、神は預言者エゼキエルを通してこう語られました。

主なる神はこう言われる、たといわたしは彼らを遠く他国人の中に移し、国々の中に散らしても、彼らの行った国々で、わたしはしばらく彼らのために聖所となる(エゼキエル11:16)

今までは恵まれた環境の中で神と出会っていたが、そうではなく、試練や挫折の中にも神は共にいることを、お前たちは知ることになるのだと、主は言われたのです。そして、このことを通して、民はきよめられ、さらに一段と神との関係が深まるのです。

最後まで信じ続けてください。試錬を耐え忍ぶ人は、幸いである。それを忍びとおしたなら、神を愛する者たちに約束されたいのちの冠を受けるのですから(ヤコブ1:12)。(Ω)



 


詩篇 136篇

2015年01月07日 | 詩篇 第5巻

詩篇136:23 我らが卑しかった時に、我らを御心にとめられた者に感謝せよ、そのいつくしみはとこしえに絶えることがない。

今日の詩篇は「感謝せよ」の歌です。

感謝せよと言われても、何を感謝すればよいのか……と思う人はいませんか?。それは、感謝できる材料を探そうとするからです。感謝することは、身近な些細(ささい)なことです。

今日の詩篇は、すべてのことに感謝しています。あぁ、こんな事にも感謝するんだな~って、教えられます。 ※新改訳では4節以降には「感謝せよ」の文言がないが、口語訳と新共同訳では、各節ごとに「感謝せよ」と記されている。

さて、その感謝の項目の中で、23節では、我らが卑しかった時に、我らを御心にとめられた者に感謝せよとあります。私のような者が神の所有とされたこと、神の宝とされたことへの感謝です。

神が私たちをあわれみ、愛されたのは、「我らが卑しかった時」です。

先の詩篇135でも見ましたね。イスラエルが神の宝の民とされたのは、彼らが数の多い民だったからではありませんでした。彼らが他の民族より優れていたわけでもありませんでした。

もし、神から愛されるのに条件があるなら、果たしてだれが神の“めがね”にかなうでしょうか。でも、神はあえて、「我らが卑しかった時に御心にとめられた」のです。

新約の時代にいたっても、この神の愛は変わりません。いいえ、より鮮烈にあらわされました。聖書はこう述べています。

しかし、まだ罪人であった時、私たちのためにキリストが死んで下さったことによって、神は私たちに対する愛を示されたのである(ローマ5:8)

もし神が、愛に条件をお付けになったら、神から愛される人はだれもいません。もし神が、救いに条件をお付けになったなら、救いを受けられる人はだれもいません。※そもそも「愛」とは条件無しが大前提なのですが……。条件をつけるなら愛に不純物が混ざり始めます。

私たちが、まだ罪人であった時に、神は御子を十字架に付け、ご自身の愛を明らかになさいました。私たちが真面目になったので、「よし、それならば救ってやろうか」と立ち上がられたのではありませんでした。

この、神の愛を知るとき、私たちは、すべてのことに感謝できます。(Ω)