東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

2・26事件と荷風(5)

2010年11月10日 | 荷風

事件後にも荷風は「断腸亭日乗」に時々事件のことを記している。

「三月四日。晴れて風寒し。晩食後銀座に徃き総菜を購い久辺留に休む。高橋邦氏より騒擾の詳報をきく。車を与にしてかへる。此日午後千香女史来訪。余が旧著礫川逍遙記を再刻したしといふ。草稿をわたす。
 〔朱書〕大森区久ケ原五七九  相田光代」

高橋邦氏から事件の詳報を聞いている。高橋邦とはちょっと調べたが誰かわからない。荷風は食堂やレストランなど同じ店に毎日のように行く傾向があり、この時期は銀座の茶店久辺留であったようである。

「三月十一日。晴。初めて春らしき暖さなり。午後食料品を購はむとて銀座に行くに何といふこともなきに人出おび〔夥〕ただし。田舎より出で来りし人も多し。過日軍人騒乱の事ありし為め其跡を見むとするものも多き様子なり。塵まみれの古洋服にゴムの長靴を穿ち、薄髯を生し陰険なる眼付したるもの日比谷のあたりには殊に多し。其容貌と其風采とは明治年間の政党の壮士とも異り一種特別のものなり。燈刻前家にかへる。」

この日、この冬で初めて春らしくなり、暖かった。銀座に行くと何事もないのに人出が多く、田舎から出てきた人も多いようで、2・26事件の跡を見物する人も多いようである。異な風体のものが日比谷のあたりに多いとあるが、事件の共鳴者なのであろうか。巷の色んなところで事件の影響がでているようである。

「三月十四日。くもりて風暖なり。午後日高君来談。晡下鼎亭に徃きて浴す。帰途竹葉亭に飯し久辺留に憩ふ。一客あり。二月廿六日兵乱の写真十数葉を携来りて示す。叛軍の旗には尊皇討姦と大書したり。深夜杉野教授と車を共にしてかへる。」

いつもの茶店久辺留に行くと、2・26事件の写真をもっている客がいて、尊皇討姦と大書した旗が写っていた。決起部隊は山王ホテルの屋上にそれと同じ文言の旗を掲げたらしいが、その写真はホテル屋上を撮ったものであろうか。

「三月十八日。・・・むかし一橋の中学にてたびたび喧嘩したる寺内寿一は軍人叛乱後陸軍大臣となり自由主義を制圧せんとす〔以上補〕。・・・」

寺内寿一(てらうちひさいち)は、当時、陸軍大将で、2・26事件で岡田啓介内閣が総辞職した後に成立した広田弘毅内閣の陸軍大臣であった。荷風とは高等師範附属中学の同級生で、総理大臣にもなった陸軍大将寺内正毅の長男である。その喧嘩とは、秋庭太郎によると、軟派の代表であった荷風(壯吉)が髪を長くのばしていたのを寺内寿一はじめ硬派の連中が苦々しく思い、あるとき荷風を校庭でみんなで押さえ付け、むりやりバリカンで頭を刈ってしまい、なぐったりもした。これに対し、壯吉少年は、なぐった連中の家を一軒一軒まわって、その親たちに「君の家の息子がおれをこんなにした、いつかひとり、ひとりの時にやっつけてやるから、その時になって親が苦情をいうな」といったら、親たちはみんなあやまる。帰ってきた連中は親からうんとしかられた、といったことらしい。

自由主義の制圧とは、当時、寺内が広田内閣の閣僚名簿をみて、自由主義的・現状維持的であり、全軍一致の要望に合わないなどと干渉したらしいが、そのようなことを指しているのだろうか。

「三月廿七日。晴。瑞香の花馥郁たり。午後平山生出版物の事につき来談。夜銀座に徃き久辺留に憩ふ。〔此間三行強末梢。以下行間補〕人の話に近刊の週刊朝日とやらに余と寺内大将とは一橋尋常中学校にて同級の生徒なりしが仲悪く屡喧嘩をなしたる事など記載せられし由、可恐可恐、〔以上補〕また両三日前の朝日及び日々の紙上に丸ノ内美術倶楽部の広告に事よせ陰謀の暗号をなせしものあり。昨日に至り此事露見し検閲局係りの者免職せられしとの風説あり。帰途芝口にて八重子女給なりに逢ひ車を与にし門前にて別る。」

上記の寺内との中学時代のことが週刊誌に載ったようで、その権勢から何かの反作用をおそれてか、恐るべし恐るべしと書いている。

「四月六日。籾山梓月、山本実彦、拙著を贈呈せし返書を寄せらる。山本君の手紙封筒には戒厳令に依り開緘の朱印を捺したり。何の故にや恐しき世の中なり。終日読書。夜銀座に行き食料品をあがなひ茶店久辺留に少憩すること例の如し。空くもりて雨を催す。」

荷風宛の手紙の封筒に戒厳令に依り開緘(かいかん)の朱印があった。東京はまだ戒厳令下にあり、それを理由に手紙が勝手に開封されたようである。荷風は、おそろしき世なり、と嘆いている。

ところで、荷風は2・26事件のことをどのように感じていたのであろうか。事件の直前であるから直接の感想ではないが、次のような記述がある。

「二月十四日。晴れて風静なり。この頃新聞の紙上に折々相沢中佐軍法会議審判の記事あり。〔此間一行強末梢。以下行間補〕相沢は去年陸軍省内にて其上官某中将を斬りし者なり、新聞の記事は其の〔以上補〕最も必要なる処を取り去り読んでもよまずともよきやうな事のみを書きたるなり。されど記事によりて見るに、相沢の思想行動は現代の人とは思はれず、全然幕末の浪士なり東禅寺英国公使館を襲ひ或は赤羽河岸にヒユウスケンを暗殺せし浪士と異なるものなし。西洋にも政治に関し憤怒して大統領を殺せしもの少からず、然れども日本の浪士とは根本に於て異る所あり。余は昭和六七年来の世情を見て基督教の文明と儒教の文明との相違を知ることを得たり。浪士は神道を口にすれども其の行動は儒教の誤解より起り来れる所多し。そは兎もあれ日本現代の禍根は政党の腐敗と軍人の過激思想と国民の自覚なき事の三事なり。政党の腐敗も軍人の暴行も之を要するに一般国民の自覚に乏しきに起因するなり。個人の覚醒ぜさるがために起ることなり。然り而して個人の覚醒は将来に於てもこれは到底望むべからざる事なるべし。〔以下六行抹消〕」

相沢三郎中佐は、昭和10年(1935)8月12日午前陸軍省内で執務中の軍務局長永田鉄山少将を斬り殺した。その前におきた真崎教育総監更迭劇に絡んで永田少将がその中心人物とされたらしい。それに怒った相沢中佐が「永田天誅だ!」と叫びながら軍刀で襲いかかったという。

相沢事件は2・26事件の決起将校に大きな影響を与えたという。前月28日にはその事件の軍法会議の初公判があった。

荷風は、その軍法会議の新聞報道について、最も必要なる事を取り去り、読んでも読まなくてもよいような事だけを書いていると批評しているが、これは昨今の報道を見ているといまでも当てはまりそうである。新聞もむかしから余り変わっていないようである。

荷風は、この事件につき、幕末の浪士と同じだと酷評しているが、その例としてあげているのが、長州藩などのいわゆる尊王攘夷派が起こした事件であるところがおかしい。明治以来陸軍の主流は山県有朋をはじめとする長州閥であったから皮肉の意味もあったかもと想像してしまう。

日本現代の禍根は政党の腐敗と軍人の過激思想と国民の自覚なき事の三つとしているが、荷風がこのような政治のことを書くのはめずらしい。客観的な見方で、当時としては思い切った考え方であったと思われる。要するに一般国民の自覚に乏しいことが根本原因だが、この個人の覚醒は将来においても望むことができないとしている。
(続く)

参考文献
永井荷風「新版 断腸亭日乗」(岩波書店)
大内力「日本の歴史24 ファシズムへの道」(中公文庫)
林茂「日本の歴史25 太平洋戦争」(中公文庫)
平塚柾緒「2・26事件」(河出文庫)
秋庭太郎「新考 永井荷風」(春陽堂)

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