あの青い空のように

限りなく澄んだ青空は、憧れそのものです。

ロゴセラピー講演会に参加して

2014-09-22 11:06:15 | インポート

20日に、仙台へ出かけてきました。日本ロゴセラピスト協会事務局長の草野智洋氏を講師に迎えての ロゴセラピー講演会に参加するためです。

案内パンフレットには、ロゴセラピーについて次のように紹介されていました。

『「夜と霧」の著者、V.E.フランクルによって創始された「意味(ロゴス)」を中心として進められる心理療法。ロゴセラピーでは、どのように生きることが意味のあることなのか、今いる状況での課題は何なのか、人生に意味を見出せないで悩んでいる人たちと一緒に、意味のある生き方を探し、癒しの可能性を求めます。「いかなる状況にあっても人生に意味がある、人生にイエスと言うことができる」と考えます。』

フランクルの考え方から自分なりに学んだことを、改めて確かめ・考えなおしてみたいと考え講演会に参加しました。断片的な知識が、ロゴセラピーの考え方の中に整理・統合されていくような感じがし、少しだけ以前よりフランクルの考えが理解できるような気がしました。

講演の中で印象に残った言葉をいくつか書き出し、併せて自分の思いや考えもまとめてみたいと思います。

・ロゴセラピーは、人を変える「技術」ではなく、「生き方」としてあらわれてくるもの。セラピスト自身がロゴセラピー(生きる意味を見出し行動すること)を生きるということ。

 他人ではなく自らの生き方に関わる考え方であるということ。行動の主体は自分であり、その生き方の内にあらわれてくるものであるということ。人生の主役は、その人自身なのですから。

・どんな状況でも人は生きる意味を見出すことができる。

 フランクルは、ユダヤ人であるという理由だけで過酷な運命を生きることになります。家族との別離、死が隣り合わせの収容所生活。番号で呼ばれ、寒さと飢えの中で、強制労働にかりだされる日々。人間であることを否定され、多くの仲間が死んでいく中に在っても、人間としての尊厳を失わずに生きぬいたという事実の上で、語られる言葉です。どんな状況でも と言い切れるところに 体験に基づく言葉のずっしりとした重みを感じます。

・人生の意味を問うのではなく、私たちは人生から問われている存在である。

 ※ 自分ではなくそれ以外のものから、求められ必要とされている。今あなたにできることは何か、あなたがすべきことは何か。その問いの答えを自分で探し、選び、責任をもって行動で応えていく。

 人生の意味を問うことは、自分の世界から発せられた問いであり、それはこだまのように自らに返って来る問いなのかもしれません。自分の世界にいる限り、その問いは繰り返され続けることになるのでしょう。しかし自分から切り離したところに立つならば見方が変わり、人生そのものが自らに語りかける問いになってくるのだと思います。人生そのものがその主役である自分の登場を待っていてくれるのですから。

・良心によって行動する ~自然体の素直な心で行動する。…をしなければならない とか 欲望のまま 行動するという意味ではない。

 良心によって行動するということは、今自分ができること・やれることを 肩をはらず できる範囲で行動していくということなのだと思います。使命感にとらわれすぎず 手の届くところから やれることに手をつけていく。そういった構えが自然体の生き方なのかもしれません。

・人生の三つの価値 

 ○創造価値 ~ 物や作品の創造、仕事などを通して自分の役割を果たすこと

 ○体験価値 ~ 自然や芸術、愛情や友情、人とのつながりを体験

 ○態度価値 ~ 避けることのできない運命に対する態度によって、人生の意味を実現する

 ※ 変えることのできない運命を自分の人生の一部としてしっかりと引き受け、苦悩する。‘それでも人生にイエスと言う’ それが人間としての最高業績。その精神の自由を奪うことは誰にもできない。

 物が満たされても、精神は満たされない。それだけ人間は精神的存在なのだと考えます。だからこそ、人は精神的なものが満たされる三つの価値を求めるのだと思います。その価値にふれることで、生きることの充足感を体感でき、絶望や空虚感にとらわれたときにそこから抜け出す力を見出すことができるのではないかと思います。

 それぞれの価値に気づき、ふれることのできる 日々でありたいものです。辛く苦しい出来事に出合っても、そのことと向き合いながら 苦悩を受け止め、待っている人生の中で明日への一歩を踏み出す 自分でありたいものです。


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