社会統計学の伝統とその継承

社会統計学の論文の要約を掲載します。

「美濃部亮吉」(聞き手:三潴信邦,奥野定通)『日本における統計学の発展(第4巻)』(1981年1月22日,於:参議院議員会館)

2016-10-01 22:09:06 | 11.日本の統計・統計学
「美濃部亮吉」(聞き手:三潴信邦,奥野定通)『日本における統計学の発展(第4巻)』(1981年1月22日,於:参議院議員会館)

美濃部亮吉の経歴は,次の通り。1904年2月5日生まれ/1927年 東京帝国大学経済学部卒業,同助手/1942年 法政大学教授/1945年 毎日新聞社論説委員/1946年 持ち株会社整理委員会委員/1946年12月28日 統計委員会委員兼同委員会事務局長/1949年 東京教育大学教授を兼任/1952年8月1日 行政管理庁統計基準部長/1957年8月1日 行政管理庁統計基準局長/1959年1月30日行政管理庁統計基準局長退官・東京教育大学教授/1967年4月23日 東京都知事(1979年4月まで3期在任)/1981年6月 参議院議員

 インタビューは8つの話題からなる。(1)統計委員会事務局長となる/(2)GHQ及び各省との関係/(3)統計委員会と統計審議会との比較/(4)ISIの思い出/(5)国の統計制度と自治体/(6)国の指定統計のあり方/(7)統計審議会のメンバーについて/(8)統計基準局長時代あれこれ

【(1)統計委員会事務局長となる】統計委員会事務局長への誘いが大内兵衛からあったのは,毎日新聞社の論説委員をしていた頃であった。論説委員の仕事は居心地がよかったが,マスコミの組合運動が抑圧されつつあって嫌気がさしてきたときに,大内の一流の口説き上手の手にかかって引き受けた。終戦直後の話で,鳩山一郎を通じて大内,有澤,脇村,美濃部という教授グループが呼ばれたということではなかろうか。まだ,鳩山が政権をとる可能性があった時期である。しかし,鳩山はパージにあって政権の話はご破算になり,吉田茂が政権をとったので,もしかすると高野岩三郎-大内ラインからの話かもしれない。実のところはわからない。大内には政治的ファイトがあった。美濃部の話はこのあたりから少し脱線して大内の人物評に流れる。大内が事務局長を担ってもよかったのだが,結局美濃部が引き受けて身代わりとなって統計の整備を行った。美濃部にはそれまで行政側とは人的に一切関わりがなかった。統計の理論も知らなかったが,行政はそれでも十分対応できた。統計のことは統計委員会が決めるので,それほど統計のことを知らなくてもできるだろうということで,とにかく引き受けたというのが経緯である。

【(2)GHQ及び各省との関係】次いで三潴はGHQと統計改革との関連で,美濃部の当時の統計委員会事務局長の立場からの印象を尋ねている。この質問に対し,美濃部は民主主義的な統計を作成するという点では,GHQも日本側も見解が一致していた,と述べている。ただ,両者が衝突したのは,農林統計の作報と厚生省の医療行政統計(衛生統計)を県庁にまかせるかに関してであった。統計委員会も,統計使節団のライスとスタップも地方に必要な統計は県庁に独自の責任をもたせてやらせるべきと考えたが,GHQの代表と厚生省の代表はこれに猛反対し,財政的な自主権の問題も絡んで,結局,統計委員会の側が折れた。これは中央集権的な統計作成の方向でいくか,地方分権的な方向をとるかで,戦後の統計行政に決定的な影響を与えた。結局,中央集権派が勝利し,そのために今もって統計がよくならない原因になっている。農林省が近藤康男を大将にたててがんばり,統計委員会の側の正木千冬と対立した。近藤は農林官僚をバックに農林省の統計の一本化をはかっていた。農林側の指揮官としてはやむをえなかったのかもしれない。美濃部は続けて,農林省,厚生省,商工省は反統計委員会で一致していた,と述べる。統計委員会を強くしては困るという考え方であった,と述懐している。自分たちの行政の権限を奪われては困るという根っ子にあるこの考え方は,美濃部が基準局長になって,ますます強まる傾向であった。

 美濃部がまとめるところでは,内閣統計局と統計委員会とでは,統計局が中央統計局のように頂上にいて,国の統計の全部を統一的に統制するという点では一致していたが,統計局は統計委員会が統計を広く政治的,社会的にどうするかという点で統計局をコントロールすることに難色を示し,警戒していた。川島統計局長は統計委員会のメンバーであったが,委員会とは一線を画していた。川島は技術的な昔ながらの統計家で,民主主義の一つの手段としての統計という観点は全然なかった。地方分権的な,地方に必要な統計は地方で作成すべきという議論には真っ向から反対した。

 中央統計局構想は実現しなかった。大内兵衛はできたら実現させたかったと考えていただろうし,美濃部もそう思っていた。美濃部の見解は,国の統計はセントラリゼーションで,地方に関する統計はデセントラリゼーションで,というものであった。国の統計は国の政策遂行の資料を作成する,地方住民に密着した統計は地方が作成する,というのがこの構想案である。
【(3)統計委員会と統計審議会との比較】時代を経て行政委員会としての統計委員会は統計基準部になり(美濃部は統計基準部長),統計委員会は統計審議会になる。三潴は美濃部の基準部長の立場から統計審議会をどう見ていたのかという話しにもっていく。

美濃部はこれに対して,統計基準部長や局長であった時期には統計委員会が決めたことをそのまま実施に移すのが任務であったものの,統計審議会には行政権がなくなったので,そこが決定したことと違ったことを行政管理庁が行っても法律上,何も問題がないことになった。また,統計審議会にかける議題は,制限される。重要な議題は,審議会にかけないということがありえた。しかし,美濃部は,実際にはそういうことはなかった,と発言している。統計委員会は,統計審議会に発展的に改称した時点で,その行政的権限はなくなったことになり地盤沈下である。このことは,美濃部の言うように,当時の日本の政治の民主化がとまってしまったことが背景にある。

【(4)ISIの思い出】美濃部のISIへの参加は,1949年に第26回大会(スイス・ベルン)に,1951年に第27回大会(インド・ニューデリー),1958年に第31回大会(ベルギー・ブリュッセル)に出席した。ベルン大会はライスのおかげで出席とあいなった。その時のことは覚えているが,会議の内容な数理統計学が中心で「チンプンカンプン」だったと述べている。ニューデリーでは,ペーパーを提出した。第32回大会(1960年)は東京で開催された。美濃部は肩書では事務局の企画部長になっているとのことであるが,記憶にないという。この他,1950年に3か月ほどアメリカで統計事情視察を行った。

【(5)国の統計制度と自治体】この話題以降は,東京都知事になってからである。三潴は美濃部に自治体の側からみて,指定統計制度をどう見ていたかを質問している。指定統計は,国の機関委任事務で,お金は国から出て(補助金),労働力の提供は自治体が行うというものである。美濃部は,指定統計返上論を唱えていたらしく,ここでも指定統計を地方自治体が委任されて実施することに否定的な見解を示している。美濃部の考え方は,一例をあげれば,物価指数は貨幣価値の測定であり,それは国がやるべきだが,生計費指数は地方自治体が担当すべきであるというものである。しかし,統計部長は指定統計を国の補助金で雇われているので,美濃部の言うことを聞く必要はないという姿勢だった。そういうこともあって,美濃部は三潴に東京都の生計費指数の作成を依頼した。「統計の美濃部」「物価の美濃部」の声もあったが,実際にはあまり動けなかった。というより,統計部のほうから動こうという意識がないと,東京のような大きな行政の仕組みのなかでは知事は動きにくい。生計費指数の作成は,美濃部都政の末期だった。生計費指数の作成に生きがいを感じていた職員がいた(これは三潴の感触)。美濃部によれば,結局,統計は本当の地方自治体の統計,地方住民の幸せにつながる統計の作成というのは,組織を変えなければ実現できない。指定統計返上論の真意はこの辺にあったようである。

【(6)国の指定統計のあり方】関連して,美濃部は,指定統計はあってしかるべきであるが,それは国の力で全部しなければいけないと主張する。それでなければ,正確な統計はできない。費用,人員配置など難しい問題はあるが,それは国で考えるべきである(調査時期の平準化など)。

【(7)統計審議会のメンバーについて】美濃部は40代の初めころから12年間,国の統計にかかわるところにいた。そして知事職は同じ12年であった。続いて三潴は統計審議会の委員に,労働組合とか消費者団体の代表を入れることはできないのか,と言うことは美濃部の前半の12年,すなわち国の統計の仕事をしていたときに問題とされなかったのかを質問している。美濃部の回答は「ノー」である。それというのも,審議会は統計の生産の話をしていたからで,ユーザーのことは考えられていなかったからではないかというのが美濃部の推測である。住民のユーザーが主になる統計は,地方自治体が中心になるべきである。美濃部は当初からそう考えていたが,切実に実感するようになったのは,知事になってからだと述べている。

【(8)統計基準局長時代あれこれ】美濃部は最初の統計員会,統計基準局長時代の経験が,知事職の12年間の務めの基礎になっていると言う。自分は学者であったが,そういう人間が行政に入るには,役人をやってみる経験がないとなかなか難しい。そこでいろいろトレーニングを受けるわけである。知事時代には,役人が面従腹背とはよくいったものだということを知った。革新都政がひっくり返されても,何も抵抗しないし,革新都政時代には革新がいいと思ってみな一所懸命だったのではなく,知事が言うことに従っていただけのことだった(奥野はここで,「そうでもない」とコメントしている)。そういう点では,歯がゆい。

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