2013.6.23.ピリポとナタナエル
聖書 ヨハネ1:43~51
題 ピリポとナタナエルの召し
暗唱聖句
ヨハネ14:9「イエスは彼に言われた。『ピリポ。わたしを見た者は、父(神)を見たのです。』」
はじめに
1.ピリポ
2.ナタナエル
3.イスラエル人の救い(完成されたユダヤ人)
はじめに
先週はペテロとアンデレ、ヤコブとヨハネの召しについて、学びました。今日はピリポとナタナエルの召しについて学びます。
1.ピリポ
ピリポはベッサイダ出身の人です。ベッサイダは「漁の家」という意味があります。ガリラヤの北の方の町で、現在、発掘が進んでおり、整備されてきています。2000年前はもっとガリラヤ湖の水位は高かったと思われます。ですから、ベッサイダの近くまでガリラヤ湖畔が迫っていたのではないかと言われています。ペテロもアンデレもベッサイダ出身でした。彼らはカペナウムに移動しています。やはり、カペナウムの方が湖に近く、漁には便利だったのですね。
おそらく、ピリポもバプテスマのヨハネの弟子だったのでしょう。イエス様は直接自分からピリポに声をかけておられます。
ヨハネ1:43
「その翌日、イエスはガリラヤに行こうとされた。そして、ピリポを見つけて「わたしに従って来なさい」と言われた。
主イエスの時代の習慣では、ユダヤ教の有名なラビ(師)の弟子になりたい人は自分からラビに申しでて、受け入れてもらっていました。しかし、ここではイエス様がピリポに声をかけておられます。「わたしに従って来なさい。」と。これは当時の習慣としては例外的な出来事です。ピリポはイエス様の招きにすぐに応答しました。そして、ピリポはナタナエルにイエス様を紹介しました。
ペテロやアンデレは直感的で行動的な人でした。しかし、ピリポは理性的で知的な人でしたから、聖書に精通していたと思われます。イエス様をナタナエルに紹介する時にこう言っています。「私たちは、モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会いました。ナザレの人で、ヨセフの子イエスです。(ヨハネ1:45)」「モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方。」と言っているのです。知的な人にとっては説得力があります。人々にイエス様のことを紹介する場合、ある人にとっては体験談が良く、ある人にとっては聖書の知識が必要な場合もあります。伝道する相手によって異なりますので、良く相手の方と知り合いになって、その人が知りたいと思う方法でイエス様を紹介してあげてください。自分が説明しなくてもよいのです。誰かを紹介して、お友達になっていただいたらよいのです。
ピリポとナタナエルは良く一緒に出てくることが多い人たちです。きっと同じような性格で、親しい友達だったのでしょう。
ピリポは5つのパンと2匹の魚で5000人を養われたパンの奇跡の場面に出てきます。
ヨハネ6:5~9「イエスは目を上げて、大ぜいの人の群れがご自分のほうに来るのを見て、ピリポに言われた。「どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか。」
6:6 もっとも、イエスは、ピリポをためしてこう言われたのであった。イエスは、ご自分では、しようとしていることを知っておられたからである。
6:7 ピリポはイエスに答えた。「めいめいが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません。」
イエス様はピリポに質問されています。この質問はピリポを試すためのものでした。どうして、試されたのでしょうか。それは弟子訓練の為でした。ピリポは知的で理性的でした。理屈に合うことが彼にとって重要なことでした。ですから、この理性中心の信仰から抜け出ることが必要だったのです。どうしてそのようなピリポの性格がわかるでしょうか。
イエス様が「どこからパンを買ってきて、この人々に食べさせようか。」と言われた時、「こんな大勢では200デナリあっても足りません、どうするのですか、イエス様。私たちにはそんなお金ありませんが・・・」と答えているからです。200デナリというのは200日分働いて得る賃金のことです。人間的に考えれば、ピリポの言っていることは正しいのです。しかし、信仰ではそれ以上の超自然的なことが起こるのです。イエス様はピリポにそのことを知ってほしい、そして、成長してほしいと願われたのでした。その後、イエス様は、5つのパンと2匹の魚を手にとって、祝福されました。すると、パンも魚も増えて行ったのです。ピリポはイエス様がなさった方法を見て、さぞ、びっくりしたことでしょう。パンが増え続けたのですから。そればかりではなく、パン切れの残りが12のかごいっぱいになったのです。
ピリポは哲学者のようなタイプの人です。彼の長所は知的で理性的なところです。ナタナエルのような知的で理性的な人には説得力があったことでしょう。しかし、信仰者として成長するためには、もっと信仰の飛躍、ジャンプが必要でした。神の言葉、キリストの言葉にたいする絶対的な信頼です。キリストへの信頼は神の言葉を通して深くなっていきます。私たちの信仰はどうでしょうか。イエス様に喜ばれる水準まで達しているでしょうか。
ピリポは哲学者タイプの人で、ギリシャ人にも説得力がありました。ギリシャ人はどんなタイプであったかと言うと、パウロはこう言っています。「ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシャ人は知恵を追求します。しかし、私たちは十字架につけられたキリストをのべ伝えるのです。」(Ⅰコリント1:22,23)
ギリシャ人への対応
ヨハネ12:20~22
「さて、祭りのとき礼拝のために上って来た人々の中に、ギリシヤ人が幾人かいた。
12:21 この人たちがガリラヤのベツサイダの人であるピリポのところに来て、「先生。イエスにお目にかかりたいのですが」と言って頼んだ。12:22 ピリポは行ってアンデレに話し、アンデレとピリポとは行って、イエスに話した。」
ピリポという名前は新約聖書の中には4人でてきます。一人目は使徒ピリポ、今話している人物です。それからヘロデ大王の息子たちが2人(ヘロデ・ピリポ、国主ピリポ)、そして使徒の働きに出てくる伝道者のピリポ(使徒6:5、8:5、36、21:8~9)です。このピリポという名前はギリシャ風の名前です。ですから、ギリシャ人が最初に声をかけたのがピリポだったようです。どこか自分たちと似ているところがあったのかもしれません。ピリポは哲学的に物事を考えるので、ギリシャ人の考え方が理解できました。永遠の求道者だったのです。しかし、思慮深い彼は決断力がなく、直感型で行動派のアンデレに相談し、一緒にイエスの所にギリシャ人のことを話に行きました。
最後の晩餐の時
(ヨハネ14:8~9)
「14:8 ピリポはイエスに言った。「主よ。私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。」 14:9 イエスは彼に言われた。「ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください』と言うのですか。」
ピリポは神が現われてくださるのをみたり、栄光の輝き(シャカイナグローリー)を見たりしたかったのだと思います。「神を見たいという願い」はいつの時代の人間でも持っています。しかし、この神を見たいという願いは、最後には偶像礼拝に行きつきます。ですから、注意が必要です。
ここでピリポは「父を見せてください」と言っています。これは「父なる神を見せてください」という意味です。これに対して、イエス様は驚くべき答えを出しておられます。「わたしを見た者は父を見たのです。」イエス様はここで「わたしは神である」と宣言されています。普通の人がこんなことを言ったら、本当に傲慢な言葉で大変です。しかし、これは真理です。イエス様は十字架にかかる前も、かかられた後も同じ神であることは変わりありません。罪をゆるす権威をもっておられる方です。
ピリポは信じる前にいろいろと勉強したり、検査したりして吟味する性格の人でした。しかし、これが信仰の成長を妨害していたのです。このような性質は良い面でもありますが、信仰的には疑うという裏面が出てきて、成長が遅れる原因になります。私たちの中にもこんな一面がないでしょうか。しかし、ピリポは目に見えない神を見せてください、会いたいと言うようになったので、弟子になった時より、成長したと思います。
2.ナタナエル
今度はナタナエルという弟子の召命です。彼はガリラヤのカナの出身です。職業は漁師です。なぜなら、ペテロたちと一緒に漁に出ているからです。(ヨハネ21:2~3)
ナタナエルという名前は「神は与えた」という意味です。共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)では、バルトロマイ(トロマイの息子)という名前で出てきます(マタイ10:3、マルコ3:18、ルカ6:14、使徒1:13)。ナタナエルという名前で彼が出てくるのは福音書では2回だけです。(ヨハネ1:45~49、21:2)
(ヨハネ1:46~51)「ナタナエルは彼に言った。「ナザレから何の良いものが出るだろう。」ピリポは言った。「来て、そして、見なさい。」
1:47 イエスはナタナエルが自分のほうに来るのを見て、彼について言われた。「これこそ、ほんとうのイスラエル人だ。彼のうちには偽りがない。」1:48 ナタナエルはイエスに言った。「どうして私をご存じなのですか。」イエスは言われた。「わたしは、ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見たのです。」1:49 ナタナエルは答えた。「先生。あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」 1:50 イエスは答えて言われた。「あなたがいちじくの木の下にいるのを見た、とわたしが言ったので、あなたは信じるのですか。あなたは、それよりもさらに大きなことを見ることになります。」
1:51 そして言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます。」
ナタナエルはピリポから主イエスを紹介された時、「ナザレからは良い者は出ないのに。」と反応しました。カナはナザレの近くです。ナザレは当時誰にも知られていない名前でした。だから小さな村だったのです。
イエス様はナタナエルをほめておられます。「これこそ、ほんとうのイスラエル人だ。彼のうちには偽りがない。」そして、彼がどこで何をしていたかを言い当てておられます。それを聞いたナタナエルは「先生、あなたは神の御子です。あなたはイスラエルの王です。」と告白しました。彼はイエス様のことをあまりよくわかりませんでしたが、イスラエルのメシアであることを認め、受け入れました。
ナタナエルは復活のイエス様と出会います。
(ヨハネ21:1~2) 「この後、イエスはテベリヤの湖畔で、もう一度ご自分を弟子たちに現された。その現された次第はこうであった。 21:2 シモン・ペテロ、デドモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナのナタナエル、ゼベダイの子たち、ほかにふたりの弟子がいっしょにいた。」
ペテロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネが体験したことをナタナエルも体験しました。復活の主イエスに出会ったのです。そして、イエス様が最初に語られたことを体験するようになりました。復活の主と出会う時、天が開けてくるのです。ナタナエルの上に起こったことが将来のイスラエル人に起こります。ナタナエルはイスラエル人の型なのです。イスラエル人は後の時代、イエスをメシアとして受け入れる民族です。その日が早く来るように祈りましょう。
3.イスラエル人の救い(完成されたユダヤ人)
イスラエルの民は神が特別に選ばれた民です。それはイスラエル人を通して神がおられることを全世界に知らせ、救うためでした。イスラエル人を通して律法が与えられ、神の御一人子も、民族としては彼らからお生まれになったのです。イエス・キリストはユダヤ人です。残念ながら、イエス・キリストが来られた時、イスラエル人は盲目でした。それゆえにイエス様をメシアとして認めることができず、今日なお暗闇の中にいます。しかし、20世紀になり、イスラエル国が先祖たちと同じ土地に回復し、その中にイエスをメシアと信じるイスラエル人が多くなってきました。
彼らは復活の主に出会って、「我らは完成したユダヤ人です。」と証しています。メシア(救い主)であるイエス・キリストに出会った人々は神の国の民ですから完成したイスラエル人になります。20年ぐらい前までは「イエスを救い主」と告白すると、イスラエル人はユダヤ人ではなくなると考えられていたのです。日本人はどんな宗教を信じても日本人なので、この感覚は理解できません。
しかし、こういうふ風に考えてみてください。私たちは日本人ですから、日本流で言うならば完成した日本人になるという表現ができるでしょうか。これは偉くなるという意味ではありません。イエス様が十字架の上で罪をゆるしてくださったので、神の国に入ることのできる特権をキリストにあって、いただいたのです。つまり、神の子供にされ、神のアイデンティティを与えられた人という意味です。私たちは日本人であると同時に天に国籍を持ったものです。このことがいかに祝福されたことであるか、もっと深くかんがえてみましょう。そして感謝しましょう。
この素晴らしい福音を一人占めにしないで、他の人に伝えましょう。特別集会まで後一週間です。祈って備えましょう。重本先生の為にも祈りましょう。