阿南神召キリスト教会 礼拝メッセージ

徳島県の阿南神召キリスト教会の礼拝メッセージです

召しにふさわしく歩みなさい。

2014-02-23 19:27:40 | Weblog

2014.2.23.召しにふさわしく歩みなさい。

聖書 エペソ4:11~16

題  召しにふさわしく歩みなさい。

 

暗唱聖句 エペソ4:11

「こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。」

 

はじめに

1.召しについて

 ①一般の召し

 ②特定の召し

2.特定の召しの召された人々の任務は何か

3.キリストのからだの一部として。

 

はじめに

 「私たちはキリストの大使です。」というメッセージを頂きました。その前には「私たちは祭司です。」と教えていただきました。これらの働きの共通点は、神と人との間に立って、和解の働きをしていることです。天地を造り、人間を作ってくださった神と人間が仲良くなることができるようにする働きです。神と人間を結び付ける働き、わたしたちはこの働きに召されているのです。

 

1.召しについて

私たちの召しには、一般の召しとある特定の召しがあります。「召し」というのは、神から与えられた使命です。

① 般の召し

一般の召しはすべてのクリスチャンの人々に対して与えられている召し、使命です。

Ⅱコリント5:19~20

「すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。

 5:20 こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。」

 

和解のことばというのは十字架のことばです。十字架のメッセージと奉仕はすべての人々に任されています。イエス様の救いの証をすることはクリスチャンすべての人々の奉仕です。この証の働き、十字架のメッセージ、罪の赦しのメッセージをこの世の人々に伝えることは救われている私たちだけができる働きです。そういうわけで、私たちはみな、キリストの大使なのです。私たちはこの世に対して、神の国の代表者です。どこにいてもどんな時でも神の国を代表している者です。この自覚はとても大切です。ですから、私たちの行動はすべてこの和解の働きにつながってくるのです。すべての場所で私たちのうちにおられる神の存在が正しく見られるように、理解されるように存在することです。このように考えてきますと、私たちの毎日の歩みに責任があるということがわかります。神の栄光が現わされるような生活態度が必要ですね。目標はキリストの愛と正義と清さに生きることです。

ローマ14:7~8

「私たちの中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません。14:8 もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。」

 

私たちは救われた時、主イエスと共に十字架の上で死んだものです。生きているのは復活の命ゆえです。主イエスの復活の命が注がれて生かされています。生きるにしても、死ぬにしても、主のために生きているのです。私たちは主のために生きています。なぜなら、私たちは主のものだからです。主の栄光をこの世に示すために生きているのです。

 

 ②特定の召し・・・五役者に対して

エペソ4:11~12「こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。4:12 それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、」

一般の召しはすべてのクリスチャンに対するものです。その中から、主は特定の人を選ばれました。使徒、預言者、伝道者、牧師、教師です。この五つの働きは専門的な働きですが、多くの場合、牧師がすべてをやっているかもしれません。しかし、それは神の御心ではありません。牧師がすべてをやっていると、その教会は枯れて行きます。生き生きしなくなるのです。生き生きと奉仕ができる教会、それが楽しい教会なのです。

この働きに召された人々は、信徒たちを整えて奉仕の働きをさせることなのです。信徒たちがキリストの弟子になることができるように整えることです。

 

 それから、ローマ人への手紙には賜物による召しが書いてあります。

(ローマ12:6~8)

「私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので、もしそれが預言であれば、その信仰に応じて預言しなさい。

 12:7 奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教えなさい。

 12:8 勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は喜んでそれをしなさい。」

クリスチャンにはそれぞれ異なった賜物が与えられています。与えられている賜物は使う時に、その賜物はますます輝いて来ます。これらはキリストのからだである教会に与えられているのです。からだの器官はみんな違います。それと同じように、みんな異なった良い賜物を出し合って、キリストのからだである教会を建て上げるのです。

 

2.特定の召しに召された人々の任務は何か

「使徒、預言者、伝道者、牧師、教師」という働きに召された人々は何をするか、それは信徒たちを整えて、奉仕の働きをさせることです。奉仕の働きというのは何か、それは人々を救いに導き、成長させることです。

(エペソ4:13)

「ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。」

成長することはすばらしいことです。わたしたちは、教えられ、訓練されなければ、成長することができません。

 今、ソチでオリンピックが行われています。彼らは国の代表として戦っています。金メダルを取った選手が言っていました。「私の今までのすべての苦労が報いられた。ことばには言い表すことのできない喜びでいっぱいだ。嬉しい!」と。彼らは、金メダルを目標に、毎日、自己訓練し、また、コーチがついて訓練され、整えられ、あの晴れ舞台にあがって、競技をしています。

パウロはこう言っています。

(Ⅰコリント9:24,25)

「9:24 競技場で走る人たちは、みな走っても、賞を受けるのはただひとりだ、ということを知っているでしょう。ですから、あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい。

 9:25 また闘技をする者は、あらゆることについて自制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。」

私たちのゴールはすべてのクリスチャンが救いの福音を伝える奉仕ができるようになることです。

 

3.キリストのからだの一部として。

使徒パウロは牢獄にいる身でこのエペソ人への手紙を書いています。すごい情熱が伝わってきます。

エペソ4:1~3「さて、主の囚人である私はあなたがたに勧めます。召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい。4:2 謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、4:3 平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。

パウロは強調しています。「教会は一致していることが大切である」と。「愛し合うこと、平和の絆に結ばれて御霊の一致を熱心に求めなさい」と言っています。

(エペソ4:15~16)「むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。

 4:16 キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。」

これはキリストの体である私たちが、キリストの手足のようにしっかりとキリストに結び付いて行くこと、また他の兄弟姉妹たちと心を一つにしていっしょに一致してやっていく、そして、お互いに成長することなのです。

それから、救いの福音を伝えることは口先だけではできません。あなたの家族も、あなたの友達もあなたの生活態度を見ています。ですから、四章の後半は具体的に何に気をつけて生活するかを教えています。読んでみましょう。

(エペソ4:22~32)

 「その教えとは、あなたがたの以前の生活について言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、

 4:23 またあなたがたが心の霊において新しくされ、

 4:24 真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。

 4:25 ですから、あなたがたは偽りを捨て、おのおの隣人に対して真実を語りなさい。私たちはからだの一部分として互いにそれぞれのものだからです。

 4:26 怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。

 4:27 悪魔に機会を与えないようにしなさい。

 4:28 盗みをしている者は、もう盗んではいけません。かえって、困っている人に施しをするため、自分の手をもって正しい仕事をし、ほねおって働きなさい。

 4:29 悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。

 4:30 神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。

 4:31 無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい。

 4:32 お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」

私たちは毎日の生活の中で神に喜ばれる生活をすることができるように、変えられていくことです。ゴールは聖霊の助けによって、イエス様のようになることです。祈りましょう。


私たちはキリストの大使

2014-02-17 21:34:24 | Weblog

2014.2.16.私たちはキリストの大使

聖書 Ⅱコリント5:18~20

題  私たちはキリストの大使

 

暗唱聖句

Ⅱコリント5:19~20抜粋

「和解のことばを私たちにゆだねられたのです。こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。」

 

はじめに

1.大使とは

2.和解

3.キリストの大使

 

はじめに

 2週間前に「使徒の働きでは散らされた所で教会が建って行った、派遣された所で教会が建てられた、私たちもこの世に出て行って、神の国、教会を建てているのです。」というメッセージをしました。アンテオケで初めて主イエスの弟子たちがクリスチャンと呼ばれたことも話しました。この意味はキリストの生き方に似ている、キリストのようだと言うので「クリスチャン」といわれるようになりました。今日も私たちはクリスチャンと呼ばれています。キリストのように生きているでしょうか。神は私たちを選んでキリストの大使にしてくださいました。

 1.大使とは

 新改訳では「キリストの使節」と訳され、口語訳は「キリストの使者」と訳されています。原語に忠実な訳は「キリストに代る大使」です。

 大使は国を代表する外交使節団の最上位の称号(しょうごう)です。大使館で仕事をします。大使館は国の首都にあります。日本だったら東京です。それから、外交使節団には他に領事がいます。領事は首都以外のところに領事官があり、そこで仕事をします。日本だったら大阪に領事館があると考えてよいと思います。大使も領事も同じように国の代表としての権限を持ち、国の外交のために働きます。派遣された国と派遣した国のために働きます。近隣諸国の情報も収集し、本国に伝えます。

  皆さんは杉原(すぎはら)千畝(ちうね)さんを覚えていますか。6000人のユダヤ人に、ロシアを通って、日本を通過するビザを出した領事です。彼は当時リトアニアのカウナス領事館で働いていていました。その時、最後の働きとして、彼の決断で、ユダヤ人に日本を通過するビザを出しました。それは、彼に領事として、ビザを出すことのできる職務権威が与えられていたからです。日本政府の命令に背いてビザを出したのです。その勇気に感動させられました。

 

 このように大使や領事は外交の代表使節としての権限を与えられており、自分の国以外のところに行って、自分の国と遣わされた国の平和のために、あるいは近隣諸国の平和のために働きます。

 私たちにはキリストの使節、キリストの大使としての役割が与えられています。これはキリストの福音を私たちがこの世で伝えることができるように、キリストの権威と共に派遣されているのです。聖書は和解の務めを私たちに与えたと言っています。

 

2.和解

18節~20節

「これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。

 5:19 すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。

 5:20 こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。」

ここに和解という言葉が出てきます。

これは敵対していた者が、ある日、仲良くなることです。たとえば、夫婦げんかして、別居していた者同士が、ある日お互いにあやまって仲直りをしたとします。この場合、夫婦が和解したと言います。

ここに「和解のことばを私たちにゆだねられた」とあります。これは十字架のことばを私たちにゆだねてくださったということです。わかりやすく言いますと、「イエス様が私たちの罪のために、罪を赦すために、私たちの罪を背負って十字架についてくださった事、そして、死んで、3日目によみがえってくださったこと、主イエスを信じる者には永遠の命を与えてくださること。」です。

 私たち人間が創造された当初は、神に愛され、神を敬い、神と共に生活していました。しかし、エデンの園で蛇のかたちを装ったサタンにだまされて、善悪の木の実を食べてしまいました。その時から、神に背を向けてしまいました。神から離れた人間は悪ことを考えるようになりました。人間の考えること、それは罪深いことを考えるようになってしまいました。

 聖書は言っています。「義人はいない。一人もいない。悟りのある人はいない。神を求めるものはいない。すべての人は迷い出て、ことごとく無益なものになっている。善をおこなう者はいない。ひとりもいない。」(ローマ3:10~12)

 しかし、愛である神はひとり息子を遣わして、この罪深い人間を救うために主イエスを十字架につけてくださったのです。

(ローマ5:7~8)

「正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。 5:8 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」

イエス様は私たちがまだ罪人であった時、既に十字架の上で死んでくださったのです。ですから、主イエスを信じるなら、即座に罪をゆるされるのです。そして、その恵みの結果、天国に導かれるのです。また、私たちは世の終わりの時に行われる最後の審判の時に、無罪となって、無条件で神の国に入れてもらえるのです。

  これが神との和解の福音です。この福音を私たちにゆだねてくださったのです。そして、「あなたたちはキリストの大使です。」と呼ばれる身分にしてくださいました。すべてのクリスチャンがキリストの大使として、このキリストの和解のメッセージ、自分の救いの証、数々の神のみ業を伝える働きに召されているのです。私は「違います。」という人はいません。みんな、神の国の代表として、この世の世界に対してキリストの恵みを証する者なのです。

 3.キリストの大使

私たちはキリストの大使です。神の国の代表です。どのようにしたら、大使としての役割を果たすことができるでしょうか。

それはキリストの生き方をまねることです。いつまでも、救われたばかりの赤ちゃんのクリスチャンであってはなりません。大人のクリスチャンになることです。自己中心の生き方から、主イエス中心の生き方に変わらなければなりません。どのようにして変わるのでしょうか。

 キリストのアイデンティティを身につけることです。キリストの人格を意識して考えることです。黙想することです。そして実行するのです。

聖霊に助けていただきましょう。聖霊の助けなしにはキリストの大使になることはできません。よく祈りましょう。

 次のことを考えましょう。

①         あなたはどんな人?・・・私たちは天と地をつくられ、すべてのものを支配しておられるキリストの内に住んでいるものです。確信と安心の中を歩むことができます。キリストの内にいるならば、神の御心を邪魔するものはなにもありません。あなたや私はキリストの内側にいて守られているのです。

②         キリストは私やあなたのうちに住んでおられます。あなたや私は「キリストの命、キリストの臨在、キリストの権威」をこの地で運んでいるのです。あなたが行く所、どこにでもキリストの命が現わされるのです。慰めや励ましがあなたを通して起こるのです。よみがえりの命を見ることができます。

 ③         主イエスが「神のみ心が天でなるごとく、この地になるように」と祈られたように、私たちも、この地で祈りに献身するキリストの大使です。私たちは、祈りの戦士であり、勝利者です。祈りの油注ぎを与えられています。

 ④         祈る時、私たちに神が語られることを知ることができるように祈りましょう。神の言われていることと一致して祈る時、ご自身のいつくしみと偉大さ、威厳を現わしてくださいます。そのことを知って、神がわたしたちを愛していてくださることを確信することができます。

  ここで、再び、杉原千畝さんのことを話します。杉原さんが働いていたリトアニアにはたくさんのユダヤ人がいました。ヨーロッパではドイツのユダヤ人絶滅運動のためにどの国でもユダヤ人は生きていくことができなくなっていました。ドイツの指導のもと、どの国にもユダヤ人迫害の手が伸びていました。そういう中で、杉原さんは何が正しいことなのか、神の国の価値観で判断したのです。当時のヨーロッパはユダヤ人であれば、虫けらのように殺しても良いというような価値観でした。しかし、神の国の価値観は「人間の命は尊い、殺してはならない。」です。杉原さんは神の国の代表、キリストの大使として、ユダヤ人を助ける決断をし、行動したのです。それはたとい、日本政府の命令に背いても、神の前に義とされる行動をしたのです。彼はキリストの大使として、ユダヤ人迫害ではなく、ユダヤ人を助けるという、勇気ある行動を選択したのでした。

  救われたクリスチャンはすべてキリストの大使としての使命があります。キリストの大使として、和解のことばとして、十字架の救いをのべ伝える宣教の奉仕があります。あなたも私もキリストの大使です。大使として献身するなら、その人に大使としての油注ぎをくださいます。祈りましょう。


神のわざが現わされるために

2014-02-11 21:25:07 | Weblog

2014.2.9.「神の業が現わされるために。」

聖書 ヨハネ9:1~12

題  神の業が現わされるために。

 暗唱聖句 (ヨハネ9:3)イエス様は答えられました。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神の業がこの人に現われるためです。」

はじめに

 今日はわたしたちの中に湧きあがる素朴な質問について、イエス様はどのような答えを持っておられるか、聖書の中から学んでみましょう。

自分が思いがけない不幸な状況に陥った時、私たちは「どうしてこんなことになったのだろうか。なぜ?なぜ?」と問いかけます。この問いかけは、だれでも持つものです。ある人は自分を責めたりします。ある人は親を責めたりします。ある人は友人や、他の人のせいにするかもしれません。困難の度合いによって、苦しみの深さも違います。痛みの度合いや苦しみの度合いも違います。それらの苦しみや痛みを背負って、人生を生きて行かなければならない人たちは辛いですね。このような悩みに対して、イエス様はなんとお答になったでしょうか。

 

ストーリー

 ある日のこと、イエス様はエルサレムの下の町を弟子たちと共に歩いておられました。すると、生まれつき目の見えない盲人が物乞いをしていました。イエス様はその盲人を見つめられました。弟子たちも彼を見つめました。そして質問をしたのです。「先生、この人が盲人に生れついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」イエス様は答えられました。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神の業がこの人に現われるためです。」

イエス様はこう言ってから、地面に唾を吐いて、そのつばきで泥をこねて、盲人の目に塗って言われました。「シロアムの池に行って、そこで目を洗いなさい。」そこで、この盲人はシロアムの池に行って、目を洗いました。すると、見えるようになったのです。彼は見えるようになって、帰って行きました。

彼は生れてはじめて、外の世界を見たのです。どんな気もちだったでしょう。

ここで、心にとめたいことはイエス様の答えとその業です。

イエス様は「この災いや不幸は、だれのせいでもない。神の奇跡が現われるためです。」と宣言しておられることです。「神の栄光が現わされるために目が見えなかったのですよ。」と言って、目を開いてくださったのです。奇跡を起こしてくださいました。 

 

1.どんな人たちがいるか

この盲人を取り囲む人たちの中にはどんな人たちがいるでしょうか。

第一番目にはイエスの弟子たちでした。彼らは当時の常識的な考えをしていました。当時、病気や障害は罪の結果、起こると考えられていました。今でもそう考える人がいるでしょう?また、こんなに科学が進歩した世の中であっても、先祖のたたりだと考える人もいます。弟子たちは、この盲人の両親が罪を犯したかもしれないと考えました。または本人かもしれないと考えました。でも、生まれつきですから、おなかの中で罪を犯すでしょうか。お腹の中では、まだ悪いことはできませんね。

 

第2番目の人たちは近所の人たちです。彼らは驚きました。生まれつきの盲人が見えるようになりました。「どうやって、見えるようになったのか?」としつっこく聞きます。イエスという人が泥を目に塗ってくれたこと、そしてシロアムの池に行って洗いなさいといわれて、その言葉通りにしたことを証しました。

人々は驚きと同時に「だれが、そうしたのか。だれが癒してくれたのか。」知りたいと思い、追及しました。彼は、「イエスという方がそう言ったので、そうした」と言いました。「じゃ彼はどこにいる?」と聞かれて「わかりません」と答えました。近所の人たちは自分で判断することはできないので目が見えるようになった盲人をパリサイ人のところに連れていきました。

 

3番目の人たちはパリサイ人です。パリサイ人たちは律法を守る人たちです。安息日には何もしてはいけませんでした。病をいやすことは安息日の違反だと考えました。イエス様が盲人の目を癒されたのは安息日だったのです。

このパリサイ人たちの間で問題が起こりました。主イエスのことを、安息日を守らないので「イエスはメシヤ、救い主ではない。罪びとだ。」という人たちがいました。もう一方の人は「生まれつき盲人を癒す人は、神さまからの預言者か、メシヤだ」と考える人たちでした。分裂が起こりました。この人たちは聖書をよく知っていると自分で思っている人たちです。自分たちは霊的な人だと思っていました。

 

4番目に盲人の両親です。この人たちは息子の奇跡を見て、イエス様が救い主、キリストであること、メシアであることがわかりました。しかし、権威を恐れる人たちなので、本人に聞いてくれと言います。責任を取りたくありませんでした。それはパリサイ人たちがイエスをキリストであると告白する者は会堂の檀家から破門する、追放すると決めていたからです。

 

ここに出てくる人たちをもう一度整理します。第一番目の人は常識的な人、第2番目はどうしてよいかわからない人たち、その他大勢の意見に従う人たち、3番目は知的階級であり、霊的指導者たちと自負している人たち、4番目は権威を恐れる人です。

私たちはこの中のどれに入るでしょうか。 あなたはどのタイプですか。

 

2.癒された盲人はどんな人か

 生まれつき盲人はどんな人だったのでしょうか。信仰的な人だったのでしょうか。信仰的かどうかはこの話の中からはわかりません。目が見えるようになりたいと願っていたことは確かのようです。なぜなら、イエスに泥を塗ってもらって、「シロアムの池に行って、そこで目を洗いなさい。」と言われた時、それに素直に従っているからです。イエスの言われた通りにしたら、癒されて目が見えるようになりました。彼は正直な人です。「盲目であった私はあの方に泥を塗ってもらって、シロアムの池に行って、洗ったら見えるようになった。」と証しています。そして、パリサイ人に「彼は罪びとだ。安息日を守らない。」と言われた時も反論しています。「神は罪人の祈りは聞かれない。しかし、神の御心を行うなら、その人の言うことは聞いてくださる。生まれつきの盲人をいやすなど、昔から聞いたことはありません。あのお方はきっと神から出ておられるのです。そうでなかったら、こんな奇跡は行われません。」と答えています。彼はついにパリサイ人から破門されました。追放されたのです。追放されたということは彼の答えは「イエスはメシヤである。キリスト、救い主である。」と認めるような証言だったからです。しかし、ここではまだ主イエスと霊的な出会いはしていません。まだ、彼は目がいやされただけです。肉体的な癒しを受けただけです。

 

3.イエス様はどんな方か、

イエス様はこの癒された盲人が会堂から追放されたと聞いて、彼を見つけ出されました。そして、「あなたは人の子を信じますか。」とたずねられました。「人の子」というのはキリスト、救い主のことです。彼は「主よ。そのお方はどなたでしょうか。わたしがその方を信じることができますように。」と話したら、イエス様が「それはわたしです。あなたはそのお方を見たのです。あなたと話しているわたしがそうなのです。」と言われました。彼は「主よ。信じます。」と言って、主イエスを礼拝しました。この時、この生まれつきの盲人は救われたのです。彼はイエス様のことを救い主だと理解して、受け入れ、信じました。彼は肉体の目の癒しの後、霊の目が開かれ、魂が救われたのです。彼は肉体の癒しだけでなく、全人格的な救いを経験しました。

主イエスは救い主です。肉体の癒しだけでなく、全人格的な魂を救うお方です。肉体の癒しは一部的な癒しですが、魂の救いは全人格的な癒しです。肉体の癒しではなく、魂の救いを求めましょう。

 

イエス様は言われました。「わたしは裁きのためにこの世に来ました。それは、目の見えない者が見えるようになり、見えるものが盲目となるためです。」

この意味は、目の見えない者は謙遜です。そして、目が開かれた時、天国まで見えるようになります(少しオーバーな言い方ですが)。天が見えたら、霊的な救いがわかります。しかし、目が見え、自分が何でも知っている、霊的な人だと思っていたら、他の人たちの助言や話は聞くことができません。傲慢な人たちの目や耳を開くことは難しいのです。

今日、私たちは神さまの前に謙遜になって、霊の目を開いて頂きましょう。また、霊の耳を開いて頂きましょう。天国が見えるように、また、イエス様の声が聞こえるように、霊の耳を開いて頂きましょう。イエス様は憐れみ深いお方です。この生まれつき盲目の人を見つめて言われました。

「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神の業がこの人に現われるためです。」(ヨハネ9:3)。苦難に見舞われた時、この苦難を通して、神の業が現わされると、堅く信じましょう。主は憐れみ深いお方です。イエス様はこの盲人を探し出して、魂の救いまで導かれました。主は本当に良い羊飼いです。良い羊飼いは羊のために命を捨てます。イエス様は私たちを救うために十字架にかかってくださいました。そして、永遠に命を与えてくださいました。復活の命を与えてくださったのです。私たちも求道者を導く時、病の癒しだけで終わらず、魂の救いが起こるまで責任を持って、求道者のために祈り、忍耐をもって導きましょう。

 

また、信仰の人であったアブラハムは子供が生まれない時、なおも望みを抱いて信じました。(ローマ4:17~19)「わたしは、あなたを立てて多くの国民の父とした」と書いてあるとおりである。彼はこの神、すなわち、死人を生かし、無から有を呼び出される神を信じたのである。4:18 彼は望み得ないのに、なおも望みつつ信じた。そのために、「あなたの子孫はこうなるであろう」と言われているとおり、多くの国民の父となったのである。4:19 すなわち、およそ百歳となって、彼自身のからだが死んだ状態であり、また、サラの胎が不妊であるのを認めながらも、なお彼の信仰は弱らなかった。(口語訳)」そしてついに、男の子であるイサクを授かったのでした。

 

4.証(ユーチューブに証があります。)

2013年、韓国のピョンチャンで開かれた冬季スペシャルオリンピックの開幕式。壇上には22歳の青年が立ち、力あるきれいな声で韓国の国家を歌いました。多くの観衆は、彼に熱い声援を送りました。 彼は、パク・モーセというクリスチャンの青年です。彼は母の胎にいる時、生存率がほぼ0%だと診断されました。彼の頭の後ろには骨がなく、脳が頭の外に流れ出ていたのです。しかし、彼の母は「この子を通して、神様に栄光をささげることができますように」と、神様から授かったいのちをあきらめませんでした。生存率0%と言われた彼ですが、奇跡的に生き続けました。しかし、大脳の90%、小脳70%を切断するなど、6回の大手術を受けなければなりませんでした。 さらに、医師はたとえ手術が成功したとしても見ることも、話すことも、立つこともできないだろうと言いました。

しかし、再び神様の奇跡が臨みました。彼は、「ママ」という言葉も言えなかったのに、5歳になると、何と「主の祈り」を暗記するようになり、少しづつ話せるようになったのです。7歳で歌を歌うようになりました。親は、昼も夜も音楽を聞かせてあげました。その時から、歌はモーセさんの生活のすべてになり、障害者合唱団でも活躍するようになったのです。

彼は現在、テレビや教会の集会などに出演し、歌を通して、生きておられる神様と自分が体験した奇跡を証ししています。

http://youtu.be/mW3FS5a2kBF

母親の信仰のごとく、神の栄光が彼を通して現わされています。ハレルヤ!

 


散らされた所で教会を建てる。

2014-02-03 22:16:55 | Weblog

2014.2.2.散らされた所で教会を建てる。

聖書 使徒11:19~26

題  散らされた所で教会を建てる。

暗唱聖句

使徒11:26

「 彼(サウロ)に会って、アンテオケに連れて来た。そして、まる一年の間、彼ら(バルナバとサウロ)は教会に集まり、大ぜいの人たちを教えた。弟子たちは、アンテオケで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった。」

 

はじめに

先週のメッセージを覚えていますか。ギデオンが「勇士よ」と呼ばれて、その時から、だんだん変って行きました。弱虫だったギデオンが主の使いと話し合って訓練されているうちに、だんだん勇士の心と知恵や力を蓄えてくるのでした。そして最後に本当に勇士として用いられ、ミデアン人との戦いで勝利しました。

私たちはイエス・キリストにあって、勇士なのです。イエス・キリストなしでは、何もできません。イエス・キリストを見上げましょう。

Ⅱテモテ2:8「 私の福音に言うとおり、ダビデの子孫として生まれ、死者の中からよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。」

 

1.使徒時代の教会・・・皆心を一つにして愛し合っていた。

 現代の社会生活の中で、福音を伝えることは困難でしょうか。日本の社会では、信仰の自由があり、何を語っても、何を信じても自由です。本当に幸いな時代です。

しかし、この幸いな時代にあって、福音宣教がとても困難な状況になっているような気がします。それは、学校や職場の文化が教会とあまり違いすぎるために、クリスチャンが人を恐れて、隠れクリスチャンになってしまっているからかもしれません。

私は、今年になって、み言葉から「人を恐れないように。人を恐れてはならない。」と教えられ、心の中にこの言葉が響いてきています。それで、勇気を出して、前進しています。

福音を伝えるには人を恐れてはならないのです。み言葉は言っています。「人に従うより、神に従うべきです。」(使徒の働き5:29)

使徒の時代のクリスチャンたちは信仰のゆえに迫害されました。しかし、彼らはとても愛し合っていました。心を一つにして愛し合っていたのです。それが大きな証になりました。

 

使徒時代のクリスチャンの姿です。(使徒2:42~47)

「そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。

 2:43 そして、一同の心に恐れが生じ、使徒たちによって多くの不思議としるしが行われた。

 2:44 信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有にしていた。

 2:45 そして、資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じて、みなに分配していた。

 2:46 そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、2:47 神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。」

この姿はエルサレムのクリスチャンの姿です。神を愛し、隣人を愛していました。まず、「使徒たちの教えを堅く守っていた」のです。つまり、聖書の教えを実行していたのです。交わりをし、良くお祈りをしていました。「イエス・キリストを信じた人たちはいっしょに生活をしており、一切のものを共有していた」とありますから、富める人たちは貧しい人を受け入れ、開いている部屋に泊めてくれたのでしょう。貧しい者も、富める者も持物を分け合って、生活をしていました。毎日、神殿に行って礼拝し、それだけでなく、各家々で集まって、食事をし、聖さんの恵みにもあずかっていたようです。このような人々に聖霊は豊かに働いておられました。集まっていた人々は喜びでいっぱいでした。何よりも神を賛美していました。クリスチャンでない人にも、良く思われていました。彼らを見て、救われる人たちが起こったのです。このエルサレム教会は恵まれ、燃えていました。なぜなら、お互いに、愛し合い、仕え合い、与えあっていたからです。この教会がステパノの殉教の後、すぐにひどい迫害に遭いました。そうして人々は方々へ逃げて行きました。しかし、この人たちは、逃げながら、福音を伝えたのです。神に散らされて行ったと言った方が良いでしょう。小アジアと呼ばれていた北の方へ散らされてきました。現在のレバノンを北上して、トルコの方へ進んで行きました。そしてアンテオケまで進んで行きました。アンテオケまでは福音はユダヤ人だけに伝えました。しかし、アンテオケに来てから、ギリシャ人にも、イエス様のことを伝えたのです。

そうすると、彼らはイエス・キリストを救い主と信じたのです。大勢の人々が主イエスを信じました。このことがエルサレムに聞こえたので、エルサレムから、バルナバという指導者をアンテオケに派遣しました。異邦人に正しく福音を伝えたいというエルサレムの指導者たちの配慮でした。バルナバはアンテオケの信者たちの救いの恵みを見た時、心の中が喜びでいっぱいになりました。バルナバは立派な人で、信仰と聖霊に満ちた人でした。大勢の人々が主に導かれたのです。バルナバは将来のためにあることを考えました。サウロを捜して来て、弟子訓練をしたのです。バルナバはサウロの将来性を見抜いていました。朝も昼も夜もいっしょに生活して、彼を訓練したのです。おかげでサウロは後にパウロというすばらしい使徒になります。しかし、ここではまだバルナバの弟子です。丸一年、バルナバはサウロとともに福音を伝え、教会に集まり、大勢の人に教えました。大勢の弟子たちは成長して行きました。そして、このアンテオケで初めて、弟子たちは「クリスチャン」と呼ばれるようになりました。意味は「イエス・キリストのような人たち」という意味です。神を愛し、人を愛し、人に仕える姿はまさにキリストのような姿だったのでしょう。彼らは「クリスチャン」と呼ばれました。今日、私たちがクリスチャンと呼ばれる、その基となったのです。

その後も福音はどんどん増え広がり、ギリシャからローマへ、そしてヨーロッパへと拡大して行きました。その間、クリスチャンたちの多くは迫害に遭い、殉教の血を流しました。それでも、彼らは喜んで信仰告白をし、天に望みを抱いて召されて行きました。

その結果、ローマの国がキリスト教を公認の宗教として認めました。313年のことです。クリスチャンたちは250年余りの間、迫害の中で、耐え忍びつつ、信仰を守ってきました。熱い信仰の戦いでした。

 

2.4世紀以降の教会・・・礼拝が冷え、人々の心も冷えて行った。モラルも低下。

313年、コンスタンティヌス帝がキリスト教を認めました。323年、この皇帝は教会堂を建設することを積極的に進めました。その結果、教会堂がたくさんできて、クリスチャンたちはこの教会堂だけに集まるようになってきました。ここで問題が出てきました。人間関係が壊れてきました。以前は家に集まり、いっしょに交わりをなし、食事をし、祈りあい、親しくしていたのですが、それが失われて行きました。2つ目の問題は「聖なる国民」から「聖なる建築物」へ心の目が奪われていたのです。

教会はイエス・キリストを信じたクリスチャンです。ところが、だんだん、豪華な建築物などの外見的なものに心が奪われるようになってきてしまったのです。だんだん中身がなくなってくるのです。

それから80年ぐらい過ぎて、400年(380年~391年と文献に差がある)頃になると、キリスト教がローマの国の宗教になりました。テオドシウス帝がキリスト教をローマの国教とし、ローマの市民権を持つには、誰でもクリスチャンにならなければなりませんでした。

信仰を強制されたのです。その結果、何が起こったのでしょうか。

信仰のないクリスチャンが増えたのです。イエス・キリストを信じて、生まれ変わりをするクリスチャンが減って行きました。新生体験のないクリスチャンが起こってきました。

新生体験のないクリスチャンの問題は何でしょうか。それはキリストの命を持たないクリスチャンなので、礼拝が冷たくなります。また、偶像礼拝が教会の中に入ってきました。教会は儀式が多くなり、形式的になってきました。その上、聖書も、一般のクリスチャンには手に入らないものになり一般の人たちが、聖書を読むことができなくなりました。

教会はだんだん聖書の教えから遠くなっただけでなく、道徳的にも低下してきました。その結果、教会は神の本来の目的からは外れてしまい、世界に対する影響力を失ってしまいました。また、そのような中で、ユダ人迫害が起こってきたのです。ユダヤ人迫害はだんだんひどくなって行きました。

私たちはこのような歴史的な伝統の影響を受けながら、現在の信仰を保っているわけです。ですから、眠ったクリスチャンであったり、命のないクリスチャンであったりするわけです。説教も聴くだけのクリスチャンになってしまっているわけです。しかし、このことを知ったら、私たちは本来の神の目的を果たすクリスチャンとして目をさまさなければなりません。命のないクリスチャンであってはいけないのです。もったいないではありませんか。私たちは、イエス様の十字架の血潮によって救われて、神の作品としてすばらしい計画に召されているのです。それを忘れたら、喜びのないクリスチャンになってしまいます。

2.私たちが目指す教会像・・・・もう一度、愛し合う、仕え合う教会へ。

 私たちはもう一度、使徒の働きで活躍しているクリスチャンをみならって、聖書の基本に帰ろうではありませんか。使徒の時代のクリスチャンたちは、宮に集まり、礼拝をし、家々であつまり、交わりをなし、互いに祈りあい、助けあい、いっしょに食事をしていた。また、教えられたキリストの教えを堅く守っていたというのです。アンテオケでは弟子訓練もなされていました。そういう中で、弟子たちがキリストのようだ、キリストに似ている人たちだと言うので、「クリスチャン」と呼ばれるようになったのです。

私たちはキリストの生き方に似ているでしょうか。キリストのようでしょうか。ある教会の標語は「キリストのようになる。」です。

 私たちが教会堂に集まっていっしょに礼拝するのは何のためでしょうか。私たち、一人一人が教会です。普段は家庭や職場や学校で働いています。クリスチャンのいない所で生活をしています。信仰の戦いがあります。大変です。弱り果てることもあります。しかし、教会に集まり、礼拝をすると、神の恵みを受け、また、兄弟姉妹たちとまじわり、励まされ、新しい力を受けるのです。現代はインターネットで礼拝することもできます。しかし、交わりがなければ、深い孤独は癒されないのです。教会で、孤独が癒され、交わりによって励まされ、新しい力を受けて、戦いの場である、社会に出て行くのです。そこで、福音を伝えるのです。そこを神の国にする使命があるのです。あなたたち一人一人が教会です。あなたたちがいるところが教会です。神の国なのです。そこで神の良い香りを解き放つのです。社会で神の国をつくる仕事、これがクリスチャンの本来の目的です。み国を来たらせる仕事の一部をあなたは担っているのです。

 4.あかし・・・カナダに住んでいる日本人の証

カナダのある町の病院に日本人の婦人の方が働いておられます。この方は病院で掃除をする仕事をしておられます。喜んで仕事をしておられます。土曜、日曜日を休みとする仕事を捜したら、この仕事しかなかったそうです。しかし、彼女はこの仕事は神さまが与えてくださった仕事として喜んでいます。独りで仕事をしているので、自由に掃除ができるそうです。病室が空であれば、音楽も聞けるし、賛美を歌うことできるし、祈ることもできるそうです。ある同僚の人が悩んでいたので、話を聞いて、聖書の話をしていたら、その人が救われたそうです。すばらしいですね。神の国が一人から二人に拡がってきました。この人は神の国をこの病院の中で建てているのです。教会を建て上げているのです。ある日、気がつきました。「わたしはイエス様と同じ仕事をしている。私は、病院の汚い部屋の掃除をしているけれども、イエス様は私たちの汚い心の掃除をしてくださった。同じような仕事をしている」と思ったら嬉しさでいっぱいになったそうです。この人は喜びいっぱいで仕事をしています。これが社会の中で、クリスチャンとして生きることです。教会として光を放つことです。この病院では毎年、良い仕事をしている人が一人だけ選ばれて「賞」をもらうそうです。いつもはお医者さんや看護婦さんや、事務の人がもらっていたそうです。ところが、去年、この掃除をしている人がその年の良い仕事をしている人として選ばれたそうです。すばらしい証ですね。「主を喜ぶことはあなた方の力です。」