阿南神召キリスト教会 礼拝メッセージ

徳島県の阿南神召キリスト教会の礼拝メッセージです

主の再臨に備える

2009-04-25 22:46:13 | Weblog
2009.4.26.主の再臨に備える
聖書 マタイ24:45~25:13
題  主の再臨に備える

はじめに
1. 賢い忠実なしもべと不忠実なしもべ
2. 花婿を迎える10人の娘
3. 主の再臨に備える。

はじめに

最近、民生委員の方からヘルメットをいただきました。これは阿南に南海地震が起こった時に使って下さいということでした。今、地震や災害のためにいろいろな方法で防災の準備が進められています。このヘルメットは防災のためのNPO法人が設立されて、そこから配られたものだそうです。私はこのヘルメットをいただいてから、やっと地震が本当に来るかもしれないという気持ちになりました。それまでは、あんまり、地震や津波などのことは考えませんでした。このヘルメットは私に地震の警告を与えてくれました。ヘルメットを見ると、防災の準備をしなければと思うのです。もしだれも地震の情報を与えてくれなかったら、まだ、何も考えていないかもしれません。でも、地震の情報を与えてくださったおかげで、地震が来たらこうしようと準備をすることができます。同じように聖書は私たちに主の再臨の準備について警告しています。警告をしていないなら、私たちはのんびりと自分のやりたいことを中心に生活しているかもしれません。しかし、聖書は主イエス・キリストは必ず、再び来られると約束をしておられます。主は十字架の上で死んで、3日目によみがえられました。そして500人以上の人々に自分の姿を現わされました。40日後、天に上られました。しかし、主は、再び帰って来られるのです。このことを主の再臨と言います。今日はマタイ24章の最後の話と15章の最初のたとえについて学びます。この二つの話は関係ないように見えますが、実は同じことを教えているのです。その教えとは「主の再臨が起こった時に主に忠実に生きているクリスチャンは幸いであり、主の祝福を受けます。しかし、そうでない場合は裁きを受けます。」というものです。

1. 賢い忠実なしもべと悪いしもべ

この物語は主の再臨について書いてあります。
マタイ24:45~47節は忠実なしもべについて書いてあります。このしもべはご主人から家のしもべたちの食事の世話をするように頼まれました。ご主人は旅に出て家にいません。いつ帰ってくるかわかりません。しかし、帰ってきたとき、言われたとおりに食事をきちんと与え、彼らの健康管理ができていたら、主が喜んでくださるのです。それだけでなく、「このしもべは忠実だ、今度は私の全財産をまかせよう」といって下さるのです。ところが48~51節のしもべは悪いしもべです。自分に与えられた仕事に忠実ではありません。主人は家にはいない、誰も見ていない、さあ、好き勝手なことをしようといって仲間を打ちたたき、いじめました。また与えられた仕事を怠けて、悪い仲間と酒を飲んだり、食べたりしています。そんな時、突然そのしもべの主人が帰ってきました。そのしもべにとっては思いがけない日の思わぬ時間でした。悪いことをしている最中でした。主人は怒って、この悪いしもべを厳しく罰して、暗闇に放り出されるというのです。そこでは泣いて歯ぎしりするというのです。このご主人というのは再臨のキリストのことです。暗闇というのは神の光の届かないところであり、神の恵みのないところです。このようなところには入りたくありませんね。そうだとするなら、今のうちに主の再臨に備えなければなりません。どのように備えたら良いのでしょうか。

2. 花婿を迎える10人の娘

もう一つのたとえを読んでみましょう。ユダヤの結婚式です。ユダヤの結婚式は夜行われることが多くありました。ヤコブがラケルと思って結婚して、翌朝見たら、レアだったということもありましたね。普通、花嫁は花婿が迎えに来るのを家で待っていました。花婿がやって来たら、彼は花嫁を連れて、自分が準備した結婚式を行う家に連れて行き、祝宴をしました。その時、花嫁には付き添いの娘たちがいて、夜道をランプのともしびで照らしてあげることになっていました。花婿は花嫁の家に着くのが良く遅れたそうです。誰かの家で結婚式があるというとそれは村中の祝いの時でした。ですから、ランプの油を売るお店も、夜遅くまで開いていたようです。普通に使うランプはとても小さくて、たくさん油を入れておくことはできませんでした。ランプの油がなくなったら、準備していた油壷から、ランプに油を入れて、火をともし続けました。
このような状況がわかると、この10人の娘たちの話もわかると思います。
花婿を出迎える10人の娘たちがいました。それぞれにともしびを持って、花婿を待っていました。この10人のうち、5人は賢い娘でした。明かりをつけたランプと共に、ともしび油を別の入れ物にいれて準備をしていました。それは花婿が遅れてきても、その油を使えば大丈夫だからです。愚かな娘たちは今、明かりをつけているランプの油はもっていましたが、余分の油は持っていませんでした。
10人の娘たちは花婿が来るのを待っていましたが、なかなか来ません。そのうちに眠り始めました。ところが、真夜中になって花婿が到着しました。「花婿がお着きになりましたよ。迎に出なさい。」という叫び声がしました。娘たちはびっくりして、目を覚まし、ランプの明かりを見ました。もうすぐ、消えそうです。これでは、花婿の家まで、道を照らしていくことはできません。賢い娘たちは入れ物から油を注いで、ランプを整えました。愚かな娘たちは賢い娘たちにと言いました。「油を少し分けて下さい。私たちのともしびはもうすぐ消えそうです。」しかし、賢い娘たちは言いました。「いいえ、あなたがたに分けてあげることはできません。分けてあげると、足りなくなります。それよりも、お店に行って、自分の分を買いなさい。」そこで、足りそうにないと思った5人の娘は油を買いに行きました。その間に花婿がやってきました。用意のできていた5人の娘たちは、花婿と一緒に花嫁を連れて、結婚式の祝宴に行きました。そして、彼らが到着すると、祝宴のある家の戸は閉じられてしまいました。
そのあとで、他の娘たちがやって来て言いました。「ご主人さま、ご主人さま。開けて下さい。」しかし、ご主人は言いました。「わたしはあなたがたを知りません。」この愚かな娘たちは結婚式場には入れてもらえませんでした。
イエス様は言われました。「だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです。」

3.主の再臨に備える。

この二つの物語の共通点は、彼らのご主人が到着した時、準備ができている者とできていない者がいたことです。これは世の終わりに突然来られる主の再臨を表しています。「結婚」は神と人が結ばれる救いのイメージとしてよく使われます。教会は花嫁です。花婿であるイエス様が迎えに来られます。その時が救いの完成です。この2番目の話では花婿の来るのが遅れてしまいました。そして、いつ到着されるのか分からなかったのです。「その間をどのように過ごしたらよいのでしょうか。」というのがこの物語の問いかけです。
終わりの日がやってくるというのは、はっきりしています。その時は非常に困難な時代であると言われています。この終わりの時代の困難な時代に主イエスが再び来られる。そして、主の花嫁であるクリスチャンを天国に迎え入れて下さるというすばらしい希望のメッセージがあります。しかし、反面、天国にはいることのできない人たちがいることも事実です。それは福音を聞きながらイエス・キリストの救いを自分で拒否した人々です。ですから、自分で決断したことの結果を刈り取ることになります。
 ここでは、花婿の来るのが遅れてしまいました。その間に、どのようにして娘たちは待ったのでしょうか。賢い娘は花婿が遅れてこられた場合でもあわてないように、油を別の入れ物に余分に準備をしました。大体その当時、花婿は遅れてくるのが多かったようです。そのことも、頭に入れていたと思います。愚かな娘たちは何もしないまま、時間が過ぎてしまったのです。気がついた時は遅かったのです。
愚かな娘たちは賢い娘たちに「油を分けて下さい」とお願いしました。ところが賢い娘たちは油を分けてあげることができませんでした。意地悪に見えるかもしれません。しかし、この油は人から分けてもらえるようなものではありませんでした。一人一人が自分で準備しなければならないものだったのです。
それでは、この油はいったい何だったのでしょうか。

(1) この油は「聖霊の火である。」という人もあります。私も昔、「聖霊の油を絶やしてはならない。目を覚まして祈っていなさい。」というメッセージを聞いたことがあります。

(2) これは人から分けてもらえない物。その人のタラントかもしれません。
人にはそれぞれ得意なものがあります。それはほかの人にはない良いところです。神様はその得意なものを用いて奉仕をするように召しておられます。他の人にはできないことです。どんなに小さな奉仕でも、忠実にするならば神様は喜んでくださいます。最初のしもべに与えられた使命は、食事をほかのしもべたちに与えることでした。家族に食事を作ることでした。小さなことです。でも、これに対して忠実であったかどうかによって、報いを受けました。また、
10人の娘たちはランプの油を絶やさないようにして、ともしびをともし続けることでした。これも小さな奉仕です。しかし、忠実に行う5人とそうでない5人に分かれました。

(3)油は「愛の行い」

主イエスはマタイ25:40で「あなたがたはわたしを世話してくれました。」「あなたがたがこれらのわたしの兄弟たちの最も小さい者の一人にしたのは,すなわち、わたしにしたのです。」と言っておられます。
これは貧しいものや、空腹のもの、旅人、牢にいる人々をお世話してあげたかどうかということです。「愛を持ってお世話しましたか。」ということです。

 (4)結論(その人の生き方)

結論としては、今、取り上げた3つのものを含めた、その人の生き方ととらえてよいでしょう。人に分け与えることのできないもの、自分で準備しなければならないもの、そして、イエス様をお迎えできるものです。それは主イエスを愛し、人を愛する生き方そのものではないでしょうか。そうするには祈りを絶やさないことも大切です。聖霊の油注ぎも大切です。忠実に奉仕することも大切です。困った人々に愛の手を伸ばすことも大切です。どのような生き方を選んでいくかは一人一人の自由です。アダムとエバも善悪の木の実を食べるか食べないかは、彼らの決断にゆだねられていました。今ここで、言えることは主イエスが再び来られること、その時、救いの完成の門にはいる人と、裁きの座に立って、永遠の刑罰の中にはいる人の2種類の人がいることを知らされました。あなたはどちらの生き方を選びますか。イエス・キリストの十字架の救いを信じて、永遠の命を得ようではありませんか。一つの選択はイエス・キリストを自分の救い主として心に迎え入れることです。そして、神を愛し、人を愛する生活をすることです。そうすれば、主が来られる時、主の花嫁として迎えて下さいます。

ハーベストタイム誌にこんなことが書いてありました。買い物をする時、二種類の買い方がある。一つは必要だから買う場合と、もう一つは宣伝を見て、「こんなものがあるのか、あったら便利だろうな」と思って買う場合である。これを福音宣教に置き換えると、最初の場合が自分には救いが必要であることを知って、教会に行く人です。二番目は誰かが福音の情報を与えてくれました。それを聞いて、興味を持つ人です。そして、教会に行って、救われる人たちです。主の再臨のメッセージは、まさにこれから先に起ころうとすることの情報提供です。このメッセージを聞いて、自分の生き方をどうするのか決めるのはあなた自身です。イエス様は愛の方ですから、主を信じて、永遠の命をいただき、天国で幸せに暮らすことを願っておられます。

ヨハネ3:16「3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」

また、すでにクリスチャンの方は「目を覚ましていなさい。」というみ言葉を覚えましょう。目を覚ましていつも主をお迎えできるようにしておきましょう。

信じることは幸いなり

2009-04-18 21:27:56 | Weblog
2009.4.19.信じることは幸いなり
聖書 ヨハネ20:19~31
題  信じることは幸いなり
はじめに
1. 平安があるように
2. 聖霊をうけなさい
3. 疑ったトマス
4. 見ずに信じる者は幸いです
5. 証し(崩壊寸前の夫婦が回復)

はじめに

緑の若葉が芽を吹き出しました。新しい命が活発に活動し始めたような感じです。私たちも新しい主の恵みと聖霊に満たされ、生き生きと生活をしていきたいと願います。

1.平安があるように

先週、イースター、復活祭でした。一度死なれたイエス様が生きかえった、それは、信じられないニュースでした。女性たちは墓に行き、イエス様にお会いしました。その間、イエス様の弟子たちはどうしていたのでしょうか。彼らは入口の戸に鍵をかけて、隠(かく)れ家(が)に隠れていました。情けない疲れきった姿でした。心は恐れでいっぱいでした。自分たちも捕まって、あの恐ろしい十字架の刑につけられるのではないかと恐れていたのです。イエス様の最後の姿が見に浮かんでは消え、浮かんでは消えてきます。自分たちもイエス様を捨てて逃げてしまいました。心の中は裏切った罪意識でいっぱいでした。おそれと悲しみと後悔とが一緒になって、みんな口を開きません。黙って座っています。

そんな哀れな状況の中に、突然イエス様が現れてくださいました。そして「平安があなたがたにあるように」とおっしゃったのです。夕方のことです。イエス様は戸が閉めてあったにもかかわらず、入って来られ、彼らの真ん中に立たれました。弟子たちはどんなに驚いたことでしょう。夢を見ているようでした。朝、女性たちから、イエス様がよみがえられたと聞いてはいましたが、信じられませんでした。そして、悩み、苦しんでいたのです。恐れに満ち、不安でいっぱいであった弟子たちは、イエス様の顔を見て、ぱっと明るくなりました。「やっぱり、本当だった。よみがえられたのだ。」と確信したのです。

不思議な平安が心に広がりました。イエス様は十字架の手の傷とやりで刺された脇腹をお見せになりました。それは、「わたしは確かに十字架にかかったイエスだ。死んだけれども、よみがえったのだ。」ということを証明されたのです。イエス様は、もう一度、平安があなたがたにあるように。」といわれました。弟子たちの恐れは取り去られ、平安と喜びでいっぱいになりました。希望が生まれたのです。

弟子たちの人生はこの日から変わりました。新しい人生が始まりました。イエス様は「父がわたしを遣(つか)わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」といわれました。弟子たちには、この日から主の復活の生き証人としての人生が始まりました。

話は変わりますが、世界のビジネスは経済混乱のためにうまく流れていません。そのために、いろいろな会社が倒産したり、倒産になりそうな状況です。そういう中で、リストラになった人々は本当に気の毒だと思っています。急に会社から首にされたら、家族を抱えて、どのように生きていったらよいのでしょうか。明日のことが分からない不安はどんなに恐れでいっぱいになることでしょう。気の弱い人は自殺したくなるだろうと思います。

ちょうど、弟子たちの心の中に不安と恐れが満ち、それに縛られ、他のことが見えなくなってしまった状況に似ています。どうか信じてほしいことがあります。イエス・キリストに心を開いていただきたいのです。死なないでください。「助けて下さい。」と祈ってください。状況が難しければ難しいほど、天の神に頼ることが必要です。自分の力では何もすることはできません。

天の神はイエス・キリストをよみがえらせて下さいました。死んだイエス様をよみがえらせて下さったのです。死んだ者はバタバタしないのです。いいえ、できないのです。すべてを神のみ手にゆだねるのです。そこから、すべてが新しく始まります。よみがえったイエス・キリストを信じてゆだねるのです。その時、どのように、歩むべきか、知恵を与え、道を開いてくださいます。このような状況を教会では自分を十字架につけて、死ぬと表現します。

すべてがどうにもならないとき、静かに、神の前に出て、黙想するのです。その時、人間では与えることのできない深い平安が与えられます。天からの平安です。(ヨハネ14:27)
「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」


ヨハネ16:33「16:33 わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難(かんなん)があります。しかし、勇敢(ゆうかん)でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」

イエス様は世のあらゆるものに打ち勝ち、死さえも打ち破って、勝利をされました。悩みのある人を捨てられることはありません。「あなたを捨てて孤児にはしない」と約束されました。必ず助けて下さいます。そのためにはまずイエス様を信じることです。心の中にお迎えすることです。それが新しい人生の始まりです。

2. 聖霊をうけなさい

イエス様は弟子たちを「自分のよみがえりを見た生き証人として遣わす」と言われました。その時、弟子たちに息を吹きかけられました。この息は霊の息で、特別なものでした。聖霊です。聖霊を吹きかけ、言われました。「聖霊を受けなさい。」と。イエス様に聖霊をもらった弟子たちの上には変化が起こりました。しょんぼりしていた彼らの霊が復活し、元気になりました。

私たちはイエス様を信じた時に神の霊である、聖霊をイエス様からいただきます。それは今までは死んでいた霊です。しかし、復活のイエス様によって、命の息をふきいれられ、新しい神の国の聖霊をいただくことになります。イエス様がそっと命の息を静かにふきいれて下さるのです。これを教会では「新しく生まれる」と言います。これは自分でもわかるし、他の人にもわかります。中には、気がつかない人もいます。感情的にも変化のない人もいます。しかし、信じることです。

イエス様を信じた時に、聖霊をいただくことは事実ですから、大丈夫です。クリスチャンはみんな聖霊をいただいています。その後、聖霊のバプテスマを求めたらよいのです。弟子たちも、聖霊のバプテスマを求めて祈りました。これから、ペンテコステの日まで、良く祈りましょう。恵によって、聖霊のバプテスマを受けましょう。それは証しをするための力になります。

 イエス様は23節で「ヨハ 20:23 あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」とおっしゃいました。それはイエス様が弟子たちを遣わされる時、罪を赦す権威を十字架の血潮による清めの恵みと共に与えてくださったということです。これは特別な権威です。

パリサイ人たちは「イエス様が人々の罪を赦した、罪を赦すことができるのは神だけだ。自分を神にしている。」といって、「神を冒涜した罪」で十字架につけました。イエス様は神様ですから、罪を赦すことがおできになりました。イエス様が十字架の上で死んで、復活された今、私たちにはイエス様の名前の権威を使う特権を与えられています。この素晴らしいお名前の権威と十字架の血潮の清めの恵みによって、祈った時、罪の赦し、いやしや奇跡が起こるのです。

その最初の大切な働きが人々の罪を赦すことです。赦し合うこと、愛し合うことです。これも聖霊による恵みの働きです。もし、赦すことができなかったら、何も奇跡は起こりません。赦すことのできない心は、神様の祝福が流れ出るのを止めてしまいます。

あなたがある人の罪を赦さなかった場合、赦されないで残った罪は、そのままあなたを苦しめることになります。罪の幽霊が出てきて、いつもあなたの心を責めるのです。あるいは怒りになって爆発するのです。その許せないでいる人はそばにはいないのですが、なぜか、心の中に浮かんできて、あなたを苦しめるのです。赦してあげてください。赦すことによってだけ、その苦しみから解放されます。

自分の上司、牧師、友人、夫や妻、子どもたちを赦してあげましょう。許すことからすべての恵みは始まるのです。イエス様は「わたしがあなたがたを赦したしたように、あなたがたも互いにゆるし合いなさい。」といわれます。

3. 疑ったトマス

残った11弟子の中にトマスという弟子がいました。この弟子はイエス様が現れた時に、みんなと一緒にいませんでした。ですから、どんなに、他の弟子たちが「イエス様は復活された。」といっても、復活が信じられませんでした。トマスは自分の目でイエス様を見て、手の傷や脇腹の傷に触ってみなければ信じないと言いました。

すると、8日後、なんとイエス様が現れてくださったのです。イエス様は言われました。ヨハネ20:27「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」トマスは驚いて、イエス様を28節「わたしの主、私の神」と言って礼拝しました。
イエス様はトマスに言われました。29節「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」

4. 見ずに信じる者は幸いです

 私たちの周りには2種類の人がいます。それはトマスのように疑う人と疑わないで信じる人たちです。きっとイエス・キリストの復活を信じることが難しい人もあれば、すぐ素直に信じる人もいます。どちらが幸せかと言いますと素直に信じられる人が幸せです。特に人間関係における疑いは激しい憎しみや分裂をもたらします。

5.あかし

これから一つの証しをします。
Fさんご夫妻の証しです。(これはリバイバル・ジャパンの2009.3月12日号に掲載されていました。)

 山梨県甲府に住んでいるご夫婦です。奥さまの名前はM子さん、ご主人はSさんです。ご主人は公務員、奥さまは宝石デザイナーで成功した人でした。3人の子供がいましたが、大きくなって、家を離れて暮らしています。ご主人は仕事熱心で、毎日、夜遅く帰ってくる人でした。M子さんは控えめでしっかり者のように見えました。

しかし、ある時から、一人ではさびしく、孤独感でいっぱいになり、夜も眠れなくなりました。そのために、ご主人の友人の紹介で、甲府の教会に通い始めました。すると、ある日、聖書の言葉が心に響いてきました。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ43:4)と。夫も家族も友人も私から離(はな)れて行った。しかし、イエス様だけは「私を高価で尊い、愛しているよ。」と言ってくださる。そう思ったら、涙が止まりませんでした。それから、ご主人にも教会に行くことを勧めて、一緒に洗礼を受けました。普通の日々が戻ってきました。やっと、もう一度やり直せると思いました。ところがある日、新しい問題が起こりました。

2005年3月のことです。3連休の終わりの日に一本の電話がかかってきました。M子さんが電話に出ると若い女性の声でした。実は、ご主人が奥さんに内緒で契約していた保険の外交員の人でした。しかし、奥さんはこのとき、夫が不倫(浮気)をしていると思ってしまいました。本当のことを知るために話し合っている時、その女性は夫と親しそうにふるまいました。それで、疑いの心に、もっと疑いが出てきてきました。頭の中はその女性と夫のことでいっぱいになりました。ご主人は不倫していないので、何とかしようと思いました。でも、すればするほど、状況は悪い方へ落ちていきました。

好きだった庭の手入れもできません。草は伸び放題、掃除もできません。理性はなくなり、感情だけで生きるようになりました。夫を見れば、「どこへ行っていたの。何をしていたの?」などと問い詰めました。ご主人の着ている洋服を引き裂きました。ネクタイも背広も写真も、ハサミで切ってしまいました。食器類も全部割ってしまいました。ご主人も怒りが爆発(ばくはつ)して暴力(ぼうりょく)を振るうようになりました。お互いに傷がたくさんある体になりました。ある時はご主人が運転している車に、自分の車をぶっつけました。殺すか、殺されるかの日々が2年間ほど続きました。

有名なカウンセラーも役に立ちませんでした。通っていた教会にも「うちではもう何もできません」と言われました。

そんなある日、「回復への道」という一冊の本に出会いました。東京の教会でこのスモール・グループの活動があるということを知りました。そこで、それに参加させていただきました。参加した時、ほっとした気持ちがしました。みんなよく話を聞いて祈ってくれました。それから、ご主人を誘いました。グループの人たちも問題を抱えていました。弱さを認めた人々の中心にイエス・キリストがおられて、いやしの業を行っておられました。

毎週、山梨から東京まで3時間かけて通いました。行く途中で何度もケンカしました。しかし、だんだん両方の心がいやされて、ケンカが少なくなりました。愛情が回復してきました。ある時、ケンカしながら、ご主人が「俺はお前の敵ではない。味方だ。」と叫びました。すると、奥さんの心にその言葉が入ってきて、愛されていると感じました。今では夫婦仲良くなって、一日一日を感謝して過ごしておられるそうです。

 一つの疑いがこんなに悲惨な結果を招きました。しかし、主イエスはその傷をいやし、回復させて下さいました。霊が傷ついている場合は神であるイエス・キリストの所に行く時だけ、いやされます。イエス様が私たちの霊を癒して、平安を下さるからです。霊のいやしは神様の領域です。キリストの十字架と復活だけが私たちのすべての問題を解決してくださるのです。十字架と復活には偉大な力があるのです。

今日も、十字架に自分の弱さをつけて、復活されたイエス様を見上げましょう。Ⅱテモテ2:8「2:8 私の福音に言うとおり、ダビデの子孫として生まれ、死者の中からよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。」



イエス・キリストの復活

2009-04-11 22:53:09 | Weblog
2009.4.12.イースター
聖書 マタイ28:1~10
題  イエス・キリストの復活(闇と光)

はじめに
1. 死んで葬られたイエス様
2. 復活されたイエス様
3. イエス様に会える希望

はじめに

桜の花も満開になりました。今日はお花見に行く人も多いと思います。冬の間は葉もなく、つぼみもなく、枯れたようになっている木からこんなに可愛い花が咲いてくるのですから、不思議ですね。私たちの自然界には、春、夏、秋、冬という季節があります。特に冬の厳しい寒さは私たちの健康にも影響しますね。冬が厳しければ、厳しいほど、春の暖かさは嬉しく、花見の喜びが大きいものです。私たちの心も解放されて、のびのび、ウキウキしてきます。今日は「復活祭」といって、「イエス・キリストがよみがえられた日」を記念するお祭りの日です。英語では「イースター」と言います。日本でも「イースター、おめでとう。」といって、「イースター」という言葉を使う人が増えてきました。

キリスト教の中ではクリスマスと並んで大切なお祝いの日です。諸外国ではこの日は新しい洋服をきて、日曜礼拝に行き、主イエスの復活をお祝いします。嬉しい華やかな日です。もし、イエス様が復活されなければ、教会はありませんでした。教会はイエス・キリストの十字架の死と復活が土台となっています。

1. 死んで葬られたイエス

イエス様は神様の一人息子でした。神の国に住んでおられる方でした。しかし、父なる神様から一つの使命を与えられてこの世に来て下さいました。神様だったのに、人間になってくださったのです。その姿は私たちと全く同じでした。イエス様のお母さんとして選ばれたマリヤから赤ちゃんとして生まれてくださいました。普通の子供と同じように教育を受け、大きくなられました。兄弟もたくさんいたようです。そして、彼が年齢33歳の時、その使命を果たす時がやってきました。イエス様は30歳で献身して、神の国を教える教師としての活動に専念しておられました。

33歳を過ぎた過ぎ越しの祭りの時です。最後の過ぎ越しの食事をなさいました。これが有名な最後の晩餐(ばんさん)です。その後、ゲッセマネの園でうめきながら、血の汗を流してお祈りされました。十字架の刑を受けるべきかどうか、苦しまれたのです。しかし、最後には「主(神)のみ心がなりますように。」といって、すべてを父なる神の手にゆだねられました。罪の盃を飲みほし、罪がなかったにもかかわらず、罪人になって十字架の刑に向かわれました。罪の盃を飲み干したイエス様には、父なる神から全く見放されたように神との間に断絶が起こりました。これまで経験したことのない霊的孤独状態の人間になられたのです。それは恐ろしいことでした。

そして、呪われた刑罰であった十字架の刑につけられたのです。この刑罰はこの世の中で最も恐ろしい、残酷な刑罰でした。若い人たちは、十字架を胸につけたり、耳につけたりしてアクセサリーにして使っています。しかし、もともとは死刑の道具だったのです。それがなぜ、アクセサリーに使えるほど、明るい輝きを持っているのでしょうか。それは、このイエス・キリストの十字架の死刑が人間に救いを与え、永遠の命を回復させ、希望をもたらしたからです。

 イエス様はゲッセマネの園で捕えられ、その後、不正な裁判を受け、十字架につけられました。頭にはいばらの冠をかぶせられ、手首を釘で十字架に打ちつけられました。血が流されました。しかし、この刑の恐ろしいところはすぐには死なないということでした。死にたくても死ねない苦しみが続いたのです。 

 数々の拷問、悪口、ののしりの言葉をあびせられても、じっと耐え忍んだイエス様でした。その中で、私たちに大切な言葉を残されました。その中の一つに次の言葉があります。ルカ23:34「 そのとき、イエスはこう言われた。

『父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。』

イエス様は自分を苦しめている指導者や民衆のために、父なる神に赦しを求められました。神に「赦してやって下さい。」と弱り果てた体から、最後の力をこめて、訴えられたのです。「彼らに罰を与えてください。」とは言われませんでした。私たちはこの情け深いことばである「彼らを赦して下さい。」を忘れてはなりません。このとりなしのゆえに私たちの罪はすべて赦されているのです。ですから、他人も赦し、自分も赦して、受け入れてあげましょう。

もうひとつ、大事な言葉があります。ヨハネ19:30

「イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、『完了した』と言われた。そして、頭をたれて、霊をお渡しになった。」

これはイエス様の最後の言葉です。息を引き取る直前の言葉です。この「完了した」という言葉は「私の生涯が終わった」という意味ではありません。これは神様にたいして持っていた「『罪の負債、罪の借金』を全部払い終わりました。」という意味です。普通の借金はお金で返すことができます。しかし、神に対して罪を犯した場合の罪の借金はお金では返すことができません。罪のない人の血によってのみ、返すことができたのです。普通の人間にはアダムから引き継いだ生まれつき罪があります。だから、人間は神様に対する負債を返す力はなかったのです。

そこで、罪がなく、清く、正しい生活をされた神のひとり子であるイエス様が人間の身代わりになって、十字架につき、神様に罪の負債を返して下さったのです。だから、あなたの罪は赦されているのです。これがこの世に来て下さったイエス様の使命であり、目的でした。あなたの罪を赦すためだったのです。この「完了した」という言葉は「神様との断絶は終わったよ。神様との交わりが回復したよ。罪からの救いが完成しました。」という意味です。

そして、息を引き取り、完全に死んで、墓に葬られました。墓は厳重に封印がされ、番兵までつきました。この間、この世は暗闇の世界でした。神の御子が死なれたのです。父なる神の悲しみはどんなに深いものだったことでしょう。

2. 復活されたイエス

さて、3日目の朝のことです。イエス様は金曜日に十字架につけられ、殺されました。土曜日は安息日ですから、お墓参りはできません。安息日が明けた日曜日の朝早く、女の人たちは良い香りの香油をもって、墓を見に行きました。すると、突然、地震が起こりました。それは神のみ使いがやってきて、墓の石をころがしたからです。そしてその上に、座ったのです。その顔は稲妻のように輝き、雪のように輝いた白い衣を着ていました。一目見て、神のみ使だとわかる姿でした。番兵たちは恐ろしさの余り、死んだようになりました。み使いは言いました。

マタイ28:5~6「28:5 すると、御使いは女たちに言った。『恐れてはいけません。あなたがたが十字架につけられたイエスを捜しているのを、私は知っています。28:6 ここにはおられません。前から言っておられたように、よみがえられたからです。来て、納めてあった場所を見てごらんなさい。」

この言葉を聞いて女の人たちは恐ろしくもありましたが、喜びでいっぱいになりました。墓の中は空っぽです。急いで、他の弟子たちに知らせるために走って帰りました。すると途中でイエス様が彼女たちに姿を現して下さいました。「おはよう。」と言われたのです。彼女たちは足もとにひざまずいて礼拝をしました。イエス様が神であることは間違いありませんでした。あのように苦しめられて、死んだにもかかわらず、よみがえり、輝いておられる方は神だけです。どうして他の者がよみがえることができるでしょうか。よみがえるとは生きかえることです。すなわち、復活です。

 イエスの復活は世界を変えました。サタンや悪は決して勝利しない、義なる神が勝利のカギを持っておられることを証明されました。サタンのしるしであった蛇の頭はイエスの足で踏み砕かれ、完全に負けたのです。イエス様が十字架につけられ、これで、正義も負け、正しい人が刑罰を受けて、終わりになるかのように見えました。しかし、そうではありませんでした。神は聖霊によって、イエス様をよみがえらせてくださったのです。

このよみがえりの瞬間、この宇宙に希望の光が差し込んだのです。暗闇が光に照らされ、全世界に救いが稲妻のように走ったのです。愛の光が輝きました。ヨハネは言いました。

ヨハネ1:5「 光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。」
 
暗闇は決して光には勝たないのです。 

創世記1:1「初めに、神が天と地を創造した。」

と書かれています。そしてまず、最初に創られたものは「光」でした。光ができたので、やみと区別されました。

5節「神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕があり、朝があった。第一日。」

とされました。この日以来、夕があり、朝が来るようになったのです。この法則は神が天と地を造られて以来、変わることはありません。夜になると、必ず朝がやってきます。朝の来ない夜はないのです。私たちの人生にも同じことが言えます。問題の多い日にぶつかると、まるで暗闇のように感じます。そして、四方八方ふさがって、出口が見当たらず、真っ暗な墓の中に入れられたような感じがします。そして考えます。「ああ、私は死んだ方がましだ。死にたい。・・・」しかし、ちょっと待って下さい。 

死の中からよみがえられたお方がおられるのです。暗闇を打ち破ってくださったのです。暗闇の墓の中から復活の光が発信され、その光はすべての人を照らす真の光になりました。みずみずしい命の力がみなぎっていました。死を克服された方はすべてのことを克服する力、解決する力を持っておられます。暗闇は過ぎさり、さわやかな朝がやってくるのです。希望を持って下さい。

ある時は長い3日間に感じるでしょう。ある時は短い3日間であるかもしれないのです。その時、あなたがたは暗い墓の中を見渡してはいけません。死人は解決策を持っていません。罪人である人間も頼りになりません。み使いは言いました。ルカ24:5「あなたがたは、なぜ、生きている方を死人の中で探すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。」私たちは暗闇の中で手さぐりしても解決を見出すことはできません。暗い墓から離れて、天を見上げましょう。よみがえられたイエス様を見上げるのです。よみがえられた方は私たちに新しい視点を与えてくださいます。否定的な思いでいっぱいだった心や考え方から解放してくださいます。新しい生き方をするのです。
3. イエスに会える希望
み足を抱いて礼拝した女たちにイエス様は言われました。

マタイ28:10「恐れてはいけません。行って、わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会えるのです。」


この女の人たちは突然の出来事に恐れを持っていました。なぜなら、死んだ人が生きかえるなどと聞いたことがありません。しかし、本当に生き返られたイエス様に出会ったのです。み使いの姿やイエス様を見た人たちは、ただ驚くだけでした。夢を見ているようでした。しかし、イエス様に出会って、心の中に燃えるものが湧いてきました。喜びでいっぱいになりました。何と表現したら良いのでしょうか。嬉しいのです。イエス様は「ガリラヤに行きなさい。そこでわたしに会えるから。」とおっしゃいました。残っている11人の弟子たちはみんなガリラヤの漁師たちでした。故郷に帰るように言われたのです。ガリラヤ湖は弟子たちがイエス様に出会った場所でした。

イエス様は最初の出会いをとても大事にしておられるようです。また、エルサレムは弟子たちにとっては危険な場所でした。安全な場所に避難することも含めて、ガリラヤ地方への移動を指示されたのです。

私たちがイエス様に出会った原点はどこでしょうか。もし、今日、救われた時の喜びを失っていたなら、もう一度、最初にイエス様に出会った時のことを思い出しましょう。初めの愛に帰るのです。イエス様はよみがえられました。あなたに新しい生き方を与えてくださいます。

また、イエス・キリストは復活して、生きておられるので、どんな願い事でもお願いしてよいのです。主イエスは耳を傾けて聞いてくださいます。

この復活にはもう一つの希望があります。このイエス様の復活はイエス様だけで留まるものではありません。時が満ちると、復活するのです。私たちの肉体は一度、死んで、ちりに帰ります。しかし、クリスチャンの霊は天国に移され、よみがえりの時を待つのです。永遠の世界において、イエス様と同じように復活し、肉体をもってよみがえるのです。その時、イエス様と顔と顔を合わせて、お会いできるのです。主イエスは私たちをご自分の花嫁として迎えて下さいます。罪人であった私たちが、神の御子であるイエス様の花嫁として迎えられるのです。こんなにすばらしい希望は他にはありません。ハレルヤ!


ビジョンを握って輝く

2009-04-05 20:24:32 | Weblog
2009.4.5.ビジョンを握って輝く

聖書 ピリピ2:15~16
題  ビジョンを握って輝く

はじめに
1. アブラハムの信仰
2. ダビデの信仰
3. ヨシュアの信仰

はじめに

 先週は高地の幡多青少年の家で四国のファミリーキャンプがありました。約40人の兄弟姉妹たちが参加しました。小学生は9人でした。中村福音キリスト教会には将来有望な子供たちがたくさんいます。閉会式の証しもみことばと一緒に短くまとめて発表していました。それを聞いていたら、涙が出てくるくらい、感動してしまいました。子供たちの心にしっかりとみことばの種が植えられていました。講師は深谷福音キリスト伝道所の井桁久志先生、開拓伝道に情熱を注いでおられる先生です。

 先生は最近結婚されたばかりで、新婚さんでした。奥さんになった方はクリスチャンホームで育った人でした。東京のある有名な教会の信徒だったそうです。お父さんが定年退職をして深谷に引っ越しをしてこられました。東京に通うのは無理です。近くに教会はないかと探しておられたら、井桁先生が牧会しておられるアッセンブリーの教会に導かれました。お父さんが開拓伝道を手伝うように導かれていると感じて、家族でこの教会に通うことになりました。そうして2年間が過ぎる頃、井桁先生に結婚を申し込まれたそうです。結婚の話があってからはすぐ結婚式の運びになったそうです。この奥さんになった人は生まれた時から教会に通っており、病気以外は教会を休んだことがないという方です。この話を聞いて、神様は井桁先生にふさわしい方を見つけてつれてきてくださったんだと感動しました。主のなさることは時にかなってうるわしく、素晴らしいと思いました。井桁先生もクリスチャンホームで育たれた方です。ですから、本当にぴったりの方を準備してくださったと思います。

 さて、今日はキャンプのメッセージを皆さんに分かち合いたいと思います。とてもわかりやすい、メッセージでした。今回のキャンプのテーマは「ビジョンを握って輝く!」でした。ビジョンというのは夢を持つことです。将来、何になりたいか、どんなことをしたいかということを心の中にはっきりと描くことです。年が若くても、高齢であってもビジョンを持つことは大切です。聖書の中の3人の信仰者の生き方を通して、輝く人生を探(さぐ)っていきましょう。キャンプでは三回の聖会がありました。それぞれをまとめて短く話します。


1. アブラハムの信仰(第一聖会)

 皆さんはケンタッキーフライドチキンを知っていますか。鶏の骨つきフライです。食べたことがありますか。特別な味つけのフライでとてもおいしいですね。これは、カーネル・サンダースさんが家庭で食べていたフライドチキンをいろいろ工夫して、49歳の時、レスピーを完成させたものです。カーネル・サンダースさんはケンタッキーフライドチキンのお店の前に立っている白い洋服を着た太ったおじさんです。この人はクリスチャンです。いろいろ事業をしていました。しかし、うまくいかなくて、レストランの経営をほかの人に譲ることになりました。経営に失敗したのです。そこで、年もとったし、引退して、年金暮らしをしようと考えました。

 しかし、この人はクリスチャンだったので、教会に行って将来のことについて祈りました。すると、もう一度ビジネスをやろうという思いがわきあがってきました。そして始めたのが、このケンタッキーフライドチキンのビジネスだったのです。この仕事は成功して、今では世界中にお店があります。この仕事を始めた時、このサンダースおじさんは65歳でした。この時に持ったビジョンが祝福されたのです。ビジョンを持つことは大切ですね。

 話は聖書の中の人物に代わります。聖書の中にアブラハムという人物が出てきます。アブラハムは創世記の12章1~9で「故郷を離れて、わたしの示す地に行きなさい。」と神様に声をかけられます。この時、75歳でした。彼は家族を連れて、カナンの地に着きました。神様はアブラハムに3つの祝福を約束されました。①この地を与える。②子孫を与える。③あなたとあなたの子孫を祝福する。アブラハムはこの約束を信じましたが、なかなか実現しませんでした。その間にいろいろな問題、困難なことが起こりました。失敗もしました。がっかりもしました。

 しかし、神は具体的にビジョンを持つようにと励まされました。夜空の星を見せて、あなたの子孫はこの星のように多くなると言われたのです。また、浜辺に連れ出し、あなたの子孫はこの浜辺の砂のようになると言われました。アブラハムのビジョンは目に見える形ではっきりとしてきました。そして、そのビジョンに向って、神様に従いました。すると100歳の時、息子のイサクが与えられました。その後も試練は続きましたが、ビジョンを持っていたために輝いた人生を送りました。
 カーネル・サンダースさんも言っておられます。「年を取ってからもビジョンを持って働いた方が健康で長生きする。」と。この方は90歳まで働いて、天に召されました。

2. ダビデの信仰(第二聖会)

 Ⅰサムエル記17:31~49にはダビデがゴリヤテとたたかって勝利したことが書いてあります。少年ダビデは勝利することのできないところで勝利しています。そして、輝いています。戦いがあり、つらい中でも輝くことができます。聖書の中に「あなたがたは世界の光です。」というみことばがあります。あなたは、その光を持って周りを照らしなさい。ダビデは自分の持っているものを持って、闘(たたか)っていきました。

 相手のゴリヤテは身長が2m50cmもありました。本当に巨人で戦士でした。彼は「1対1でおれと戦いなさい」と毎日出てきてはイスラエルの兵士たちに挑戦しました。それが40日間も続いたのです。彼は「俺が勝ったら、イスラエルは俺達の奴隷になる。イスラエルが勝てば、ペリシテ軍がイスラエルの奴隷になる」と脅(おど)かしたのです。イスラエル人は誰も出て行って彼と戦う人はいませんでした。怖くて、震えていたのです。

 私たちも毎日の生活の中で困難にぶつかると、考え方が否定的になります。私たちがもらう情報はほとんど否定的なニュースです。ゴリヤテの声を聞いた時、否定的なものを感じました。イスラエルの兵士たちが恐れに包まれていた時、ダビデがやってきました。ダビデはまだ子供で戦いを知らない人でした。しかし、ダビデは「できる」という思いを持って立ち上がりました。私たちが、神の前に「できる」という思いを持って一歩を踏み出したときは、何でもできます。しかし、できないと思ったら、何もできないのです。

 アメリカのオバマ大統領は「イエス、ウイキャン。私たちはできる。」という合言葉をもって選挙に出ました。そして、選挙に勝利して大統領になりました。彼は勝利を確信していました。

 私たちは良いことをイメージしていく必要があります。いつも良いイメージ作っていくことです。十字架はプラスの形をしています。イエス様は私たちのマイナスを背負って下さいました。プラスを与えるために死んでくださいました。イエス様を信じて、祈っていく時、プラスの考え方を与えてくださいます。ダビデはクマやライオンなどの獣と戦って、負けたことはありませんでした。だから、今度も必ず勝つことができるというイメージを持っていました。イエス・キリストの十字架はいつも私たちにプラスの考え方や行動を与えます。

 ダビデは過去の体験だけに頼りませんでした。神様に信頼したのです。神が共にいて勝利させて下さると信じました。イエス様は私たちと共にいてくださるお方です。イエス様を信頼することです。信じることは力です。

 Ⅰコリント1:18「1:18 十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」

 神は私たちに大きな力と勇気を与えてくださいます。問題に立ち向かっていく力を与えて下さる方です。

3. ヨシュアの信仰(第三聖会)

 最近の明るいニュースは宇宙飛行士の若田さんが宇宙から、子どもにメッセージを送ったことです。「夢と目標をしっかり持って進んでください。」と言われました。ビジョンを持って輝くこと、大きな夢を描くことです。

 私たちの生活の中には問題があり、不安があります。新しい学年になる人、新しく社会人になる人は期待と共に不安を持っています。リストラの問題も大きいですね。いつ、首を切られるかわからない時代です。先が見えません。イエス様がいつも一緒にいて下さるという確信の中で進んでいくとすばらしいことが起こります。

 旧約聖書の中にヨシュアという人がいます。この人はモーセと共にエジプトを出てきた人です。モーセの後継者です。ヨシュアはモーセの代わりに、イスラエルの民を約束の地であるカナンの地に導くリーダーになりました。非常に大きな不安と恐れの中にいました。その時、神様が声をかけてくださいました。

ヨシュア1:9「1:9 わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、【主】が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」

そして、勇気を奮い起してヨルダン川を渡ったのです。

イザヤ41:10「 41:10 恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。」

 井桁先生は開拓伝道をしておられます。最初、家さがしから始めました。なかなか見つかりません。教会にすると言ったら断られてしまうのです。やっと、一軒見つけました。良かったと思って、教会を始めました。すると、看板を出して困ると言われました。困ったなと思って、主の前に出て聞きました。すると、主はこのまま、この家を借り続けなさいと言われました。それで、その家で伝道を続けることにしました。2年目に入った時、「この家を買いなさい。もし買えなければ、すぐ出て行って下さい。」と言われました。「困ったな。とても買えない。」と思って主の前に出ました。すると主が「買いなさい。」と言われました。主が言われるので決心して役員さんに相談しました。そして、不思議な方法でその家を買うことになったのです。自分たちでペンキ塗りをし、修理をして使うことになりました。そして、現在に至っています。

 神様がみことばを与え、励まして下さいました。主はともにいてくださいます。「勇気を出しなさい。私はあなたと共にいる」と言って、主は背中をおして下さる方です。「前に進め」といって下さる方です。

 証し:アポロ13号

 アメリカがアポロ13号を1970年4月11日19時に打ち上げました。これは月に行くために打ちあげられたものでした。3人の宇宙飛行士が乗っていました。しかし、打ち上げから55時間後、地球から33万キロ離れた宇宙の真ん中で酸素タンクが爆発し、故障したのです。酸素がなくなれば、宇宙飛行士たちは確実に宇宙で死ぬことになります。飛行士たちは一瞬、もう地球には戻れないのではないかと不安になりました。

 しかし、この3人はクリスチャンでした。心を合わせてお祈りをしました。すると一つのみことばが浮かんできました。

Ⅰコリント10:13「10:13 あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。」

 この聖書のみことばを信じて、必死で祈りました。すると奇跡が起こりました。一つの考えが湧いてきました。月面に着陸するために準備した着陸船に乗って、地球に帰るという考えでした。しかし、地球に近づいて、大気圏に突入する時、熱で焼けてしまうかもしれないという心配がありました。しかし、神様が脱出させて下さると言っておられるから、信頼してやってみようということになりました。それ以外には方法がありません。それに急がなければ酸素と電池がなくなります。

 宇宙船からその着陸船に乗り換え、なんとか、地球の近くまで来ました。最後に大気圏に突入して、無事に地球に帰ってくることができました。1970年4月
17日18時7分41秒に地球に無事着陸したのです。飛行時間は5日間と22時間、54分、41秒間でした。

その時、アポロ13号の宇宙船の船長であるジム・ラベルさんが言った言葉です。

「どんなことでも決してあきらめてはいけない。神を信じ、神のうちに夢と希望を持ち続けなさい。未来はあなたの手の中にあるのだ。神への祈りは必ず聞かれる。だから勇気を持ち続けなさい。希望を失ってはいけない。」

 私たちもビジョンを掲げて、あきらめず、やり続けましょう。教会は伝道を続けるところです。あきらめないで、主の祝福を信じましょう。

 ピリピ 2:15 「それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代の中にあって傷のない神の子どもとなり、
2:16 いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです。そうすれば、私は、自分の努力したことがむだではなく、苦労したこともむだでなかったことを、キリストの日に誇ることができます。」