2009.4.26.主の再臨に備える
聖書 マタイ24:45~25:13
題 主の再臨に備える
はじめに
1. 賢い忠実なしもべと不忠実なしもべ
2. 花婿を迎える10人の娘
3. 主の再臨に備える。
はじめに
最近、民生委員の方からヘルメットをいただきました。これは阿南に南海地震が起こった時に使って下さいということでした。今、地震や災害のためにいろいろな方法で防災の準備が進められています。このヘルメットは防災のためのNPO法人が設立されて、そこから配られたものだそうです。私はこのヘルメットをいただいてから、やっと地震が本当に来るかもしれないという気持ちになりました。それまでは、あんまり、地震や津波などのことは考えませんでした。このヘルメットは私に地震の警告を与えてくれました。ヘルメットを見ると、防災の準備をしなければと思うのです。もしだれも地震の情報を与えてくれなかったら、まだ、何も考えていないかもしれません。でも、地震の情報を与えてくださったおかげで、地震が来たらこうしようと準備をすることができます。同じように聖書は私たちに主の再臨の準備について警告しています。警告をしていないなら、私たちはのんびりと自分のやりたいことを中心に生活しているかもしれません。しかし、聖書は主イエス・キリストは必ず、再び来られると約束をしておられます。主は十字架の上で死んで、3日目によみがえられました。そして500人以上の人々に自分の姿を現わされました。40日後、天に上られました。しかし、主は、再び帰って来られるのです。このことを主の再臨と言います。今日はマタイ24章の最後の話と15章の最初のたとえについて学びます。この二つの話は関係ないように見えますが、実は同じことを教えているのです。その教えとは「主の再臨が起こった時に主に忠実に生きているクリスチャンは幸いであり、主の祝福を受けます。しかし、そうでない場合は裁きを受けます。」というものです。
1. 賢い忠実なしもべと悪いしもべ
この物語は主の再臨について書いてあります。
マタイ24:45~47節は忠実なしもべについて書いてあります。このしもべはご主人から家のしもべたちの食事の世話をするように頼まれました。ご主人は旅に出て家にいません。いつ帰ってくるかわかりません。しかし、帰ってきたとき、言われたとおりに食事をきちんと与え、彼らの健康管理ができていたら、主が喜んでくださるのです。それだけでなく、「このしもべは忠実だ、今度は私の全財産をまかせよう」といって下さるのです。ところが48~51節のしもべは悪いしもべです。自分に与えられた仕事に忠実ではありません。主人は家にはいない、誰も見ていない、さあ、好き勝手なことをしようといって仲間を打ちたたき、いじめました。また与えられた仕事を怠けて、悪い仲間と酒を飲んだり、食べたりしています。そんな時、突然そのしもべの主人が帰ってきました。そのしもべにとっては思いがけない日の思わぬ時間でした。悪いことをしている最中でした。主人は怒って、この悪いしもべを厳しく罰して、暗闇に放り出されるというのです。そこでは泣いて歯ぎしりするというのです。このご主人というのは再臨のキリストのことです。暗闇というのは神の光の届かないところであり、神の恵みのないところです。このようなところには入りたくありませんね。そうだとするなら、今のうちに主の再臨に備えなければなりません。どのように備えたら良いのでしょうか。
2. 花婿を迎える10人の娘
もう一つのたとえを読んでみましょう。ユダヤの結婚式です。ユダヤの結婚式は夜行われることが多くありました。ヤコブがラケルと思って結婚して、翌朝見たら、レアだったということもありましたね。普通、花嫁は花婿が迎えに来るのを家で待っていました。花婿がやって来たら、彼は花嫁を連れて、自分が準備した結婚式を行う家に連れて行き、祝宴をしました。その時、花嫁には付き添いの娘たちがいて、夜道をランプのともしびで照らしてあげることになっていました。花婿は花嫁の家に着くのが良く遅れたそうです。誰かの家で結婚式があるというとそれは村中の祝いの時でした。ですから、ランプの油を売るお店も、夜遅くまで開いていたようです。普通に使うランプはとても小さくて、たくさん油を入れておくことはできませんでした。ランプの油がなくなったら、準備していた油壷から、ランプに油を入れて、火をともし続けました。
このような状況がわかると、この10人の娘たちの話もわかると思います。
花婿を出迎える10人の娘たちがいました。それぞれにともしびを持って、花婿を待っていました。この10人のうち、5人は賢い娘でした。明かりをつけたランプと共に、ともしび油を別の入れ物にいれて準備をしていました。それは花婿が遅れてきても、その油を使えば大丈夫だからです。愚かな娘たちは今、明かりをつけているランプの油はもっていましたが、余分の油は持っていませんでした。
10人の娘たちは花婿が来るのを待っていましたが、なかなか来ません。そのうちに眠り始めました。ところが、真夜中になって花婿が到着しました。「花婿がお着きになりましたよ。迎に出なさい。」という叫び声がしました。娘たちはびっくりして、目を覚まし、ランプの明かりを見ました。もうすぐ、消えそうです。これでは、花婿の家まで、道を照らしていくことはできません。賢い娘たちは入れ物から油を注いで、ランプを整えました。愚かな娘たちは賢い娘たちにと言いました。「油を少し分けて下さい。私たちのともしびはもうすぐ消えそうです。」しかし、賢い娘たちは言いました。「いいえ、あなたがたに分けてあげることはできません。分けてあげると、足りなくなります。それよりも、お店に行って、自分の分を買いなさい。」そこで、足りそうにないと思った5人の娘は油を買いに行きました。その間に花婿がやってきました。用意のできていた5人の娘たちは、花婿と一緒に花嫁を連れて、結婚式の祝宴に行きました。そして、彼らが到着すると、祝宴のある家の戸は閉じられてしまいました。
そのあとで、他の娘たちがやって来て言いました。「ご主人さま、ご主人さま。開けて下さい。」しかし、ご主人は言いました。「わたしはあなたがたを知りません。」この愚かな娘たちは結婚式場には入れてもらえませんでした。
イエス様は言われました。「だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです。」
3.主の再臨に備える。
この二つの物語の共通点は、彼らのご主人が到着した時、準備ができている者とできていない者がいたことです。これは世の終わりに突然来られる主の再臨を表しています。「結婚」は神と人が結ばれる救いのイメージとしてよく使われます。教会は花嫁です。花婿であるイエス様が迎えに来られます。その時が救いの完成です。この2番目の話では花婿の来るのが遅れてしまいました。そして、いつ到着されるのか分からなかったのです。「その間をどのように過ごしたらよいのでしょうか。」というのがこの物語の問いかけです。
終わりの日がやってくるというのは、はっきりしています。その時は非常に困難な時代であると言われています。この終わりの時代の困難な時代に主イエスが再び来られる。そして、主の花嫁であるクリスチャンを天国に迎え入れて下さるというすばらしい希望のメッセージがあります。しかし、反面、天国にはいることのできない人たちがいることも事実です。それは福音を聞きながらイエス・キリストの救いを自分で拒否した人々です。ですから、自分で決断したことの結果を刈り取ることになります。
ここでは、花婿の来るのが遅れてしまいました。その間に、どのようにして娘たちは待ったのでしょうか。賢い娘は花婿が遅れてこられた場合でもあわてないように、油を別の入れ物に余分に準備をしました。大体その当時、花婿は遅れてくるのが多かったようです。そのことも、頭に入れていたと思います。愚かな娘たちは何もしないまま、時間が過ぎてしまったのです。気がついた時は遅かったのです。
愚かな娘たちは賢い娘たちに「油を分けて下さい」とお願いしました。ところが賢い娘たちは油を分けてあげることができませんでした。意地悪に見えるかもしれません。しかし、この油は人から分けてもらえるようなものではありませんでした。一人一人が自分で準備しなければならないものだったのです。
それでは、この油はいったい何だったのでしょうか。
(1) この油は「聖霊の火である。」という人もあります。私も昔、「聖霊の油を絶やしてはならない。目を覚まして祈っていなさい。」というメッセージを聞いたことがあります。
(2) これは人から分けてもらえない物。その人のタラントかもしれません。
人にはそれぞれ得意なものがあります。それはほかの人にはない良いところです。神様はその得意なものを用いて奉仕をするように召しておられます。他の人にはできないことです。どんなに小さな奉仕でも、忠実にするならば神様は喜んでくださいます。最初のしもべに与えられた使命は、食事をほかのしもべたちに与えることでした。家族に食事を作ることでした。小さなことです。でも、これに対して忠実であったかどうかによって、報いを受けました。また、
10人の娘たちはランプの油を絶やさないようにして、ともしびをともし続けることでした。これも小さな奉仕です。しかし、忠実に行う5人とそうでない5人に分かれました。
(3)油は「愛の行い」
主イエスはマタイ25:40で「あなたがたはわたしを世話してくれました。」「あなたがたがこれらのわたしの兄弟たちの最も小さい者の一人にしたのは,すなわち、わたしにしたのです。」と言っておられます。
これは貧しいものや、空腹のもの、旅人、牢にいる人々をお世話してあげたかどうかということです。「愛を持ってお世話しましたか。」ということです。
(4)結論(その人の生き方)
結論としては、今、取り上げた3つのものを含めた、その人の生き方ととらえてよいでしょう。人に分け与えることのできないもの、自分で準備しなければならないもの、そして、イエス様をお迎えできるものです。それは主イエスを愛し、人を愛する生き方そのものではないでしょうか。そうするには祈りを絶やさないことも大切です。聖霊の油注ぎも大切です。忠実に奉仕することも大切です。困った人々に愛の手を伸ばすことも大切です。どのような生き方を選んでいくかは一人一人の自由です。アダムとエバも善悪の木の実を食べるか食べないかは、彼らの決断にゆだねられていました。今ここで、言えることは主イエスが再び来られること、その時、救いの完成の門にはいる人と、裁きの座に立って、永遠の刑罰の中にはいる人の2種類の人がいることを知らされました。あなたはどちらの生き方を選びますか。イエス・キリストの十字架の救いを信じて、永遠の命を得ようではありませんか。一つの選択はイエス・キリストを自分の救い主として心に迎え入れることです。そして、神を愛し、人を愛する生活をすることです。そうすれば、主が来られる時、主の花嫁として迎えて下さいます。
ハーベストタイム誌にこんなことが書いてありました。買い物をする時、二種類の買い方がある。一つは必要だから買う場合と、もう一つは宣伝を見て、「こんなものがあるのか、あったら便利だろうな」と思って買う場合である。これを福音宣教に置き換えると、最初の場合が自分には救いが必要であることを知って、教会に行く人です。二番目は誰かが福音の情報を与えてくれました。それを聞いて、興味を持つ人です。そして、教会に行って、救われる人たちです。主の再臨のメッセージは、まさにこれから先に起ころうとすることの情報提供です。このメッセージを聞いて、自分の生き方をどうするのか決めるのはあなた自身です。イエス様は愛の方ですから、主を信じて、永遠の命をいただき、天国で幸せに暮らすことを願っておられます。
ヨハネ3:16「3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」
また、すでにクリスチャンの方は「目を覚ましていなさい。」というみ言葉を覚えましょう。目を覚ましていつも主をお迎えできるようにしておきましょう。
聖書 マタイ24:45~25:13
題 主の再臨に備える
はじめに
1. 賢い忠実なしもべと不忠実なしもべ
2. 花婿を迎える10人の娘
3. 主の再臨に備える。
はじめに
最近、民生委員の方からヘルメットをいただきました。これは阿南に南海地震が起こった時に使って下さいということでした。今、地震や災害のためにいろいろな方法で防災の準備が進められています。このヘルメットは防災のためのNPO法人が設立されて、そこから配られたものだそうです。私はこのヘルメットをいただいてから、やっと地震が本当に来るかもしれないという気持ちになりました。それまでは、あんまり、地震や津波などのことは考えませんでした。このヘルメットは私に地震の警告を与えてくれました。ヘルメットを見ると、防災の準備をしなければと思うのです。もしだれも地震の情報を与えてくれなかったら、まだ、何も考えていないかもしれません。でも、地震の情報を与えてくださったおかげで、地震が来たらこうしようと準備をすることができます。同じように聖書は私たちに主の再臨の準備について警告しています。警告をしていないなら、私たちはのんびりと自分のやりたいことを中心に生活しているかもしれません。しかし、聖書は主イエス・キリストは必ず、再び来られると約束をしておられます。主は十字架の上で死んで、3日目によみがえられました。そして500人以上の人々に自分の姿を現わされました。40日後、天に上られました。しかし、主は、再び帰って来られるのです。このことを主の再臨と言います。今日はマタイ24章の最後の話と15章の最初のたとえについて学びます。この二つの話は関係ないように見えますが、実は同じことを教えているのです。その教えとは「主の再臨が起こった時に主に忠実に生きているクリスチャンは幸いであり、主の祝福を受けます。しかし、そうでない場合は裁きを受けます。」というものです。
1. 賢い忠実なしもべと悪いしもべ
この物語は主の再臨について書いてあります。
マタイ24:45~47節は忠実なしもべについて書いてあります。このしもべはご主人から家のしもべたちの食事の世話をするように頼まれました。ご主人は旅に出て家にいません。いつ帰ってくるかわかりません。しかし、帰ってきたとき、言われたとおりに食事をきちんと与え、彼らの健康管理ができていたら、主が喜んでくださるのです。それだけでなく、「このしもべは忠実だ、今度は私の全財産をまかせよう」といって下さるのです。ところが48~51節のしもべは悪いしもべです。自分に与えられた仕事に忠実ではありません。主人は家にはいない、誰も見ていない、さあ、好き勝手なことをしようといって仲間を打ちたたき、いじめました。また与えられた仕事を怠けて、悪い仲間と酒を飲んだり、食べたりしています。そんな時、突然そのしもべの主人が帰ってきました。そのしもべにとっては思いがけない日の思わぬ時間でした。悪いことをしている最中でした。主人は怒って、この悪いしもべを厳しく罰して、暗闇に放り出されるというのです。そこでは泣いて歯ぎしりするというのです。このご主人というのは再臨のキリストのことです。暗闇というのは神の光の届かないところであり、神の恵みのないところです。このようなところには入りたくありませんね。そうだとするなら、今のうちに主の再臨に備えなければなりません。どのように備えたら良いのでしょうか。
2. 花婿を迎える10人の娘
もう一つのたとえを読んでみましょう。ユダヤの結婚式です。ユダヤの結婚式は夜行われることが多くありました。ヤコブがラケルと思って結婚して、翌朝見たら、レアだったということもありましたね。普通、花嫁は花婿が迎えに来るのを家で待っていました。花婿がやって来たら、彼は花嫁を連れて、自分が準備した結婚式を行う家に連れて行き、祝宴をしました。その時、花嫁には付き添いの娘たちがいて、夜道をランプのともしびで照らしてあげることになっていました。花婿は花嫁の家に着くのが良く遅れたそうです。誰かの家で結婚式があるというとそれは村中の祝いの時でした。ですから、ランプの油を売るお店も、夜遅くまで開いていたようです。普通に使うランプはとても小さくて、たくさん油を入れておくことはできませんでした。ランプの油がなくなったら、準備していた油壷から、ランプに油を入れて、火をともし続けました。
このような状況がわかると、この10人の娘たちの話もわかると思います。
花婿を出迎える10人の娘たちがいました。それぞれにともしびを持って、花婿を待っていました。この10人のうち、5人は賢い娘でした。明かりをつけたランプと共に、ともしび油を別の入れ物にいれて準備をしていました。それは花婿が遅れてきても、その油を使えば大丈夫だからです。愚かな娘たちは今、明かりをつけているランプの油はもっていましたが、余分の油は持っていませんでした。
10人の娘たちは花婿が来るのを待っていましたが、なかなか来ません。そのうちに眠り始めました。ところが、真夜中になって花婿が到着しました。「花婿がお着きになりましたよ。迎に出なさい。」という叫び声がしました。娘たちはびっくりして、目を覚まし、ランプの明かりを見ました。もうすぐ、消えそうです。これでは、花婿の家まで、道を照らしていくことはできません。賢い娘たちは入れ物から油を注いで、ランプを整えました。愚かな娘たちは賢い娘たちにと言いました。「油を少し分けて下さい。私たちのともしびはもうすぐ消えそうです。」しかし、賢い娘たちは言いました。「いいえ、あなたがたに分けてあげることはできません。分けてあげると、足りなくなります。それよりも、お店に行って、自分の分を買いなさい。」そこで、足りそうにないと思った5人の娘は油を買いに行きました。その間に花婿がやってきました。用意のできていた5人の娘たちは、花婿と一緒に花嫁を連れて、結婚式の祝宴に行きました。そして、彼らが到着すると、祝宴のある家の戸は閉じられてしまいました。
そのあとで、他の娘たちがやって来て言いました。「ご主人さま、ご主人さま。開けて下さい。」しかし、ご主人は言いました。「わたしはあなたがたを知りません。」この愚かな娘たちは結婚式場には入れてもらえませんでした。
イエス様は言われました。「だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです。」
3.主の再臨に備える。
この二つの物語の共通点は、彼らのご主人が到着した時、準備ができている者とできていない者がいたことです。これは世の終わりに突然来られる主の再臨を表しています。「結婚」は神と人が結ばれる救いのイメージとしてよく使われます。教会は花嫁です。花婿であるイエス様が迎えに来られます。その時が救いの完成です。この2番目の話では花婿の来るのが遅れてしまいました。そして、いつ到着されるのか分からなかったのです。「その間をどのように過ごしたらよいのでしょうか。」というのがこの物語の問いかけです。
終わりの日がやってくるというのは、はっきりしています。その時は非常に困難な時代であると言われています。この終わりの時代の困難な時代に主イエスが再び来られる。そして、主の花嫁であるクリスチャンを天国に迎え入れて下さるというすばらしい希望のメッセージがあります。しかし、反面、天国にはいることのできない人たちがいることも事実です。それは福音を聞きながらイエス・キリストの救いを自分で拒否した人々です。ですから、自分で決断したことの結果を刈り取ることになります。
ここでは、花婿の来るのが遅れてしまいました。その間に、どのようにして娘たちは待ったのでしょうか。賢い娘は花婿が遅れてこられた場合でもあわてないように、油を別の入れ物に余分に準備をしました。大体その当時、花婿は遅れてくるのが多かったようです。そのことも、頭に入れていたと思います。愚かな娘たちは何もしないまま、時間が過ぎてしまったのです。気がついた時は遅かったのです。
愚かな娘たちは賢い娘たちに「油を分けて下さい」とお願いしました。ところが賢い娘たちは油を分けてあげることができませんでした。意地悪に見えるかもしれません。しかし、この油は人から分けてもらえるようなものではありませんでした。一人一人が自分で準備しなければならないものだったのです。
それでは、この油はいったい何だったのでしょうか。
(1) この油は「聖霊の火である。」という人もあります。私も昔、「聖霊の油を絶やしてはならない。目を覚まして祈っていなさい。」というメッセージを聞いたことがあります。
(2) これは人から分けてもらえない物。その人のタラントかもしれません。
人にはそれぞれ得意なものがあります。それはほかの人にはない良いところです。神様はその得意なものを用いて奉仕をするように召しておられます。他の人にはできないことです。どんなに小さな奉仕でも、忠実にするならば神様は喜んでくださいます。最初のしもべに与えられた使命は、食事をほかのしもべたちに与えることでした。家族に食事を作ることでした。小さなことです。でも、これに対して忠実であったかどうかによって、報いを受けました。また、
10人の娘たちはランプの油を絶やさないようにして、ともしびをともし続けることでした。これも小さな奉仕です。しかし、忠実に行う5人とそうでない5人に分かれました。
(3)油は「愛の行い」
主イエスはマタイ25:40で「あなたがたはわたしを世話してくれました。」「あなたがたがこれらのわたしの兄弟たちの最も小さい者の一人にしたのは,すなわち、わたしにしたのです。」と言っておられます。
これは貧しいものや、空腹のもの、旅人、牢にいる人々をお世話してあげたかどうかということです。「愛を持ってお世話しましたか。」ということです。
(4)結論(その人の生き方)
結論としては、今、取り上げた3つのものを含めた、その人の生き方ととらえてよいでしょう。人に分け与えることのできないもの、自分で準備しなければならないもの、そして、イエス様をお迎えできるものです。それは主イエスを愛し、人を愛する生き方そのものではないでしょうか。そうするには祈りを絶やさないことも大切です。聖霊の油注ぎも大切です。忠実に奉仕することも大切です。困った人々に愛の手を伸ばすことも大切です。どのような生き方を選んでいくかは一人一人の自由です。アダムとエバも善悪の木の実を食べるか食べないかは、彼らの決断にゆだねられていました。今ここで、言えることは主イエスが再び来られること、その時、救いの完成の門にはいる人と、裁きの座に立って、永遠の刑罰の中にはいる人の2種類の人がいることを知らされました。あなたはどちらの生き方を選びますか。イエス・キリストの十字架の救いを信じて、永遠の命を得ようではありませんか。一つの選択はイエス・キリストを自分の救い主として心に迎え入れることです。そして、神を愛し、人を愛する生活をすることです。そうすれば、主が来られる時、主の花嫁として迎えて下さいます。
ハーベストタイム誌にこんなことが書いてありました。買い物をする時、二種類の買い方がある。一つは必要だから買う場合と、もう一つは宣伝を見て、「こんなものがあるのか、あったら便利だろうな」と思って買う場合である。これを福音宣教に置き換えると、最初の場合が自分には救いが必要であることを知って、教会に行く人です。二番目は誰かが福音の情報を与えてくれました。それを聞いて、興味を持つ人です。そして、教会に行って、救われる人たちです。主の再臨のメッセージは、まさにこれから先に起ころうとすることの情報提供です。このメッセージを聞いて、自分の生き方をどうするのか決めるのはあなた自身です。イエス様は愛の方ですから、主を信じて、永遠の命をいただき、天国で幸せに暮らすことを願っておられます。
ヨハネ3:16「3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」
また、すでにクリスチャンの方は「目を覚ましていなさい。」というみ言葉を覚えましょう。目を覚ましていつも主をお迎えできるようにしておきましょう。