阿南神召キリスト教会 礼拝メッセージ

徳島県の阿南神召キリスト教会の礼拝メッセージです

聖霊のバプテスマ

2012-05-28 23:05:28 | Weblog

2012.5.27.聖霊のバプテスマ

聖書 使徒2:1~8、ヨエル2:28~32

題  聖霊のバプテスマ

暗唱聖句 使徒1:8

はじめに

今日はペンテコステの日です。ペンテコステとはユダヤの収穫をお祝いするお祭りの一つです。過ぎ越しの祭りから50日目にあたり、大麦の収穫をお祝いする祭りです。イスラエルの国ではこの日に大麦の収穫祭が行われます。ペンテコステと言うのは「50日目」と言う意味で、新改訳の聖書では「五旬節」と言われています。イスラエルの国ではこの「ペンテコステの日」に神がモーセに十戒を授けたという言い伝えがあります。今年、イスラエルのナタニヤフー首相は首相官邸でこれから「定期的に聖書学習会をする」と公に発表したそうです。首相は、「聖書こそイスラエルの財産。この研究会を通して、国民の聖書への愛を永続させたい」と述べているそうです。そして、ルツ記を学んだそうです。ルツ記はこのペンテコステの日に読まれる聖書の箇所です。穀物の収穫を記念する祭りだからです。(ルツとボアズの家系からダビデが生れ、そののち、イエス・キリストがおう生れになります。)

神様はこの楽しいお祝いの日に聖霊を弟子たちにお与えになりました。聖霊に満たされたペテロたちはイエス様を力強く証しし、3000人が救われて最初の教会が誕生したのです。

ペンテコステの日に何が起こったのか見てみましょう。

1. 聖霊のバプテスマの約束

イエス様は天に戻られる前に弟子たちを集めて聖霊のバプテスマの約束をしてくださいました。(使徒1:4~5)「あなたがたはエルサレムを離れないで天におられる神様の約束を待ちなさい。あなたがたはもう間もなく聖霊によってバプテスマを受けます。」

バプテスマとは「浸される」という意味です。ですから「聖霊のバプテスマを受ける」というのは「聖霊によって浸される、つまり聖霊によっていっぱいになる、満たされる」ということなのです。

例えば:これは聖霊に満たされると言うことを視覚的に表現したものです。コップに水を入れます。そのコップにはいつも水が入っています。コップは心です。水は聖霊です。イエス様を信じた時から聖霊はいつも心の中に住んでくださいます。だから、いつも一緒です。でもその量については見えないのでわかりません。空の部分もあります。空の部分が多いと清くないことを考えるでしょう。しかし、祈るたびに聖霊が注がれたら、そのコップは聖霊の水でいっぱいになります。そしてあふれます。このあふれる時に異言が出てくるのです。溢れた水は、最初はちょろちょろでも、やがて小川になり、そのうちに大きな川になって行きます。そして、福音に触れる人たちの祝福の源になってゆくのです。

 

さらにイエス様は言われました「聖霊に満たされるとき、あなたがたは大きな神様の力を受けます。それによって、エルサレムからユダヤ、サマリヤの全地方、そして地の果てまで私のことを証しする証人になります。」(使徒1:8)

聖霊に満たされると、その人には世界中にイエス様のことを証ししていく力が与えられます。「イエス様のことを伝えたい」という熱い思い、伝道に熱心な心が与えられるのです。この心にある聖霊の泉は人々の慰めになり、力になり、大きな影響力となります。素晴らしい聖霊の恵みですね。

 

実は、弟子たちはイエス様がいなくなることをとても悲しみ、不安でいっぱいでした。イエス様が十字架にかかられた時もみんな逃げてしまいました。イエス様がお墓に葬られたあとはみんなで家に閉じこもってかぎを掛けて小さくなっていたのです。「これからどうしたらいいんだろう。」全く、どうしてよいかわからない弟子たちでした。そんな弟子たちに復活の主は「聖霊に満たされるとき、あなたがたは大きな神様の力を受けます。」と励ましてくださいました。イエス様は素晴らしい聖霊の希望の約束を与えてくださったのです。

2. 約束を信じて心を合わせ、熱心に祈り求めた。

イエス様がオリーブ山から天に昇られると、弟子たちはさっそくイエス様に命じられたとおりエルサレムに帰りました。エルサレムは弟子たちにとっては、恐ろしい所でした。イエス様を迫害して十字架に付けた人々が沢山いる所でした。ですから、エルサレムに留まるには勇気が必要でした。しかし、弟子たちはイエス様が命じられたことに従ってエルサレムにとどまったのです。そして泊まっていた家の屋上に上がってみんなで心を合わせてお祈りを始めました。そこにはイエス様の弟子たちをはじめ、イエス様に従ってきた女の人たちやイエス様のお母さんのマリヤ、またイエス様の兄弟たちもいました。みんなイエス様を信じて従ってきた人たちです。集まった人たちはただひたすらイエス様の約束を信じて心を合わせて祈り続けました。聖霊の約束を求め続けたのです。だれも、聖霊がどのようなものかわかりません。聖霊に満たされるということがどのようなことなのかもわかりません。また、それがいつどのような形で与えられるかもわかりませんでした。でも彼らはただ約束を握って、信じて、心を合わせて祈り求め続けたのです。心を合わせて祈ることがとても大切なことでした。

3.ペンテコステの日に約束通り弟子たちは聖霊に満たされ変えられました

祈り始めてから10日が過ぎました。五旬節(ごじゅんせつ・ペンテコステ)というユダヤ人の祭りの日になりました。穀物の収穫祭の日です。弟子たちは皆同じ所に集まっていました。すると、突然天から激しい風が吹いてくるような響きが起こりました。そしてそれは彼らがいる家全体に響き渡りました。そして、天から炎のような分かれた舌のようなものが現われて、そこにいたすべての人の上にとどまったのです。するとどうでしょう、そこにいた人たちがみんな聖霊に満たされたのです。そして、聖霊の導かれるままに自分の知らない外国の言葉(異言)で突然話し出したのです。

驚いたのは物音を聞いて集まってきた人たちです。そこには外国から集まって来た人々がたくさんいました。「これはいったいどうしたことか!?」自分の国の言葉で神様のことを話しているのです。その彼らの姿にびっくりしてしまいました。ある人はお酒に酔っているのではないかといってあざける人もいました。

そこで、ペテロがほかの11人の弟子たちと一緒に立ちあがって言いました。「みなさん、聞いてください。今は朝の9時ですから私たちはお酒に酔っているのではありません。これは預言者ヨエルがかつて預言したことが実際に起こったのです。終わりの日に、神様はイエス様を信じるすべての人にご自身の霊である聖霊を与えてくださるのです。あなた方が十字架にかけたイエス様こそ私たちを罪から救う救い主です!」ペテロは集まって来た人々にイエス様を大胆に証ししました。

ペテロは、イエス様が十字架にかかる時に怖くなって三回もイエス様を否定してしまいました。しかし、今はその時のペテロとは完全に違います。人が変ってしまったようです。大胆になりました。聖霊に満たされた時、ペテロには力が与えられ、イエス様を大胆に証しする証人に造りかえられました。そしてその日、ペテロのメッセージを聞いてイエス様を信じた人が3000人も起こされたのです。こうして最初の教会が誕生しました。教会は聖霊によって生み出されたのです。そして、最初の教会はペンテコステの教会だったのです。この日から、聖霊が働いて、世界的な規模で魂の収穫が始まりました。エルサレムから、ユダヤの国へ、そして、サマリヤ地方へ、その後、全世界へ、すなわち地の果てまで福音が伝えられて行きました。

 聖霊によって語ることのできた言葉は「異言」と呼ばれる言葉でした。この言葉は話している人は、何を話しているのかわからない言葉です。でも、聞いている人にはわかる場合もあります。ペンテコステの日には遠い外国からのお客がたくさん来ていましたし、その土地に住んでいる外国からの移住者もいました。その外国人の人たちが、「私たちの国の言葉で神様のことを語っている」と言っています。ですから、懐かしい自分の国の言葉を聞いたのだと思います。中には語っても理解できない言葉を語ることが多くあります。また、異言を解き明かす人もいます。

異言には2種類の異言があります。一つ目は「聖霊に満たされたしるしとしての異言」です。もう一つは、「異言の賜物」です。異言の賜物は「その人の徳を高める」と聖書は教えています。人に話すのではなく、神に向かって話し、神と自分との交わりを深めるものです。パウロは「わたしは誰よりも多くの異言を語ります」と言っています。しかし、同じところで、パウロは、他の人に対しては、理解できる言葉を話すようにと勧めています。また、理解できる言葉で祈ったり、賛美したりすることも知性の実を結ぶためには必要ですと言っています。霊的にも知的にも成長していくには、両方が必要です。

 

 このペンテコステの日に注がれた聖霊の満たしは特別でした。人々を造り変えました。人々を救いに導く大胆な力が与えられたのです。私たちは聖書時代に起こったことは現在でも起こると信じています。

ヨエル書にも「終わりの日には全ての人々に聖霊を注ぐ」と約束されています。その約束は果たされました。そして今も続いています。

「その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。

 2:29 その日、わたしは、しもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。」(ヨエル2:28~29)

このようなすばらしい恵みの時代に私たちは生きているのです。

聖霊は人の考えや限界を超える力を持っておられるお方です。

この聖霊のバプテスマを受けて、人生が変わった人たちがたくさんいます。アルコール依存、麻薬依存、また自分ではどうすることもできない罪の性質から解放してくださったのです。

私の友人の一人は、聖霊のバプテスマの事は何も知らなかったそうです。ある日、突然、知らない言葉が飛び出してきました。悩んだそうです。自分はおかしいのではないかと。しかし、主に委ねて祈っているうちに、心が軽くなって、喜びが湧いてきたそうです。それは、それは不思議な喜びだったそうです。そして、牧師に相談したら、それが聖霊のバプテスマだと教えられ、とても安心したと話してくれました。

まとめ

イエス様は求める者を聖霊で満たしてくださると約束して下さっています。聖霊に満たされる時、神様に従いたい、神様を証ししたいという情熱、熱心さが、私たちの心の内側に与えられるのです。弟子たちは神様から与えられるそのエネルギーによって大胆にキリストに従いました。キリストを証しする人へと変えられたのです。祈りと賛美とみことばの約束を握って神様に近づきましょう。心を神様の前に開きましょう。あなたの心を聖霊に委ねましょう。大切なことは、神様に向かってあなたの心が解放され、自由にされていくことです。罪が示されるなら悔い改めましょう。また誰かにお祈りしてもらうことも良いことです。しかし、何よりもあなた自身の唇を開いて神様に求めましょう。唇を神様に委ねきる時、神様があなたの舌をコントロールしてくださり、神様が与えて下さる言葉(異言)で自由に祈らせてくださいます。

「ハレルヤ」と言う祈りの言葉は聖霊のバプテスマを受ける時、心を解放するのに役立つそうです。理由は単純で、誰でも「ハレルヤ」と言えます。知性を使う必要もありません。また、これは主をほめたたえる言葉です。唇や舌を動かして主をほめたたえ、心を開け渡すことです。そうこうしているうちに、神様が舌を支配してくださり、異言を語らせてくださいます。

自分一人で、聖霊のバプテスマを求めて、祈る時は、最初に「十字架の血潮で私を覆ってください。」と祈ってから、求めて行きましょう。

ご一緒にお祈りしましょう。


共におられる聖霊

2012-05-23 13:32:55 | Weblog

2012.5.20.「共にいてくださる聖霊」

聖書  Ⅰコリント6:19~20

    ヨハネ14:16~17

題   共にいてくださる聖霊

暗唱聖句 Ⅰコリント6:19

 

はじめに

 ペンテコステの日が近づいてきました。イエス様の弟子たちはイエス様が昇天された後、2階座敷に集まって祈り始めました。そして10日後に聖霊が下りました。この10日間を「ペンテコステ祈祷(きとう)旬間(じゅんかん)」として、アッセンブリー教団は祈りに打ち込むように勧めています。今年は18日~27日までです。この期間、あるグループは世界的な規模でとりなしの祈りをしています。皆さんも友だち同士集まって、良く祈り、聖霊に満たされて頂きたいと思います。

さて、あなたは一人ぼっちだなと感じたことはありますか?どんな気持ちでしたか?イエス様はわたしたちが孤独にならないで、神様に従っていくことができるように助け主を与えると言われました。「助け主である聖霊を遣わす」と約束して下さいました。聖霊とは一体どういうお方なのでしょうか?

 

1.「助け主である聖霊を遣わす」という約束

イエス様は十字架にかかられる前、最後の晩餐の席で弟子たちに自分が去っていくことについて話されました。驚く弟子たちに、自分がいなくなった後には、天の父なる神様にお願いして、自分の代わりにもう一人の助け主である聖霊を遣わしてもらうことを約束されました。イエス様が十字架にかかり、死んで葬られた後、3日目によみがえられました。イエス様はよみがえって、40日間、弟子たちに現れて、神の国について教えられました。その時、「エルサレムを離れないで、父の約束を待ちなさい。」と命令されました。

(使 1:4 )「彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」

イエス様が昇天された後、2階座敷で心を合わせて祈っていると、ペンテコステの日に弟子たちの上に聖霊が降りました。そして、聖霊がイエス様の働きを引き継がれ、弟子たちと共に、弟子たちを通して全世界的規模で福音宣教を開始されました。この時から、時代は福音宣教の時代、または、教会時代と言われるようになりました。聖霊は「神の霊」とも「イエスの御霊」とも言われています。聖霊は、神様の霊であり、神様ご自身です。

聖霊が働かれると私たちの内にある罪を教えてくださいます。「その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。」(ヨハネ16:8)そしてイエス様を信じるようにと導いてくださいます。私たちは聖霊によらなければ自分の内にある罪がわからず、イエス様を「神の子救い主である」と認めることはできないのです。Ⅰコリント12:3「また、聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です』と言うことはできません。」

❑2. 聖霊はイエス様を信じる人の内に住まわれる。

イエス様を自分の罪からの救い主として信じる人の心には聖霊が住んでくださいます。聖霊はイエス様を信じるすべての人の内に住んでくださっているのです。イエス様を信じてからお祈りや賛美が心から捧げられるようになったと感じる人もいるでしょう。聖書を読むのが楽しくなったという人もいます。また、今まで何とも思わなかった罪の行いに対して罪悪感を覚えるようになったということもあるかもしれません。それは聖霊があなたの内に住んでくださり、働いておられるからです。また、感覚的に何も感じない時もあるかもしれません。それは聖霊がどこかに行ってしまわれたのではありません。聖霊は確かに信じる者の内に住んでおられるのです。あなたが独りぼっちになることはもうないのです。しかし、時に私たちはイエス様を信じた後も神様中心の生活ではなく自分中心の生活をしてしまうことがあります。そのような時は聖霊の語りかけが聞こえにくくなることもあります。また、疲れすぎて、うつ状態のようになっている時も、聞こえにくくなります。体調管理は大切です。今のあなたはどうですか?

聖霊はあなたの内に住まわれ、あなたの人生を神様のすばらしい祝福で満ちたものへと導きたいと願っておられます。罪の奴隷であった私たちを、神様はイエス様の尊い十字架の血潮という代価を払って買い取ってくださいました。そして、私たちの内にご自身の霊である聖霊を住まわせてくださいました。ですから、もはや私たちのからだは神様のものであって自分自身のものではありません。Ⅰコリント6:19~20「6:19 あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。6:20 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。」

ですから、もう罪の奴隷ではないのです。聖霊の声をいつも聞きながらその導きに従っていく者なのです。

しかし、私たちは肉体を持っているので、肉の力も働きます。その時、肉の働きに身を任せるか、それとも聖霊のみ声を聞くか、そして従うかどうかを決めるのは自分自身です。自分が自分のリーダーです。他の人は責任を取ることはできません。その結果、肉の働きを選んだ人は肉の働きの結果を刈り取ることになります。当然、悪い実を刈り取り、クリスチャンであっても、人生をダメにするのです。しかし、御霊に聞き従う人は良い結果を生み出し、祝福された人生を歩みます。

「見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。」(Ⅰサムエル15:22)

聖霊に聞き従うことは何よりもすばらしい祝福につながっています。しかも、増加の法則で、30倍、60倍、100倍の豊かな実を結ぶ人になるのです。

3. 聖霊はいつも共にいて助け導かれる

聖霊はいつでも、どこにいてもイエス様を信じる人々と共にいてくださいます。どこか特別な場所に行かなければ神様に出会えないのではありません。あなたがどこにいても、どんな状態でも神様を呼び求めるなら聖霊はあなたに答えてくださるのです。私たちは携帯でメールをやり取りしますが、それよりも早く状況を察知してくださるのが聖霊です。なぜなら、イエス様は「わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。」(ヨハネ16:7)と約束されたからです。緊急事態にはそれに即応した助けを与えられます。また、日々、みことばや祈りの中で私たちを慰め、励まし、正しい方向へと導き、時には間違いを教えてくださることもあります。

そうして私たちは聖霊の働きの中で少しずつイエス様に似た者へと造り変えられていくのです。

(Ⅱコリント3:18)「 私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」

聖霊に導かれて私たちの考え方や言葉、行動、態度がイエス様のように変えられていく時、それはイエス様の栄光を表します。聖霊に力を与えられて情熱をもって福音を伝えていく時、イエス様を証ししているのです。聖霊は、私たちを通して、まるでイエス様が現代に生きておられるかのようにして、イエス様を証ししていくことができるのです。こうして、聖霊は私たちを通してイエス様をこの世に証しされるのです。イエス様が生きておられる時はイエス様を通して、神の栄光を表されました。しかし、今は、私たち一人一人を通して、神の栄光を表されるのです。なぜなら、聖霊が私たちの内に住んでおられるからです。聖霊が私たちのうちに住んでおられるので、私たちはキリストの体である教会です。私たちを通して、イエス様の愛の素晴らしさが伝えられるのです。

 

❑まとめ 

イエス様を信じる人々の内には聖霊が共に住んでくださいます。

イエス様はよみがえられて天におられる父なる神様の元に戻られましたが、代わりに助け主として聖霊が遣わされました。現代は目には見えない聖霊が、信じるすべての人々と共にいてイエス様がこの地上でなされたと同じように働いておられるのです。あなたは自分が一人ぼっちだと思ったことはありませんか?イエス様を信じるなら、あなたの内にはすでに聖霊が住んでいてくださっています。そして聖霊はあなたを助け導き、あなたを通してイエス様を証しするために遣わされているお方なのです。内住しておられる聖霊を感謝し、聖霊を信頼しませんか?聖霊の声に耳を傾けていきましょう。そして聖霊の導きに従う者になりましょう。

どうやって、聖霊の声を聞くことができるでしょうか。聖霊は礼拝のメッセージや毎日読む聖書のみ言葉から語られます。祈りの時に思い起こさせてくださいます。友人の証しなどからも語られます。

ですから、礼拝のメッセージをしっかり聞くことです。それから、毎日、聖書を読む習慣をつけましょう。「あなたのみ言葉は、私の足のともしび、私の道の光です。」(詩篇119:105) お祈りしましょう。 また、クリスチャンの友人の証しに耳を傾けましょう。


お母さんに感謝をささげよう。

2012-05-14 23:17:46 | Weblog

2012.5.13.母の日

聖書  エペソ6:1~3

題   お母さんに感謝をささげよう

はじめに

 今日は母の日ですね。私は母が亡くなってしまったので、もう、母にカーネーションを送ることはできなくなりました。お母さんが生きておられる方たちは、今のうちに、お母さんにプレゼントして、感謝を表してください。

この母の日の始まりも一人のお母さんが亡くなった事から始まりました。

1900年代、アメリカのある教会で長い間日曜学校の教師として奉仕を続けた婦人がいました。この方は子供たちにお母さんに感謝することを教えました。この方が亡くなって、しばらくしてから、娘のアンナさんが「お母さんに感謝を表したい」と思いました。そして、1908年5月8日に教会の追悼式で白いカーネーションを配りました。これがアメリカではじめて行われた母の日だそうです。この風習がアメリカのほとんどの州に広まりました。そして、1914年、その時のアメリカの大統領だったウィルソンが5月の第二日曜日を母の日と決めたそうです。

日本で母の日をお祝いするようになったのは、明治の末期だそうです。大正時代に教会でお祝いをしていて、しだいに一般でもお祝いされるようになったようです。昭和に入いると3月6日にお祝いをしました。この日は当時の皇后の誕生日であったそうです。日本で一般市民がお祝いするようになったのは戦後だそうです。

 

聖書の中にあるお母さんの姿を見てみましょう。今のお母さんたちと同じような母親の姿を見ることができます。

1.相続権を後押しした母

 旧約聖書の中には意外と相続権の争いのことが出てきます。その時、母親ががんばっているのです。アブラハムの妻サラは息子イサクの相続権を守るために、奴隷であったハガルとその子イシマエルを追い出しました。

また、母親の強いとりなしにより、ダビデ王の後継者として、王になったのはバテ・シェバの息子のソロモンです。神はソロモン王に智恵と富を授け、イスラエルを強固な国にされました。

 

2.癒しを願う母

新約聖書を読んでいますと、いろいろな箇所に母親の愛が溢れているところがあります。その中の一つにスロ・フェニキヤ生れのギリシャ人の女の人の話があります。(マタイ15:21~28、マルコ7:24~30)

イエス様がツロとシドンの地方に行かれた時の出来事です。イエス様はこの地方に来ていることを誰にも知られたくないと思っておられました。しかし、イエス様の名前は知れ渡っていたので、この異邦人の土地でも隠れていることはできませんでした。

ツロで早速カナン人の女の人が飛び出してきました。ツロ生まれのギリシャ人の女です。ユダヤ人ではありません。この女は叫び声を上げながら、イエス様の一行についてきました。「主よ。ダビデの子であるイエス様。救い主であるお方よ。わたしの娘をあわれんでください。悪霊につかれてひどく苦しんでいます。助けてください。」と叫んでついてくるのです。しかし、イエス様はこの女を無視して、何も答えられません。そこで、弟子たちは「あの女の願いを聞いて、早く家に帰してやってください。叫びながらずっとついてくるではありませんか。」とイエスさまに訴えました。しかし、イエス様は意外な答えをされました。「わたしはイスラエル人のために来たのです。イスラエル人以外の人には遣わされていません。」と答えられました。その当時優先順位としては、確かにイスラエルの家のために来られた方で、異邦人のためではありませんでした。(異邦人に福音が伝えられるのは十字架と復活の後です。)

しかし、この女の素晴らしい所は子供のために恥をかくのも、じゃまにされているのも承知の上で、イエス様に「子供の癒しを願ったのです。」この女の人は、イエス様の前に出て来て、ひれ伏してお願いしたのです。「主よ。わたしを助けてください。私の娘はとても苦しんでいるのです。」と言いました。イエス様はなおもダメだと言われました。「子供たちのパンを取り上げて、子犬に投げてやるのは良くないことです。」とまで言われました。「子供たちのパン」と言うのはイスラエル人たちに与えられる神の恵みのことです。しかも、「子犬」とまで言われています。「子犬」とは悪い表現です。しかし、この母親は子供を思うあまり、知恵が与えられました。知恵が浮かんできたのです。「主よ。その通りです。ただ、子犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」と答えました。「子犬でも余ったパンくずは頂くことができます。ですから、イスラエル人が頂く神の恵みのおこぼれを私の娘にも分けてください。私の娘はその少しの恵みで十分に癒されます。」と答えたのです。これを聞いたイエス様は感心してしまわれました。そして答えて言われました。「ああ、あなたの信仰は立派です。そうまで言うのですか。それなら、家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出て行きましたよ。」家に帰ってみると、悪霊は出て行き、彼女の娘は直っていました。

ここには、娘の苦しみを何とかして救いたいと言う母親の心が十分に表されています。イエス様に無視されても、あきらめませんでした。それはひたすら娘を思う母の愛でした。子供が苦しむと母親は自分の痛み以上に苦しむのです。代われるものなら代わってあげたいと願うものです。お母さんって、本当にいいですね。

 

3.成功を願う母(マタイ20:20~24)

 イエス様が十字架にかかられる時が近づいたころ、ゼベダイの子たちの母親がイエス様の所にやってきました。ゼベダイはガリラヤの漁師で、その子供たちも漁師でした。しかし、イエス様に「わたしについてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」と言われて、網を捨て、イエス様の弟子になったのです。彼らはゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネです。ヤコブとヨハネのお母さんは二人を連れて、わざわざ、イエス様の所にやって来ました。「特別なお願いがあります。」と言ったので、イエス様は「どんな願いですか。」と言われました。すると、お母さんは言いました。「わたしの二人の息子が、あなたの御国で、一人はあなたの右に、一人は左に座れるようにお言葉をください。」このお母さんは自分の子供を「一人は右大臣に、一人は左大臣にしてください。」と頼んだのです。すなわち、イエス様のみ国が確立した時には、自分の息子たちを国のトップの座に任命してほしい、その約束をしてくださいと願いに来ていたのです。(彼らはローマから独立したイスラエル国を想像していました。)

どこのお母さんも子供には成功してほしいと願いますね。コネも探します。できることは何でもやろうとするのがお母さんですね。

 

4.十字架に向き合ったマリヤ

イエス様のお母さんのマリヤさんの事については多く語られてはいませんので、わかりませんが、愛情豊かな人であったろうと思います。

マリヤは聖霊によってイエス様をみごもりました。この事は誰にも理解してもらえないことでしたが、幸い、夫のヨセフは理解してくれました。マリヤは信仰の人でした。み使いがきて、「聖霊によって身ごもります。男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。」と言われた時、驚きました。まだ結婚していなかったからです。しかし、「神とって不可能なことはありません」と言われると、「本当に。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのお言葉がこの身になりますように。」と信仰を持って受け取りました。

それから、しばらくの時が過ぎ、ヨセフとマリヤはベツレヘムに行くことになりました。そこで、イエス様がお生まれになりました。み使いは「救い主がお生まれになった。この方こそ、主キリストです。」と宣言しました。数々の不思議なことがありました。しかし、マリヤは、これらの事を全て心に留めて、思いめぐらしていました。

またイエス様が12歳の時のことです。過ぎ越しの祭りの後、イエス様は一人、神殿に残っておられました。両親はエルサレムを出て、3日の道のりを歩いて帰っていた時でした。ナザレの近くで、息子がいないので、びっくりした両親はあわてて引き返し、彼を探しました。すると、神殿で議論していました。母マリヤはイエスを大きな声でしかりつけました。「見なさい。父上も私も、心配してあなたを探しまわっていたのです。」イエス様は「どうして探されたのですか。自分の父の家にいる事をご存じなかったのですか。」しかし、両親は、息子イエスの言葉の意味が理解できませんでした。

この時も母マリヤは「これらのことをみな、心に留めておいた。」ようです。

こうして見ると、マリヤは叱るべき時は、権威を持って、叱ることができ、沈黙を守る時には沈黙できる、賢いお母さんであったろうと想像できます。

 母マリヤは時々成人したイエス様の前に姿を表しておられます。イエス様がなさった最初の奇跡の時には一緒におられ、喜んでくださいました。それはカナの婚礼の時で、水をブドウ酒に変えた奇跡です。それから、イエス様が有名になり、パリサイ人たちや律法学者、その他の指導者たちから中傷されるようになった時、母マリヤがイエス様を尋ねてきました。心配になったのでしょう。母親は息子の評判に敏感です。

 そして、もっともイエス様が苦しまれた十字架の時、母マリヤは十字架のイエス様を見守り続けたのでした。どんなにつらかったことでしょう。この時が早く過ぎ去るようにと祈りながら、見守っていました。人々が息子のイエスをあざけり、痛める時、マリヤはそれを見ていたのです。自分も体が溶けそうになるくらい痛みを感じながら、息子を見守っていました。「イエスの十字架のそばには、イエスの母と母の姉妹と、クロパの妻のマリヤとマグダラのマリヤが立っていた。」(ヨハネ19:25)

罪人になった息子を見守り続けるマリヤはどんなに強い母親だったことでしょう。もし、気の弱い母親だったら、十字架の刑のそばに近寄ることはできなかったことでしょう。

現代の母親たちと違うのはこのところです。現代の母親たちは娘、息子が良い子であるときは、「母です。」と誇りに思って言うことでしょう。しかし、いったん、悪いことをすると、「この子は私の子ではありません。」と言うのではないでしょうか。

母親はどんな時も子供を捨ててはいけません。調子が悪い時にこそ、抱きしめて励ましてあげることです。

十字架の刑で苦しんだマリヤにどのように希望がやってきたのでしょうか。マリヤはイエス様が神の御子であり、救い主であることを信じていました。なぜなら、聖霊によって身ごもった子供だったからです。どんなことも神の御計画の中にあることを信じていました。イエス様が語られた十字架の贖いと復活を信じていました。3日目にイエス様が本当に復活されたとき、どんなに嬉しかったことでしょう。マリヤはどん底の痛みを経験しましたが、復活されたイエス様に出会って、再び希望を持つことができたのです。この希望はもう誰も打ち消すことのできない大きないのちの光でした。

 

5.まとめ

 母親はいろいろな時に子供のためにがんばってくれます。「女は弱いけれども、母親は強い」と言われます。母は本当に忍耐深く強くなければ、母親としてやっていくことができません。私の友人の一人は「ミス・資生堂」でした。とても美しい人でした。その人は言いました。私はテレビの仕事が大好き、なぜなら、この方がずっと易しいから。私は家にいて、5人の子供の世話をするのはとても大変、もし夫が手伝ってくれなかったら、やっていくことはできないと言っていました。家事は目に見えませんが重要な仕事です。働き者のお母さんに感謝の気持ちを伝えましょう。

聖書は「父と母を敬え」と言っています。十戒の中の人間関係では、最も大事な戒めです。どの時代も父親の権威、母親の権威を認めて、両親に従って行く時、家庭は平和に治められていました。そして子供たちも健やかでした。しかし、現代の家庭はこわれています。離婚、子供の虐待など、信じることのできないほど、家庭はこわれ、「父母を敬え」とは言えない状態になってきました。しかし、それでも、神の法則は変わらず、父母を敬うことによって幸せになり、長生きをするのです。このこわれた家庭にイエス様をお迎えし、神の国をつくっていく時、家庭は癒され、回復していきます。壊れた家庭が回復していくように祈りましょう。そして子供たちが、皆、お母さんの豊かな愛の中で平和に成長できるように祈りましょう。

(エペソ6:1~3)

6:1 子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことだからです。6:2 「あなたの父と母を敬え。」これは第一の戒めであり、約束を伴ったものです。すなわち、6:3 「そうしたら、あなたはしあわせになり、地上で長生きする」という約束です。


互いに愛し合いなさい(その2)

2012-05-10 16:19:55 | Weblog

2012.4.29.愛し合いなさい(その2)

聖書 ヨハネ13:34~35

題  互いに愛し合いなさい(関係づくりの具体策)

はじめに

1.宣教の難しい所で、何が起きているか。

2.教会とは人々のこと  

3.今ほど教会が必要とされている時はない

4.どうやって友情を築くか、友情を築く方法

 

はじめに

先週の木曜日にはラブソナタのコンサートがありました。このコンサートは、韓国のオンヌリ教会が日本人の救いのために、一生懸命祈り、捧げ、愛を示してくださっているものです。キリストの愛をこのラブソナタのコンサートに現わしてくださっています。韓国の有名なアーティストたちが忙しいのに時間を捧げて出演してくださっていました。

メッセージも「希望」と言う題で、今の日本にぴったりのメッセージでした。「永遠に続く希望はイエス・キリストの十字架と復活にある」とわかりやすく、語ってくださいました。メッセージの途中でビデオを見せてくださいました。それは、あるお父さんが脳性まひの息子と一緒にトライアスロンに出場して、一緒に走っている姿でした。お父さんが汗を流しながら走っている姿は感動的でした。息子が、初めて言葉を語った時、「走る」とパソコンに入れたそうです。それで、このお父さんは息子を走らせてあげようと思って、走る経験のなかったお父さんが、走るトレーニングを始めました。また、子供がトライアスロンに出たいと言うので、水泳も始めました。息子は障害児ですから、どこでも、ただ、座っているだけです。走っているのはお父さん、泳いでいるのもお父さんです。「この世のお父さんでさえ、こんなに一生懸命子供を愛しています、ましてや、天のお父さんはもっと私たちを愛して、希望を与えようとしています。神の御一人子であるイエス・キリストの中に全ての希望があります。」と語ってくださいました。

メッセージだけでなく、もっと感動したものがありました。わたしがもっと感動したものは韓国の兄弟姉妹たちがたくさん高松に来て、「あなたを祝福します。」と表現してくださったことです。言葉が通じるように、プラカードに「祝福します。」と日本語と英語で書いて、それを胸に持って、迎えてくださいました。みんなボランティアで来てくださったのです。プレゼントもくださいました。祝福のヘヤ―バンド、紙飛行機、CDやトラクトなどを一緒に入れたバッグ。全部、祈りながら、自分たちで作ってくださったものでした。全てに愛が込められていました。2000個以上、用意するのは大変なことだったと思います。その日以来、わたしの心にずっと韓国の人たちの温かい愛が流れ続けているのです

  韓国の人々が現わしてくださった愛、祝福、これこそ、生きた愛の関係づくりだと思います。とても素晴らしいお手本を見せていただいたと思っています。

1.宣教の難しい所で、何が起きているか。

日本は昔より宣教が楽になりました。土壌は柔らかくなりました。タイも土壌が柔らかくなってきました。過激なイスラム教の国々でも柔らかくなってきました。イランは過激なイスラム教国ですが、クリスチャンの成長率は19.6%です。4年間でクリスチャンの人口は2倍になりました。そのために迫害が激しくなっています。アメリカの成長率はわずか0.8%です。

パキスタンでも土壌が柔らかくなってきています。パキスタンでは3000のモスクの長がクリスチャンになりました。コーランにはイエス・キリストは預言者であると書かれています。そこから「イエスに従う者」といわれています。彼らは新生したクリスチャンです。この長は、ある時、心臓発作が起きて、病気になりました。心臓の血管が3つふさがれていました。3つのバイバス手術をしなければなりません。パキスタンの病院では難しい手術です。この人の意識がなくなった時、イエス様が来てくださいました。古い動脈をつかんで取り除き、新しい動脈を与えてくれました。イエス様が来て、心臓の血管を取り変えてくださったのです。この事を国営放送で証ししました。手術も奇跡ですが、国営放送で証ししたと言うことも奇跡です。まだ続きがあります。

タリバンが彼を殺そうとしました。車に乗っていました。車に向かって銃を乱射しました。一緒に乗っていたボディガードは殺されました。しかし、この人は助かりました。この人にも銃弾が当たったのです。洋服は穴があきました。しかし、身体を銃弾が貫通することはなかったのです。銃弾が体と服の間から落ちてきました。

ベン先生は、この人から直接この話を聞いたそうです。銃弾も見せていただいたそうです。

 また、もう一つ難しい所があります。

マカオです。マカオはギャンブルの国です。産業はギャンブルが80%です。麻薬、売春、お金の高利貸しなどです。マカオにある65年も歴史がある教会は、現在、会員が6人です。牧師夫妻、子供2人、おじいさん、あばあさんです。

そこへ、ベンさんの秘書であったイザベラさんが宣教師になりたいと言いだしました。そこで、「マカオに行きなさい」と言いました。彼女はその前には何の準備もありませんでした。戦略を尋ねるとこう言いました。「毎日、マクドナルドに行きます。3人に会います。友だちになります。毎日行きます。何人かとは良い関係を築くと思います。1ヶ月後、きっと新しいセルを生み出す事ができます。12ヶ月後、12のセルをつくります。成功率は50%、それでも6つのセルができます。」と言いました。3年経って、彼女の教会はマカオで2番目に大きな教会になりました。彼女は訓練学校をつくって、育てました。そしてマカオ人が宣教師になりました。9年いました。その後、教会をマカオ人にまかせました。彼女は新しい宣教地に行く予定です。

彼女はどうやって関係を築いていくかを知っていました。

2.教会とは人々のこと 

教会は「エクレシア」です。エクレシアとは「召しだされた神の民」のことです。神によって、召しだされた神の民です。すなわち「人々」のことです。

教会は建物ではありません。宗教的な信者の組織でもありません。礼拝式でもありません。こういう物を全部取り除いても教会であることはできます。しかし、人々を取り除くと教会はできません。なぜなら、教会は「人々」だからです。中国では家が取り上げられたり、聖書が焼かれたりしました。そうすると教会は100倍に増えました。

イエス様は「出て行って、人々を弟子としなさい。」と言われました。大切なのは人々です。あなたの存在です。イエス様は人々を訓練されました。イエス様は弟子たちを残されました。どうやって関係をつくっていくか、実践する必要があります。私たちが出て行って、人々と出会うなら、関係が築けます。

行く店によって、出会う人々が違います。例えばコンビニストアでは若い人が働いています。中国では人々と出会うために店を開きました。最初の店は楽器の店、ここでは若い人とたくさん出会いました。次はタピオカティの店をつくりました。若い人がたくさん来ました。次はマクドナルドでした。若い人が来ました。

 

3.今ほど教会が必要とされている時はない

現代は多くの人々が孤独に陥っています。都市化によって孤独になっています。技術の革新によって孤立し、更に問題は深刻になっています。インターネットのフェイスブックは偽りです。友だちがいるように思えても、心の本心を書くことはできません。この事によってもっと孤独になるのです。今こそ、本物の愛を与える教会になるべきです。教会に於いても表面的な付き合いが増えています。

離婚も増えています。子供たちのいじめも増えています。引きこもりも増えています。関係が崩壊しています。残虐さと暴力が増えています。社会問題も増えています。自然災害も増えています。児童虐待も毎年増え続けています。なぜ、親たちは子供を虐待するのでしょうか。

このような時代は教会を必要としているのです。中国人も日本人も、愛することが得意ではありません。どうやって、愛することができるように、自分の殻を破って行くことができるでしょうか。

日本人も愛することが不得意です。生活の中で愛することが最も大切だと思っていません。父親は忙しく働いています。それは家族を養うためだと思っています。そして、家族との関係をつくることを後回しにしているのです。おかしな習慣があります。いちばん身近な人を大事にしないで、お客さんを丁寧に扱うのです。友だちが親しくなると、ケンカして、友達で無くなります。

天地の造り主は私たち人間を一人一人違うように造られました。それぞれの良さを引き出して、協力するならば、素晴らしい事ができます。愛することが不得意な民族ですが、イエス人になって、聖書の文化を第一にしましょう。お互いに愛し合うことが一番大切です。

「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」(ヨハネ13:34~35)

 

4.どうやって友情を築くか、友情を築く方法

①自分から率先して話しかけるようにする。

②メンツにこだわらない。普通やらないことをやってみる。

③関係を大事にする。関係を利用しない。誠実に関係を保つ。

④趣味を持つ。また、他人の趣味に関心を持つ。趣味を持たなければ、他人と関わるものがなくなる。

 中国ではウオッチマンニーの影響を受けています。彼は「霊的なものに価値がある」と教えました。しかし、そうではなく、霊、魂、肉体の3つとも重要で、人間は「全人格的な存在」です。

ゴルフは良いですね。3時間歩く間にいろんなことが話せます。

⑤ユーモアを持つ。笑う。ユーモアにたけるようになる。笑うことにたける。

⑥時間を共に過ごす必要がある。時間の無駄遣いではない。

⑦自分勝手に決めつけない。相手は忙しいだろうと勝手に想像しない。遠慮しないで、会いに行く。

⑧相手の好きなことがわかったら、一緒にやって楽しむ。共通の趣味を探す。スケートボードを一緒に見たり、やったりする。

⑨相手から教えてもらう。得意なことを教えてもらう。

⑩ 男性は話をするのが苦手。男は行動するのが好き。女性は話すのが好き。

⑪ 楽しむことを学ぶ。

⑫ くだらない話をすることを学ぶ。バカな話をするのは良いことです。軽い楽しい話をする。

⑬ 相手の良いことについて考える。また、相手の良い所をほめる。

⑭ 他の人々に対して、純粋に興味を持つ。

⑮笑顔で接する

⑯名前を覚える。

⑰良い聞き手になる。

⑱他の人のためになるように話す。

⑲相手が自分は大切にされていると感じるようにする。

 

中国では「幸せ」とは「開いた心」と書きます。まじめな顔ではみ言葉は入ってきません。楽しい人間関係を過ごすことです。特に一緒に笑うことが大切です。

良きサマリヤ人の話を覚えておられると思います。サマリヤ人は倒れていたユダヤ人を介抱し、宿屋に連れて行きました。愛する事を何気なく実行したのです。イエス様は「あなたも行って同じようにしなさい。」と言われます。