阿南神召キリスト教会 礼拝メッセージ

徳島県の阿南神召キリスト教会の礼拝メッセージです

イサクの花嫁探し(その2)

2013-02-24 23:21:37 | Weblog

2013.2.24.イサクの花嫁探し(その2)

聖書 創世記24:28~40、67

暗唱聖句

創世記24:60

「彼らはリベカを祝福して言った。『われらの妹よ。あなたは幾千万にもふえるように。そして、あなたの子孫は敵の門を勝ち取るように。』」

 

はじめに

1.僕(しもべ)はリベカと家族の説得する

2.リベカの決断

3.イサクとリベカの出会い

 

はじめに

先週からイサクの花嫁探しのメッセージをしています。この中にはたくさんの学ぶことがあり、ストーリーにも興味深いものがあります。息子イサクは母サラを亡くし、年は40歳、しかし、カナンの地では息子にふさわしい娘が見つかりませんでした。イサクは神の御計画を継承するただ一人の息子です。カナンの娘たちはふさわしくありませんでした。なぜなら、カナンには土着の偶像(バアル、アシタロテ、ケモシ、モレクなど)が浸透していました。偶像礼拝の習慣を持った娘たちをめとると、アブラハム家に神の忌み嫌われる偶像礼拝の習慣がその娘を通して侵入してくるからです。アブラハムの神は天と地を創造された、まことの神で、目に見えない神でした。神はアブラハムとその子孫にカナンの全土を所有させると永遠の契約をされたのです。その神の計画はアブラハム家の子孫を通して成就されていきます。(現在も永遠の契約の中に入っています。ですから、紀元70年から約2000年の流浪の末、カナンの地を再びユダヤ人に返し、イスラエルの国を復興させてくださったのです。)神はアブラハムをウルの地から呼び出し、カナンの地を受け継ぐ器とし、その神ご自身がアブラハムの神となられたのです。ですから、この嫁探しというのは真実の神に仕える大変重要な出来事でした。アブラハムは息子の嫁探しを僕たちの中でも一番信頼している最年長のしもべに託しました。僕はアブラハムの命令に従って、彼の故郷のウルの国(イラク)に旅立ち、そこで、親類の娘と出会いました。その娘の名はナホルの妻ミルカの子でベトエルの娘、リベカでした。ナホルはアブラハムの弟です。

 1.僕はリベカと家族の説得する

 井戸のそばでアブラハムのしもべと出会ったリベカは、走って家に帰り、母の家の者に井戸のそばで親戚の人に出会ったことを伝えました。そうすると、リベカの兄ラバンがそのことを聞いて、とても興味を持ちました。それはリベカが高価な飾り物をしていたからです。アブラハムの僕はリベカに金の鼻の飾り輪と金の腕輪を送って、その場で鼻と腕につけてあげていたからです。ラバンはその高価な贈り物に心が引かれました。そして僕の所に走って行ったのです。そして泉のほとりにラクダと一緒に立っている年老いたアブラハムの僕を見つけました。そして、言いました。「良くいらっしゃいました。主に祝福されたお方。どうぞ、外に立っていないで、中に入ってください。私たちの家にはあなたたちの為の部屋も、ラクダの為の場所も用意してあります。」

それで僕(しもべ)は家の中に入りました。ラクダの上にあった荷物は解かれて、ラクダにはわらとえさが与えられました。それから、僕の足と従者たちの足を洗う水も与えられました。お客は荒野を長い間旅をしてきたので、足はほこりまみれになっています。ですから、お客をもてなすとき、まず、足を洗う水を差しだし、歓迎します。それから、手を洗う水も当然だされたと思います。なぜなら、彼らの前に食事が出されたからです。ユダヤ人は食事をする前には、必ず清めの儀式として、手を洗います。この手を洗う習慣によって、多くの伝染病から守られてきました。

 目の前に食事が出されました。お腹もすいている夕暮れ時のことです。皆さんだったら、どうしますか。日本人だったら、まず食べてから、商談に入りますね。ところがこの僕は食事に手をつけませんでした。彼の頭の中は今までの神の導きの素晴らしさに感動し、食事よりも花嫁のことを先に確かめ、神様の導きの確かさを、本当に知りたいと願っていたのです。彼の心は躍っていました。

 「私の用事を話すまでは食事をいただきません。聞いてくださいますか。」と言ったのです。すると、ラバンの家の人たちは「どうぞ、お話しください。」と言いました。それから、僕は話し始めました。

ストーリー

(創世記24:34~49)

 24:34 彼は言った。「私はアブラハムのしもべです。24:35 【主】は私の主人を大いに祝福されましたので、主人は富んでおります。主は羊や牛、銀や金、男女の奴隷、らくだやろばをお与えになりました。24:36 私の主人の妻サラは、年をとってから、ひとりの男の子を主人に産み、主人はこの子に自分の全財産を譲っておられます。24:37 私の主人は私に誓わせて、こう申しました。『私が住んでいるこの土地のカナン人の娘を私の息子の妻にめとってはならない。24:38 あなたは私の父の家、私の親族のところへ行って、私の息子のために妻を迎えなくてはならない。』24:39 そこで私は主人に申しました。『もしかすると、その女の人は私について来ないかもしれません。』24:40 すると主人は答えました。『私は主の前を歩んできた。その【主】が御使いをあなたといっしょに遣わし、あなたの旅を成功させてくださる。あなたは、私の親族、私の父の家族から、私の息子のために妻を迎えなければならない。24:41 次のようなときは、あなたは私の誓いから解かれる。あなたが私の親族のところに行き、もしも彼らがあなたに娘を与えない場合、そのとき、あなたは私の誓いから解かれる。』24:42 きょう、私は泉のところに来て申しました。『私の主人アブラハムの神、【主】よ。私がここまで来た旅を、もしあなたが成功させてくださるのなら、 24:43 ご覧ください。私は泉のほとりに立っています。おとめが水を汲みに出て来たなら、私は、あなたの水がめから少し水を飲ませてください、と言います。 24:44 その人が私に、「どうぞお飲みください。私はあなたのらくだにも水を汲んであげましょう」と言ったなら、その人こそ、【主】が私の主人の息子のために定められた妻でありますように。』

 24:45 私が心の中で話し終わらないうちに、どうです、リベカさんが水がめを肩に載せて出て来て、泉のところに降りて行き、水を汲みました。それで私が『どうか水を飲ませてください』と言うと、 24:46 急いで水がめを降ろし、『お飲みください。あなたのらくだにも水を飲ませましょう』と言われたので、私は飲みました。らくだにも水を飲ませてくださいました。 24:47 私が尋ねて、『あなたはどなたの娘さんですか』と言いますと、『ミルカがナホルに産んだ子ベトエルの娘です』と答えられました。そこで私は彼女の鼻に飾り輪をつけ、彼女の腕に腕輪をはめました。24:48 そうして私はひざまずき、【主】を礼拝し、私の主人アブラハムの神、【主】を賛美しました。主は私の主人の兄弟の娘を、主人の息子にめとるために、私を正しい道に導いてくださったのです。24:49 それで今、あなたがたが私の主人に、恵みとまこととを施してくださるのなら、私にそう言ってください。そうでなければ、そうでないと私に言ってください。それによって、私は右か左に向かうことになるでしょう。」

 僕はアブラハムの弟であるナホルの子ベトエルとリベカの兄であるラバンとを相手に一生懸命に話はじめました。

 彼はアブラハムの僕であることを紹介しました。自分の名前も出していません。完全にアブラハムの代理を務めています。そして、もう一つはアブラハムの神をほめたたえています。「アブラハムの神はアブラハムを祝福されました」と言っています。「神が祝福されたので、ナホルの兄のアブラハムは富んでいます。大金持ちです。」と紹介しています。彼は花嫁として送り出す親の気持ちになって話しています。子供に幸せになってほしいと思うのはどこの親も一緒です。その時、お金の苦労はさせたくないというのも親としては当然です。ラバンにとっては妹の結婚相手が金持ちであるかどうかは大切なことだったのではないかと思います。しかし、この僕はお金のことではなく、神の祝福について語っています。神の祝福の物語をベトエル達に語っているのです。ここまで、導いてくださったのは神様であることを強調しているのです。また、アブラハムとその息子イサクはあなた方の親類であることも強調しています。それは、リベカを寂しがらせないためです。そのためにリベカとの出会いを、感動をこめて語っているのです。聞いている方も、「そうか、神様の導きか。だったら、リベカを遠いカナンの地にお嫁に出すことにも賛成しよう。それがリベカにとっても良いことに違いない。」と確信を持つようになりました。そしてついにリベカをイサクの嫁にする決心をしました。二人は「これは主から出たことです。ですから、どうぞ、リベカを連れて行ってください。」と言いました。

彼らの言葉を聞いて、僕はまず、地にひれ伏して、主を礼拝しました。それから、彼は銀や金の品物や衣装を取り出してリベカに与えました。それから、リベカの母親や兄であるラバンにも高価な贈り物が与えられました。父ベトエルにはもっと高価な結納金が渡されたことと思います。そして、無事にリベカをイサクの花嫁としていただく話が決まりました。

この僕が新しい人間関係を作るためにふんだんに活用した物は何でしょうか。「愛を伝える5つの方法」があると言われています。愛を上手に伝えるなら、良い人間関係ができます。

その5つの方法とは次の方法です。(まず、相手の好みを知る、5つのうちのどれに価値観を置いている人かを知って、その人に合う方法で愛を伝える。)

1.肯定的な言葉をかける。(励まし、慰め)

2.時間を共に過ごす。

3.贈り物

4.献身的な行い(サービスをする)

5.スキンシップ(身体的な接触)

この僕は贈り物をふんだんに使いました。ここではきっと中東の結婚観に基づく贈り物のやり取りがあったと思われます。もう一つのことは「僕が神に祈ったこと」です。人間関係を祝福してくださる方はイエス様です。十字架は関係を象徴しています。縦軸は神と私たち、横軸は私たちクリスチャンのつながりです。ネットワークです。

 僕は花嫁のことが決まると食事をいただきました。これは花嫁をいただいたという契約にもなります。そして泊りました。

2.リベカの決断

 翌朝になって、ベトエル達が起きると、その僕は、「私の主人の所へ帰してください。」と言いました。すると、リベカの母や兄は「もう10日間ほど、私たちと一緒に居させてください。それから後でもいいではないでしょうか。」と言い出しました。僕はここで引き下がらないで、言いました。「私の旅を主が成功させてくださいました。このことを早く主人に知らせたいのです。だから帰してください。」と言いました。早く主人に報告したいということも本音でしょうがリベカの心や両親の気が変わらない前に連れて行きたいというのが本音だったのかもしれません。

両親はリベカを呼んで、彼女の気持ちを聞いてみました。「この人と一緒に行くか。」と尋ねました。すると彼女は「はい。まいります。」と答えました。そこで、彼らは、妹のリベカに乳母と召使たちをつけて送り出しました。アブラハムの僕たちはリベカを連れてカナンに向かって旅立ちました。その時、彼らはリベカを祝福して祈って送りだしたのです。

その時の祝福の言葉がいく千万にも子孫が増えるようにという言葉でした。私はこの言葉が阿南教会を指して言っておられるような気がしました。阿南は祝福されるのです。

創世記24:60

「彼らはリベカを祝福して言った。『われらの妹よ。あなたは幾千万にもふえるように。そして、あなたの子孫は敵の門を勝ち取るように。』」

これはかってアブラハムに主が告げられたことと一致しています。

(創世記22:17)

「わたしは確かにあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように数多く増し加えよう。そしてあなたの子孫は、その敵の門を勝ち取るであろう。」

リベカもまた主を愛する敬虔な賢い美しい人でした。アブラハムをウルの国から連れ出された神は、同じようにリベカを召してウルの国からカナンの地、今のイスラエルの国へと導かれたのです。新しい地に踏み出すことは勇気のいることでした。しかし、僕の証を聞いて神の導きを確信したのです。リベカは乳母と侍女たちを連れて嫁入りをしました。リベカの家もアブラハムに負けず、立派な家であることを示すものでした。

 3.イサクとリベカの出会い

僕と従者たちはリベカと乳母と侍女たちを連れてカナンの地へ出発しました。そして約1ヶ月後のことです。イサクは夕暮れの散歩に出かけました。彼が目を上げるとラクダの一行が近づいてきました。リベカもイサクを遠くから見つけました。リベカはラクダから降りて、「あの方は誰ですか」と尋ねました。すると、「あの方が私たちの主人であるイサク様です。」と答えました。リベカは急いでベールを取って身をおおい、イサクに尊敬をこめた挨拶をします。僕は神がなしてくださったことや自分のしたことなどをすべて伝えました。イサクはリベカを母サラの天幕に連れて行き、リベカと結婚しました。イサクはリベカを愛しました。リベカはイサクにとって神様からの贈り物でした。イサクは母を亡くした悲しみからやっと救われました。その時イサクは40歳でした。素晴らしいお嫁さんを授けてくださったのです。結婚のことで悩んでいる人がいるかもしれません。でも、神様はあなたのことを覚えて、よき伴侶を用意してくださいます。なお、続けて祈り、出て行って、探しましょう。祈り続けると、出会った時、その人があなたにふさわしい伴侶であるかどうかを見分けることができます。

 4.適応

この花嫁探しには絶えず神の導きがありました。それはしもべが神様中心の人であり、彼の祈りを通して一つ一つ導かれて行きました。アブラハムはしもべに大事な息子の花嫁探しを一任し、ウルの国(イラク)まで、派遣したのです。派遣された僕は忠実にその使命をやり遂げました。私たちにも神様から託された使命があります。どんなことが任されていますか。この僕は初めて出会ったリベカやリベカの家族と新しい人間関係を作り上げました。どのようにして築き上げていったのでしょうか。

それから、花嫁をめとるという商談が成立した後、そこで時間をどのように使いましたか。何日も留まってゆっくり旅の疲れをいやしましたか。ゆっくりしていたら、誘惑にあったかもしれませんし、家族の心変りもあったかもしれません。彼の優先順位は何だったのでしょうか。早く花嫁を連れて帰ることでした。私たちも祈って優先順位を神様に教えていただきながら、生活をしましょう。


イサクの花嫁探し

2013-02-20 22:45:10 | Weblog

2013.2.17.イサクの花嫁探し

聖書 創世記24:1~10、24:67

題  イサクの花嫁探し

暗唱聖句  ルカ16:10

「小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。」

 はじめに

1.アブラハムの命令

2.しもべの花嫁探し

 はじめに

 創世記の24章のストーリーはイサクの花嫁探しです。この中には、教会の7つの本質の関係、参加、能力付与(権威の委譲、派遣)、イエス中心、伝道・増殖、ネットワークなどがわかりやすく、現われています。

関係においてはアブラハムと僕の関係、神と僕の関係、僕とリベカの関係、僕とリベカの家族との関係、またアブラハムは僕に権威を委譲して、花嫁探しに派遣します。僕は派遣されて、任された主人の働きに参加します。花嫁探しを見事に成し遂げます。僕はいつでも神を中心にしていますから、イエス中心、聖霊の導きに従順です。ネットワークはウルに住んでいる親戚の家族です。イサクはリベカと結婚することによって、独立し、増殖していきます。アブラハムも再婚して増殖していきます。

 アブラハムには妻のサラが90歳、アブラハムが100歳の時生まれた一人息子、イサクがいました。サラは127歳で亡くなり、ヘブロンのマクペラの洞穴に葬られました。イサクは悲しみにくれたまま、数年を過ごしたのでしょう。イサクは40歳、アブラハムも140歳になっておりました。その頃のアブラハム家の出来事です。

 1.アブラハムの命令

 24:1 アブラハムは年を重ねて、老人になっていた。【主】は、あらゆる面でアブラハムを祝福しておられた。 24:2 そのころ、アブラハムは、自分の全財産を管理している家の最年長のしもべに、こう言った。「あなたの手を私のももの下に入れてくれ。 24:3 私はあなたに、天の神、地の神である【主】にかけて誓わせる。私がいっしょに住んでいるカナン人の娘の中から、私の息子の妻をめとってはならない24:4 あなたは私の生まれ故郷に行き、私の息子イサクのために妻を迎えなさい。」24:5 しもべは彼に言った。「もしかして、その女の人が、私についてこの国へ来ようとしない場合、お子を、あなたの出身地へ連れ戻さなければなりませんか。」24:6 アブラハムは彼に言った。「私の息子をあそこへ連れ帰らないように気をつけなさい。 24:7 私を、私の父の家、私の生まれ故郷から連れ出し、私に誓って、『あなたの子孫にこの地を与える』と約束して仰せられた天の神、【主】は、御使いをあなたの前に遣わされる。あなたは、あそこで私の息子のために妻を迎えなさい。24:8 もし、その女があなたについて来ようとしないなら、あなたはこの私との誓いから解かれる。ただし、私の息子をあそこへ連れ帰ってはならない。」24:9 それでしもべは、その手を主人であるアブラハムのももの下に入れ、このことについて彼に誓った。24:10 しもべは主人のらくだの中から十頭のらくだを取り、そして出かけた。また主人のあらゆる貴重な品々を持って行った。彼は立ってアラム・ナハライムのナホルの町へ行った。

 アブラハムの僕はアブラハムから一人息子の花嫁探しを頼まれ、「アブラハムの言う通りにします」と誓いました。全権を委任され、ナホルの住むウル(イラク)の国へ派遣されました。ナホルはアブラハムの弟です。この僕はアブラハムの全財産を管理している僕で、アブラハムが一番信頼している僕でした。普通は父親であるアブラハムが花嫁探しの権利を持っています。しかし、アブラハムは老人になっていたので、旅に出ることは難しかったのでしょう。父親に代わって、この僕が主人の息子、イサクにふさわしい花嫁を決める権利を与えられて出発しました。そのため、旅に必要な10頭のラクダ、また花嫁の結納金に必要な一切の珍しい高価な宝物、そして旅を支える僕たちもつけて送りだしました。教会の7つの本質でいうならば、これは能力の付与です。僕が働きに成功するように必要な物を与えて、整え、出発させました。これがなければ、僕は花嫁探しを成功させることは難しいのです。私たちはある仕事に参加する時、それにふさわしい能力を発揮するためには準備をする必要があります。たとえば、リーダーになりたい人がいたとします。そうすると、その人を認めて、リーダーの立場に置かなければ、リーダーとしての働きをすることができません。リーダーにして、任せることが必要です。その時、リーダーにふさわしい教育をして、リーダーができるように整えることが必要です。ですから、リーダーはへりくだって、教えられやすい人であることが大切です。また、リーダーになりたい人はへりくだって学ぶ姿勢が必要であり、そのために、時間を捧げることが要求されます。

 この僕は花嫁探しの旅を成功させてくださるのは神様であることを信じていました。アブラハムは「御使いがあなたの前に遣わされて、導いてくださるから大丈夫。」と励まして送り出しました。そして、アブラハムの親族のいるイラクの国に向けて出発しました。カナン(イスラエル)の国から現在のイラクまで約1カ月はかかったと思われます。

 2.しもべの花嫁探し

ついに僕は平和のうちに親族の住んでいるアラム・ナハライムのナホルの町に到着しました。この僕は賢い人でした。どこに人々が集まるか、知っていたのです。当時は水を汲む仕事は女性の仕事でした。ですから、この僕は人々が水汲みに出てくる夕暮れに、井戸のそばにラクダを休ませて、様子を見ることにしました。昼間は暑いので水汲みの仕事はしません。

(創世記24:12~27)

 そうして言った。「私の主人アブラハムの神、【主】よ。きょう、私のためにどうか取り計らってください。私の主人アブラハムに恵みを施してください。24:13 ご覧ください。私は泉のほとりに立っています。この町の人々の娘たちが、水を汲みに出てまいりましょう。24:14 私が娘に『どうかあなたの水がめを傾けて私に飲ませてください』と言い、その娘が『お飲みください。私はあなたのらくだにも水を飲ませましょう』と言ったなら、その娘こそ、あなたがしもべイサクのために定めておられたのです。このことで私は、あなたが私の主人に恵みを施されたことを知ることができますように。」24:15 こうして彼がまだ言い終わらないうちに、見よ、リベカが水がめを肩に載せて出て来た。リベカはアブラハムの兄弟ナホルの妻ミルカの子ベトエルの娘であった。24:16 この娘は非常に美しく、処女で、男が触れたことがなかった。彼女は泉に降りて行き、水がめに水を満たし、そして上がって来た。24:17 しもべは彼女に会いに走って行き、そして言った。「どうか、あなたの水がめから、少し水を飲ませてください。」24:18 すると彼女は、「どうぞ、お飲みください。だんなさま」と言って、すばやく、その手に水がめを取り降ろし、彼に飲ませた。24:19 彼に水を飲ませ終わると、彼女は、「あなたのらくだのためにも、それが飲み終わるまで、水を汲んで差し上げましょう」と言った。24:20 彼女は急いで水がめの水を水ぶねにあけ、水を汲むためにまた井戸のところまで走って行き、その全部のらくだのために水を汲んだ。24:21 この人は、【主】が自分の旅を成功させてくださったかどうかを知ろうと、黙って彼女を見つめていた。24:22 らくだが水を飲み終わったとき、その人は、重さ一ベカの金の飾り輪と、彼女の腕のために、重さ十シェケルの二つの金の腕輪を取り、24:23 尋ねた。「あなたは、どなたの娘さんですか。どうか私に言ってください。あなたの父上の家には、私どもが泊めていただく場所があるでしょうか。」24:24 彼女が答えた。「私はナホルの妻ミルカの子ベトエルの娘です。」24:25 そして言った。「私たちのところには、わらも、飼料もたくさんあります。それにまたお泊まりになる場所もあります。」24:26 そこでその人は、ひざまずき、【主】を礼拝して、24:27 言った。「私の主人アブラハムの神、【主】がほめたたえられますように。主は私の主人に対する恵みとまこととをお捨てにならなかった。【主】はこの私をも途中つつがなく、私の主人の兄弟の家に導かれた。」

 この僕は非常に祈り深い人です。また知恵のある人です。彼が確かめたいことは、まず、神様のみ心の人であるかどうかでした。そして、イサクの結婚相手として、優しく,思いやりがあり、よく気がつく人でなければと思ったようです。そのために「自分のラクダにも水を飲ませましょうか。」と聞いてくれる人という条件を神様の前に出しました。すると、祈って、すぐ、美しいお嬢さんがやってきました。そして、「水を飲ませてください」と言ったら快く引き受け、ラクダの分も水を汲んでくれたのです。ラクダ10頭に水を飲ませることは大変なことです。ラクダは一回に80リットル飲むそうです。ガソリンを入れる1斗缶は18リットル入ります。ですから、一頭のラクダの為に4.5缶、水を汲まなければなりません。2頭で9缶、10頭全部で45缶、その分の水をくみ出しに井戸の中へ長い階段をのぼったり降りたりしたのです。僕はじっとそれを見つめていました。娘は働き者です。喜んで真心から水を汲んでくれているのが良くわかりました。僕はこの人こそ、イサクの花嫁にふさわしいと喜んだのでした。そして、高価な金の飾り物を彼女につけてあげたのです。約100グラムの金の腕輪を2つ、5グラムぐらいの鼻の飾り輪を一つ上げました。相当高価な飾り物です。そして、彼はその娘さんに聞きました。「あなたはどこの娘さんですか。そこには私たちもラクダも一緒に泊めていただけるようなところがありますか。」すると、娘は答えました。「私はナホルの妻ミルカの子ベトエルの娘です。私たちの家にはラクダのえさになるわらもあるし、あなた方に泊っていただけるような部屋もあります。」と答えたのです。

この僕は主の導きの素晴らしさに感動して、ひざまずいて、礼拝を捧げました。そして、主に感謝したのです。(よくぞ、すぐさま親類の子供に出会えたと。)ここで感動するのは、この僕の信仰と神への信頼です。そして祈りです。ことごとく祈っています。すると、神様もその祈りにすぐ答えておられます。この僕は神様との関係がまず、しっかりしています。そして、主人であるアブラハムとの関係もしっかりしています。「主は私の主人に対する恵みとまことをお捨てにならなかった。」と言って喜んでいるのです。そして、今、新しい人間関係を作り始めました。このお嬢さんをイサクの花嫁にするために、彼女の心をつかまなければなりません。彼は、若い娘が喜ぶ飾り物をプレゼントしたのです。安いものではなく、とても高価で立派なものを差し上げました。

(箴 18:16)「 人の贈り物はその人のために道を開き、高貴な人の前にも彼を導く。」と言います。リベカは喜んで、この人は素晴らしい人に違いない、家に泊めても大丈夫な人だと信じます。きっと、リベカはこの僕が祈った姿をみて、畏敬の念と清さを感じたのではないでしょうか。

 まとめ

アブラハムと僕の関係:アブラハムは僕を信頼し、全財産の管理を任せていました。アブラハムは息子の花嫁探しという自分の仕事を彼に委任しました。権威の委譲であり、派遣です。アブラハムは僕を信頼し、僕は主人の信頼にこたえて、忠実に仕えていました。信頼関係があって、初めて仕事を任せることができます。ですから、私たちは家庭や職場での人間関係の中で、信頼関係を築き上げることが第一に大事なことです。信頼関係を築くには、愛や赦し合い、忠実、忍耐、その上、時間がかかります。信頼関係を壊すには1分もかかりません。ですから、注意も必要です。その点、この僕は「祈り」という素晴らしい賜物を持っていました。いつでも、どこでも、まず祈ったのです。聖霊の導きを求めました。そして、主は旅を成功させてくださったのです。祈る時間はごくわずかですが、その答えは偉大な結果を出しました。彼は祈って行動をしています。その一つ一つが神の国への参加です。リベカはイサクと結婚することによって、アブラハムに約束された神の御計画を受け継いでいきます。僕はイサクの花嫁探しという重要な役を成し遂げました。私たちも主からの与えられた仕事を忠実に成し遂げていきましょう。教会だけの奉仕ではなく、世の中における奉仕こそ、主への礼拝であり、献身です。祈りつつ、新しいいのちにあふれて、喜んで成し遂げましょう。リベカが喜んでラクダに水を飲ませたように、思いやりを持って、働きましょう。リベカの何気ない愛の行動がリベカの人生に幸運をもたらしたのです。このメッセージは来週に続きます。


イエスはペテロを愛し、信頼された

2013-02-12 00:02:59 | Weblog

2013.2.10.イエスはペテロを愛し、信頼された

 聖書 ヨハネ21:15~19

題  イエスはペテロを愛し、信頼された

暗唱聖句 ルカ22:32

「しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」

 はじめに

 先週、職場でいじめに遭ったある兄弟が職場の人と和解することができた証をしてくださいました。自分をいじめた人を許した後、すべてのことから自由にされた開放感があり、喜びにいっぱいになったと証してくださいました。いじめに遭い、殴られ、トラウマがひどく、一時、仕事に行けなかったそうですが、再び行けるようになり、感謝しておられました。その証を聞いて、感動しました。

 今日はイエス様の弟子であったペテロについて語りたいと思います。

1.ペテロについて

イエス様には12人の弟子がいました。この一番弟子がシモン・ペテロです。福音書を読んでいますと最初に弟子になった人の名前が「シモンとその兄弟アンデレ」と出てきます。この二人の兄弟がガリラヤ湖という湖で網を打って漁をしているとイエス様が声をかけられました。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」すると、彼らは、すぐに網を捨てて従ったのです。その次に弟子になったのが、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネでした。彼らはガリラヤ湖の漁師です。イエス様の12人の弟子たちの多くはガリラヤ地方出身の漁師たちでした。

12人の弟子の中に、特にイエス様がどこにでも連れて行かれた弟子たちがいました。それはシモン・ペテロ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネです。弟子たちの中では、ペテロはおそらく一番年上で、リーダー的な存在でした。

ペテロはイエス様を心から愛していました。ですから、どこまでも従いたいと思っていました。しかし、その後、弟子たちにはびっくり仰天するような恐ろしい十字架の刑が待ち受けていたのでした。その時、弟子たちはみんなイエス様を捨てて、逃げてしまったのです。

 2.ペテロの失敗

イエス様の十字架の時が近づいてきました。イエス様に残されていた時間はあとわずかでした。最後の過ぎ越しの祭りがやってきました。イエス様は弟子たちと一緒に最後の食事をなさいました。その時、いろいろなことを弟子たちに語られ、最後に、弟子たちの足を洗ってくださいました。「互いに愛し合いなさい。仕え合いなさい。」と模範を見せてくださったのです。過ぎ越しの食事が終りかけた頃、今晩、自分は裏切られ、捕らえられることを弟子たちに打ち明け、パンと葡萄酒を祝福して、これから十字架の上で流される血による新しい契約を結ばれました。新しい契約とは罪の赦しの契約です。

その時、イエス様は特別ペテロに向かって、語られました。「シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたを麦のようにふるいにかけます。しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたの為に祈りました。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」シモン・ペテロは何のことかわからずにイエス様に言いました。「主よ。ご一緒なら、牢屋であろうと、死であろうと、覚悟しています。」しかし、イエス様は言われました。「ペテロ。あなたに言いますが、きょう鶏が鳴くまでに、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」

そして、弟子たちに、今回はお金を持ち,剣をもって逃げる準備をするように指示されたのでした。そして、弟子たちをつれて、ゲッセマネの園に行き、切に祈られました。主イエスは弟子たちから少し離れ、祈っておられました。「父よ。み心ならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、み心の通りにしてください。」と祈られました。苦しみで汗が血のしずくのように地に落ちました。弟子たちは、その間、眠りこけていました。ペテロも眠っていたのです。

いよいよ時が来て、弟子のひとりであったが、裏切ったイスカリオテのユダが来て、イエス様にキスしました。

すると、それを合図に大祭司のしもべや祭司長、長老たちが剣や棒をもってイエス様を捕らえにやってきました。彼らはイエス様を捕らえ、引いて行って、大祭司の家に連れてきました。彼らは中庭の真ん中に火を焚いて、みな座り込んだので、ペテロも中に混じって腰をおろしました。

すると女中(①)が、火あかりの中にペテロがいるのを見つけ、まじまじと見て、言いました。「この人も、イエスと一緒にいました。」ところが、ペテロはそれを打ち消して言いました。「いいえ、私はあの人を知りません。」と言いました。しばらくして、他の男(②)が彼を見て、「あなたも、彼らの仲間だ。」と言いました。しかし、ペテロは「いいえ、違います。」と言いました。それから一時間ほど経つと、また別の男(③)が言いました。「確かにこの人も彼と一緒だった。この人もガリラヤ人だから。」と言い張りました。しかし、ペテロは「あなたの言うことは私にはわかりません、」と言いました。それと一緒に、彼が言い終わらないうちに、鶏が鳴きました。主が振り向いてペテロを見つめられました。ペテロは主が言われた言葉を思い出しました。「今日、鶏が鳴くまでに、あなたは、三度、わたしを知らないと言います。」と言われた言葉を思い出しました。ペテロは、外に出て、激しく泣きました。彼は主を裏切った悲しみでいっぱいでした。

 そして、長い一日が始まりました。イエス様は不当なローマの裁判にかけられ、鞭打ちの刑をうけ、十字架につけられることになりました。主イエスの弟子たちはほとんど逃げてしまいました。ヨハネと母マリヤは最後までイエス様の十字架の近くで、イエス様を見つめていました。ペテロはどこにいたのかわかりません。イエス様は十字架の上で息を引き取られました。その後、アリマタヤのヨセフよって、イエス様は十字架から取りおろされ、新しいお墓に納められました。一方弟子たちは恐れに包まれ、エルサレムで隠れており、これからのことを話し合っていました。

 3.復活の主イエスとの食事

 イエス様は死んでほうむられました。そして、墓に葬られ、3日目に死人の中からよみがえられました。ペテロはイエス様が復活されたと聞いて、すぐ墓に飛んで行って、墓の中に入って、復活を確かめています。

 弟子たちは故郷のガリラヤに帰ってきました。そして、ある日、ペテロは漁に行くと言って出かけました。ほかの弟子たちも一緒に漁に行くことにしました。7人の弟子たちはペテロとともに、ガリラヤ湖で漁をしました。しかし、一晩中働いたにもかかわらず、魚は一匹もとれませんでした。弟子たちは疲れ果てていました。

 夜明けに、イエス様が岸辺に立たれました。そして、弟子たちに声をかけられました。「こどもたちよ。食べるものがありませんね。」弟子たちは「はい、食べるものがありません。」と答えました。イエス様は彼らに言われました。「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、取れます。」そこで、彼らは網をおろしました。すると、たくさんの魚の為に、網をひきあげることができませんでした。そこで、イエス様の愛された弟子が言いました。「主です。」と。それを聞いたペテロは、裸だったので、上着をまとって、湖に飛び込みました。ほかの弟子たちはたくさんの魚を入れた網を引いて、小舟で陸にやってきました。

彼らが陸に上がった時、イエス様は朝ご飯の用意をして、待っていてくださいました。陸地では炭火が起こしてあり、炭火の上にはパンと魚がのせてありました。イエス様は、「今、とった魚を何匹か持って来なさい。」と言われました。魚は数えると大きな魚が153匹ありました。それでも、網は破れませんでした。

 イエス様は「さあ、疲れただろう。朝の食事をしなさい。」と誘ってくださいました。弟子たちはこのお方がイエス様であることを知っていたので、誰も「あなたはどなたですか。」とたずねる者はいませんでした。イエス様はパンをとり、祝福して弟子たちにお与えになりました。魚も同じように祝福して与えられました。

  中東の習慣では、人間関係が壊れた場合、仲直りをするために、一緒に食事をします。食卓を囲んでいろんなことを話し、和解します。イエス様もそのことを知っておられ、弟子たちのことを思って、食事の席を設けてくださいました。イエス様が十字架にかかられた時には、弟子たちはみんなイエス様を身捨てて逃げてしまったのです。そんなわけで、心に傷を抱え、イエス様に「申し訳ない」という気持ちを抱えていました。イエス様は「大丈夫、赦しているよ。」ということをここで示されたのです。この食事はイエス様と弟子たちの和解の場でした。いろんなおしゃべりをしながら、朝食を食べ、和(なご)やかなひと時を過ごしました。そうして弟子たちの心を癒してくださったのです。弟子たちにご自分を現わされたのは復活されてから3度目でした。

 4.あなたはわたしを愛しますか。

 この食事が済んでから、イエス様はペテロと向き合われました。1対1で、ペテロと話されたのです。

 イエス様はペテロに言われました。「この人たち以上に、私を愛しますか。」ペテロは言いました。「はい、主よ。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエス様は彼に言われました。「私の羊を飼いなさい。」

イエスは再び、ペテロに言われました。「ヨハネの子、シモン。あなたは私を愛しますか。」ペテロはイエス様にいました。「はい。主よ。わたしがあなたを愛することはあなたがご存じです。」イエスは彼に言われました。「わたしの羊を牧しなさい。」

イエス様は三度ペテロに言われました。「ヨハネの子、シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロはイエス様が三度「あなたはわたしを愛しますか」と言われたので、心を痛めて言いました。「あなたは、私があなたを愛することは知っておられます。」イエスは彼に言われました。「わたしの羊を飼いなさい。」そして、「従いなさい」と言われました。

  イエス様はここでペテロと1対1で向き合っておられます。それはなぜでしょうか。ほかの弟子たちは「どうして、ペテロだけ・・・」と思わなかったでしょうか。きっと思わなかったと思います。イエス様を裏切ったのはみんな同じでした。しかし、ペテロの裏切りははっきりしていました。3年半、特別にかわいがってくださったイエス様を「知らない」といなんだからです。しかも3回。ですから、ここでイエス様は3回、念を押して、「あなたはわたしを愛しますか。」とたずねておられるのです。ペテロは主が3回も同じことを尋ねておられるので、本当に心を痛めて、「主よ。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです。」と答えました。その中には「あなたはわたしの弱さも、裏切りもすべて知っておられるではありませんか。わたしはあなたを愛しています。」という思いをこめて、答えました。ペテロは深く悔い改めたのです。

イエス様はここでペテロとの壊れた関係をもう一度築きなおしておられます。一言もせめてはおられません。ただ、「愛していますか」と尋ねられました。1対1で向き合い、話し合い、壊れた関係を築きなおされました。ここにイエス様の模範があります。そして、「イエス様の羊を飼うように」と、「大きな仕事」をお任せになりました。「羊を飼うように」と、外向きの仕事を与えられました。それまで、ペテロの心には十字架の時の自分の失敗のことが頭の中によぎっては消え、よぎっては消え、いつも思いがそこに行きつくのでした。内側に向いていた気持ちを外向きに変えてくださったのです。この外向きの仕事が「主の良い証人になること」です。家庭や学校や職場で良き証人になることです。教会の7つ本質では「参加」です。それから、イエス様はペテロに「使命」を与えられました。「私の羊を飼いなさい。」と言われたのです。「能力付与、権限の委譲です。」です。今まではイエス様が羊の世話をしておられましたが、これをペテロにゆだねられたのです。牧師は一人で羊の世話をしないで、信徒を信頼して、羊を任せる必要があります。羊とはイエス様をつながる人々のことです。そして、「従いなさい。」と言われました。主が必要としておられるのは、イエス様に従う人です。それから後、ペテロは殉教するまで、イエス様に忠実に従いました。

 ここには人生を回復するステップがわかりやすく、示されています。

 ペテロを通して、人間は弱さのゆえに、裏切りやすく傷つきやすいことを教えられました。そして、イエス様の行動は、その傷をどのように癒していくかを示してくださいました。その傷は向き合って話し合うことによって、理解し合い、赦し合い、愛しあう関係に変えられていきます。できるだけ、早く向き合う方が、傷が早く癒されます。イエス様はどんな罪をも赦してくださいます。ですから、お互いの罪も赦し合いましょう。そして愛し合いましょう。なぜなら、イエス様を愛する愛があるからです。

 私たちには人を愛する愛はあんまりありません。でも、イエス様を愛する愛があります。

イエス様につながっている人はイエス様を愛しているのです。この愛、イエス様への愛ゆえに、他の人々を愛することができるのです。愛することは主の業に参加することです。イエス様との関係がしっかりしている場合、奉仕に喜んで参加したり、従うことができるのです。しかし、もし、イエス様との関係ができていなかったら、次のステップには進むことはできません。私たちクリスチャンはイエス様の愛によって、人々を受け入れ、赦し、愛することができるのです。この愛は神様からの一方的な愛です。自分の中から湧いてきたものではありません。聖霊によるものです。主からのプレゼントであり、いのちの水です。主は私たちを愛し、信頼しておられます。わたしたちがどんなに失敗しても赦して、立ち直らせてくださるのです。

マザーテレサは言いました。「いと小さきものにしたのは、すなわち、イエス様にしたのと同じです。」と。


互いに愛し合いなさい。

2013-02-05 23:49:01 | Weblog

2013.2.3.互いに愛し合いなさい。

聖書 ヨハネ13:34~35

題  互いに愛し合いなさい。

暗唱聖句 ヨハネ13:35

「もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」

 

はじめに

1.集まること

2.関係づくり

3.愛すること

 

はじめに

先週、「『地の塩、世の光』として、あなたがたの光を人々の前に輝かせ、人々があなた方のよい行いを見て、天におられるあなた方の父をあがめるようにしなさい。」という聖句の宿題がありました。「誰かのために、何か、良いことをする」といったものでした。きっと、一人ひとり、違った経験をされたことと思います。後で、皆さんの証を聞きたいと思います。宿題ですから、わたしもどうしたのか、証をしたいと思います。

 私は叔母がグループホームに入居していますので、週に1~2回、訪問しています。先週の水曜日に、1月生まれの人たちの為に誕生日会がありました。私の叔母も1月生まれで、今年85歳になりました。実は今まで一度も誕生日会には参加したことはありませんでした。しかし、「『誰かの為に、時間を捧げる。』ことは大切なことです」というメッセージの後でしたので、思い切って参加しました。グループホームではお祝いの為にお寿司とケーキを準備してくださいました。誕生日を迎えた人たちは、名前を呼ばれて、「おめでとうございます」と言われると、涙を流して、喜んでいます。その涙を見て、わたしの目からも涙が流れてきました。80歳を過ぎて、誕生日祝いをしていただくのはことのほか嬉しいことだと思います。誕生日を通してグループホームの人たちとの人間関係も親密になりました。 叔母に温かい洋服をプレゼントしましたが、叔母が「ああ、これは、温かい。」と言って喜ぶ姿を見て、わたしの心の中も幸せな気分になりました。「受けるより、与える方が幸いです。」というのは本当だと思いました。

 

1.集まること

教会に集まるのはなぜか、それは神に礼拝をするためであり、また、互いに励まし合うためです。教会に集まって、励まし合います。そうして、また、家庭や職場に帰ります。家庭や職場に、教会である私たちが散らされて行って、愛と善行を行います。そうこうしているうちに、一週間が過ぎてきます。多少疲れてきて、みんなの励ましが必要になります。また聖霊の力も必要になってきます。みんなで集まって、神の言葉を聞いて、祈りあいます。そして、霊的な力を注いでいただいて、また世の中に出ていくのです。「身を慎み、目を覚ましていなさい。あなた方の敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食いつくすべきものを探し求めながら、歩き回っています。堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。」(Ⅰペテロ5:8~9)

このように、世の中には私たちの力が弱められるような悪魔の策略が満ちているのです。ですから、みんなで集まって、励まし合うことは大事なのです。そうしないと誘惑されたり、いじめられたり、怒られたり、弱さを覚えることがたくさん出てきます。しかし、みんなで集まる時、主が真ん中にいて愛を注ぎ、痛みを和らげ、癒してくださるのです。主は、「見よ。私は世の終わりまで、いつもあなた方とともにいます。」、「2~3人わたしの名によって集まるところにわたしもともにいる。」と約束してくださいました。これは神の一方的な恵みです。この恵みのゆえに、私たちは互いに集まり、お互いの存在を喜びあうのです。

 

2.関係づくり

私たちは「教会の7つの本質」を身につけたいと思っています。それで、もう一度、学びなおしたいと思います。重複するところもありますが、新しく教えられるところもあります。頭で理解することと、身に着くことには時間差があります。まず、この価値観を理解して、心の中に届けなければなりません。心に届くと、だんだん身についてきます。

 

その中で、今日は「関係」を学んでいきましょう。

この「関係」で学ぶことは次の通りです。「私たちの人生の基本的なことである、夫婦、親子、職場や学校での関係を大切にし、何よりイエス様との関係を強めましょう。」ということです。

この世のビジネス関係の人々は何よりもこの関係づくりに必死になっています。関係づくりが成功することはビジネスが成功することです。私の友人はある国の大統領官邸に出は入りできるようになりました。そうすると、もっと、その国のトップの人と関係を持つことができます。すごいことです。あるビジネスの人は私の誕生日を覚えていて、「誕生日カード」を持って来てくれました。留守をしていた私はポストにあったカードを見て、「なんという心遣いだろう」と感動しました。やっぱり嬉しいですね。その人のビジネスが成功するように、協力したいと思うようになります。

 

 神は私たちを関係の中で生きるように創造されたのです。「神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに創造された。」(創世記1:27)

神はご自身と同じように人間を関係の中に生きるように創造されたのです。創世記1:1の神は「エロヒーム」ですから複数形です。「複数形の神が天と地を創造された」ことになります。単数の神は「エル」です。この神は三位一体の神であり、父なる神、子なるイエス・キリスト、聖霊なる神です。イエス様は十字架の上で「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」(「わが神、わが神、どうして、わたしをお見捨てになったのですか。」という意味。)と叫んでおられます。この時の「エリ」は「わたしの神」で、単数です。父なる神です。そのお方に叫び求めておられます。

このように、イエス様はお互いに関係を深く保っておられました。同じように私たち人間も関係の中に生きるように創造されたのです。そして、神は人間を祝福して、「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。」(創世記1:27~28)と言われました。

神がアダムを創造された時は完全に神のかたちに似せて創造されました。しかし、このアダムの脇からあばら骨の一つがとられ、女性を創造された時、特別なことが起こったのです。それは男性と女性の二人を通して、完全な神のかたちがみられるようにされたのです。ですから、この地上では男性と女性を通して、神のかたちが見られ、感じられ、認識され、聞かれ、また注目されるのです。アダムだけでは神のかたちを現わすには十分ではありませんでした。彼らが二人でエデンの園に立った時、これこそがやがて来る教会の姿でした。ですから、教会とは人々のことなのです。教会とはエクレシアと呼ばれ、神に召しだされた人々のことです。

神は男性と女性が一つになった、このかたちを通して、地上でご自分を現わすことにされたのです。神のかたちを現わすことは男性だけでもできず、女性だけでもできないのです。

女性と男性が協力して、一つになって神のかたちを現わすのです。これは結婚の事だけを言っているのではなく、男性と女性は協力して、共に教会を建て上げ、共に地を治めることを言っているのです。男性と女性が一つのチームとなって一緒に働くのです。この一致の中で、神の大きな権威を現わすことができるようにされました。また、一致は大いなる油注ぎをもたらし、神の国が力強く前進するのです。

神のみ心は「生めよ。ふえよ。地に満ちよ。地を従わせよ。」です。教会は人々のことです。男性であり、女性なのです。かたちの違う、賜物の違う人たちが一致協力して、神の国を建て上げていくのです。教会を造っていくのです。神の支配を広げていくのです。神の国を拡大していくのです。

 

3.愛すること

人々が一つになると、教会は強いのです。神は一致するように造られました。ところが今日の教会は喧嘩が多いと聞いています。それは究極の愛の象徴である十字架のイエス様を見上げていないからです。イエス様の十字架は与えることや愛の究極を現わしています。人間の成功は仕事や学歴の成功ではありません。本当の成功とは、関係や調和、一致、愛を大切にすることです。もっとも大切なものは愛です。だれでも愛することができます。神が終わりの時に質問されるのは「あなたがどれだけ人を愛したか」だけです。「どれだけ大きな教会を造りましたか」とは聞かれません。教会について考える時、アダムとエバのことを考えてください。彼らが最初の教会のかたちだったのです。ですから、教会は人々のことです。教会のことを考える時、人々について考えましょう。

良い羊飼いは自分の羊の群れの為にいのちを差し出します。私たちが互いに愛の関係に生きるなら、教会の働きをしているのです。使徒の働きに記録されている教会は、毎日心を一つにして集まっていました。

(使徒2:46~47)「2:46 そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、2:47 神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。」

このグループは互いに愛し合っていました。それゆえに、主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださいました。互いに愛し合っていたら、神は人々を送ってくださるのです。互いに愛し合うことが一番なのです。

イエス様は言われました。ヨハネ13:34~35「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。13:35 もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」

教会は愛の関係の中で生きるのです。この世は壊れています。教会が成し遂げるべき重要なことは、壊れているこの世にたいして、神の愛を示すことです。神によってつくられた教会、神によって回復した人々による証こそがすべての民族にのべ伝えられる福音なのです。回復した人々とはクリスチャンのことです。マタイ24章14節には「この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。」今がその終わりの時です。全世界にのべ伝える時なのです。口先だけでなく、目に見える行いを伴う者として、キリストの証人になるのです。死に至るまで忠実な証人として生き続けるのです。愛の行いを通して生きるのです。大きなことではなく、小さなことを忠実に行うことです。家族を大切に。友人を大切に。職場の人を大切に。あるいは自分自身がニコニコすることによって周りを明るく照らすことができるようにすることなどです。ある人は、頼まれたら喜んで「はい」と返事ができる、これも嬉しい愛の業です。愛のかたちは一つではありません。いろいろです。

 

イエス様は様々な愛のかたちを示されました。サマリヤの女性と会うためにはエルサレムからガリラヤに行く途中にユダヤ人の誰もが嫌がるサマリヤを通って行かれました。そして、へりくだり、身を低くして、その女性に水を求められました。彼女に永遠の命の水を与えるためです。

また、エリコを通られたイエス様は罪人と言われる取税人ザーカイの家に行かれ、食事をともにされました。きっと楽しい食事だったことでしょう。ザーカイは救われました。

また、十字架にかかられる前夜は弟子たちの足を洗ってくださいました。先生である方が弟子たちの汚い足を洗ってくださったのです。イエス様は、互いに仕え合うことの大切さを、身を持って示してくださいました。

今週も愛と善行をするために家庭に、職場に、帰って行きましょう。すべての行為は主への礼拝であり、捧げものです。そして、また、励まし合うために、集まりましょう。