2010.9.19.教会の7つの本質を求めて(その2-参加)
聖書 Ⅰペテロ2:1~5
題 「教会の7つの本質」―その2-参加
はじめに
1. 教会の7つの本質について
2. 参加すること
① 祭司
② ルターの宗教改革
③ ヨツメウオ
はじめに
先週の土、日とエリヤハウスの「いやしと回復の祈りのミニストリー」が徳島教会で行われました。徳島だけでなく、遠くは松山、高松、津田からも参加されました。お祈りしていただいた方々は、きっと心が軽くなっていると思います。次のエリヤハウスは11月6,7日です。今回参加されなかった方も、次は是非、参加してください。
それでは、今日のメッセージに入ります。今日は「教会の7つの本質について」第二回目のメッセージで「参加」についてです。
1. 教会の7つの本質について
7つの本質とは「①関係、②参加、③能力付与、派遣、④主イエス中心、⑤伝道と増殖、⑥ネットワーク、⑦柔軟な組織、構造」です。7番目は「適応可能な組織、構造」と教えられましたが、阿南ではわかりやすく「柔軟な組織、構造」と呼ぶことにします。
これらの中で一番目の「関係」について学びました。関係とは「神との関係、人々との関係」です。人間はこの2つの関係によって生かされています。関係の中で大切なことは「愛」による関係です。イエス様の生き方は「愛を与える。命を与える。」生き方でした。私たちが「命を与える。」ことを実際にするとしたら、どんなことでしょうか。「愛をもって、時間を他者に与える。」ことです。日野原重明先生は「時間は命そのものです」とおっしゃっておられます。愛をもって、時間を誰かのために捧げる時、良い人間関係を築くことができます。コロサイ3:14「これら、すべての上に、愛をつけなさい。愛は結びの帯として完全なものです。」
2. 参加すること
さて今日は「参加」について、語ります。「参加」を考える時に知っておかなければならない言葉が「万人祭司」と言う言葉です。なぜ、参加できるのか、それは「クリスチャン、すべての人が祭司、すなわち、万人祭司だから」です。
① 祭司について
旧約聖書によりますと、「祭司」とは「神とイスラエル民族の間に立って、神の前に出て、とりなしの働きをする人」です。「祭司」として選ばれた部族は12部族の間で「レビ族」でした。このレビ族がずっと祭司の役割を務めてきました。
しかし、新約聖書では、パウロも祭司の務めをしていると言っています。
ローマ15:16(口語訳)「このように恵みを受けたのは、わたしが異邦人のためにキリスト・イエスに仕える者となり、神の福音のために祭司の役を勤め、こうして異邦人を、聖霊によってきよめられた、御旨にかなうささげ物とするためである。」
新約聖書は更に、私たち主イエスを信じたものたちはすべて祭司の役目も与えられている、と言っています。
第一ペテロ2:5、2:9
「2:5 あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。」
Ⅰペテロ2:9「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。」
新約の祭司は何を捧げるのでしょうか。旧約時代の祭司は動物のいけにえを捧げました。しかし、新約の場合は、イエス様がご自分の命を私たちの罪の代わりに十字架の上で捧げてくださったので、もう、動物のいけにえは不要です。それでは、何を新約の祭司は捧げるのでしょうか。「霊的ないけにえ」とは何でしょうか。
ローマ15:16によれば、「それはまだクリスチャンでない人たちを主に導き、その人が救われ、神をあがめる人になる、その人たちが「ささげもの」です。また、ローマ12:1には「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」と書いてあります。ですから、霊的ないけにえの一つは「み信者(救いに導きたいと思っている人)」です。もう一つは「自分自身」を捧げることです。
②宗教改革について
ルターの宗教改革
新約の時代になって、キリストの教会には祭司制度はなくなりました。
しかし、3、4世紀頃から中世にかけて、キリスト教会にはローマ法王を中心とする聖職者制度が確立していきました。
1517年、ルターは宗教改革をしました。(ドイツのヴィッテンベルク城教会の扉に「95カ条の提題」張り出しました。当時の堕落したカトリック教会と一線を引くことになりました。これがプロテスタントの始まりです。)
宗教改革の三大原理は
).聖書のみ(聖書の権威)
).信仰(しんこう)義認(ぎにん)(信じる信仰によって、義とされる。免罪(めんざい)符(ふ)によるのではない。)
).万人(ばんにん)祭司(さいし)
万人祭司についての二つの面
1.聖職者も信徒も神の前に平等であって、神父や牧師が特別に偉い人たちではありません。役割の違いです。
2.聖職者や牧師だけではなく、一般信徒も神に選ばれ、召され、祭司の役目を与えられています。(生活の場で)
ルターはドイツの人で、職業についてこのように語っています。「職業とは神によって与えられたものであり、隣人への奉仕をなす場」であると。
1月31日NHKスペシャル「無縁社会-無縁死 32000人の衝撃」
多くの反響を呼んだと言われています。つながりを失った人たちが置き去りにされている日本社会の悲しい実態です。イエス様はこのような現実をどのように見ておられるのでしょうか。
(マタイ9:36~38)
また群衆が飼う者のない羊のように弱り果てて、倒れているのをごらんになって、彼らを深くあわれまれた。
9:37 そして弟子たちに言われた、「収穫は多いが、働き人が少ない。9:38 だから、収穫の主に願って、その収穫のために働き人を送り出すようにしてもらいなさい」。
仕事がなく、失業者が多いと言われる今の時代も、神の国では仕事が多く、働く人が少ないのが現実です。
「派遣社員」といわれている人たちがいます。-私たちは天国の派遣社員です。
期間限定ではない。
いつ解雇される分からない不安定な立場でもない。
誰に派遣されているのか。派遣会社ではない。
収穫の主から派遣されている人たちは、皆、神の国の派遣社員。
7つの本質の2番目は、参加です。
イエス様はすべての人があかし人として参加することを望んでおられます。
教会の中の奉仕ではなく、生活の中で証し人として参加することは、誰にでもできます。家庭でも、職場でも、その人がクリスチャンとして何をしているのかが神の国の働きにつながっていくのです。
南米アマゾン川に生息しているヨツメウオ。
4つの目をもつ魚と言われています。ヨツメウオの目は実は二つしかありませんが、目を横切る特殊な仕切りがあるので、4つの目があるように見えます。この魚はこの仕切りを使って、水の中と水の上を同時に見ることが出来ます。
↓
私たちクリスチャンも4つの目が必要です。下の方の目で人間の現実を見て、上の方の目で神の現実を見なければなりません。
ある人は天国のこと、霊的なことだけを見ようとします。現実の人間を理解出来ません。また一方で、人間の現実だけを見て、神の現実を見ないクリスチャンもたくさんいます。
Ⅱ列王記6章で預言者エリシャのしもべが朝早くおきて、外に出てみると、敵の軍隊が押し寄せて来て、町を包囲しているのを見ました。そこでエリシャの所に来て、言った。
「ご主人さま、どうすればよいのですか」
「恐れてはならない。私たちと共にいる者の方が、彼らよりも多い。主よ、彼の目を開いて見えるようにして下さい」
主がしもべの目を開かれると、神の軍隊がエリシャを囲んで山にまで満ちているのが見えました。
神はこの世界にいつも生きて働いておられます。
人間の世界だけを見ていると絶望します。しかし、イエス様に信頼する人は失望に終わることはありません。
Ⅰペテロ2:6「見よ。わたしはシオンに、選ばれた石、尊い礎石を置く。彼に信頼するものは、決して失望させられることがない。」
この第一ペテロの手紙2章、3章には現実の社会でどのように生活をしていったらよいか、具体的に書かれています。
社会の中で、夫婦の間でどのような心構えで仕えて行くか、どこに気を使うべきかなどが書いてあります。同じようなことがエペソ人への手紙5~6章にも書いてあります。とても具体的です。是非、読んでみてください。
「参加する」と言うことは「クリスチャンとして積極的に生きる」と言うことです。福音を伝えなければならないとか、教会に誘わなければならないと言うことは横に置きましょう。神のみ手にゆだねましょう。このようなことを考えていたら、かえって、人間関係が不自然になります。人間関係を築き、根気よく愛を表していく中で、主が働かれるのを見ていきます。今の時代、私たちの周りで、悩みのない人や、問題のない人はいないのです。「家庭に全く問題がない」そういう家もありません。みんな、何か悩みや問題をもっています。主の召された場所、主に遣わされた場所として、今置かれている家庭や職場、学校を受け取って行く信仰が必要です。そこで、どのように人間関係を持っていくか。どのように仕えていくか。どのように愛を現していくか。その生き方こそ主のあかし人として求められていることではないでしょうか。
その遣わされている場所で思い切って憐れみの心を現していくにはどうすればよいのでしょうか。
◎人とどのように係わりを持っていくか。
・その人に関心をもつ。
・その人に愛を現す。
その人が求めている愛の形を知る。独りよがりではなく、こちらの自己満足でもない。
・その人のことを知りたい。
・その人の話を聞く。
愛を現す。⇒その人の良いところを認め、最善を引き出してあげる。
愛を表すことは、自分が目立つことではありません。コーチのように選手たちの力を引き出してあげることです。とりなしの祈りをする人たちもそうです。
「参加をする」ことの多くは目立たないところにおいて、自然な姿で、最善を尽くして生きることです。そうすれば、主が祝福してくださいます。愛はあなたから流れて行くのです。その香りは、なんと香ばしく、麗(うるわ)しいのでしょうか。
聖書 Ⅰペテロ2:1~5
題 「教会の7つの本質」―その2-参加
はじめに
1. 教会の7つの本質について
2. 参加すること
① 祭司
② ルターの宗教改革
③ ヨツメウオ
はじめに
先週の土、日とエリヤハウスの「いやしと回復の祈りのミニストリー」が徳島教会で行われました。徳島だけでなく、遠くは松山、高松、津田からも参加されました。お祈りしていただいた方々は、きっと心が軽くなっていると思います。次のエリヤハウスは11月6,7日です。今回参加されなかった方も、次は是非、参加してください。
それでは、今日のメッセージに入ります。今日は「教会の7つの本質について」第二回目のメッセージで「参加」についてです。
1. 教会の7つの本質について
7つの本質とは「①関係、②参加、③能力付与、派遣、④主イエス中心、⑤伝道と増殖、⑥ネットワーク、⑦柔軟な組織、構造」です。7番目は「適応可能な組織、構造」と教えられましたが、阿南ではわかりやすく「柔軟な組織、構造」と呼ぶことにします。
これらの中で一番目の「関係」について学びました。関係とは「神との関係、人々との関係」です。人間はこの2つの関係によって生かされています。関係の中で大切なことは「愛」による関係です。イエス様の生き方は「愛を与える。命を与える。」生き方でした。私たちが「命を与える。」ことを実際にするとしたら、どんなことでしょうか。「愛をもって、時間を他者に与える。」ことです。日野原重明先生は「時間は命そのものです」とおっしゃっておられます。愛をもって、時間を誰かのために捧げる時、良い人間関係を築くことができます。コロサイ3:14「これら、すべての上に、愛をつけなさい。愛は結びの帯として完全なものです。」
2. 参加すること
さて今日は「参加」について、語ります。「参加」を考える時に知っておかなければならない言葉が「万人祭司」と言う言葉です。なぜ、参加できるのか、それは「クリスチャン、すべての人が祭司、すなわち、万人祭司だから」です。
① 祭司について
旧約聖書によりますと、「祭司」とは「神とイスラエル民族の間に立って、神の前に出て、とりなしの働きをする人」です。「祭司」として選ばれた部族は12部族の間で「レビ族」でした。このレビ族がずっと祭司の役割を務めてきました。
しかし、新約聖書では、パウロも祭司の務めをしていると言っています。
ローマ15:16(口語訳)「このように恵みを受けたのは、わたしが異邦人のためにキリスト・イエスに仕える者となり、神の福音のために祭司の役を勤め、こうして異邦人を、聖霊によってきよめられた、御旨にかなうささげ物とするためである。」
新約聖書は更に、私たち主イエスを信じたものたちはすべて祭司の役目も与えられている、と言っています。
第一ペテロ2:5、2:9
「2:5 あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。」
Ⅰペテロ2:9「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。」
新約の祭司は何を捧げるのでしょうか。旧約時代の祭司は動物のいけにえを捧げました。しかし、新約の場合は、イエス様がご自分の命を私たちの罪の代わりに十字架の上で捧げてくださったので、もう、動物のいけにえは不要です。それでは、何を新約の祭司は捧げるのでしょうか。「霊的ないけにえ」とは何でしょうか。
ローマ15:16によれば、「それはまだクリスチャンでない人たちを主に導き、その人が救われ、神をあがめる人になる、その人たちが「ささげもの」です。また、ローマ12:1には「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」と書いてあります。ですから、霊的ないけにえの一つは「み信者(救いに導きたいと思っている人)」です。もう一つは「自分自身」を捧げることです。
②宗教改革について
ルターの宗教改革
新約の時代になって、キリストの教会には祭司制度はなくなりました。
しかし、3、4世紀頃から中世にかけて、キリスト教会にはローマ法王を中心とする聖職者制度が確立していきました。
1517年、ルターは宗教改革をしました。(ドイツのヴィッテンベルク城教会の扉に「95カ条の提題」張り出しました。当時の堕落したカトリック教会と一線を引くことになりました。これがプロテスタントの始まりです。)
宗教改革の三大原理は
).聖書のみ(聖書の権威)
).信仰(しんこう)義認(ぎにん)(信じる信仰によって、義とされる。免罪(めんざい)符(ふ)によるのではない。)
).万人(ばんにん)祭司(さいし)
万人祭司についての二つの面
1.聖職者も信徒も神の前に平等であって、神父や牧師が特別に偉い人たちではありません。役割の違いです。
2.聖職者や牧師だけではなく、一般信徒も神に選ばれ、召され、祭司の役目を与えられています。(生活の場で)
ルターはドイツの人で、職業についてこのように語っています。「職業とは神によって与えられたものであり、隣人への奉仕をなす場」であると。
1月31日NHKスペシャル「無縁社会-無縁死 32000人の衝撃」
多くの反響を呼んだと言われています。つながりを失った人たちが置き去りにされている日本社会の悲しい実態です。イエス様はこのような現実をどのように見ておられるのでしょうか。
(マタイ9:36~38)
また群衆が飼う者のない羊のように弱り果てて、倒れているのをごらんになって、彼らを深くあわれまれた。
9:37 そして弟子たちに言われた、「収穫は多いが、働き人が少ない。9:38 だから、収穫の主に願って、その収穫のために働き人を送り出すようにしてもらいなさい」。
仕事がなく、失業者が多いと言われる今の時代も、神の国では仕事が多く、働く人が少ないのが現実です。
「派遣社員」といわれている人たちがいます。-私たちは天国の派遣社員です。
期間限定ではない。
いつ解雇される分からない不安定な立場でもない。
誰に派遣されているのか。派遣会社ではない。
収穫の主から派遣されている人たちは、皆、神の国の派遣社員。
7つの本質の2番目は、参加です。
イエス様はすべての人があかし人として参加することを望んでおられます。
教会の中の奉仕ではなく、生活の中で証し人として参加することは、誰にでもできます。家庭でも、職場でも、その人がクリスチャンとして何をしているのかが神の国の働きにつながっていくのです。
南米アマゾン川に生息しているヨツメウオ。
4つの目をもつ魚と言われています。ヨツメウオの目は実は二つしかありませんが、目を横切る特殊な仕切りがあるので、4つの目があるように見えます。この魚はこの仕切りを使って、水の中と水の上を同時に見ることが出来ます。
↓
私たちクリスチャンも4つの目が必要です。下の方の目で人間の現実を見て、上の方の目で神の現実を見なければなりません。
ある人は天国のこと、霊的なことだけを見ようとします。現実の人間を理解出来ません。また一方で、人間の現実だけを見て、神の現実を見ないクリスチャンもたくさんいます。
Ⅱ列王記6章で預言者エリシャのしもべが朝早くおきて、外に出てみると、敵の軍隊が押し寄せて来て、町を包囲しているのを見ました。そこでエリシャの所に来て、言った。
「ご主人さま、どうすればよいのですか」
「恐れてはならない。私たちと共にいる者の方が、彼らよりも多い。主よ、彼の目を開いて見えるようにして下さい」
主がしもべの目を開かれると、神の軍隊がエリシャを囲んで山にまで満ちているのが見えました。
神はこの世界にいつも生きて働いておられます。
人間の世界だけを見ていると絶望します。しかし、イエス様に信頼する人は失望に終わることはありません。
Ⅰペテロ2:6「見よ。わたしはシオンに、選ばれた石、尊い礎石を置く。彼に信頼するものは、決して失望させられることがない。」
この第一ペテロの手紙2章、3章には現実の社会でどのように生活をしていったらよいか、具体的に書かれています。
社会の中で、夫婦の間でどのような心構えで仕えて行くか、どこに気を使うべきかなどが書いてあります。同じようなことがエペソ人への手紙5~6章にも書いてあります。とても具体的です。是非、読んでみてください。
「参加する」と言うことは「クリスチャンとして積極的に生きる」と言うことです。福音を伝えなければならないとか、教会に誘わなければならないと言うことは横に置きましょう。神のみ手にゆだねましょう。このようなことを考えていたら、かえって、人間関係が不自然になります。人間関係を築き、根気よく愛を表していく中で、主が働かれるのを見ていきます。今の時代、私たちの周りで、悩みのない人や、問題のない人はいないのです。「家庭に全く問題がない」そういう家もありません。みんな、何か悩みや問題をもっています。主の召された場所、主に遣わされた場所として、今置かれている家庭や職場、学校を受け取って行く信仰が必要です。そこで、どのように人間関係を持っていくか。どのように仕えていくか。どのように愛を現していくか。その生き方こそ主のあかし人として求められていることではないでしょうか。
その遣わされている場所で思い切って憐れみの心を現していくにはどうすればよいのでしょうか。
◎人とどのように係わりを持っていくか。
・その人に関心をもつ。
・その人に愛を現す。
その人が求めている愛の形を知る。独りよがりではなく、こちらの自己満足でもない。
・その人のことを知りたい。
・その人の話を聞く。
愛を現す。⇒その人の良いところを認め、最善を引き出してあげる。
愛を表すことは、自分が目立つことではありません。コーチのように選手たちの力を引き出してあげることです。とりなしの祈りをする人たちもそうです。
「参加をする」ことの多くは目立たないところにおいて、自然な姿で、最善を尽くして生きることです。そうすれば、主が祝福してくださいます。愛はあなたから流れて行くのです。その香りは、なんと香ばしく、麗(うるわ)しいのでしょうか。