阿南神召キリスト教会 礼拝メッセージ

徳島県の阿南神召キリスト教会の礼拝メッセージです

教会の7つの本質ーその2-参加

2010-09-19 21:43:26 | Weblog
2010.9.19.教会の7つの本質を求めて(その2-参加)

聖書 Ⅰペテロ2:1~5
題  「教会の7つの本質」―その2-参加

はじめに
1. 教会の7つの本質について
2. 参加すること
① 祭司
② ルターの宗教改革
③ ヨツメウオ

はじめに

 先週の土、日とエリヤハウスの「いやしと回復の祈りのミニストリー」が徳島教会で行われました。徳島だけでなく、遠くは松山、高松、津田からも参加されました。お祈りしていただいた方々は、きっと心が軽くなっていると思います。次のエリヤハウスは11月6,7日です。今回参加されなかった方も、次は是非、参加してください。

それでは、今日のメッセージに入ります。今日は「教会の7つの本質について」第二回目のメッセージで「参加」についてです。

1. 教会の7つの本質について
7つの本質とは「①関係、②参加、③能力付与、派遣、④主イエス中心、⑤伝道と増殖、⑥ネットワーク、⑦柔軟な組織、構造」です。7番目は「適応可能な組織、構造」と教えられましたが、阿南ではわかりやすく「柔軟な組織、構造」と呼ぶことにします。
これらの中で一番目の「関係」について学びました。関係とは「神との関係、人々との関係」です。人間はこの2つの関係によって生かされています。関係の中で大切なことは「愛」による関係です。イエス様の生き方は「愛を与える。命を与える。」生き方でした。私たちが「命を与える。」ことを実際にするとしたら、どんなことでしょうか。「愛をもって、時間を他者に与える。」ことです。日野原重明先生は「時間は命そのものです」とおっしゃっておられます。愛をもって、時間を誰かのために捧げる時、良い人間関係を築くことができます。コロサイ3:14「これら、すべての上に、愛をつけなさい。愛は結びの帯として完全なものです。」

2. 参加すること

 さて今日は「参加」について、語ります。「参加」を考える時に知っておかなければならない言葉が「万人祭司」と言う言葉です。なぜ、参加できるのか、それは「クリスチャン、すべての人が祭司、すなわち、万人祭司だから」です。

① 祭司について
旧約聖書によりますと、「祭司」とは「神とイスラエル民族の間に立って、神の前に出て、とりなしの働きをする人」です。「祭司」として選ばれた部族は12部族の間で「レビ族」でした。このレビ族がずっと祭司の役割を務めてきました。
しかし、新約聖書では、パウロも祭司の務めをしていると言っています。
ローマ15:16(口語訳)「このように恵みを受けたのは、わたしが異邦人のためにキリスト・イエスに仕える者となり、神の福音のために祭司の役を勤め、こうして異邦人を、聖霊によってきよめられた、御旨にかなうささげ物とするためである。」
新約聖書は更に、私たち主イエスを信じたものたちはすべて祭司の役目も与えられている、と言っています。

第一ペテロ2:5、2:9
「2:5 あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。」
Ⅰペテロ2:9「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。」

新約の祭司は何を捧げるのでしょうか。旧約時代の祭司は動物のいけにえを捧げました。しかし、新約の場合は、イエス様がご自分の命を私たちの罪の代わりに十字架の上で捧げてくださったので、もう、動物のいけにえは不要です。それでは、何を新約の祭司は捧げるのでしょうか。「霊的ないけにえ」とは何でしょうか。
ローマ15:16によれば、「それはまだクリスチャンでない人たちを主に導き、その人が救われ、神をあがめる人になる、その人たちが「ささげもの」です。また、ローマ12:1には「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」と書いてあります。ですから、霊的ないけにえの一つは「み信者(救いに導きたいと思っている人)」です。もう一つは「自分自身」を捧げることです。

②宗教改革について

ルターの宗教改革
新約の時代になって、キリストの教会には祭司制度はなくなりました。
しかし、3、4世紀頃から中世にかけて、キリスト教会にはローマ法王を中心とする聖職者制度が確立していきました。
1517年、ルターは宗教改革をしました。(ドイツのヴィッテンベルク城教会の扉に「95カ条の提題」張り出しました。当時の堕落したカトリック教会と一線を引くことになりました。これがプロテスタントの始まりです。)

宗教改革の三大原理は
).聖書のみ(聖書の権威)
).信仰(しんこう)義認(ぎにん)(信じる信仰によって、義とされる。免罪(めんざい)符(ふ)によるのではない。)
).万人(ばんにん)祭司(さいし)

万人祭司についての二つの面
1.聖職者も信徒も神の前に平等であって、神父や牧師が特別に偉い人たちではありません。役割の違いです。
2.聖職者や牧師だけではなく、一般信徒も神に選ばれ、召され、祭司の役目を与えられています。(生活の場で)

ルターはドイツの人で、職業についてこのように語っています。「職業とは神によって与えられたものであり、隣人への奉仕をなす場」であると。

1月31日NHKスペシャル「無縁社会-無縁死 32000人の衝撃」
多くの反響を呼んだと言われています。つながりを失った人たちが置き去りにされている日本社会の悲しい実態です。イエス様はこのような現実をどのように見ておられるのでしょうか。
(マタイ9:36~38)
また群衆が飼う者のない羊のように弱り果てて、倒れているのをごらんになって、彼らを深くあわれまれた。
9:37 そして弟子たちに言われた、「収穫は多いが、働き人が少ない。9:38 だから、収穫の主に願って、その収穫のために働き人を送り出すようにしてもらいなさい」。
仕事がなく、失業者が多いと言われる今の時代も、神の国では仕事が多く、働く人が少ないのが現実です。

「派遣社員」といわれている人たちがいます。-私たちは天国の派遣社員です。
期間限定ではない。
いつ解雇される分からない不安定な立場でもない。
誰に派遣されているのか。派遣会社ではない。
収穫の主から派遣されている人たちは、皆、神の国の派遣社員。

7つの本質の2番目は、参加です。
イエス様はすべての人があかし人として参加することを望んでおられます。
教会の中の奉仕ではなく、生活の中で証し人として参加することは、誰にでもできます。家庭でも、職場でも、その人がクリスチャンとして何をしているのかが神の国の働きにつながっていくのです。

南米アマゾン川に生息しているヨツメウオ。

4つの目をもつ魚と言われています。ヨツメウオの目は実は二つしかありませんが、目を横切る特殊な仕切りがあるので、4つの目があるように見えます。この魚はこの仕切りを使って、水の中と水の上を同時に見ることが出来ます。

私たちクリスチャンも4つの目が必要です。下の方の目で人間の現実を見て、上の方の目で神の現実を見なければなりません。

ある人は天国のこと、霊的なことだけを見ようとします。現実の人間を理解出来ません。また一方で、人間の現実だけを見て、神の現実を見ないクリスチャンもたくさんいます。

Ⅱ列王記6章で預言者エリシャのしもべが朝早くおきて、外に出てみると、敵の軍隊が押し寄せて来て、町を包囲しているのを見ました。そこでエリシャの所に来て、言った。
「ご主人さま、どうすればよいのですか」
「恐れてはならない。私たちと共にいる者の方が、彼らよりも多い。主よ、彼の目を開いて見えるようにして下さい」
主がしもべの目を開かれると、神の軍隊がエリシャを囲んで山にまで満ちているのが見えました。

神はこの世界にいつも生きて働いておられます。
人間の世界だけを見ていると絶望します。しかし、イエス様に信頼する人は失望に終わることはありません。

Ⅰペテロ2:6「見よ。わたしはシオンに、選ばれた石、尊い礎石を置く。彼に信頼するものは、決して失望させられることがない。」
この第一ペテロの手紙2章、3章には現実の社会でどのように生活をしていったらよいか、具体的に書かれています。

 社会の中で、夫婦の間でどのような心構えで仕えて行くか、どこに気を使うべきかなどが書いてあります。同じようなことがエペソ人への手紙5~6章にも書いてあります。とても具体的です。是非、読んでみてください。

「参加する」と言うことは「クリスチャンとして積極的に生きる」と言うことです。福音を伝えなければならないとか、教会に誘わなければならないと言うことは横に置きましょう。神のみ手にゆだねましょう。このようなことを考えていたら、かえって、人間関係が不自然になります。人間関係を築き、根気よく愛を表していく中で、主が働かれるのを見ていきます。今の時代、私たちの周りで、悩みのない人や、問題のない人はいないのです。「家庭に全く問題がない」そういう家もありません。みんな、何か悩みや問題をもっています。主の召された場所、主に遣わされた場所として、今置かれている家庭や職場、学校を受け取って行く信仰が必要です。そこで、どのように人間関係を持っていくか。どのように仕えていくか。どのように愛を現していくか。その生き方こそ主のあかし人として求められていることではないでしょうか。

その遣わされている場所で思い切って憐れみの心を現していくにはどうすればよいのでしょうか。

◎人とどのように係わりを持っていくか。

・その人に関心をもつ。
・その人に愛を現す。
 その人が求めている愛の形を知る。独りよがりではなく、こちらの自己満足でもない。
・その人のことを知りたい。
・その人の話を聞く。
愛を現す。⇒その人の良いところを認め、最善を引き出してあげる。

愛を表すことは、自分が目立つことではありません。コーチのように選手たちの力を引き出してあげることです。とりなしの祈りをする人たちもそうです。
「参加をする」ことの多くは目立たないところにおいて、自然な姿で、最善を尽くして生きることです。そうすれば、主が祝福してくださいます。愛はあなたから流れて行くのです。その香りは、なんと香ばしく、麗(うるわ)しいのでしょうか。

教会の本質を求めて

2010-09-13 20:32:48 | Weblog
2010.9.12.教会の本質を求めて

聖書 イザヤ27:6
題  教会の本質を求めて

はじめに
1. 教会の7つの本質について
2. 関係
3. セル・グループについて

はじめに
 私たちの教会の朝顔がやっと花を咲かせ始めました。この朝顔は、根が土の中にしっかりとついてくるとつるが伸びて花が咲くのです。根が伸びないと花が咲きません。教会も同じで、豊かな実は根で決まるのです。良い根は良い実を結ばせます。朝顔は遅れて植えましたから、花も遅れています。しかし、花が咲き始めました。これを見て、思ったのです。遅くてもいい、今、私たちはセル・チャーチ、小グループ伝道を始めなければならない、始めれば、花が咲く、もし、始めなければ、何も収穫を期待することはできないと思いました。
これから、しばらくの間、津田教会のコーチングで学んだことを整理しながら、「教会の本質とは何か。」について語っていきたいと思います。私たちの教会も豊かな実を結ぶことを期待しています。

 徳島教会はセルの学びを一年前から始めました。そして、今、セル・グループが与えられ、自分たちで、運営し、楽しく小グループ伝道をやっているそうです。I姉妹が津田のコーチングで証ししてくれました。牧師のいない家庭集会はとても楽しいそうです。楽しい家庭集会や喫茶店での集まりなどが生まれていくように願っています。

 ハドソン・テーラーが残した言葉があります。ハドソン・テーラーは1800年代に中国で宣教師として50年以上働きました。中国奥地宣教団を創設した人です。その人の言葉にこんな言葉があります。

「イエス様を高く、高く、高くかかげよう。
み言葉に深く、深く、深く、根を下ろそう。」

ハドソン・テーラーは今の時代の私たちに大事なものを残しています。私たちの前の時代が何を残したのか。また、私たちは次の世代に何を残そうとしているのか。そのためには聖書の根っこ、本質に帰る必要があります。その根はみ言葉です。そのためには、「教会」って何だろうと考えてみましょう。

「時が来れば、ヤコブは根を下ろし、イスラエルは芽を出し、花を咲かせ、地上をその実りで満たす。(イザヤ27:6)」

1. 教会の7つの本質(エッセンス)について

 今日の教会は複雑になってきています。もっと単純に、もっとわかりやすいものにする必要を感じた人たちが集まりました。世界各国のセル・チャーチ関係の牧師たち、約300人が話し合って、まとめたものが「教会の7つの本質」です。「①関係、②参加、③能力付与、派遣、④主イエス中心、⑤伝道と増殖、⑥ネットワーク、⑦適用可能な組織、構造」です。

① 関係
 十字架は神との関係、人間との関係を象徴的にあらわしています。このような関係の中で、すべての人間生活が営まれています。伝道、信仰の成長と育成、また、主イエスの弟子として育てられていくことも関係の中でできてきます。牧師同志、教会同志も同じです。これらのすべてにおいて、良い関係が基礎となり、土台となります。良い人間関係が築けなければ、すべてうまくいきません。良い関係が築き上げられたら、すべてがうまくいくのです。

② 参加(万人祭司)
 みんなが参加する教会。教会は専門家をつくるところではなく、皆が用いられるところです。それは教会の中だけではありません。家庭、職場、学校などでの働きが含まれます。家庭や職場、また、子供たちは学校の中でこそ、いろいろなことに参加して、輝いた人になりましょう。

③ 能力付与、派遣
 皆が参加し、派遣されていくためには、その人たちを貢献者として、育てる必要があります。主の弟子として養育することです。赤ちゃんのクリスチャンは主の証人になるように養育されなければなりません。

④ 主イエス中心
 イエスの弟子になって行くためには、牧師やリーダーに依存し、頼るのではなく、主イエスだけに頼ることを学ばなければなりません。教会員一人一人が神の前に出て行くことができ、み心を直接教えていただくことができるのです。

⑤ 伝道と増殖
 いろいろな面で、教会は内向きになりやすいものです。集会中心となってしまい、外に向かって行くことが難しいのです。集会をしていれば、安心という感じがあります。外向きになって行くためには自分たちの価値観も変えられなければなりません。

⑥ ネットワーク
 一人でしないで、他の人たちと一緒にやって行く。そう言う関係が必要です。教会の中でも、外でもおなじです。他の教会に仕えていくネットワークが大切です。コーチングはこのネットワークの大切さを教えてくれました。

⑦ 適用可能な組織、構造
 管理のためではなく、仕えるために、変えられる柔軟な組織が必要です。変化に応じて変えていく柔軟性が必要です。変えて行ってよい組織、構造が必要。組織や構造が教会を支配し、縛るのではなく、いつも時代の要請に応えられる教会でありたいものです。

2. 関係

 関係とは関心をもって関わることです。
「教会」と言う言葉はこのように使われています。教会結婚式、教会建築、教会音楽などです。だいたい建物を示す場合が多いですね。日本語では「教える会」と書き、「集まり」をいう印象を受けます。社会にはいろいろな関係があります。学校では先生と生徒の関係、病院では医師と患者の関係で、癒されることが中心、軍隊は訓練が中心、会社はしっかりした組織と管理が中心です。家庭はどうでしょうか。人間関係、深い人間関係を重要視しているのは家庭ですね。

 聖書では教会のことを「エクレシア」と呼んでおり、「神に呼び集められた人たちの共同体」です。誰かに関心をもち、関係を築き、愛を現わしていきます。その関係が深められていきます。そして、お互いが一致した価値観(神を愛し、人を愛する)に生きるようになる、その人たちの群れが教会です。教会は単なる集会でもなく、プログラムでもなく、神との関係と人間との関係です。互いに愛し合いなさい。クリスチャンのしるしは礼拝に出ていることだけでなく、愛することです。忙しすぎて、人間関係を築けないことの方が多いのです。

 普通、教会のことで、神との関係や人間同志の関係について質問する人はあまりありません。でも、「集会に何人集まりましたか」と質問する人は多いのです。これは人数が大事にされて、関係が大切にされていないと言うことです。集会や奉仕のことが重要視されてしまいます。働きのことが大事にされていると、個人的な関係は薄く、表面的なことで止まってしまうことが多いのです。「愛」を現わすためには、個人的な神との関係、人との関係が大切です。特に人間関係を抜きには愛を表すことは難しいのです。

 皆さん、立ち止まって考えてください。この1週間の間に、人と関わる時間をもったのは何時間ありますか。妻や夫との時間、子供との時間、教会の人や求道者との時間など、・・・どうでしょうか。

3. セル・グループについて

 セル・グループと言うのは週に一回集まる集会です。家でも、喫茶店でも、教会でも、どこでもかまいません。ただ、今までの家庭集会と違う所は賛美をして、聖書の話を聞いておしまいではないのです。このセル・グループはお互いの人間関係を築き上げて、その信頼関係を通して、愛や命が伝わって行くところなのです。お互いの関係を深く築きあげるところです。愛や神からの命は関係が深いほど、心から心へと流れて行きます。「今日は集会に二人だけしか来ないので、セルはお休みにします。」と言う声を聞くことがありますが、これは間違いです。これは集会中心の考え方です。関係中心ではありません。関係中心の場合は、二人だけだと、もっとたくさん話せるし、もっと深く、お互いを知ることができると喜ぶはずです。

 高齢者もセルが必要です。日本では一人暮らしのお年寄りが増えています。そして、どうしているのか、わからない人もたくさん出てきました。高齢者の方々を訪問して助けるセル・グループもできたら、良いですね。
マタイ18:19
「また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。」
主イエスは「心を一つにする関係」を重視しておられます。天の父はそこを見て、祈りに答えて下さると言っておられます。

 セル・グループは人を大切にし、関係を大切にすることを目指しています。
「愛と一致の共同体の中を歩むように造られた」、これが教会です。未信者はそこに引き込まれてきます。お互いの関係が重視され、信頼関係があるところでは、組織や委員会のようなものもスムースにいきます。そこにあまり多くの時間をかけないようになっていきます。

家庭が会社や学校のように運営されていくと、どうなるだろうか。もう家庭ではありませんね。今日、多くの教会で関係が軽視され、集会の人数や建物が重視されています。そのことに気づかない教会も多いのです。私たちの教会は、教会の本来の姿に帰って行きましょう。本来の姿では神との関係と人との関係を、より重要視するのです。


富山・ヨシュア牧師の奥さんのあかし:
 富山市主催の外国人交流の集まりに香港から来ている宣教師のひとり、チーケーさんが岐阜のコーチングに参加しました。そこでひとりのネパールの人と知り合いになりました。職場などで、日本人からいやな思いをさせられていました。教会のひとりの人(真二サン、ゾーエのご主人)に紹介しました。その人に会った時、はじめてすばらしい日本人に出会った、と思ったそうです。

 そのネパール人はその後、「収入が多い仕事」、ということで、北アルプスの立山連峰・朝日岳(標高2,418m)の山小屋の仕事をするようになりました。山小屋での生活はさびしいだろうということで、教会の3人の男性たちがその山小屋を訪問しました。3人のうち2人は本格的な登山は始めてでした。装備のための服や靴を購入して揃えました。登るだけで1日かかりました。山小屋で1日過ごし、下りも1日がかりで下りてきました。ネパールの人は彼らが3日がかりで自分を訪ねてきてくれたことで非常に感動し、心を開いたのです。その後、自分の日本人の奥さんに自分はキリスト教に入りたいと言った、といいます。
 
 やがて彼は一時的にネパールに帰らなければならなくなりました。その時、20代の奥さんは身重(妊娠中)でした。ひとりで生活することになった、その若い奥さんのためにヨシュア牧師の奥さん、はなこさんが係わることになり、何かと関係を持っていきました。毎週、メールをするか、電話をするか、一緒に会って話す時をもちました。

 話の中で、「彼女は『別居中の自分の両親のことで辛い思いをしてきた。自分も親になると、あのようになるのではないかと思うと不安だ、どうしたらよいか』と、悩んでいた」、そういう悩みのことが分かってきました。そんなある日、こう言ったそうです。「クリスチャンになるにはお金が要るの?」と。

富山の教会では、ご主人が帰ってきて、この夫婦が一緒に洗礼が受けられるようになることを祈っています。

 大切なことは何でしょうか?
「大切なことは、大切なことを大切にし続けることである」とある人が言いました。
教会の本質の一つは関係です。この関係を大切にすることです。十字架はこのことを教えています。縦は神との関係、横は人との関係を象徴(しょうちょう)しています。

人々を弟子としなさい

2010-09-05 18:03:56 | Weblog
2010.9.4. シンシア先生の話から

聖書 マタイ28;19~20
題  「人々を弟子としなさい。」

はじめに
1. 人生を楽しむ
2. 力強く生きる
3. 集中力を養う

はじめに

 今回もベン・ウォン先生の講義を聞いてきました。今回は以前よりもわかりやすく、具体的でした。今回学んだことは、意識的に弟子訓練をする、意識的に自分を変えるように努力すると言うことでした。そして、この世の価値観は「得る。」ことですが、神の国の価値観は「与える」ことです。この世は自己中心に考えて行きます。しかし、神の国は「自分の命を与える時、自分の命を得る。」のです。私たちは命を与える時、命を得るのです。神が下さる新しい命は与える命です。与えるように育てないなら、教会の人々は決して命を得ることはありません。
ルカ9:23「イエスは、みなの者に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」「自分を捨てること」は「十字架を負うこと」であり、「自分を与える」ことの象徴、目印です。「日々」と書いてあるので毎日、このように生きることです。このような生き方が私たちの生活の中で見られる普通の生き方にならなければなりません。私たちの普段のライフスタイルが「日々、自分を捨て・・・」の生活になるわけです。

 これはベン先生とは別の話ですが、私は2~3日前にこんな本を読みました。「脳からストレスを消す技術」と言う本です。この本は普通の本屋さんで買える本です。この本の結論はこうです。「一番良いストレス解消は人に尽くすことです。」、「『他人のために何かをする』ということは、実は、自分を最も幸せにする方法だったのです。人のためにすることは自分のためであり、人を幸せにすることは、自分を幸せにすることなのです。」私たちの脳は自然と人のために尽くすことに喜びを感じるように造られているのですね。この本とベン先生の言われることが同じようなことだったので、感動してしまいました。

 またベン先生の話に帰ります。マタイ28:19~20「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、 28:20 また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。」
この中に4つの動詞がありますが、主な動詞は1つだけです。後の3つは分詞です。主な動詞と言うのは「弟子としなさい。」です。後の3つ、「行って、バプテスマを授け、教えなさい。」この3つは分詞です。ですから、大事なことは「イエス・キリストの弟子をつくる。」と言うことです。イエス様の弟子を作る、弟子を育てることは義務です。自分で選べるものではありません。イエス様の弟子になることも、弟子を作ることも私たちのなすべきことです。これはイエス様の命令なのです。だから、もし、イエス様を愛するなら、自分もイエス様に従い、イエス様を愛するように、ほかの人々も愛し、弟子にしていかなければなりません。

 それでは「どのように弟子づくりをしていくか」と言うのが、みんなの関心(興味)の的であり、知りたいことでした。具体的に知りたいと思ったのです。そこで、私たち女性は、ベン先生の奥さんのシンシア先生から、お話を聞きました。この先生はパワフルな先生で、いろんなアイデアの持ち主です。「弟子づくり」は「子育て」と同じですと言われました。この子育てには「子供をこのように育てたい」という目標が必要になってきます。これが将来の青写真というものです。もし、「英語がしゃべれる子供にしたい。」と思ったら、英語学校で学ばせるか、自分で教えます。お母さんがもったこの子の青写真は「英語の喋(しゃべ)れる人」という青写真です。このシンシア先生は4人ぐらい(?)子供がいました。ベン先生と二人でどんな子供にするかと話し合い、ノートに書きつけたそうです。一人一人のために何枚も書いたそうです。これをもとにして意識的に子育てをされたそうです。この中から、お母さんであるシンシア先生が何を考えて子育てをしたか、これがどのように弟子づくりと関係しているか、考えてください。

シンシア先生は人生で大切なことは何かを考えました。それは、与えられた人生を楽しむこと、力強く生きること、集中力を養うことだと考えました。具体的にどのようになさったのか、お話したいと思います。

1. 人生を楽しむ
 「人生を楽しみ、日々を喜べる子供に育てる。」なぜなら、人は自分の人生を楽しむことができたら、自分を愛し、人を愛することができます。自分が楽しい時は、自分の内側から、何かをしようという意欲が出てきます。子供たちが誰と居ようと、どこにいようと、楽しく過ごすことができるようにと考えました。子供たちを育てながら、教会のいろいろな働きをしました。
子供ミニストリ、女性のミニストリー、カップルのミニストリー、ホモセクシャリーのミニストリなどです。教会の頭脳的な働きもしました。最初、一つずつ立ち上げました。その中に喜びを見出すようにしました。創造的に育てて、それができるようにしました。子育ての大事なことは、人生を愛する子に育てることです。そのためには、まず母親が人生を愛するようにならなければなりません。まず、母親が人生を楽しまなかったら、子供には人生を愛することはわかりません。それから、母親が子供を愛するようにならなければなりません。良い人間関係を築くのです。子供が私(母親=シンシア先生)のことを好きになったら、私の言うことを聞くようになります。

上の娘の時です。娘はしっかりしたきずな、心と心の関係をもとうとしています。一緒に賛美したり、遊んだり、楽しんだりします。そのことを通して、その子供が家族を一つの家族として愛するようになります。母親がカギをもっています。いかに楽しい家庭になるかどうか。・・・家族は小さいので、助けあうことができます。励ますことができます。支えることができます。家族の間で子供たちがリーダーになったりすることができます。子供たちは私たちから学ぶことができます。気楽な場から愛したり、尊敬したりします。どれだけ良い雰囲気を作ることができるかです。人々は良い雰囲気の中で変わることができます。父親、母親たちが良い雰囲気を作っていることから、他の所でも、良い雰囲気を作りだすことができます。

 家庭から逃げたいような気持から守られます。牧師の家庭の子供たちはいろいろなプレッシャー(圧力)を感じています。他の牧師の子供たちは家を出たいと思っています。シンシアさんの子供たちが言いました。「私たちにも、そんな逃げ出したい気持ちがあります。でも、お母さん、お父さんを尊敬したい、家庭を大切にしたいと思ったので、家出をやめて、一緒にいることを選びました。」と言ったそうです。

子供にはあそびを通して学ばせます。ゲームの中でいくつかの力を養うことができます。
①一時間の集中力、②創造力
また、あそびを通して、心の中に楽しい思い出もつくることができます。「人生っていいな」と言うことを刻(きざ)むことも大切です。人生の中で事故などがあって、いやなことが起こった時、良い思い出によって、それを克服する、乗り越えることができます。
人生の基本になることは「人生はいいな」と思えることです。

2. 力強く生きる

「人生の中で力強い子になってほしい。」
子供たちと一緒に難しいことにも挑戦(ちょうせん)します。小さい頃なら、階段を一つ飛び越えたら、二つ飛び越える、それができたら、3つ、飛び越えるなどです。また浜辺で朝7時から夜10時までいて遊ぶ、また山登りをするなど、子供たちは疲れていますが、それを乗り越えることを教えます。そうすると難しいことをやり抜く体験ができます。「わたしにもできる」と言う体験ができます。みんなで挑戦して、みんなで楽しくやると、みんなで楽しく乗り越えられます。

私は学校でも一生懸命勉強するように教えました。最善のことをしなさいと教えました。何かをする時は一生県命しなさいと教えました。人々からほめられるともっと意欲がわくようになります。何事でも一生懸命やることによって、人生で生き残っていくために良い土台を作ることができます。それらのことを通して、「わたしはできる。」という自信をもつようになります。将来成功するようになると思うようになります。しかし、成功するためには失敗もします。失敗しても気にしない、その失敗をどのように受け入れさせるか、また自分で受け入れることができるようになるか、・・・。自分の失敗も他人の失敗もうけいれることができるようになることが大切です。

子供たちのトレーニング:いろいろなタイプの人に会えるようにしている。視野を広げるようにしています。
 私は8歳の時から子供たちを短期宣教師として、貧しい国々へ派遣しました。よその教会の人たちが自分の子供の面倒を見てくれました。この貧しい人たちの姿を見ることによって、自分たちの生活がどんなに恵まれているか、その特権を大切にするようになりました。また、周りの人々の大変貧しい姿を見て、その人たちの必要に対して、与えなければならないと思うようになりました。

私はいろいろな人々を招きました。成功している人々も招きました。その人々からビジョンをもらいました。ヘレンケラーのような人の伝記も読んであげました。すると、子供たちはもっとよくなりたいと思います。やる気をおこさせます。私たちは大きな偉大な種をまくことができます。彼ら自身でやって行くことができます。
どうするか分かっていて、反抗した時はお尻を叩きました。痛みは最大の薬です。

3. 集中力を養う

独立して、成功して、自分の人生を歩んでほしい、始めたことを自分で自信をもって終わることができる、自分の仕事を終わらせる、このために必要な能力は「集中力」です。「集中力」の中には「忍耐力」も入ります。

集中力は訓練です。夏休みの宿題は強い集中力を育てます。はじめに宿題を終わらせるか、終わりにするか、と子供に選ばせて、その宿題を一週間で終えることができるように手伝った。そして、朝から、夜まで徹夜してやらせた。終わったら、たっぷり、遊ばせた。
また、子供が小さい時は、あそびの中で集中力がつくように遊ばせました。簡単なおもちゃで3~4時間遊ばせました。励ましたり、ほめたりしながら。子供は途中であきるのです。やめたくなります。しかし、私は彼らがやめないように工夫しました。

それから、食べることにも工夫して、いろいろな物を作りました。食べることは楽しいと思えるようになるためです。何かをする時、食べながらやると楽しくできます。

「勉強するのは楽しい」と思うように育てました。5歳まで家で教えました。売っている物ではなく、自分で作った教材でやりました。5時間ぐらいは勉強できるようになったのです。それから、学校に行っても宿題を楽しいと思うようになりました。

それから「がまんさせる」こともさせました。集中力、忍耐力をもってやることです。子供たちに対して、「話を聞く、子供に話させる、そして話を聞きながら、時々質問をする」ということもしました。

まとめ

とても簡単なことを、意識してやりました。

1. 人生を楽しむ
2. 心の強い子に育てる
3. 集中力を養う

いつでも、この3つの何を目的にやっているのかを自分に問いかけながら、育てました。弟子訓練は子育てと同じです。そして、自分が成長させられます。自分も訓練させられます。今日は自分自身にこの3つを問いかけましょう。