豊田の生活アメニティ

都市デザイン、街歩き・旅行、くらし

ポツダム

2015-05-31 | traveling, town walking

 安倍総理と同じく、私もポツダム宣言をまともに読んでいませんでした。そこで、急遽ネットで探し現代語訳のものをコピーしました。現地ガイドの熱っぽい説明から、日本の戦後の命運が規定された重要な文書であることがわかりました。チャーチル、ルーズベルト、スターリンの巨頭の駆け引きや、日ソ不可侵条約からソ連の参戦、日本への原爆投下のための敗戦の引き伸ばし、領土の分割など多くの問題の秘密が隠されています。紹介された『黙殺』を早速図書館で予約し、読んでみることにしました。ポツダム宣言の意味は改めて調べてみます。
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ベルリンの壁をまたぐ

2015-05-31 | traveling, town walking

 ベルリンの壁は言うまでもなく、国家の分裂という悲劇と冷戦の象徴です。テレビや写真などではみましたが、原爆ドームと同じく一目現地を見ておきたいものの一つです。壁は薄くても管制塔からは、監視と銃口が向けられていた訳で、分断された人の苦しみや嘆きは計りしれません。
 ガイドさんの説明では、東ドイツがロシアに支配され、西ドイツはアメリカ、イギリス、フランスに分割統治されました。さらに首都ベルリンも4か国に分割統治されました。ベルリンの壁は東ドイツによって1961年に建設され、89年の崩壊まで28年続きました。
 1990年の統一から25年、今やEUの中心国で首都もベルリンになりましたが、まだ多くの課題があるようです。帝国主義、軍国主義として侵略、植民地支配が敗北し、それをどのように償い、反省したか、同じ敗戦国として平和、民主主義、人権、環境の違いは何か比較し、戦後70年にあたってドイツから学び、検証することが日本は多くあると感じました。
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ドイツ連邦議会議事堂

2015-05-30 | traveling, town walking

 残念ながら議事堂へは外からしか見られませんでした。
 第1に歴史的には、1933年にヒトラーに放火され、それを口実に共産党を弾圧し独裁政治が始まり、戦争へとつながった訳です。(『ベルリン物語』、写真は議事堂近くにある、ヒトラーに弾圧されて殺された人たちの銘板です。)
 第2に再建された、ガラス張りの建築です。時間をとって内部を見学したいものです。桐島京子さんのブログ「アートをめぐる旅 パリ編」に、詳しく紹介されていました。
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ブランデンブルク門

2015-05-30 | traveling, town walking

ドイツの基本情報の私の確認です。
時差:-7時間、飛行時間は中部からフランクフルトへ行きは12時間。
通貨:ユーロ手数料込みで約140円、チップ;ホテル1€、食事5~10%、トイレ0.5~0.7
電圧:230V(100~220は注意)
気候:北海道より北にあり、春は日本より1~2か月遅い。
地形;平地が多い、農業は麦、ジャガイモ、乳製品、肉など。原発0を進め、風力、太陽光など促進。
水;飲めるけど硬水、ペットボトルは1.5~3€と高い、炭酸水に注意。
労働、生活:消費税19%、生活品7%、社会保障高水準。物価上昇中、休日、残業は少なくストライキ多発。
歴史:100万人以上は首都ベルリン、ミュンヘン、フランクフルトだけ。1945年敗戦、冷戦、1989ベルリンの壁崩壊
政治:メルケル首相、300の小国、EUの中心国など
文化:ゲーテ、マルクス、「ベルリン物語」、「黙殺」、森鴎外など
 2日目ベルリンの最初の訪問地は、写真のブランデンブルグ門です。「砂岩から作られた、新古典主義様式のこの巨大な門には、ドイツおよびベルリンの歴史と切っても切り離せない歴史があります。1791 年、ブランデンブルク門は平和の象徴としてベルリンの大通りの 1 つ、ウンター デン リンデンの入り口に建てられました。高さ 30 メートル (85 フィート) を誇り、アテネのアクロポリスの入り口にあった門をモデルとして再現したものだと言われています。」(Expedia.co.jp)
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東ドイツと主要観光

2015-05-30 | traveling, town walking

 4月はじめに相棒と急遽ヨーロッパに行くことにしました。行ってない国から、フランス、イギリス、ドイツに絞り、はじめはフランスのルーブル美術館、ベルサイユ宮殿をメインに申し込みましたが、関空発ということとテロの事件が気になりドイツに変更しました。添乗員付きのJTBツアーで、日程が8日間(5月22日~29日)にしました。ゴールデンウイークの後ということで、お値打ちな31万円でした。特にベルリンの壁、ポツダム会談の場所が印象的で、町並みは緑が多く、公共交通も総合的に整備され、食事もビールもおいしく、快適で満足の行く旅行でした。できれば費用がアップしても、連泊が2回ぐらいあり、10~12日位が良かったですが、催行されていないコースが多くありました。コースは東部ドイツとロマンチック街道で、バスで毎日4時間ほどの移動です。高速道路でゆったりだから、寝られましたがちょっと疲れました。ホテルではお酒も入っていて、9時頃から寝てしまいました。以下順次忘れないうちに旅行の感想を書き留めます。
 中部空港からは2人だけで、関空から11名、羽田から15名の現地合流です。添乗員同行とあったので安心していましたが、フランクフルトからベルリンへ国内線の乗り継ぎが不安でした。フランクフルトはハブ空港で大きくて古く、案内表示に沿って移動しましたが、荷物検査が厳しく時間がかかりました。しかもゲートが替わっていて、時間も遅れていたので戸惑いました。写真はベルリンの上空で緑の多い都市というのが、第1印象です。
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ベルリン物語

2015-05-21 | 気になる本

川口マーン恵美(2010)『ベルリン物語-都市の記憶をたどる』平凡社
 明日よりベルリンとドレスデン、ロマンチック街道などのツアーに参加します。ドイツは2度ほど行った記憶がありますが、ベルリンとポツダムや中世の都市の町並みに興味があり、JTBのツアーに申し込みました。予備知識注入のために、手にしたのがこの本です。
 戦後70年、安倍首相は戦争法案を提案しました。秘密保護法や日米ガイドライン改悪、米軍辺野古基地建設強行、オスプレイ購入配備などきな臭い話が国民合意なしでどんどん進んでいます。忘れてほしくないのは、戦争の悲惨であり再び戦争する国にしないはずで、憲法中でも9条の意味でした。先の太平洋戦争の教訓は、侵略戦争でありアジアの国々を資本の都合により植民地化したことです。戦後の平和と繁栄があるのは平和民主勢力の闘いがあり、軍事費を抑制し海外派兵にブレーキをかけてきたことに依ります。今そのブレーキが効かなくなるという、大きな岐路にあると思います。忙しくて政治的関心が薄くなっている若者が、戦争に参戦する危険性が強いのです。
 著者の川口マーン恵美さんの経歴はよく知りませんが、本の内容は洞察力に優れているものです。ヒトラーがなぜ生まれたのか、ドイツは償いをどうして来たのか、ベルリンの壁の崩壊後は東西の融和は、EUの危機は乗り越えられるのか、その中心国ドイツからの歴史は多くを学ぶものがあります。安倍さんが世界を飛び回っていますが、ドイツから学んで欲しいものです。以下、気になるポイントのメモです。
 プロローグからドイツ統一は1871年で、プロイセン国王はドイツ帝国の国王となり、首都はベルリンに置かれた。ドイツの産業革命はイギリスよりだいぶ遅く、1930頃に始まり、その後の工業化はすさまじかった。進歩的なベルリンは1933年ヒトラーがそれを消滅させた。ベルリン宮殿は再現されたのだろうか?
 第2章「ドイツ帝国の時代」から、1907年に英、仏、露が3国協商を結び、ドイツは列強に包囲された。1914年6月28日サラエボで皇太子とその妃が暗殺された。8月1日ヴィルヘルム2世は対ロシア戦の開戦をつげた。8月3日にはフランスがドイツに宣戦を布告した。ドイツ人はすぐに終わり勝てると信じていたようだが、4年におよびドイツ帝国は消滅した。
 第3章「ワイマール共和国の時代」から、1918年にドイツ帝国は滅び、19年にワイマール共和国が誕生した。ベルリンは350万人、ほかに百万都市はハンブルクとミュンヘンしかない。1919年ドイツもインフレになった。その理由は戦争賠償とも言われるが、著者は国債発行であるとしている。インフレで儲けたのは政府で、多額の借金が帳消しにできる。(日本も同じ道を繰り返さないこと願う)
 第4章「帝国議事堂」では、1933年2月27日の夜、帝国議事堂は燃えていた。ヒトラーが党と自らの命運を賭けた総選挙の、6日前のことである。帝国議事堂放火事件の裁判が始まり、消防関係者は別件逮捕、罷免、または死亡している。「共産党の武装蜂起の始まり」とされた。そして共産党員狩りが始まった。ヒトラー独裁が始まり、ゲシュタボが設立され、ユダヤ人弾圧がされ労働組合が解散させられた。(写真は再建された連邦議会議事堂)
 第6章「ベルリン崩壊、ポツダム会談と原爆」で、戦後の世界秩序の構築で米のトルーマン、英のチャーチル、露のスターリンがポツダムで会談した。三者はその前にテヘランとヤルタで会談している。ルーズベルトの跡を継いだトルーマンは、秘密裏に進めていた原子爆弾の開発いわゆるマンハッタン計画を知り、原子爆弾を使うことを画策していた。7月26日トルーマンは日本にポツダム宣言を送った。天皇制を残す文言はなく、日本は受け入れる条件がなかった。トルーマンは日本の早期降伏を望まず、原爆投下のタイミングを計り、投下を指示した。
 エピローグ
 1990年ベルリンの壁が崩壊した。統一後の現在では、財政難有、教育問題、外国人問題など問題があるが、プラスの発展方向に発展を遂げてきた。ベルリンは今や壮大で美しい首都である。近代史のあらゆる出来事を体験し、栄え、滅び、そして再生した町。ドイツで将来住みたい町は?と訊かれたら、私(著者)は迷わずベルリンと答えるだろう。
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帰国

2015-05-16 | traveling, town walking

 4日目は帰国だけです。時間があったのでホテルのプールでひと泳ぎです。チェックアウトはカードで、暗証番号が決めていません。請求が14036円でした。予約は朝食込みで、12,124円でサービス料はexcludeだから、含めてもちょとレートの関係か高いです。ホテルでwifiが繋がらなかったのでクレームをいうと、ロビーで使えるコードを教えてくれました。飛行機のチェックインをしようと開きましたが、搭乗券の印刷ができないので諦めました。駅で50HK$チャージし、少し時間があったので駅周辺を歩きました。写真の古い建物や路地での生活ぶりを覗きました。
 空港へ着き、自動チェックイン機を試しましたができませんでした。搭乗券の印刷だけでもできるようでした。
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沙田 Royal Park Hotel

2015-05-16 | traveling, town walking

三日目のホテルはネットBooking.comで予約しました。沙田駅について適当に探そうと駅から通路をしばらく歩いていると、目的のホテルがありました。チェックインをしましたが、手持ち資金が少なくなったのに気付きATMを教えtもらいました。地図を片手に3階と聞いたので探しましたが見つかりません。3~4人に聞いて、ATMマシーンをやっと見つけました。三井のキャッシュカードで操作しても現金が出ません。隣の機械に代わり、手引書を見て再度挑戦です。やっと1200HK$が下ろせ一安心です。これでオクトパスのチャージができます。カード社会となっていても、現金払いのほうが安心です。今度来るときは銀行で貯金をしようかな。カードもできるとか。恒生銀行か中国銀行かな!写真は駅周辺の「城」です。
 豊田市の中心市街地の計画書か何かで、豊田市の駅前でもモールを作るような案がありました。モールの条件は何か?公共交通の駅があり、人の交通が多くあること、多様で魅力的な個店があること、市民の消費購買力があることなどです。香港の場合は高温多湿の気候で、これからの雨季に空調のあるビルや店舗は避難場所です。
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深センで若い女性と食事

2015-05-16 | traveling, town walking
今回の目的の一つは新興都市深センの様子を一目見たかったことです。香港の1国2制度、政治闘争など大きな動きがありますが、都市機能、市民生活を実感したいということで、見る、聞く、調べるということで、まず見ることからです。国境を超えることは普通飛行機です。EU圏内では簡素化しています。これまでシンガポールからマラッカと、カナダからボストンに行くときはバスで通過しました。ナイアガラではパスポートを見せるだけの通過も経験しました。今回は簡単な方法でMTRを利用し、歩いて入境することです。事前に調べた「まっちの街歩き」ブログが参考になりました。MTRはオクトパスのチケットがあり、路線図を片手に乗り降りもネットの調べで簡単にできました。

 深センの街は駅を降りてみると、でかいの一言でした。地下鉄をまず探しました。ウロウロしてると、親切な人が教えてくれました。香港と地理的には同じのため、湿度は高くのどが渇いたので、水を5元で買いました。地下鉄の切符も簡単に2駅2元で変えました。緑のコインが出てきて、自動改札機にかざし降りるときは穴に投入です。

地下鉄を降り、東門老街を散策することにしました。土産物店や飲食店などかなりありますが、これといった歴史的な遺跡もなく興味半減です。お腹がすいたので、焼き栗を買いベンチに座り、栗を食べながら人の流れを観察です。またぞろ歩きましたが、高層ビルに上る元気もなく食事をして香港の予約ホテルに行くことにしました。料金が明確でメニューが写真付きの店を探し入りました。チャーハン(20元)とコーンスープ(10元)を頼み、食べていると混んでいたためか、若い女性が何も言わずに向かいの席に座ってました。香港の時はほかに席があっても、黙っておじさんが相席してきました。支払では30元のはずが、100元出したのにおつりが少ない。なめられたのか文句が言えない。よく考えてみると、香港ドルを出したことが後でわかりました。
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Kowloon Tong

2015-05-15 | traveling, town walking

 2日目の午後はTuen Munを切り上げ、ガイドブックにあった九龍城に向かうことにしました。そのコピーを忘れ九龍がつく九龍とう(Kowloon Tong)駅を目指しました。後でコピーをみたら、下りる駅が違っていました。やむなく駅周辺を散策することにしました。近くの公園では外国人労働者と思しき人たちが、日曜日のためくつろいでいました。

 香港城市大学の近くで写真の歴史ある家を発見しました。
 その後ホテルに帰り夕飯を食べに出かけようとしたら、靴底がまた剥がれてしまいました。止む無く靴を買いに、ホテルにある店で安いサンダルを買いました。そしてホテルを出て食事をしようと思いましたが、またもや雨のためホテルのビル内の食堂で食べることにしました。しかし、日曜日で母の日のためかどこもレストランは、午後8時になっても満員です。結局スーパーでつまみとワインとマンゴ(11HK$)などを買って、部屋で食べることにしました。
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