古文書を読んで感じたこと

遠い時代の肉声

恵那へやってきた白秋

2012-06-22 21:15:59 | 講座(古文書)
大正7年11月、白秋は恵那へやってくる
もちろん律太の招待ではあるが
わざわざ小田原から恵那を目指して来たわけではない
名古屋の歌誌「白光」の同人に招かれての名古屋訪問が主目的であった
名古屋滞在後、律太宅へとなるわけだが
その前に犬山めぐりもしている

この年の初めに律太は東京の白秋に「つぐみ」を送った
お礼の手紙の中では「ありがたく賞玩した」と書いている
「賞玩した」という言い方からは
なまのつぐみを贈られて、あっけにとられ茫然自失といった
雰囲気が漂っているような気がしてならない
「賞玩」を変に意味を曲げないで
文字通り珍味だと舌づつみを打ちながら
美味しく食べたと解釈するのが正解だろうとは思うが

白秋、章子夫人にその食習慣があれば更々云うことはないが
口に入れるにはやらねばならないことがある
まず、羽をむしって、腹を截ち割り
内臓面を開いて串刺しにし、その先に頭も串に刺した状態にする
現在の都会人(東京の住人)たちなら
何と野蛮で残酷なことをとするのだと怒りだしそうな話で
想像もできないことだと思う
当時の東京なら、それを七輪の炭火で焼かねばならない
もっとも、夫婦とも九州の田舎出身だから
それぐらいのことはできたかもしれないし
食べられそうなものなら何もゴチャゴチャ云わずに
料理するぐらいの窮乏生活の最中にあったかもしれない

東濃人にとって焼き鳥は、自慢の郷土料理であった
珍しいお客にはぜひとも振る舞いたい一品である
材料となるつぐみの猟場を鳥屋というが
律太は実家近くの永田山乳母ヶ懐にある鳥屋へ案内した
その時の短歌や即興詩がいくつかこの町に残っている
 
ほうい ほうい ほうい
霜がこいぞ つぐみよ 白秋
(永田地区有志一同によって長田神社跡に建てられた詩碑)

恵那から帰った章子夫人からはこんな礼状が認められている

先日は誠に色々と御もてなしに預りまして
何とも御礼の御申上げようも御座いません
全くうれしい有難い二日間でした
鶫がりの印象一生忘られぬ事と思ひます

大正7年正月、つぐみを受取ったのは東京
その3月には小田原へ引っ越すが
始めは御幸ヶ浜
1ヶ月後には十字町お花畑
10月には天神山の傳肇寺に間借り
と一年の内に三度も小田原の内で転居を繰り返している

という訳で白秋が恵那へやって来たのは
傳肇寺へ引っ越して間もなくのことであった




 私はこれが為に親には不幸の子となった。
 弟妹には不信の兄になった。
 さうして舎中の諸君には師として不親切の限りを尽くした。
 さうして私の妻も餓ゑさせ、その衣をはいだ。
 親達は怒った。怒るより却って泣いた。
 弟達は恨んだ。恨むよりも訴へた。 
 弟子達は責めた。責めるよりは迷はねばならなくなった。
 ただその中で私の妻だけが、私を正当に理解してくれた。
 私は私の妻を信じ、私の妻は私を信じた。
 私達は貧しかったが却って仕合せであった。
 二人はただ互に愛し合ひ、尊敬し合ひ、互に憐憫し合った。
 然し私の仕事は容易に仕上げを急ぐべき種のものでは無かった。
 日を以て責められるにはあまりに勿体ない。芸術に道は一つである。
 私は覚悟した。妻も覚悟した。餓死が目前に迫って来る。
 それはいい、然し私達の背後をふりかへると、
 そこには肉身の両親がある、弟がある、妹がある。
 私は血を吐く思いをした。妻は日に日に痩せて行った。

 この(紫烟草舎)解散の辞が書かれたのは、
 本郷動坂三百六十四番地の二階建ての三軒長屋であった。
 白秋と章子は大正六年六月、一年の葛飾生活を畳み上京した。


白秋は大正7年3月、東京から小田原へ越した
始めは御幸ヶ浜の養生館に1ヶ月程投宿
お花畑へ。章子の病気は一向によくならない 
傳肇寺へ三度目の引越し  
縁側の外にさしかけの板を打ちつけてくれ
ビスケットの空箱を棚代りに置くと簡易炊事場が出来上がった
七輪ひとつと渋うちわで章子は炊事を苦にもしなかった 
章子はお花畑の時よりも元気になる
「こんな淋しい生活はあなたといっしょだから耐えられるんだよ
ひとりではとてもだめだ」
白秋は夜なべに洗い張りの着物を縫い直す
章子の手許を見ながらしみじみつぶやいた
白秋の着ている物は歌舞伎の浪人のように
肩にも胸にも切りかえの布やつぎが当っていた
章子も着古したよれよれの着物で
昔贅沢な着物をあれほど身につけた女とは見えなかった


白秋が傳肇寺で間借り生活を送る直前の
窮乏ぶりはこんな状態であった






(表)
岐阜縣恵那郡長嶋町永田
牧野律太様
(裏)相州小田原十字二丁目傳肇寺内
    三日     白秋
消印7.12.3

  この度は非常に難有う、永い間名古屋にゐて、
 私は何を得たかなとなると苦笑する。
 旅に病んでも芭蕉は羨ましいよ。
 彼は蔭日向の無い本当のいい門下生を持つてゐた。
  私は何かと遠慮をして、好きな旅もできず、
 本当に落ちついたいい勉強もできなかった。
 これだけは残念に思つてゐる。
 何の理由があって、ああいふ風に
 私を束縛していいといふ事になるだらう。
 それが当然の権利ででもあるかのやうに。
  私はただ君の一家から心をきない
 いい待遇を受けた事を真から感謝する。
 それに犬山もよかった。
 名古屋は不快。自然も市街も俗悪。
 帰来、私はまた苦しみの中にゐる、が非常にいそがしい。
 旅の後始末が主であるが、
 まだ私が日常の仕事に取りかからぬ前に、
 高津君は毎日葉書で、表紙、選歌、原稿おくれと云つて来る
 何處までいぢめるつもりだらう。
  小田原はやつぱりいい。
 何もかも忘れて私は静かに勉強したいと思つてゐる。
 皆さんにいろいろの御礼をよろしく
    三日         白秋
   牧野君



恵那を訪れた直後の便りがこれである


翌年(大正八年)の夏、白秋は傳肇寺の敷地内に山荘を建てた
白秋の門下たちが寄って浄財を集め
師のために書斎を建てようと計ったことがことの起りらしい
はじめの計画はせめて書斎でもというので
二畳の朝鮮式の方丈と
日本風の四畳半の寝室だけの積りだったが
ついでにもう一棟小笠原風の掘立小屋を建て増すことになった
「木兔の家」と名付けられた