古文書を読んで感じたこと

遠い時代の肉声

桃の旅集 乾 (加藤素毛著)

2022-03-20 01:21:01 | 古文書史料紹介
古文書を読むことが面白い と思っている人にとって
特に幕末から明治にかけて日本の黎明期の文書は欠かせない

予て江戸遊学中の弟四郎兵衛の下宿先で兄弟3人揃って別れの杯を交わしている
その際故郷の両親に宛てた手紙に
「千載一遇を得て未知の世界へ挑戦する喜びと決意」を
また
ワシントンから両親に宛てた手紙には
「帰国後幾々は士官への道を考えている」旨の記述がある
差出人は2通とも加藤素毛
時期は日米修好通商条約批准書交換使節の一員となった万延元年である
(寄稿文「加藤素毛の生涯と功績」遣米使節子孫の会日下部格氏より)

ポータハン号に使節団の一員として乗船した素毛は飛騨国下原村の庄屋の忰である
なぜ賄人として乗船できたかは兎も角世界一周した最初の飛騨人である

当時36才「青雲の志」を抱いてと云うには多少遅咲きの感がないではないが
大志を抱いて世界に羽ばたいたのは間違いない

素毛ら使節団が横浜を出発したのは万延元年1月
ワシントンなど各地を見聞し品川に帰国したのは同年9月
世界一周している間に日本は激変していた
遣米使節のきっかけを担った井伊大老は暗殺され
攘夷の嵐の中 幕府は使節団の帰国を歓迎するどころではなかった

先進国の姿を目の当たりにした素毛は
日本の実力がどれほどのものであるかを知ってしまったのだ

開国のメリットをどれほど説明しても攘夷派には通じない

幕末は動乱となり素毛は政治への意欲を失っていった

加藤家も梅村知事の政策に携わったとして暴徒の襲撃を受けた
わしが幕府方に仕えていたことがいけなかったのか
ふらふらと旅歩いていることがいけなかったのか
使節団に随行してアメリカへ行ったのがいけなかったのか
(【加藤素毛伝承マンガ「幕末に世界一周やってみた」構成:川合登志和:秋桜】より)


「桃の旅集 乾」を読む
独断と偏見で読み下し文にした 
括弧内()は読みやすくするためかなを漢字に、漢字をかなに
チョットした説明に使用した
旧かなづかいは原則残した
本文は未定稿であると書かれているように
随所に推敲の跡があったり訂正があるので
これでよかろうと思うところを読み下した





(表紙)                                
「 辛未弥生(明治四年三月)
  長崎三遊
   桃の旅集
     飛南行脚
      素毛散人
       未定稿 」

(中表紙(2枚目))                          
「 此日記為後楽追て清書の事
   桃の旅 乾
      飛山雲水
       霊芝散人 」

実を結ぶ つくしか
 梅の 花笠か
      右麦


位山近きほとりに 七とせの 
春秋をおくり 今とし弥生の
はじめ 無分別に 漂泊を思ひ
杖笠を携へ 霊芝の破屋を
立ち出る事とはなりぬ

   
たのもしき 首途(かどで)や桃の 花ざかり
折得たる 門出も弥生 はじめ哉


野に山に よしや臥すとも いとはまじ
はなさく春に 誘ハるゝ身は       素
世の塵を 暫し離れて けふ(今日)よりは    
花見がてらの 旅寝をやせん


  加藤素毛君 春の比(頃) 東京に物しける
  馬のはなむけに

なかなかに 君をうながす 花鳥の    御蔭
色音かなしき この朝明けかな
輪がねつる 柳の糸よ こゝろあらば
せめてひと日ハ 引きもとめなん      栄 
帰りこん 時をこそまて 玉鉾の
ミちの光りを かゞやかしつゝ      冬秀
海山は よし隔つとも をりをりは
こと有るなしの 言傳(ことづて)をせよ 定孝
珍らしき 言葉の花の 匂ひか(香)を
ミやこの土産に 送れ春風        峰夫
引きとめむ よしのなけれハ たびころも
たち帰る日を いはひてぞまつ      千重子
結びつる 契りもけふは いとゆふの(糸遊の)
たえてはかなき 君が別れ路       直泰

  また
八重霞 立ちわかるとも 浅からん                     
むつびし中の こゝろへだつな      直水
長ゐせず はや立ち帰れ 旅ごろも
むすぶ夢路も ミじか夜の比(短か夜の頃)弘孝
引きとめん よしこそなけれ 梓弓
やだけ心も うちしをれツヽ       真澄
青柳の糸くりためて 別れ行く
きミが袂を 曳きもとめなん       衢
別れゆく 君帰るかに 大井河
ふる春雨に みかさ(水嵩)まさらね   弝
わかれ路の 涙の玉に ぬきかへて
あはびしら玉 ひろひえてこね      弓雄


  水無の宮に詣ふで
位山 麓の塵を ふミ分けて
いつか登らん 言葉(ことのは)の道


  小坂朝六橋
朝むつの 氣色も見せつ(見えづ) 夕がすみ


  桜谷(萩原)の一木盛んなれば
渓の名に 呼ぶも道理の 桜かな 
                    

  送別
立ち別れ 雲路はるかに へだつとも
しとふ(慕う)心の をくれやはする   龍誓


  中山七里をたどりて
さくら花 うつろふ影も 深谷の
水さえにほふ 心地こそすれ


  孝池水
親に孝 つくせし人の 真心も
くみてこそしれ 瀬戸の池水
かぞえ見ん 桃と桜を 山七里
山吹や 流れに影も 小がね色



  去年の卯月八日 身まかり給ひし
  父君の墓所に頓拝して
あら悲し 面影草を 見るにつけ


  万福禅寺に誘ハれて
庭の面の 花ハ散るとも 山寺の
ながめはよそに おとらざりけり


  弥生廿日 水府楼を立ちて                        
  美濃の国に入り 長洞袋坂其外
  山路を越へ 津保山本の里土屋氏に
  十とせぶりに宿りて
山本の 花見に来たり 春のくれ


  甥三羊は此春身まかりしと聞きて
散り果し 跡も誉れぞ 花の兄


  名倉の里加藤何がしの六七の尼
  を祝せと申さるゝにぞ
恙なふ 咲いてめでたし 松の花
塵は東風に 拂ふて 松の色正し


  比翼山をよめる
萬代の 契りこめてや 名も高く
たてる妹背の 山ぞあやしき


  有隣兄の机上にありける勇士
  西山尚義が遺書を見て
水くきの 跡くり返し 真こゝろを
したへばぬるゝ わが袂かな


  土屋氏へ嫁せし妹 予が髭を
  見ぐるしく思ひて意を問ふに 答侍る
壱文の 鹿尾草程なる わが髭も          
ミちの聖の 影したふまで


  贈別
翰墨清談三日莚
吟情却(含)恨別離扁
前程花月筬山水
可羨風流自在仙
  土屋有隣


  上有地(こうずち)の里 村瀬君を伺ひ侍るに
  愛玉佳弦を弾じ給ふを聞きて
風雅たる ことをしきけハ うき旅の
うき世もいとゞ 忘れこそすれ


  前書略
君か名に 生ひけん髭の 兆しかな    馬角
野山も笑ふ すがた侘しき

いづこにも 猶愛(めで)なまし ひだ(飛騨)人の
うつすミ縄の なほきこゝろは      胤豊
返し
めでられん 心ならねど 墨縄の
直き(なおき)をたどる しきまの道
君が名に くハヽる藤の 花かづら
いろをも香をも 人やめづらん      政通
しらぬ火の つくしのなだの 白波に     
君立かへる おとづれもかな       仝


  竹林山哥席にて各詠
春の花の いやめづらしき 君に逢うも
うべ敷島の 道なればこそ        倉雄


  関西行きの 筇(つえ)を得んと 竹林に
  立ち寄れハ 老上人出でて奇石に
  句を乞ハるゝにぞ 秋季なかね 長一尺斗、巾八寸位、高四寸斗
石亀も 這い出てなめよ 笹の露
萬代と かぎれる中に 奇しくも
老いずしなず(死なず)の 石の亀哉


  弥生廿六日 下有知(しもうち)の里 天野老へ立ち寄り
  夫より兼て相しれる後藤詞兄を
  訪ふニ 先ずと閑窓にいざなハれ侍るに 近き比得られし
  鷹司前大臣藤原輔熈公御手作りの
  赤楽をもて一服をもてなさるゝにぞ
低からぬ 價とや見ん 赤茶碗
つくりし人は 鷹司どの

  茂松清客たる後藤氏の          
  閑室に伺ひて
小流の 音も床しや 夏隣り


  送別 文略
名が崎(長崎)へ 行かるゝ比も 弥生かな 桐花
花鳥のミを 友に着る笠
一聲を 聞きはづしけり 郭公       八千花
異国咄しも 尽ぬ短か夜

  関に名高き善光寺に詣で
法の火の 消えぬ思ひぞ 花卯木(うつぎ)

  卯月二日 関を立ちて芥見より船にて
  三り下り 長良に上り 真福村真福寺
  に登り 大慈妙覚禅師へ相見を乞ひ 當山に泊ス
世に稀な 姿仰がん ほとゝぎす
開山の 歴々になけ……

  三日岐山下 白二詞兄を訪ねて
道はともあれ 替らず垣の 茂りかな
聞けば麗し 山ほとゝぎす        白二

薄からず 神の奇瑞の 厳かに      毛

  前書略                             
衣がえして 身軽さの 旅床し      白二
分かる野山も 青葉する比

  北方の里 渡邊何がしの閑窓に
  やどりて
世の塵は 茂りにさけて 窓清し


  卯月七日 谷汲山開帳に詣で侍るに
  貴賤群集して いと尊く思ひける
谷水ハ 尽くともしらず 山寺の
法の光ハ よろづ代もがな
(消した句)
谷水を 汲みてもしらず 山陰に
よろづ代消えぬ 法の光を

  明八日は父が一周忌に當れば 幸ひ
  かゝる霊地に達拝 聊か旅の寸志を述るのミ
潅佛の 茶をさゝげばや(さゝげけり)一周忌

  十日 関原を立ちて名だたる 
  不破の関にかゝり
関の戸の むかしを叩く 水鶏(くいな)かな

  山中の里(関ケ原町山中)常盤塚の邊り 近き比営まれし
  秋風庵を訪ひ 暫時談笑を楽しミて
訪ふ人も 嘸とことはに 茂るらん
山時鳥 までの即興           竹宇           
せつたいの 茶にも涼しき 道の味
暑さを余所に 鶯のたき         竹宇

  鶯滝(関ケ原町)にて
鶯も 啼くかとばかり おもほえて
たきのわたりに 花ぞのこれる

  寝物語にて
竹の子や 国を隔てゝ 美濃に生へ

 十一日 米原より大津迄湖上
 十六里を蒸気船にてわたる      船名、金亀丸
湖に うつるや四方の 青あらし

  逢坂にて
逢坂の 関のむかしを しのぶかな
たゞに水鶏(くいな)を 聞くにつけても

  走井(大津市)にて 鶯の啼けるを聞きて
香に匂ふ 花こそなけれ 走井の
若葉がくれに 鶯のなく
  また
走井の 音に汗さえ 乾きけり

  こがれて暑き牛の舌 と吟られし
  先哲の句も 思ひ出されて
  (日の岡やこがれて暑き牛の舌 水田正秀)
日の岡や(山科) 鳥も若葉の 蔭で鳴く              

(このページ上欄に)
素毛ぬしが一位箸を恵まるゝにぞ
位山 登るはしとて うま人(貴人)に めぐミを深く 
ゑりてだにミむ
飛た(飛騨)工ミ(たくみ)つくりしはしを 
萬代の いのちの上に かけわたさまじ 式部八十七尼

  洛に入り 岡崎氏に宿りけるに
  心如水との額ありけれハ 此語を
  題にして
世に清き 名をながさんと おもへども
にごり勝ちなる 人こゝろかな

  此程洛中美を祝ひ八坂の杜へ
  砂もてるを見て興す 
紅(くれない)や 卯の花衣 きそろひて(着揃いて)
はこぶ砂こそ 神の愛らん(神もめでまし)

  ことしの卯月十七日 身まかりける
  孩子を営ミて    
撫子の 花に思ひの 増り(まさり)けり

  伏見より夜船に乗りて
短か夜や 夢も結ハで 明けはなれ

  大坂にして素毛大人にあえり また
  別るゝ時 作哥一首
浪花津の 芦の入江に よる萍花     長良
寄り裝ふては またさがりゆく

  いとねもごろなる一首を給ふにぞ 返しの心を
一先ずは さがりゆくとも 浪花津の                  
あし間に寄らん 蛍ならねど

(このページの上欄に)
京珍話 四月中比二助と云者 洛外ニて白狐を見タリ
夫ヨリ二三丁往 美女三人ニ逢 女申ニハ 彼ノ肉難義にて
二助困て辞共不聞 故ニ登楼せしか 女申ニハ我々実ハ狐也
と云 二助驚て不斗下ニ下り 此由ヲ家内ニ知らす 皆々来たりて
透見せしニ依て狐と成 二階より屋根へ逃去りしとそ

  端午の日 飛騨の素ぬしに 因ミて
軒ばより かほるあやめは 千代までも
ながき根さしを 君にそへまじ

  五月中の五日 浪花を船出する時
難波がた 通ふ千船の そが中に
こと国ふりは けむりたてゆく
須磨浦や 帆先に聞かん 郭公

月影も あかしの浦の 棹まくら
ふるさとばかり しのばるゝかな
軍たち 有りしむかしの 八しまがた
ゆミはり月の 影のさやけき

  同舟出納詞之詠
歌枕一望山萬重
道窓月落客情濃
愁人一夜眠難就
聞昼須磨寺裡鐘

  五月十七日 小豆島の内生末といふ
  所ニ船かゝりせしに 夕がたより大風雨
  頻りにして夜終大波 碇四丁卸し柱迄さけ
  漸く翌朝ニ到り 少々静まれり 此湊ニかゝり居候            
  舟六艘破亡せり 外々も同断のよし 又
  阿波国ニて竜天上せしとぞ 乗組八人共
  死を極めたりしが 恙がなくて
  (上欄外 荷物汐入 唐紙絹とも用立たず)

夜の風に いとゝあやうく 思ひしも 
夢とさめたる けさの海原
 
  十八日も辻風につき 此処ニ泊ス また夕方より
  昨夜に等しき難風あり 十九日出帆

  廿日八ツ時 讃州多度津湊ニ上陸
  乗組四人 舟人壱人 是より百五十丁行き
  象頭山に詣ふで侍る 比ハ夕暮也 予
  周海帰東の後の志願を遂け 猶
  先ノ夜の危難を免れし事ども
  かしこみかしこみ礼拝して
くみて知る 神の奇瑞や 岩清水

  船中吟
四国富士 見越して涼し 真帆片帆

  安藝御手洗湊なる桃山を
桃山の 花のかかりは 海原も
さぞ紅に 見えわたるらん

  浪花より同舟せし出納の君に別るゝとて             
涼し味を をしむ別れや 船あかり

  豫州大津領内(大洲藩領内)青嶋といふ所に船かゝりして
青島の 名も理りぞ 青あらし

  西伊豫木々津の浦にて
ほとゝぎす きゝ津の浦の やどり哉

  豊後高嶋を見て
高しまの 名にや皐月の 雲低し

  霍﨑(鶴崎)湊に着して
舞霍の 羽風に松の ちり葉哉

  佐伯楼に宿りける 咲太夫といふもの
  ことし七十八歳にして腹力他に勝れたり
顔に艶や 老鶯の 名はあれど

  廿九日昼 松岡の里安藤氏
  七香園を訪ね 白紙関に題して
世の塵も 実にしら紙の 関戸に
よりそふ けふは涼しかりける
  また
白紙の 関の戸敲く 水鶏哉

  六月朔日 戸次(へつぎ)の市町野中氏
  竹里先生を訪ひ 二むかしぶりの          
  面を悦びし
涼しミは むかしながらや 竹の蔭  
互に無事を 語り合ふ夏          竹里
いろいろの 名がらせん茶の うれ出して  毛
大津の駅は 繁昌のとち          里
連てのく 誓ひも雪と つもる恋      毛
機ふ(ころあう)鏡に なミだはらはら   毛  
山蔭に 朝日もうとき 窓の花       里 
聲もかすかに 初蛙鳴く          里
憩給へ 汗染ミ取て 旅労れ        竹里
深き情も 涼しミの窓           毛 
世の中の 道理通しゝ 假名本に      里   
ほこりに埋む 江戸の干店         毛
凩の 朝から止まず 吹きしきり      里
こゆき身受けも 案事そふ意地       里
咲く花に まさる化粧の 潤しさ      毛
羽軽々舞て てふ(蝶)の遠近       毛
 
  竹蔭の閑窓にて
  夏月透竹ノ題に
堪えかぬる 日もくれ竹の 透間より
すゞしき月の 影のもりくる

  涼風通ふ此君亭を立ち出る時 文略                  
立ちをしむ 筈に咄しも あじの鮓 
すし一種にて おくる離盃ぞ        竹里
枝垂れし 松はいかさま 老ならん    
文人の画は 筆の働き
商賣はかしけず 口で言い廻し
とゝないませぬ 身受け相談
嵯峨山も よしのゝ花も 散りかゝり
聲もほそりて 鳴く百千鳥

   八句志
  七香園師に養老芝を呈して
君が手で 萬代もがな 土用干し
風薫る 家に心の のこりけり

  詞書略
                     石友
  

  廿日霍﨑を立て野津原の里米野氏
  訪ひ 一泊を乞ふ

  六十九に成り給ふ母君のおはすよしを聞きて 斯くなん
垂乳女(たらちめ)は さきくいませと 心なく      
こゝろづくしに 足なとゝめぞ       行徳

  野津原を立て 横沢と云う山路を
  たどり 堤村に行きくれて よしなき
  賤が家に舎る(やどる)に 蚤虱這いあるき
  いぶせし琵琶法師二人 とま物で
  けものゝもらひためし薬を 婆々が
  乞ひて蒸しくれけれども 更に
  呑む事能ハず
旅疲の 身を又蚤の せゝりけり

  竹田城山に滞杖し 清正神祇の
  祭礼に詣で 弐社造営の結構
  といひ 貴賤群集に盛あり
汗くさき 人に酔ける まつり哉

  素毛大人に艸庵を訪れて
高山の 名に負ふ君が 言の葉は
こゝろづくしに なりぞひゞける      重剛

  竹田荘の玉尻を訪ひ 兼て相聞く
  大石よし雄君の形見なる奇瓢を
  拝見し 其余の書画数々一見し侍りて
軽るからぬ ひさごなりけり 大石の                   
うち入る夜ハ(夜半)も 携えしとハ

  廿八日 竹田を立ちて 君か岡玉来(たまらい)などといふ所を
  相過けるが さすがに里の名も床しくて
岡の名も 実に愛らしや 藤ばかま

  廿九日 玉来を立ちて山路にかゝり 風しきりにて
  豊肥の国境の 谷といふ一ツ家に宿かりて
ひとつ家に 風も廻りて 秋近し

  阿蘇嶽眺望より坤冊(下巻)へ記す
  (ここまで乾冊=上巻)

吟行五大洲
天地小於球
君腹尤深處
森羅萬象収
  呈周海素毛君 八洲

遊客従来壮志存
浮槎洋海伴鴫緄
宇籠五大洲中事
収入蕉翁十七言
  贈素毛道人  蘭啘





【参考】
「世の塵」「麓の塵」について

「塵」の字がこの「桃の旅集」では5度使用されている
この「塵」の字は難読で 今回「塵」と解読したのは
筆者の独断と偏見によるものである 
違っていたら「ゴメンナサイ」であることを最初に断って置く


神土村の百姓村雲蔵多は
「とかく仏というものは外国から渡って来たもので
もともとわが国にあったものではない 実に不要の道具同然である」
と書き残している 
苗木藩庁は王政復古御一新につき慶應4年神仏混淆を禁止し 
その風は急速に高揚 わが国で最も過酷な廃仏毀釈を
断行するに至る それが最高潮となるのが明治3年である
そんな中 素毛は
「今とし弥生のはじめ(明治4年3月)無分別に漂泊を思ひ」
立って長崎へ旅に出るのである
素毛の生誕地飛騨国下原村(旧領高山県=幕領)は
神土村(旧苗木藩)にほぼ隣接している 
ときに神土村では寺院の打ち壊し 仏像仏具経典 
あるいは路傍の石仏や個人の位牌までも破却する
という大狂乱が起きている 
素毛はこの混乱を知らずして旅へ出たのであろうか 知らない筈はない 
旅立ちを前にして
「野に山によしや臥すともいとはまじはなさく春に誘はるゝ身は」
とその心境を句にしている 
「よしや臥すとも」とは旅行の途時の病いが心配というだけではなく
復古復古の御一新に危うさを感じていた筈である 
続いての句に
「世の塵を暫し離れてけふよりは花見がてらに旅寝をやせん」① とある 
前述のようにある意味で神道と仏教の宗教戦争が時代背景にあった 
隣村で起きている大混乱が下原村へ影響しない筈がない 
この世相をこそ素毛は世の「塵」と表現したのではなかろうか
 
「水無の宮に詣ふて」と題して
「位山麓の塵をふミ分ていつか登ん言葉の道」②の句が記されている
推敲や訂正がなされていて判読がかなり難しいが
この句の「塵」も①の「塵」も全く筆順が同じである
「麓の塵」とは江戸後期の和歌集(作者有賀長伯)のことと思われ
和歌集「麓の塵」を教科書にして研鑽を積み
何時かはその道の最高峰(位山=歌道での最高位を比喩していると思う)
に登り詰めたいという句意ではないかと独断と偏見で解読した

名倉では「塵は東風に拂ふて松の色正し」③の一句がある
この場合の「塵」も①の解釈でいいと思う

北方の里にて
「世の塵は茂りにさけて窓清し」④
の句も「世の塵」が入った句である
「世の塵」は世相の煩わしさという意味だが深想は①である
田舎にいることで世間の煩わしさから逃れられる
窓の外の空気の何という清々しさよ
というような雰囲気だと思う

豊後松岡の里で白紙関と題して
「世の塵も実にしら紙の関戸によりそふけふは涼しかりけり」⑤と吟じている
そもそも松岡と云う土地に疎い小生
地図上で相当丹念に「白紙の関」を探したが見当たらなかった
そのこともあって①の状況を頭に浮かべ
この一句を繰り返し繰り返し読んでみたが
和歌がど素人の小生にはすっきりしない思いが残った