古文書を読んで感じたこと

遠い時代の肉声

金華山近く こがねはなさくやまちかく

2010-02-26 01:16:26 | 講座(古文書)
「百岐年」を調べてほしい
あなたならどうやって調べる?
まず辞書で調べることを頭に浮かべると思う
辞書と言ってもいろいろある
言っておくけど
あの分厚い漢和大辞典にも載っていないよ
国語辞典で引こうとしても
どう読むか(何と発音するか)わからなくては
調べようがない
古文書のことを書いているのだから
古語辞典ならどうだろう
読めれば引ける
調べることができるのも能力のうち

まあ偉そうなことを書いたが
これが読めたからどうなんだと言われれば
グーの音もない
知っているからとて何の役にも立たない
知らなくてもドーってことはない
が 知ると言うことは楽しい

これを何と読むかわかる人は
かなり岐阜のことに詳しいと思う

古書「岐阜町盡」に答はあった






漢字になっている部分は
全部ふりがな(変体がな)
が振ってありました
旧かなづかいは
現代用語に読みかえました
例 ぎふてふ→ぎふちょう


岐阜町盡(ぎふまちづくし)

百岐年 
美濃の國なる岐阜町は
金華山近く
弥増栄ふ其起源ハ

 ももくきね
 みののくになる ぎふまちは
 こがねはなさく やまちかく
 いやましさかう そのもとはらは

 こんな調子のものです

 あをによし 奈良の都は 咲く花の
 匂うがごとく 今さかりなり

 あをによしは奈良にかかる枕詞
 百岐年は美濃にかかる枕詞

永禄七年織田信長
斉藤氏の世々住し
稲葉の城を攻取て
新に館を建られし

 えいろくしちねん おだのぶなが
 さいとううじの よゝすみし
 いなばのしろを せめとりて
 あらたにたちを たてられし

天主に櫓揔掘を
構へられたる其頃に
井の口忠節今泉
早田村を合せられ
明應頃より唱来し
岐阜町名とはなりしとぞ
 
 てんしゅにやぐら そうぼりを
 かまえられたる そのころに
 いのくちちゅうせつ いまいずみ
 そうでんむらを あわせられ
 めいおうごろより となえこし
 ぎふちょうなとは なりしとぞ

今は縣の名に呼びて
開くる御代の恵さへ
厚見郡と全國の
第一大區のはじめ也

 いまはあがたの なによびて
 ひらくるみよの めぐみさえ
 あつみごおりと ぜんこくの
 だいいちだいくの はじめなり

革屋町から本町の
街衢ハ城の大手筋
靫屋町の名はあれど
昔に変る今町ハ
上中下に北を添へ
布屋釜石上竹屋
新町大桑の二ヶ町ハ
上中下の唱あり

 かわやちょうから ほんまちの
 とおりはしろの おおてすじ
 うつぼやちょうの なはあれど
 むかしにかわる いままちは
 かみなかしもに きたをそえ
 ぬのやかまいし かみたけや
 しんまちおおがの にかまちは
 かみなかしもの となえあり

魚屋久屋に立並ぶ
材木町は西東
家居も繁き大工町
山を隔つる達目洞
甚衛蜂屋は其むかし
住みにし人の名なりとぞ
合せて二十四箇町を
一の小區とまうすなり

 うおやひさやに たちならぶ
 ざいもくちょうは にしひがし
 いえいもしげき だいくちょう
 やまをへだつる だちぼくぼら
 じんえはちやは そのむかし
 すみにしひとの ななりとぞ
 あわせて二十 四か町を 
 一のしょうくと もうすなり

ついで伊奈波の神垣は
五十瓊礒城入彦命を初四柱の
神をいはひて祭るとぞ
天文八年秀龍が
城を築きし比とかや
此地に遷しまいらせて
今は縣社と尊敬けり

 ついでいなばの かみがきは
 いにしきいりひこのみことをはじめ よはしらの
 かみをいわいて まつるとぞ
 てんぶんはちねん ひでたつが
 しろをきずきし ころとかや
 このちにうつし まいらせて
 いまはけんしゃと あがめけり

續く善光寺大門の
北の大路ハ米屋甼
南通は白木町
載る扇の町近く
変らぬ色の常盤町
同じ緑の笹土居や
加茂と愛宕の名は有れど

 つづくぜんこうじ だいもんの
 きたのおおじは こめやちょう
 みなみどおりは しろきちょう
 のするおうぎの まちちかく
 かわらぬいろの ときわちょう
 おなじみどりの ささどいや
 かもとあたごの なはあれど

総て此地の風俗は
都と鄙の間の町
中竹屋町松屋町
静けき御代に相生の
若松町や大和町
栄甼とて賑る
往来ハ繁き車の町

 なべてこのちの ふうぞくは
 みやことひなの あいのまち
 なかたけやちょう まつやちょう
 しずけきみよに あいおいの
 わかまつちょうや やまとちょう
 さかえちょうとて にぎわえる
 ゆききはしげき くるまのちょう

めぐりめぐりて七曲
珠城の甼や榊町
矢島上門鍛冶屋町
町の名に呼ぶ木造は
是左衛門の邸跡
合せて二十三ヶ町
二の小區とまうす也

 めぐりめぐりて ななまがり
 たまきのまちや さかきちょう
 やじまあげもん かじやちょう
 まちのなによぶ きづくりは
 これざえもんの やしきあと
 あわせて二十 三かちょう
 二のしょうくとは もうすなり

ついで小熊の村の名は
羽栗郡の小熊から
地蔵を遷したりしより
こゝの地名となるとかや

 ついでおぐまの むらのなは
 はぐりごおりの おぐまから
 じぞうをうつし たりしより
 ここのちめいと なるとかや

風ぞ涼しき川端の
夏はいなばの山の端に
照る紅葉の秋津町
上下竹町大寶甼
中と下との鉄屋町

 かぜぞすずしき かわばたの
 なつはいなばの やまのはに
 てるもみじばの あきつまち
 かみしもたけまち だいほうまち
 なかとしもとの かなやちょう

向ふ西野の天満宮
七軒町に程近き
観音堂の本尊は
本巣郡の美江寺より
遷せしものと聞へけり
太田橋詰泉町
上下西の分ちある
忠節村に不動有り
四屋天道十二軒屋

 むかうにしのの てんまんぐう
 しちけんちょうに ほどちかき
 かんのんどうの ほんぞんは
 もとすごおりの みえじより
 うつせしものと きこえけり
 おおたはしづめ いずみちょう
 かみしもにしの わかちある
 ちゅうせつむらに ふどうあり
 よつやてんどう じゅうにけんや
 
大佛殿に隣りたる
千畳敷ハ永禄の
昔を忍ぶ古跡にて
家居もいつか益屋町
上と下との茶屋甼や
山口木挽梶川町
このさまざまの小名はあれど

 だいぶつでんに となりたる
 せんじょうじきは えいろくの
 むかしをしのぶ こせきにて
 いえいもいつか ますやちょう
 かみとしもとの ちゃやまちや
 やまぐちこびき かじかわまち
 このさまざまの こなはあれど

小熊忠節今泉
明屋敷古屋敷中河原と
唱ふる六の村落を
三の小區と申すなり

 おぐまちゅうせつ いまいずみ
 あきやしきふるやしき なかがわらと
 となうるむつの そんらくを
 三のしょうくと もうすなり

三の小區を合すれは
二千六百十三戸
人口凡一萬千二百二十九人あり

 三のしょうくを あわすれば
 二千六百十三こ
 じんこうおよそ
 一万千二百二十九にんあり

此地に名有る産物は
縮緬挑灯鮎松茸
花紫蘇鮎魚腸鮨枝柿

 このちになある さんぶつは
 ちりめんちょうちん あゆまつだけ
 はなじそうるか すしえだがき

鵜川ハこゝの壮観にて
郡上郡の八幡より
桑名の海に入る迄は
二十七里餘有りと聞く
ゆくへ長良の川の面
鵜船に燃る篝火と
共に其名も輝ける

 うがわはここの そうかんにて
 ぐじょうごおりの はちまんより
 くわなのうみに いるまでは
 二十七りよ ありときく
 ゆくえながらの かわのおも
 うぶねにもゆる かがりびと
 ともにそのなも かがやける

此一郷の賑ひハ
伊奈波の山に生う松の
十返の色とこしへに
幾萬代や栄え行らむ

 このひとさとの にぎわいは
 いなばのやまに おうまつの
 とがえりのいろ とこしえに
 いくよろずよや さかえゆくらむ

後書き(ふりがななし)

時に明治七年三月
岐阜金華山麓の學窓に
西籍教授の餘暇
漫に筆を走らせ
以て訓蒙の一助と為す
 静岡 飯野忠一





ところで
百岐年ですが
岩波古語辞典によると

ももきね【百岐年】
[枕詞]国名「美濃」にかかる。
かかり方は未詳。
「―美濃の国の」<万三二四二>

とあります
他の古語辞典も大同小異です

前記「岐阜町盡」は
当然のことながら
変体がなが使用されています
百岐年には「ももくきね」
とふりがながあります
この違いは何か?

手掛かりはあります

明治になって文部省が
一音一字の「ひらがな」を
制定して以後
それ以前に使用されていた
「かな」は
制定されたかな以外を
「変体がな」と呼ぶようになります
そして悪いことに
活字の時代が到来すると
変体がなは
かなができた元字(母字)
すなわち漢字で表記する人も
出てくるようになります
たとえば
「岐阜町盡」に出てくる
「金華」のふりがなを
これにあてはめると
「己可祢者奈左久」となります
このことを踏まえて
聞いてください

美濃を研究する人にとって
必携の書「美濃明細記」があります
この「美濃明細記」の元は
いろいろ(幾通りも)
伝わっているようですが
最初「百茎根」と題されていたものを
(茂茂久岐祢と表記したものもあり)
後人が「美濃明細記」と改題した
ことは間違いないようです
「茂茂久岐祢」はかなとして
使用されていますので
今活字にするなら
当然「ももくきね」です

今回紹介した「岐阜町盡」では
百岐年のふりがなを「ももくきね」としております
それが各種(権威ある辞書)によると
「ももきね」なんです
どちらかが間違い(どちらかが正解)
それとも両方とも正しい

研究者の方々に説明をしていただけるとありがたいです

手妻

2010-02-22 13:22:25 | 講座(古文書)
「切支丹根元録」の内
一項目を読む

ここに天正十六年九月十四日
堺天王寺屋宗断 油屋道祐両人
太閤殿下のご機嫌を
お伺いとして
伏見のお城へ登城して
お目見得の上
お茶を立て
種々お咄し相手となること平生なり
ある日太閤仰せに
堺に何ぞ珍しきことないか
両人答えに
別にかわりしことも承り申さず
しかし珍しきことも
うわさは承り候らえども
直に見届けずゆえ
たしかには申し上げがたく
もっぱら諸人の評判には
市橋正輔 嶋田清庵と申す両人
ともに医を業と仕り(つかまつり)
手つまを仕ることは
人間のおよぶことにあらずと
もっぱら沙汰仕り候
と申し上げしかば
太閤聞きたまい
これはいかさま見物事ならん
呼び寄せ目通りにて見せよ
との上意に
佐々木平左衛門急使を立て申しければ
両人かしこまりて 翌日登城し
ご前はるかに平伏す
太閤上意に
その方ども 珍しき手づまをするよし
聞きおよび呼び出したり
何ぞいたして見せよ
おなぐさみとして上覧に入れ
奉る(たてまつる)べしとて
大いなる鉢を取り寄せ
水一杯入れ
懐中より紙を出し
菱のかたちに切りて
水に入れしかば
その紙残らず変じて
鮒 鯉 その他種々の小魚となり
水中をひれを振り尾を動かし
泳ぎ廻ること 真の魚のごとくなり
太閤やや久しくご覧じて
ひとまずしまえとあれば
かしこまると鉢に向かえば
先の菱形の紙となる
太閤の左右には
大勢女中御近習などならび見物なり
また上意には
女中のなぐさめになることをせよ
とあれば すなわち
懐中より紙を出し
ひとすじのこよりとなし
端を吹きしかば
太き縄となり
それを畳の上に据え
口の内に呪文をとなうれば
右のこより
大蛇となり のたり廻れば
女中驚きさわぎ
座中みぐるしく見えしかば
早くしまえ との仰せに
呪文をとなうると
元のこよりとなりぬ
また盆を取り寄せ
その中へ あわ 麦 米など蒔けば
たちまち蟻が動くごとく見えしが
みるみる芽を生じ すぐに長じ
花咲き実る
その内にも種々の手つまを見せ奉る
玉子に時告ぐる事なるかとの尋ねに
かしこまり候とて
すなわち 玉子を手に握り
文をとなえ 手をひらけば
はや かいわりて出で ひよことなる
見るうちに鶏となり
生鳥のごとく国家功王と
時を造りける
元の玉子となるかと仰せに
文を唱えければ元の玉子となる
また仰せに
女中駿河の富士山を見ず
これも出来るか
大山ゆえ御殿の内にてはなりがたし
お庭にてご覧に入れ申すべしとて
障子を立て 両人お庭へ出で
呪文を唱えて障子を明くれば
お庭変じて富士山となる
絵よりもひときわ見事なり
殿下をはじめなみいる人々
おのおのアット感じあえり
しばらくながめ
もはや消せとあれば
又障子を立て
文を唱うると元のお庭となる
又つぎに近江八景をあらわし見せよ
かしこまり障子を立て
文をとなえ障子を明くれば
すなわち
勢田の夕照 比良の暮雪
矢橋の帰帆 石山の秋月
唐崎の夜雨 粟津の晴嵐
堅田の落雁 三井の晩鐘
この八景ことごとく現然たり
おのおの肝ををつぶして感じ入りたり
やや久しくながめ
しまえとあれば
障子引き立て
呪文をとなえて明くれば
元の庭となる
その外 堺の浦 須磨の浦
明石の景 和歌の浦 など
お好み次第に見せ奉る
殿下仰せに
今まで幽霊と云うもの
咄には聞けど ついに見ず
これもなる事にや
なるほど出し申すべし
幽霊は夜出るものに候らえば
昼はなりかね申し候
夜に入りて上覧に入れ申すべしと云えば
左あらば夜に入りて見せよ
まずそれまでは休足(休息)せよとて
お料理下されたり
程もなく入相(いりあい)の鐘もひびき
暮におよべば
御殿御殿は燭台をともしつれ
白昼のごとくなり
両人申し上げるようは
かように明るうてはなりがたく候
幽霊はこぐらがりがよろしきと申すに
御殿のともし火 みな消したり
おりがら今宵は九月十七日の夜にして
くまなく月は皎々(こうこう)として照らせども
御殿の内は闇々(あんあん)たり
例の障子を引き立て
両人縁に出て呪文を唱え障子明くれば
いままでさやけき月もくもり
冷風さっと吹き落ち 
身にしみわたり はだえをとおし
さもものすごき景色となる
庭の向こうなる うえ木の茂みより
幽霊あらわれ出でて
それがあらぬか髣髴(ほうふつ)として
白き衣裳を着 髪はおどろにふりみだし
腰より下は見えず
細き杖をつき
たよたよとして歩み来たる
お側の面々
はてさていらざるご所望かな
アレが御殿の内へ入りてよいものかと
きもをつぶしてながめたり
幽霊は次第次第に飛び石をつたい近か寄れば
殿下はつくづく見たまえば
むかし木下藤吉郎と云し時
召しつかわれし妾の菊女
恨むる事ありて手打ちにしたまいしを
幽霊に作り出せしものなり
殿下 もってのほかごきげん悪しく
気味悪い 早くしまえ との仰せに
かしこまりて障子を引き立て
唱えごとして明くれば
いつしか幽霊は消えはて
空には月の光皎々たり
お側の面々は
両人が平生の術を尽くしての働き
定めてごほうび下さるかと思い居りたりしに
存じの外にて
ご近習を召され
ソレ両人ともにからめとれ とのご下知に
いづれも驚きながら
早速からめ捕り お白洲に引きゆれば
五奉行をもって
このものども常のものにはあらず
ハビヤンは西国へ下りしと聞く
シュモン コウスモウ両人
行方知れずと聞きしが
定めてこの両人なるべし
詮議いたし
もし白状せずんば拷問にかけよと
はげしきご下知に
すみやかに白状しければ
時日を移さず翌十九日
粟田口においてはりつけに行いたまう
(この部分の小見出しは
「清庵正輔手つまを遣ひ
 重刑を蒙る事」)


タイトル「手妻」にだまされて
ここにアクセスした人が
ほとんどだと思う
もっと怪しげなものを
想像したかもしれないが
期待に反してゴメン

御存じのMrマリック
(岐阜市の出身だよ)
この高名なマジシャンの
使うマジックは
彼自身超魔術と唱えている
これに負けずとも劣らざる
「手妻」を見せつけた
清庵と正輔
江戸時代にも
凄いことができる
人がいたことに驚く
庶民の間でも
今の手品に似た興業が
行われていた



乍恐書付を以奉願上候
  
 恐れながら書き付けをもって
 願い上げ奉り候

厚見郡日野村地内
川向ひにおいて
先月十日頃
八人芸を仕り候

 江戸時代の庶民は
 節約勤勉の世界で
 お祭りの際の
 角力(すもう)歌舞伎
 操り(あやつり)
 などは数少ない
 娯楽だった

盲人老人村方番人引き請け
右河原において
手づま致させ

 見世物としての
 手づま興業が
 この岐阜でもあった
 古文書を読んでいても
 手づまという文字に
 出会うことは稀で紹介した
 ついでだから最後まで読もう

その節右場所にて
長良村の者と
村方小助庄蔵と申す者と
酒の上にて少々口論など
仕り候らえども
これはその座限りにて
こと済み仕り候

 興業があると
 酒の上でのいさかいが
 付きもののようです

右一件御聞に達し
則村役人ども
お呼び出し遊ばされ
ご吟味ござ候処

 喧嘩があったことが
 おかみに知れ
 村役人が取り調べにあう

川向かい ことにそのみぎりは
少々出水仕り候につき
一向村役人ども存じ奉らず
不調法の段
お答え申し上げ奉り候

 少し川が増水したことを
 言い訳にして
 (喧嘩を)知らなかった
 と答える

然れども敷村の儀
たとえ川向かいに候えども
村役人存ぜざること
これ有るまじきむね
段々ご吟味これ有り
恐れ入り奉り候

 たとえ川向こうでの
 事件でも
 村役人(庄屋など)が
 知らなかったことは
 申し訳ありません

この上ご吟味仰せ付けられ候ては
村役人ども一言の申し訳けもござなく
難儀仕り候間
何卒ご吟味ご赦免なし下され候様
願い上げ奉り候
右の趣私共ぇ段々お願い申し候につき
恐れながらお詫び申し上げ奉り候
右体(てい)不届きの儀
向後(以後)きっと相慎しませ
申すべく候につき
何卒ご慈悲のご勘弁をもって
願の通りお聞き済み
下しおかれ候はば
ありがたく存じ奉り候 以上
 子三月
    切通村庄屋
       嘉右衛門㊞
    岩戸村庄屋
       兵 助 ㊞
 大垣
  御預御役所

柿野山 鳥屋場

2010-02-09 00:21:15 | 講座(古文書)
岐阜県の東濃地方山間部では小鳥の狩猟をする習慣があった
この狩猟を鳥屋(とや)懸けというが
それはごく一部の農民がほんの楽しみで行い
渡世の助力とまではとてもならない程度の農間稼ぎであった
このためいわゆる税金(山年貢、鳥運上)などの
対象にもされていなかったらしい
読み方が悪いのか非課税の稼ぎは珍しい
と云うかあり得ないことと思ったので再度の紹介です
(ブログを始めたばかりなので
 写真で古文書を紹介できないのが残念)

前回タイトル「つぐみ いかるご うそ ひわ あとりなどの口笛」
についている古文書の表題部は
「御尋之上指上申口上覚」です




柿野村山(土岐郡柿野村)鳥屋場
御運上御年貢など指し上げ候儀は
ござなく候らえども
もし他所と引き合い候儀はござなく候や

 柿野山の鳥屋場は鳥運上とか
 山年貢を納めたことは
 ごさいませんが
 もし他村と鳥屋場いさかいの
 まきぞえはないのか

左様の儀ござなき段も
かねてご存知の御事に候らえども
このたび土井大炊頭様寺社お役人様より
お尋ねにつき
なお又念のためお尋ね候間
相違なくありていに申し上ぐべき旨
仰せ聞かされ 畏まり奉り候

 そのようなことはありません
 以前から申し上げておりますから
 ご存知の事と思いますが 
 再び土井大炊頭様寺社お役人様より
 念のため尋ねる
 ありていに聞かせよとのことですので
 包み隠さず申し上げます

柿野村山に鳥屋懸け候らえども
山御年貢鳥御運上指し上げ候儀はござなく候
もっとも他所と引き合い候儀
かってござなく候
柿野村山所々に
古来よりお百姓ども
鳥屋懸け 小鳥を取り
渡世の助力に仕来たり候

 私どもは柿野村山で鳥屋懸けしてはおりますが
 山年貢や鳥運上(年貢も運上も税)を
 さし上げたことはございません
 他村といさかいなどいまだかって一度もありません
 (今回のこの訴訟は一体何?)
 柿野村山では ところどころに
 昔から柿野村の百姓が鳥屋懸けをして
 わずかの小鳥を取り 渡世の足しにして参りました

去々未年(一昨年のひつじ年)
ご見分様方お吟味の節もお尋ねにつき
鳥屋道具残らずご覧に入れ
鳥屋の仕方
つぐみ いかるご うそ ひわ あとりなどの
口笛を吹き鳥取り候様子まで
つぶさに申し上げ候処

 おととしお見分様がお調べになった時にも
 お尋ねがありましたので
 鳥屋の道具はすべてお見せし
 ご説明もいたしました
 鳥屋のやり方や
 つぐみを始め
 小鳥の鳴き声を口笛で真似しておびき寄せ
 狩猟の様子など
 くわしく説明もさせていただきました
 その折のお尋ねは

相手三ヶ村の儀
鳥屋懸け候事ござなく候らえば
鳥屋道具もござなく
何とも申し上ぐべき様はござなく候らえども
三ヶ村の鳥屋場のよし
強いて申し上げ候につき
お見分様方三ヶ村の者共へ仰せ聞かされ候は
三ヶ村には鳥屋道具もこれなく
鳥の真似もなさず
その者が鳥屋場を持つとは
何に致すやと仰せ聞きかされ

 相手三ヶ村(この文書では笠原村の外は不明)は
 鳥屋懸けもしない
 鳥屋道具もない
 その三ヶ村からの訴えには
 何とも申し上げ様はありません
 それを三ヶ村の鳥屋場だと
 強く主張するので
 お見分様方から三ヶ村の者どもへ
 次のようにお聞きになりました
 三ヶ村には鳥屋道具もなく
 鳥の真似もできない
 そういう者が鳥屋場を持って何になるか
 
柿野村より鳥屋致し来たり候段
明白にお見届け遊ばせられ候よう
存じ奉り候御事

 以前からの経緯はこのようですので
 柿野村山は柿野村の百姓のみが
 鳥屋懸けをして来たこと
 (鳥屋場としての柿野山に対する
 三ヶ村の云い懸り)は明白です
 この事をお見届け下さると
 確信しております
 
酉九月十日 柿野村庄屋 半六
      同村組頭  金右衛門
      同断    又右衛門
      同村百姓代 源八
 御役人中様


(包み紙表書き)
濃州土岐郡笠原村と山論の節内済証文壱通 柿野村






ブツブツ小声で独り言

人間誰も自分が一番かわいい
だから言い訳をするもんだ
渡り鳥を捕ったことが良いとは云わんが
鳥屋懸けをメツボにしてかなり攻撃され
今は古来の狩猟法を伝える人もいない
捕ることのなかったつばめを
増え過ぎて困ると聞いたことは一度もない
野鳥の個体数が減っていることと
捕らなかったつばめやすずめが減少していることと
根は同じだぞ
鳥屋が悪いと文句を云うなら
はびこりすぎた くそ人間に云え!


追鳥狩(おいとがり)

2010-02-07 12:11:32 | 講座(古文書)
武士は戦争が職業だが
江戸時代も後半になってくると
その経験がほとんどない
それでも文武両道とか云って
武術の鍛錬はおさおさ怠りなかった
その一環として
軍事訓練「追鳥狩」が行われた

追鳥狩絵図が岩村町歴史資料館に残る
それを見るとかなり大規模な行事だ
練武とはいえ鳥獣狩りである
当然のことながら勢子がいる
大勢の農民がかりだされた
ふた手に別れた隊形を
いろいろかえて行われた
夜が明けるとほら貝や太鼓の合図で
いっせいに鬨の声をあげる
轟音にも似た勢子の騒ぎ立てに
驚いたいのししやうさぎが飛び出し
山鳥やきじもまた飛び立つ
侍たちは獲物を追って駆けまわる
藩主のご上覧は
見晴らしのきく高台である
射とめた侍が御前に
駆けあがり獲物を献上する
一番に献じたものを一番鳥と云う
勿論ご褒美が与えられた
追鳥狩は農民と武士の融和策の
一つでもあったと云われる





    口上覚                
私儀当年追鳥狩の節
追い方勢子頭を仰せ付けられ候処 
旧来の打ち身にて腰痛つかまつり
駆け走りの働き難義つかまつり候 
もっとも拾いの方へは
まかり出るべく候条
はなはだもって恐れ入り候らえども 
勢子頭ご免成し下され候よう
つかまつりたく存じたてまつり候 
この段願いたてまつり候 以上
         河合宗左衛門
 壬子十一月廿二日(嘉永五=1852)          
   片苗字連名様

追鳥狩につき口上覚
拙者儀明三日火の廻りにつき
お狩場へまかり出申さず候
この段お届け申し上げ候 以上
 乙卯十二月二日(安政二=1855)  
         河合宗左衛門
   大御目付中様

河合宗左衛門は岩村藩
次席家老の重役である
前段文書は晴れ舞台の勢子頭辞退届だが
腰痛で指揮が執れない
拾い集めの方なら勤まりそうという
後段文書では明日は火の廻り当番だからという
何とも締まらない理由である
会社で云えば専務取締役級の重役だが
この人元来脆弱な体であったらしい

重役の欠勤届は珍しい
河合宗左衛門から出された
他の届書の一部を紹介する




私儀この節症積相勝れず 
下冷つかまつり候間
自由ヶ間敷ござ候へども
夏中も足袋相もちい申したく
存じたてまつり候
この段願いたてまつり候 以上
 丙午二月廿五日(弘化三=1846)
        河合宗左衛門
  黒岩助左衛門様



拙者儀風邪につき 
今日兵学講釈聴聞に
まかり出申さず候
この段お届け申し達し候 以上
 (以下略)



私儀足腫れ物でき
去々月晦日より
お断り申し上げ
引っ込み養生つかまつり
ありがたく存じたてまつり候
しかる処 長髪にて逆上染め
難義つかまつり候間
自由ヶ間敷ござ候へども
月代つかまつりたく
存じたてまつり候
この段願いたてまつり候 以上
 (以下略)



拙者儀昨夜中より腹病いたし
相勤めがたくござ候につき
引っ込み養生致したく候
もっとも 神谷雲沢薬    *岩村藩医で病人栄養食としてカステラ製法を伝える
相用いまかりあり候
この段お届け申し達し候 以上
 (以下略)

頼政 鵺 八幡神社 

2010-02-05 18:34:25 | 伝説
先日
岐阜県歴史資料館玄関前のタタキに
大振りの野鳥がうずくまっている
外見はどこといって疵もない
弱っている風でもない
疵でも負ったかと触って撫でてみるが
人を恐れて逃げる様子もない
茶色と黒ではっきりしたまだら模様の羽
瞬時にこれは鵺((ぬえ)だと思った
珍しい鳥なので
野鳥の会メンバーの我が妻に見てもらう
紛れもなくトラツグミだと云う
野鳥の会では今年の干支にちなんで
年鳥(としどり)と云うらしい

脳震とうでも起こしたのだろうか
ガラスに映る風景を
錯覚して突き当たったんだろう
学校の窓などに激突することがあるらしい
暫くすると何でもなかったように
元気に飛び立ってくれてホッとした
(ブログが新米で写真を撮って紹介できないことが残念)




鵺と云えば源三位頼政だ
勅命を受けて鵺退治に
各地を探しまわる
やがて美濃国へ 
そこで目にしたものは矢竹の一鎌箆竹
三十三の班(まだら)ある尾羽を
とがり矢の羽に用いないと
怪鳥を射落とす事はできない
彼は武士だが文人としても名高い
それだけではなく手先も器用だ
好材料一鎌箆竹を用い
根を詰めた斑矢 八本を作る
深山(屏風山をみやまと云う)を
探し歩くうち
東山というあたりへ来た時
連れて来た犬が急に吠えだす 
鵺だ!
頼政はすかさず矢を射る
射れば百発百中の頼政
だが相手は怪鳥
当りはしたがひるまない
二の矢三の矢……
立て続けに最後の八本目
さしもの鵺も息を絶えた
(その場所を八本返りという)

獲物を引きずっての帰途
祟りを恐れた頼政 
切り落とした首を
八幡様(錦鶏八幡神社)に祀った
犬は鵺を追いだした時毒気に犯され
町屋(地名)まで来た時ついに絶命した
頼政は怪鳥退治の愛犬を手厚く葬った
(犬塚という)




春は花 秋は柴たく かまど山
 霧もかすみも 煙なるらん
頼政が釜戸で詠んだとされる歌も残っている

一鎌箆竹について
その根一にして矢箆竹二本
自然に節並び生ず
一鎌にて箆竹一双を伐る故に一鎌箆竹と称す
地名を神箆(瑞浪市土岐町の旧名)と呼ばるも
この奇状の箆竹生ずるに起因すと云う
(岐阜県輦道駅村略記)

括弧内の地名などは瑞浪市釜戸町内
一鎌箆竹は瑞浪市土岐町鶴ヶ城一体に群生する
瑞浪市土岐町はまた美濃源氏の発祥地でもある
この地方はまんざら源氏と無関係ではない

口伝も歴史資料の内と云われるようになった
頼政鵺退治の舞台としてはありえないか?





対談「犬塚伝説」と「刈安権現由来」
語る人 小川鈴一(O)  聞き手 佐藤実(S)

S:釜戸町にも源頼政の伝説として“犬塚”とか“八本返り”とか云う地名もあるそうですが
  その由来についてお話しください
O:“鵺退治”で有名な源三位頼政に纏わる伝説が基になった地名で 
  まだ“羽根の坂”と云う名もある 
  この源三位頼政は文武に秀でた武将であったと云われ 特に和歌に堪能であった 
  勿論その生い立ちを見れば解るように
  宮廷武士としてその大半を過ごした関係で和歌を勉強した事と思う 
  頼政の歌は“金葉和歌集”を初め勅撰の歌集に十数首が取り入れられている程で
  歌人としても有名である
S:最近中津川市千旦林の辻原の荻野氏の本家に所蔵されている
  “土岐頼政来瑞”と表題の付けてある文書を見せてもらいました その内で
   人しらぬ大内山の宿もりに木かくれてのみ月を見るかな
  と云う歌が叡聞に達し四位に叙せられ
   のぼるべきたよりなき身は木のもとにひろひて世をわたるかな
  と詠んで、世に「椎拾いの頼政」と呼ばれ、三位に昇進したとありました
  辻原の荻野家の先祖は源頼政だと云う伝説が残っています
  他の家のものでは“頼政先祖”と云う文書もありました 
  ところで釜戸に伝わる頼政の話はどうですか
O:時は仁平(1151~53)の頃 都では毎夜東三条の森の辺りから
  一むらの黒雲が立ち上がり 紫宸殿の上に掩いかぶさると 
  鵺と云う怪鳥が突如として現われ 奇異な鳴き声を立てたので
  天皇は非常に心配された 
  朝廷では名高い高僧や修験者を呼び集め 
  祈祷や呪いをしたが一向にその験(あかし)は現われなかった 
  そこで宮廷に侍える武士の内から武勇の優れた者を選んで
  鵺を退治させる事に相談が纏まり 選ばれたのが源頼政であった 
  頼政は勇躍してその任務を果たそうとしたが 
  怪鳥を射落とすには年老いた山鳥の三十三斑ある尾羽を
  鋒矢(とがりや)の羽を用いなくては射落とすことはできないと教えられた 
  急いで頼政の領国美濃に帰り その山鳥を探して山から山を求め歩く内に
  屏風山に入った そして論栃の奥の東山まで来た時 
  連れて来た猟犬が一羽の山鳥を叢から追い出した 
  鳥の羽ばたく音に目を注ぐと 羽が赤錦の年老いた山鳥であった 
  これは神の加護によるものと喜び勇んで 矢をつがえハッシと射ったが当たらない 
  矢継ぎ早に連射するうち八本目の矢で漸く射落とすことができたと云う 
  そうした由来からその場所を今もなお「八本返り」と呼んでいる 
  漸くにして目的を果たした頼政は 谷を巡り川を渡って里に出た 
  山鳥の首を落としたが この山鳥は神に授かったものであり 
  世にも珍しい尊いものであると考え その山鳥を葬り 神として祀ることとした 
  それが論栃の「金鶏八幡」の宮で 今も境内には榊の大木が聳え立っていて 
  昔の伝説を物語っているようである 
  頼政はそれから川に沿って町屋の芝原に出た 
  羽根の坂ーこの地名は山鳥の羽根に縁があるーの下に出て来た時 
  連れて来た犬が急に苦しみ始めた 
  山鳥を追い出した時 魔鳥の毒気に犯されたもののようである 
  苦悶の末死んでしまった 
  愛犬の死を傷んだ頼政は その地に犬を葬って塚を築いた 
  今では苔むした古碑が残っているが これが「犬塚」と呼ばれる塚である 
  今は田圃の畦となっている 
  こうして矢羽根を得ることができたので 
  矢竹は土岐の鶴ヶ城一帯に群生する一鎌矢竹(双生竹)を伐って
  鵺を退治する神願をかけて矢を作り 
  それによって勅命の怪鳥を射落とし武名を挙げたといわれている
S:先ほど申しました荻野氏の「頼政之来瑞」に
  頼政が鵺を射止めた功績を賞して獅子王の剱を授かった とあります 
  然し「頼政先祖」には百足丸という名剣を貰ったとありますが 
  剱の名称は兎も角として それを授与された時 宇治大臣が
   時鳥名をも雲井にあぐる哉
  と前を詠むと 頼政が
   弓張り月のいるにまかせて
  と後をつけたとあります 歌人としても相当な人であったようです 
  同書には“治承4年5月宇治平等院にて扇を敷き自殺あり 其時七十二歳 辞世歌
   埋もれ木のひさひさ事もなかりしに身のなる果ぞあわれなりける
  宇治川合戦に討死の後 郎党渡辺長七 主君の首を守護し 
  西美濃に来り 駒塚村近辺に埋むと云う 
  右は昔 尾州藩石河伊賀守の知行所にて 
  其石碑は林大学頭 文を綴り今に顕然たり
O:“時鳥”の歌は連歌として有名で 例としてよく用いられている 
  この釜戸にも頼政の歌が伝えられている
   春は花秋は柴たく釜戸山霧霧も霞も煙なるらん
  と云う歌で これは頼政が峯山に鹿狩りに来て 
  川戸の長峯と云う道の辺で弁当を食べた時に詠んだと伝えられている 
  兎に角頼政が歌人としても名のあることは確かである
S:頼政がその矢竹に用いたと云う双生竹についてお話しください
O:“岐阜県輦道駅村略記”と云うのは 明治天皇が明治13年に下街道を巡幸された時 
  旅の徒然をお慰めするために沿道の名所旧蹟を案内したものを記事にしたものである 
  その中に「一鎌箆竹」を次のように書いてある 
  “神箆神社について 亦神箆神社に作る 
  外町の北二丁郷社諏訪神社の左傍に在り祭神不詳 亦神箆天神とも称す” 
  これは土岐町の鶴城の諏訪神社の境内のことである 
  続いて“土岐村の産土神なり 
  然るに永禄中、村民諏訪神社を信仰し 該社を外地に創建せしを 
  延宝中此の地に移し村社となし 明治5年郷社とす 
  尚此の山を天神山と呼ばわり これ神箆天神の社地なる故なり”とある 
  “一鎌箆竹について 郷社の後ろ天神山にあり 
  其根一にして矢箆竹二本、自然に節並び生ず
  一鎌にて箆竹一双を伐る故に一鎌箆竹と称す 
  神社を神箆神社と称し 
  地名を神箆と呼ばるも此の奇状の箆竹生ずるに起因すと云う”とある通り 
  一つの根から二本づつ竹が生えてくるので
  “双子竹”(そうせいちく又はふたご竹)と呼ばれている
S:双生竹と云うものの生えるのは地方的に限られていますか
O:坪井伊助と云う人が著した“竹林造成法”と云う本がある 
  坪井は岐阜県の人でその研究は素晴らしく“岐阜県に過ぎたるもの二つあり 
  坪井の竹に名和の昆虫”と歌われた程有名で 
  それによると日本では三カ所だと書いてある 
  一つは神箆城跡(瑞浪市土岐町鶴城)にある矢竹の一種で 
  竹の子は間を隔てて二本宛並立発生するを以て
  箭一手(やひとで)なりとて賞用されたものとあり 
  二つ目は新潟県佐渡の矢島で“小木港付近”日蓮上人袈裟掛の松の近傍 
  矢島に自生すを以てその名高く 即ち名の如く間隔を置きて二本づつ出で
  殊にその太さ及び節間の同一に並列発生せるものは
  弓術家の珍重する処であると書いている 
  三つ目は愛媛県上浮穴郡中津村大字黒藤川の“おぞめが池”の辺りとある 
  その末文に“そもそも此の竹の世に有名なるに至りしは 
  彼の源三位頼政が鵺を射たる箭は此処の矢竹を以て作りしものなりと云う”とある 
  伝説は別として双生竹は以上の三カ所に自生すると云うのが通説になっている
S:この双生竹のある所には 佐渡を除いて
  源三位頼政の鵺退治の伝説が付随していることになりますが 面白いことです 
  先程の荻野文書の「頼政先祖」の中では
  “頼政の家臣土岐三郎次晴と云う人が久安元年(1145)に千旦林の辻原の里に
  一鎌竹を植えて これを荻野薮と名づけた 
  それが現在の荻野姓となった”とあります 
  猶“頼政が鵺退治を仰せ付かった時 
  次晴が荻野薮で一鎌矢竹を伐り矢を作って置いたものを
  頼政が使用して鵺を射留めることができた 
  その褒美に百足丸の太刀を賜った”と書いてあります 
  わたしは荻野薮の竹を見ていませんが 荻野氏の話では双生竹だそうです
O:気候風土が似ていれば植物だから自生しても不思議はないだろう
S:昔から鵺退治や百足退治 もっと古くは八岐の大蛇退治はありますが 
  その真偽についてはどうお考えですか
O:やはり武勇が優れていたことを象徴する作り話であることは確かだと思う
S:次にわたし達は権現山と呼んでいますが 
  大久後(釜戸町)の権現社の伝説をお伺いしたいと思います
O:文明(1469~86)の頃と云われているが 
  尾張東春日井郡の野口城主西尾式部道永が
  土岐郡釜戸村と恵那郡武並村に跨る高い嶺に城を築き 
  これを「刈安城」と名づけて住んだと云われている 
  天正10年(1852)武田討征を企てた織田信長は
  伊那谷木曽谷の両方面より軍を進めるに際し 
  木曽谷にはその子信忠を将として進攻させることにした 
  信忠が先ず神箆に到着すると 
  木曽谷に入るに先立ち本隊後方の備えについて軍議を開いた結果 
  高山(土岐市)城主平井頼母に兵三百を配属させて下街道方面の敵を防衛させ 
  刈安城の西尾に兵五百を与えて中仙道筋よりの敵に当たらせることにした 
  その後慶長5年(1600)関ケ原の合戦に敗れた西尾道永の末裔西尾治郎八は
  友将平井頼母に頼ろうとして高山に逃れて来た時 
  徳川方に組していた妻木城主妻木雅樂の軍と肥田村の浅野河原で逢遇し会戦した 
  西尾は敗戦の帰途で意気沮喪し 茲でも敗惨の憂き目を見た 
  生き残った数名と共に故城刈安城に向かって落ち延びる途中 
  飢えと寒さに力尽き遂に恨みをのんで自刃してしまった 
  後に里人は西尾治郎八の霊を慰めようと
  刈安城の東側に遺骸を祀ったのが後に刈安権現と呼ばれる神社となったのである 
  祖の道永の墓と位牌は愛知県東春日井郡篠岡村大草の福厳寺に在ると云う 
  猶里の伝説には一時権現が福厳寺に移されていたとも云う 
  世は江戸時代となり諸藩の大名が中仙道を往来するようになった頃 
  九州久留米藩主有馬氏がこの刈安山麓を通る時は
  いつも大雨が襲来して行列を悩ましたと云われ 
  里人は刈安の神霊が有馬氏に祟っていると云って権現を畏敬したと伝えられている
S:久留米の有馬になぜ祟ったでしょうか
O:関ケ原の戦に西尾は東軍の有馬玄蕃を攻めたが 
  敗れて逃げ帰る運命になったからである
S:他の伝説にもこれに関連のある話はありますが 
  織田の武田攻略の際信忠に仕えた 平井は兼山の森武蔵守に討たれ 
  西尾は有馬に負け妻木に襲われ 互いに悲惨な最後を遂げたことになりますが 
  群雄の宿命を現わしているような伝説に思います
O:群雄割拠時代の名のある武将はまだ良いとして 
  それら巨将の許に集まって勢力を推進させた地域の豪族以下の武者達は 
  誰に味方するか せぬかは大博奕であった 
  一つ間違えば名さえ残らず 一族皆殺しにあうこともあったと思う 
  所謂地方の小雄達の運命は果敢なく消えて行くところに戦国の宿命があるように思える
S:いろいろお話をお聞かせくださいましてありがとうございました