「百岐年」を調べてほしい
あなたならどうやって調べる?
まず辞書で調べることを頭に浮かべると思う
辞書と言ってもいろいろある
言っておくけど
あの分厚い漢和大辞典にも載っていないよ
国語辞典で引こうとしても
どう読むか(何と発音するか)わからなくては
調べようがない
古文書のことを書いているのだから
古語辞典ならどうだろう
読めれば引ける
調べることができるのも能力のうち
まあ偉そうなことを書いたが
これが読めたからどうなんだと言われれば
グーの音もない
知っているからとて何の役にも立たない
知らなくてもドーってことはない
が 知ると言うことは楽しい
これを何と読むかわかる人は
かなり岐阜のことに詳しいと思う
古書「岐阜町盡」に答はあった
漢字になっている部分は
全部ふりがな(変体がな)
が振ってありました
旧かなづかいは
現代用語に読みかえました
例 ぎふてふ→ぎふちょう
岐阜町盡(ぎふまちづくし)
百岐年
美濃の國なる岐阜町は
金華山近く
弥増栄ふ其起源ハ
ももくきね
みののくになる ぎふまちは
こがねはなさく やまちかく
いやましさかう そのもとはらは
こんな調子のものです
あをによし 奈良の都は 咲く花の
匂うがごとく 今さかりなり
あをによしは奈良にかかる枕詞
百岐年は美濃にかかる枕詞
永禄七年織田信長
斉藤氏の世々住し
稲葉の城を攻取て
新に館を建られし
えいろくしちねん おだのぶなが
さいとううじの よゝすみし
いなばのしろを せめとりて
あらたにたちを たてられし
天主に櫓揔掘を
構へられたる其頃に
井の口忠節今泉
早田村を合せられ
明應頃より唱来し
岐阜町名とはなりしとぞ
てんしゅにやぐら そうぼりを
かまえられたる そのころに
いのくちちゅうせつ いまいずみ
そうでんむらを あわせられ
めいおうごろより となえこし
ぎふちょうなとは なりしとぞ
今は縣の名に呼びて
開くる御代の恵さへ
厚見郡と全國の
第一大區のはじめ也
いまはあがたの なによびて
ひらくるみよの めぐみさえ
あつみごおりと ぜんこくの
だいいちだいくの はじめなり
革屋町から本町の
街衢ハ城の大手筋
靫屋町の名はあれど
昔に変る今町ハ
上中下に北を添へ
布屋釜石上竹屋
新町大桑の二ヶ町ハ
上中下の唱あり
かわやちょうから ほんまちの
とおりはしろの おおてすじ
うつぼやちょうの なはあれど
むかしにかわる いままちは
かみなかしもに きたをそえ
ぬのやかまいし かみたけや
しんまちおおがの にかまちは
かみなかしもの となえあり
魚屋久屋に立並ぶ
材木町は西東
家居も繁き大工町
山を隔つる達目洞
甚衛蜂屋は其むかし
住みにし人の名なりとぞ
合せて二十四箇町を
一の小區とまうすなり
うおやひさやに たちならぶ
ざいもくちょうは にしひがし
いえいもしげき だいくちょう
やまをへだつる だちぼくぼら
じんえはちやは そのむかし
すみにしひとの ななりとぞ
あわせて二十 四か町を
一のしょうくと もうすなり
ついで伊奈波の神垣は
五十瓊礒城入彦命を初四柱の
神をいはひて祭るとぞ
天文八年秀龍が
城を築きし比とかや
此地に遷しまいらせて
今は縣社と尊敬けり
ついでいなばの かみがきは
いにしきいりひこのみことをはじめ よはしらの
かみをいわいて まつるとぞ
てんぶんはちねん ひでたつが
しろをきずきし ころとかや
このちにうつし まいらせて
いまはけんしゃと あがめけり
續く善光寺大門の
北の大路ハ米屋甼
南通は白木町
載る扇の町近く
変らぬ色の常盤町
同じ緑の笹土居や
加茂と愛宕の名は有れど
つづくぜんこうじ だいもんの
きたのおおじは こめやちょう
みなみどおりは しろきちょう
のするおうぎの まちちかく
かわらぬいろの ときわちょう
おなじみどりの ささどいや
かもとあたごの なはあれど
総て此地の風俗は
都と鄙の間の町
中竹屋町松屋町
静けき御代に相生の
若松町や大和町
栄甼とて賑る
往来ハ繁き車の町
なべてこのちの ふうぞくは
みやことひなの あいのまち
なかたけやちょう まつやちょう
しずけきみよに あいおいの
わかまつちょうや やまとちょう
さかえちょうとて にぎわえる
ゆききはしげき くるまのちょう
めぐりめぐりて七曲
珠城の甼や榊町
矢島上門鍛冶屋町
町の名に呼ぶ木造は
是左衛門の邸跡
合せて二十三ヶ町
二の小區とまうす也
めぐりめぐりて ななまがり
たまきのまちや さかきちょう
やじまあげもん かじやちょう
まちのなによぶ きづくりは
これざえもんの やしきあと
あわせて二十 三かちょう
二のしょうくとは もうすなり
ついで小熊の村の名は
羽栗郡の小熊から
地蔵を遷したりしより
こゝの地名となるとかや
ついでおぐまの むらのなは
はぐりごおりの おぐまから
じぞうをうつし たりしより
ここのちめいと なるとかや
風ぞ涼しき川端の
夏はいなばの山の端に
照る紅葉の秋津町
上下竹町大寶甼
中と下との鉄屋町
かぜぞすずしき かわばたの
なつはいなばの やまのはに
てるもみじばの あきつまち
かみしもたけまち だいほうまち
なかとしもとの かなやちょう
向ふ西野の天満宮
七軒町に程近き
観音堂の本尊は
本巣郡の美江寺より
遷せしものと聞へけり
太田橋詰泉町
上下西の分ちある
忠節村に不動有り
四屋天道十二軒屋
むかうにしのの てんまんぐう
しちけんちょうに ほどちかき
かんのんどうの ほんぞんは
もとすごおりの みえじより
うつせしものと きこえけり
おおたはしづめ いずみちょう
かみしもにしの わかちある
ちゅうせつむらに ふどうあり
よつやてんどう じゅうにけんや
大佛殿に隣りたる
千畳敷ハ永禄の
昔を忍ぶ古跡にて
家居もいつか益屋町
上と下との茶屋甼や
山口木挽梶川町
このさまざまの小名はあれど
だいぶつでんに となりたる
せんじょうじきは えいろくの
むかしをしのぶ こせきにて
いえいもいつか ますやちょう
かみとしもとの ちゃやまちや
やまぐちこびき かじかわまち
このさまざまの こなはあれど
小熊忠節今泉
明屋敷古屋敷中河原と
唱ふる六の村落を
三の小區と申すなり
おぐまちゅうせつ いまいずみ
あきやしきふるやしき なかがわらと
となうるむつの そんらくを
三のしょうくと もうすなり
三の小區を合すれは
二千六百十三戸
人口凡一萬千二百二十九人あり
三のしょうくを あわすれば
二千六百十三こ
じんこうおよそ
一万千二百二十九にんあり
此地に名有る産物は
縮緬挑灯鮎松茸
花紫蘇鮎魚腸鮨枝柿
このちになある さんぶつは
ちりめんちょうちん あゆまつだけ
はなじそうるか すしえだがき
鵜川ハこゝの壮観にて
郡上郡の八幡より
桑名の海に入る迄は
二十七里餘有りと聞く
ゆくへ長良の川の面
鵜船に燃る篝火と
共に其名も輝ける
うがわはここの そうかんにて
ぐじょうごおりの はちまんより
くわなのうみに いるまでは
二十七りよ ありときく
ゆくえながらの かわのおも
うぶねにもゆる かがりびと
ともにそのなも かがやける
此一郷の賑ひハ
伊奈波の山に生う松の
十返の色とこしへに
幾萬代や栄え行らむ
このひとさとの にぎわいは
いなばのやまに おうまつの
とがえりのいろ とこしえに
いくよろずよや さかえゆくらむ
後書き(ふりがななし)
時に明治七年三月
岐阜金華山麓の學窓に
西籍教授の餘暇
漫に筆を走らせ
以て訓蒙の一助と為す
静岡 飯野忠一
ところで
百岐年ですが
岩波古語辞典によると
ももきね【百岐年】
[枕詞]国名「美濃」にかかる。
かかり方は未詳。
「―美濃の国の」<万三二四二>
とあります
他の古語辞典も大同小異です
前記「岐阜町盡」は
当然のことながら
変体がなが使用されています
百岐年には「ももくきね」
とふりがながあります
この違いは何か?
手掛かりはあります
明治になって文部省が
一音一字の「ひらがな」を
制定して以後
それ以前に使用されていた
「かな」は
制定されたかな以外を
「変体がな」と呼ぶようになります
そして悪いことに
活字の時代が到来すると
変体がなは
かなができた元字(母字)
すなわち漢字で表記する人も
出てくるようになります
たとえば
「岐阜町盡」に出てくる
「金華」のふりがなを
これにあてはめると
「己可祢者奈左久」となります
このことを踏まえて
聞いてください
美濃を研究する人にとって
必携の書「美濃明細記」があります
この「美濃明細記」の元は
いろいろ(幾通りも)
伝わっているようですが
最初「百茎根」と題されていたものを
(茂茂久岐祢と表記したものもあり)
後人が「美濃明細記」と改題した
ことは間違いないようです
「茂茂久岐祢」はかなとして
使用されていますので
今活字にするなら
当然「ももくきね」です
今回紹介した「岐阜町盡」では
百岐年のふりがなを「ももくきね」としております
それが各種(権威ある辞書)によると
「ももきね」なんです
どちらかが間違い(どちらかが正解)
それとも両方とも正しい
研究者の方々に説明をしていただけるとありがたいです
あなたならどうやって調べる?
まず辞書で調べることを頭に浮かべると思う
辞書と言ってもいろいろある
言っておくけど
あの分厚い漢和大辞典にも載っていないよ
国語辞典で引こうとしても
どう読むか(何と発音するか)わからなくては
調べようがない
古文書のことを書いているのだから
古語辞典ならどうだろう
読めれば引ける
調べることができるのも能力のうち
まあ偉そうなことを書いたが
これが読めたからどうなんだと言われれば
グーの音もない
知っているからとて何の役にも立たない
知らなくてもドーってことはない
が 知ると言うことは楽しい
これを何と読むかわかる人は
かなり岐阜のことに詳しいと思う
古書「岐阜町盡」に答はあった
漢字になっている部分は
全部ふりがな(変体がな)
が振ってありました
旧かなづかいは
現代用語に読みかえました
例 ぎふてふ→ぎふちょう
岐阜町盡(ぎふまちづくし)
百岐年
美濃の國なる岐阜町は
金華山近く
弥増栄ふ其起源ハ
ももくきね
みののくになる ぎふまちは
こがねはなさく やまちかく
いやましさかう そのもとはらは
こんな調子のものです
あをによし 奈良の都は 咲く花の
匂うがごとく 今さかりなり
あをによしは奈良にかかる枕詞
百岐年は美濃にかかる枕詞
永禄七年織田信長
斉藤氏の世々住し
稲葉の城を攻取て
新に館を建られし
えいろくしちねん おだのぶなが
さいとううじの よゝすみし
いなばのしろを せめとりて
あらたにたちを たてられし
天主に櫓揔掘を
構へられたる其頃に
井の口忠節今泉
早田村を合せられ
明應頃より唱来し
岐阜町名とはなりしとぞ
てんしゅにやぐら そうぼりを
かまえられたる そのころに
いのくちちゅうせつ いまいずみ
そうでんむらを あわせられ
めいおうごろより となえこし
ぎふちょうなとは なりしとぞ
今は縣の名に呼びて
開くる御代の恵さへ
厚見郡と全國の
第一大區のはじめ也
いまはあがたの なによびて
ひらくるみよの めぐみさえ
あつみごおりと ぜんこくの
だいいちだいくの はじめなり
革屋町から本町の
街衢ハ城の大手筋
靫屋町の名はあれど
昔に変る今町ハ
上中下に北を添へ
布屋釜石上竹屋
新町大桑の二ヶ町ハ
上中下の唱あり
かわやちょうから ほんまちの
とおりはしろの おおてすじ
うつぼやちょうの なはあれど
むかしにかわる いままちは
かみなかしもに きたをそえ
ぬのやかまいし かみたけや
しんまちおおがの にかまちは
かみなかしもの となえあり
魚屋久屋に立並ぶ
材木町は西東
家居も繁き大工町
山を隔つる達目洞
甚衛蜂屋は其むかし
住みにし人の名なりとぞ
合せて二十四箇町を
一の小區とまうすなり
うおやひさやに たちならぶ
ざいもくちょうは にしひがし
いえいもしげき だいくちょう
やまをへだつる だちぼくぼら
じんえはちやは そのむかし
すみにしひとの ななりとぞ
あわせて二十 四か町を
一のしょうくと もうすなり
ついで伊奈波の神垣は
五十瓊礒城入彦命を初四柱の
神をいはひて祭るとぞ
天文八年秀龍が
城を築きし比とかや
此地に遷しまいらせて
今は縣社と尊敬けり
ついでいなばの かみがきは
いにしきいりひこのみことをはじめ よはしらの
かみをいわいて まつるとぞ
てんぶんはちねん ひでたつが
しろをきずきし ころとかや
このちにうつし まいらせて
いまはけんしゃと あがめけり
續く善光寺大門の
北の大路ハ米屋甼
南通は白木町
載る扇の町近く
変らぬ色の常盤町
同じ緑の笹土居や
加茂と愛宕の名は有れど
つづくぜんこうじ だいもんの
きたのおおじは こめやちょう
みなみどおりは しろきちょう
のするおうぎの まちちかく
かわらぬいろの ときわちょう
おなじみどりの ささどいや
かもとあたごの なはあれど
総て此地の風俗は
都と鄙の間の町
中竹屋町松屋町
静けき御代に相生の
若松町や大和町
栄甼とて賑る
往来ハ繁き車の町
なべてこのちの ふうぞくは
みやことひなの あいのまち
なかたけやちょう まつやちょう
しずけきみよに あいおいの
わかまつちょうや やまとちょう
さかえちょうとて にぎわえる
ゆききはしげき くるまのちょう
めぐりめぐりて七曲
珠城の甼や榊町
矢島上門鍛冶屋町
町の名に呼ぶ木造は
是左衛門の邸跡
合せて二十三ヶ町
二の小區とまうす也
めぐりめぐりて ななまがり
たまきのまちや さかきちょう
やじまあげもん かじやちょう
まちのなによぶ きづくりは
これざえもんの やしきあと
あわせて二十 三かちょう
二のしょうくとは もうすなり
ついで小熊の村の名は
羽栗郡の小熊から
地蔵を遷したりしより
こゝの地名となるとかや
ついでおぐまの むらのなは
はぐりごおりの おぐまから
じぞうをうつし たりしより
ここのちめいと なるとかや
風ぞ涼しき川端の
夏はいなばの山の端に
照る紅葉の秋津町
上下竹町大寶甼
中と下との鉄屋町
かぜぞすずしき かわばたの
なつはいなばの やまのはに
てるもみじばの あきつまち
かみしもたけまち だいほうまち
なかとしもとの かなやちょう
向ふ西野の天満宮
七軒町に程近き
観音堂の本尊は
本巣郡の美江寺より
遷せしものと聞へけり
太田橋詰泉町
上下西の分ちある
忠節村に不動有り
四屋天道十二軒屋
むかうにしのの てんまんぐう
しちけんちょうに ほどちかき
かんのんどうの ほんぞんは
もとすごおりの みえじより
うつせしものと きこえけり
おおたはしづめ いずみちょう
かみしもにしの わかちある
ちゅうせつむらに ふどうあり
よつやてんどう じゅうにけんや
大佛殿に隣りたる
千畳敷ハ永禄の
昔を忍ぶ古跡にて
家居もいつか益屋町
上と下との茶屋甼や
山口木挽梶川町
このさまざまの小名はあれど
だいぶつでんに となりたる
せんじょうじきは えいろくの
むかしをしのぶ こせきにて
いえいもいつか ますやちょう
かみとしもとの ちゃやまちや
やまぐちこびき かじかわまち
このさまざまの こなはあれど
小熊忠節今泉
明屋敷古屋敷中河原と
唱ふる六の村落を
三の小區と申すなり
おぐまちゅうせつ いまいずみ
あきやしきふるやしき なかがわらと
となうるむつの そんらくを
三のしょうくと もうすなり
三の小區を合すれは
二千六百十三戸
人口凡一萬千二百二十九人あり
三のしょうくを あわすれば
二千六百十三こ
じんこうおよそ
一万千二百二十九にんあり
此地に名有る産物は
縮緬挑灯鮎松茸
花紫蘇鮎魚腸鮨枝柿
このちになある さんぶつは
ちりめんちょうちん あゆまつだけ
はなじそうるか すしえだがき
鵜川ハこゝの壮観にて
郡上郡の八幡より
桑名の海に入る迄は
二十七里餘有りと聞く
ゆくへ長良の川の面
鵜船に燃る篝火と
共に其名も輝ける
うがわはここの そうかんにて
ぐじょうごおりの はちまんより
くわなのうみに いるまでは
二十七りよ ありときく
ゆくえながらの かわのおも
うぶねにもゆる かがりびと
ともにそのなも かがやける
此一郷の賑ひハ
伊奈波の山に生う松の
十返の色とこしへに
幾萬代や栄え行らむ
このひとさとの にぎわいは
いなばのやまに おうまつの
とがえりのいろ とこしえに
いくよろずよや さかえゆくらむ
後書き(ふりがななし)
時に明治七年三月
岐阜金華山麓の學窓に
西籍教授の餘暇
漫に筆を走らせ
以て訓蒙の一助と為す
静岡 飯野忠一
ところで
百岐年ですが
岩波古語辞典によると
ももきね【百岐年】
[枕詞]国名「美濃」にかかる。
かかり方は未詳。
「―美濃の国の」<万三二四二>
とあります
他の古語辞典も大同小異です
前記「岐阜町盡」は
当然のことながら
変体がなが使用されています
百岐年には「ももくきね」
とふりがながあります
この違いは何か?
手掛かりはあります
明治になって文部省が
一音一字の「ひらがな」を
制定して以後
それ以前に使用されていた
「かな」は
制定されたかな以外を
「変体がな」と呼ぶようになります
そして悪いことに
活字の時代が到来すると
変体がなは
かなができた元字(母字)
すなわち漢字で表記する人も
出てくるようになります
たとえば
「岐阜町盡」に出てくる
「金華」のふりがなを
これにあてはめると
「己可祢者奈左久」となります
このことを踏まえて
聞いてください
美濃を研究する人にとって
必携の書「美濃明細記」があります
この「美濃明細記」の元は
いろいろ(幾通りも)
伝わっているようですが
最初「百茎根」と題されていたものを
(茂茂久岐祢と表記したものもあり)
後人が「美濃明細記」と改題した
ことは間違いないようです
「茂茂久岐祢」はかなとして
使用されていますので
今活字にするなら
当然「ももくきね」です
今回紹介した「岐阜町盡」では
百岐年のふりがなを「ももくきね」としております
それが各種(権威ある辞書)によると
「ももきね」なんです
どちらかが間違い(どちらかが正解)
それとも両方とも正しい
研究者の方々に説明をしていただけるとありがたいです