古文書を読んで感じたこと

遠い時代の肉声

小牧海道通り申すべし

2011-10-29 08:51:21 | 講座(古文書)
釜戸海道商人荷物御留 5回目(最終回)



中山道は慶長年間に大井宿から御嵩宿までの新道が開通する
しかしこの間急峻な坂道続きでしかも遠距離であったため
大湫、細久手に新宿を設置した
中山道に限らず五街道はすべて一宿ごと継ぎ送りの駅伝制である
公道である中山道筋の宿駅を維持するため
名古屋~信州間の荷物はすべて(商荷を含む輸送独占)
本海道(小牧街道経由)で継ぎ送りをさせる必要があった

下街道は古くから名古屋と信州を結ぶ物資輸送路であった
中山道新道に大湫宿ができる頃(慶長9年)には
下街道筋の内津(現春日井市)・池田(多治見市)・高山(土岐市土岐津町)
土岐(瑞浪市土岐町)・大島(瑞浪市釜戸町)で
馬方連中による宿継ぎも行われていた

下街道筋の村々にとって商人荷物御留は死活問題であった
釜戸村の安藤家文書「代々覚書」によれば
本海道宿々から最初の訴訟があった年(寛永元年)の
10月には前記のうつつ村・池田村・高山村・とき村・大嶋村
及び西美濃牧田川筋の牧田村・烏江村・栗笠村・船付村まで
巻き込んで反対訴訟(釜戸海道商人荷物御留)を行っている(後述)

名古屋は領主の城下町でありバンバン発展していた
当然中心地の吸引力は増すばかりである
中山道は本来京・上方から東国への道として整備され
特に御嵩~大井はほぼ一直線に人為的に作られた道なのである
そして悪いことに名古屋を通らない
では名古屋から信州への輸送はどうしたらいいか
どこかで追分を作るより仕方がない
それが小牧街道を経由する道であった
従来からの近道があるにも拘らずだ
(大井から大湫よりに少し進んだ槙ヶ根が追分の下街道)

名古屋~信州間の商荷輸送では
大湫宿細久手宿など中山道筋宿々は
距離だけでなくその外数々の不利な条件が重なっており
宿経営の衰貧を食いとめるためには尾張藩の威光に頼る外なく
再三訴訟を起こした
訴訟が繰り返されるたびごとに通行制限は厳しくなっていく 

元禄の訴訟(今回読んでいる文書)は3回目である
尾張藩は本海道筋宿々の意向を汲んで
名古屋町中と大井中津川落合の各宿問屋に対し
下街道商荷通行禁止を堅く守るよう誓わせた
しかし一時的に利き目はあっても
年が経過するうちにまた元のモクアミになっていく





     覚
一當宿々より名古屋へ参候商人百姓荷付牛馬
 先年より小牧道通申筈ニ御座候所
 近年下海道通り候様相聞申ニ付
 今度御僉儀の上小牧海道致往還
 下海道一圓通り申間敷旨被仰付奉得其意
 自今以後堅相守可申候

  大井宿中津川宿落合宿より名古屋へ向けの
  商人百姓荷付け牛馬(木曽谷牛馬)は
  前々から小牧海道を通る極めになっておりましたが
  最近下街道を通っているように聞き及んでいます
  牛馬持ちども取調べの上必ず小牧街道を通るよう
  下街道筋は通行停止令が出ているので
  以後は堅く守るように

 當宿々御領分の寄付の村々へも右の趣相守候様堅申渡
 庄屋共方より判形取置可申候
 為後日之連判手形仍て如件
  元禄弐年巳七月十八日
           濃州恵那郡大井宿問屋
                甚右衛門
           同    弥三右衛門
           濃州恵那郡中津川宿問屋
                長右衛門
           同    次郎右衛門
           濃州恵那郡落合宿問屋
                善兵衛
           同    喜平次
 恒川弥五平殿
 渡辺仁右衛門殿

  大井宿中津川宿落合宿の関係村々へも
  右の趣旨を徹底するよう申し渡し
  庄屋方で印判を取り置く事
  後日の為に連判手形を作成しました
   元禄2年7月18日
       大井宿問屋甚右衛門始め6人より
  恒川弥五平殿渡辺仁右衛門殿宛

  

     覚
一木曽谷中百姓商人荷付牛馬
 先年より小牧海道通り申筈ニ候所ニ
 近年下海道通り候様ニ相聞申候
 自今以後下海道通り候儀不罷成候
 駄賃牛馬ハ勿論、自分牛馬共ニ
 不残小牧海道通り可申候
 右の通り木曽谷中の者共へ可被仰渡候 以上
  巳ノ七月
          都筑弥兵衛
          稲葉九郎左衛門

  木曽谷百姓商人荷付け牛馬は
  従来から小牧街道を通る極めになっているが
  最近は下街道を通っていると聞いている
  今日以降下街道を通ることはまかりならぬ
  駄賃牛馬はもちろん
  自分牛馬の荷物であっても
  すべて小牧街道を通るべし
  右の通り木曽谷中(問屋及び牛馬持ちども)へ申し渡す
   元禄2年7月
          都筑弥兵衛
          稲葉九郎左衛門

元禄弐年巳ノ七月十八日ニ被仰渡候
右ハ山村甚兵衛様ぇ被仰遣
木曽谷中へ被仰付候留

 元禄2年7月18日に仰せ渡しになりました
 これは木曽代官山村甚兵衛様へ仰せ遣わされ
 木曽谷中へ仰せ付けになった留め書き



      覚
一名古屋町中より商人荷付馬
 先年より小牧海道通り申筈ニ候所ニ
 近年下海道通り候様相聞候
 自今以後下海道通り候儀不罷成候
 駄賃馬ハ勿論、自分馬共ニ不残
 小牧海道通り可申候

  名古屋からの商人荷付け馬は
  先年から小牧街道を通る筈であったが
  最近は下街道を通っているやに聞いている
  今後下街道を通ることはまかりならぬ
  駄賃牛馬はもちろん
  自分牛馬であってもすべて小牧街道を通るべし

 右の通木曽谷中并信濃筋問屋馬方
 共ニ相守候様ニ被仰付可被下候 以上
  巳ノ七月
          都筑弥兵衛
          稲葉九郎左衛門
 右ハ名古屋町中へ被仰付候留

  右の通り木曽谷中ならびに信濃筋問屋馬方
  双方ともに必ず守るように仰せ付ける
   元禄2年7月
          都筑弥兵衛
          稲葉九郎左衛門
  これは名古屋町中へ仰せ付けられた留め書き



      覚
一弥五平様御口上ニて被仰渡候ハ
 問屋庄屋大井村より下海道御用の儀ニて参候時分ハ
 大井村の馬ニのり申参候事上下共ニ不苦候
 右の外村中の者ニても御用有之罷通り候儀
 上下共ニ不苦候由被仰付候段御口上ニて承候事
  巳ノ七月十八日

  都筑弥五平様から御口上で仰せ渡されたことは
  問屋庄屋衆が御用で大井村より下街道通行する時は
  大井村の馬を利用するなら上り下りともよろしい
  問屋庄屋以外の者でも村中の者なら
  御用で通行する時は上り下りともよろしい
  と口上にて承っています
   元禄2年7月18日


以上「釜戸海道商人荷物御留被成候書付」全編を読み終る





(参考)

大嶋村(釜戸)安藤家代々覚書にはこんな記述がある

一此下海道筋尾張様より御留メ被成候ニ付
 此下海道筋問屋共宿々より
 尾州名古屋へ御訴詔ニ罷越候 寛永元子年御訴状上跡書
   謹て言上
一先年よりうつゝ筋木曽海道罷通申候商人荷物被仰付之由申候て
 下り荷物の分ハ山田問屋相留メ小牧新道を付廻シ申候
 か様ニ跡先ニて留メ申候ニ付て
 右の本海道御伝馬次の者諸商人迄も迷惑仕申候御事
一うつゝ筋と小牧新道との絵図を上ケ申候
 うつゝ筋ハ名古屋より大井迄拾四里半
 小牧新道ハ拾九里半
 左様ニ御座候ヘは小牧新道ハ五里の廻りニて御座候
 駄賃銭も高ク御座候ニ付て西東諸商人迄も迷惑仕候
 御寄合へ罷出前々のことくニ被仰付被下候へと様々御断申上候へ共
 被仰付不被下候て迷惑仕申候御事
一名古屋様御用物の儀、此以前何ニても御無沙汰不申上候處ニ
 ヶ様ニ被仰付、馬次の村々迷惑仕申候御事
 右於御尋ハ可申上候
   寛永元年子ノ十月日
            うつゝ村 五兵衛 判
            池田村  庄右衛門判
            高山村  安兵衛 判
            とき村  忠左衛門判
            大嶋村  左平次 判
  進上
   御小姓衆御中

 右の節下海道筋留り申ニ付
 西美濃筋も同前ニ迷惑被致候て
 則是も訴状指上被申候
 則其訴状の写次ニ書

   乍恐言上
一当八月よりうつゝ海道筋留り申
 付て小牧筋へ諸荷物罷通儀を諸商人迷惑仕候
 其上小牧筋ハ道五里の廻りニて御座候故駄賃も多ク懸り申
 付て諸荷物共関ヶ原よりすぐニ大垣筋赤坂筋ヲ罷通申候
 左様ニ御座候ヘハ濃州御領内牧田村・烏江村・栗笠村
 馬方船持中何れも迷惑仕候条
 如前々諸荷物うつゝ海道へ罷通り申候様ニ被仰付可被下候
 尚様子於御尋は口上ニ可申上候 以上
   子ノ十一月十一日
            牧田村 勘右衛門判
            同村  五兵衛 判
            船付村 六左衛門判
            同村  太兵衛 判
            同村  弥兵衛 判
  進上
   御奉行衆様参
 右如此両所より訴状指上申候へ共相叶不申
 其より此下海道留り申候
 其節西美濃筋牧田村・船付村より上り申候訴状本紙此方へ請取
 手前かけすゝり万証文と一所ニ有之也

  
                                                  







木曽馬ども伊奈筋付け通し申さざるよう

2011-10-19 10:45:00 | 講座(古文書)
釜戸海道商人荷物御留 4回目

前回までに読んだところで
28年前とか66年前とかの表現がありました
わかりにくかったかもわかりません

この書付は元禄2年のもので
木曽商人荷物通行について
本海道筋宿々が釜戸筋通行停止を訴え
尾張藩奉行衆より通行停止令が出されます
それも度々あって元禄2年の訴えは3回目でした

28年前は慶安4年(1651)から
66年前は元禄2年(1689)から数えて
ともに寛永元年(1624)を指しています
すなわちこの訴訟は元禄2年第3回目のものです
1回目は寛永元年
2回目は慶安4年
3回目は元禄2年です

家康は関ヶ原の戦いに勝って(慶長5=1600)制道権を掌握しました
最初に東海道の修復整備が行われ
次いで慶長7年頃から中山道などの整備改良を手掛けます
もともとここには東山道という西国と東国を結ぶ重要街道がありました
それをベースに道路整備が行われたのです
特に大きく変わったところがあります 大井宿から御嵩宿間です
東西にほぼ一直線の道を新規に開通させたのですが
遠距離の上急峻な山道続きで継ぎ送りには困難を極めます
当時大井宿から御嵩宿まで宿駅なしだったのです
このため慶長9年には大湫宿を
慶長15年には細久手宿を設置します
家康が制道権を握る以前に、すでに伝馬継立はある程度行われておりました
勿論軍事用荷物の輸送が主目的の伝馬でしたが
公用継立ばかりではなく商荷輸送も行われていました(東山道は本来京から東国への道)
東山道とは別に庶民の参詣道あるいは商荷ルートとして
名古屋(宮)から下街道経由で信州へ通じていました
中山道に大湫など新宿が設けられると、商荷の公道継立てを尾張藩から仰せ出されます
寛永元年は大湫宿ができて20年目です
20年も過ぎると本海道を継ぎ送りをすべき商荷は
いつのまにか釜戸筋をへり道するようになってきます
そこで本海道筋宿々は第1回目の抗議ともいえる訴訟を寛永元年に起こします
一ときは元通りに本海道が賑わいますが
年が経つにつれおざなりになります
釜戸筋は本海道と比較すると近道です、平坦です
継ぎによる荷痛めも、荷遅れも少ない
庭銭口銭など経費も少なくて済むメリットが多い道だからです
釜戸筋通行停止は木曽馬が対象になっていますが
今度は伊奈筋通行も何とか留めて
中山道へ商荷物通行を多くとの目論見です
大湫宿にとっては当面釜戸筋が最大の関心事です
再三再四の仰せ出されも
一時期は留まるがいつの間にかという状況がずっと続きます




本文前回よりの続き


右弐通の宿々訴状并
被為仰渡の御口上の書付共ニ三通ニ写仕
拾ヶ年以前延宝八年申の年
近松孫兵衛様へ指上ケ申候
其節被仰渡候は
釜戸海道荷物付通しの儀
先年の通御法度ニ被仰付候間
左様ニ相心得申様ニと被仰渡候
尤御代官三浦又太夫様・太田紋左衛門様へも
右の書付差上ケ申候
右の通相違無御座候 以上
  元禄弐年       大井村問屋
   巳ノ五月十日      甚右衛門
             同
               弥三右衛門

 右2通(寛永元年、慶安4年)の宿々からの訴状
 ならびに仰せ渡された口上の書付とも3通に写し
 10年前の延宝8年(1680)に
 近松孫兵衛様へ指し上げました
 その時に仰せ渡されたことは
 釜戸海道の荷物付け通しについて
 先年のように違法だと仰せ付けられ
 そのように心得よと仰せ渡されております
 御代官の三浦又太夫様、太田紋左衛門様へも
 同文の書付を差し上げてあります
 以上の通り相違ありません
   元禄2年5月10日  大井宿問屋 甚右衛門
              同     弥三右衛門


一筆申遣候
釜戸海道馬付の荷物 往還相留候節
其時分郡奉行方より其宿々被申付候様子御用ニ入候
委細ニ書付早々差越可申候
弐拾年程以前ニも一度
四十年程以前にも一度
六十四五年程にも一度申付有之候由ニ候間
吟味仕書付越可申候
尤此状戻シ可申候 以上
  五月七日      恒川弥五平
   大井
   中つ川問屋中

 一筆申し遣わし候
 釜戸海道馬付け荷物の往還留めの節
 その時分の郡奉行方より
 その宿々へ申し付けられ候様子
 御用があるので委細に書き付け
 早々差し越すべし(写しを差し出せ)
 20年ほど前にも一度
 40年ほど前にも一度
 64~65年ほど前にも一度
 申し付けがあった由であり
 吟味して書き付けの写しを差し出せ
 この状読んだら返しなさい
  (元禄2年)5月7日  恒川弥五平
    大井問屋
    中津川問屋中へ


右の通御郡奉行恒川弥五平様より申来候ニ付
前の訴状并被仰渡の口上書の写ニ我々共口上書を書添
巳ノ五月十日ニ名古屋へ差上ケ申候留
中つ川ニハ先年より下道被仰付の儀無之由申御返事申上候、以上

 右の通り御郡奉行恒川弥五平様より申し来たり候につき
 前の訴状と仰せ渡された口上書の写しに
 私共の口上書を書き添え
 5月10日に名古屋へ差し上げた留め書き
 中津川には先年下街道商荷通行停止を仰せ付けられた
 書き付けはありませんと返事を申し上げました


   乍恐申上候
一先年商人荷物釜戸筋へり道仕候ニ付
六拾六年以前子の年御訴詔申上候所ニ被為仰付被下候
其以来猥ニ罷成候ニ付
三拾九年以前卯の年御訴詔申上候ヘハ
急度御法度ニ被為仰付被下候ニ付
下り荷物御當地の馬勝川へ付出し不申
上り荷物大井宿の馬釜戸へ付出し不申候

   恐れながら申し上げ候
 先年商人荷物、釜戸筋へヘリ道をしていることにつき
 66年前に御訴訟いたしましたところ釜戸筋通行停止を仰せ付けられました
 それ以来、いつとなしに猥りになり
 39年前に再び御訴訟いたしましたところ
 きつくご法度である旨仰せ付けられました
 下り荷物について名古屋の馬は勝川へ
 上り荷物について大井宿の馬は釜戸へ
 付け出し禁止をしましたので

本海道通り申候所ニ近年ハ信濃より出申商人荷物
其村々ニて商人相對ニて馬方ニ荷物相渡し
御當地迄釜戸筋を付通参り
其帰り馬ニ御當地問屋問屋ニて商人荷物請取
自分荷物と上下偽り罷通申候間
たとへ手前荷物ニて御座候共
御當地やとやと大井宿へ被為仰付
本海道筋御通し被下候ヘハ
偽り通り申者御座有間敷と奉存候
付通し馬本海道通り申候ても
少しまわりニて御座候ヘハ
餘り痛ニも成申間敷と奉存候事

 本海道を通るようになりましたが
 最近は信濃より出る商人荷物は
 その村々(大井)で商人相対で馬方に荷物を渡し
 御当地(名古屋)まで釜戸筋を付け通しし
 その帰り馬に名古屋の問屋で商人荷物を請け取り
 自分荷物と偽って通行しています
 たとえ手前荷物であっても
 名古屋宿大井宿へ仰せ付けられ
 本海道筋を通行せよと云いつけられれば
 偽り通るものは無いと思います
 付け通しの馬が本海道を通行しても
 ほんの少しの遠廻りになるだけであり
 あまり痛みを感じることはないと思います

一釜戸筋へり道へ木曽宿々の馬共商荷物付通し
宿々ニハ馬少ならてハ居不申候
自然参候荷物も宿々ニ逗留迷惑仕候由及承候
依之伊奈筋方々へり道仕
中仙道ヘハ駄賃荷物一圓通り不申
木曽馬共付通不申様ニ被為仰付可被下候御事

 一釜戸筋ヘリ道へ木曽馬どもが商荷を付け通しにするのは
  本海道の宿々に継ぎ馬が少ないため
  自然と荷物継ぎ送りが滞り迷惑していると聞いています
  よって伊奈筋などへヘリ道をし
  中山道へ駄賃荷物が通らなくなっています
  木曽馬どもに対し伊奈筋の利用を停止するように
  仰せ付けられますようお願いします

一近年ハ御傳馬并御用の御次飛脚大分かさミ
少宛もたそくニ罷成候商人荷物ハ方々へへり道仕候
弥々宿々草臥、御役馬過半つぶれ、御役難勤迷惑ニ奉存候

 一最近は御傳馬や御用の御次ぎ飛脚(いずれも無賃継立)が
  多くなっております
  宿経営の足しにしている商人荷物通行が
  他筋へヘリ道しているため
  いよいよ宿駅のやり繰りに困窮しております
  伝馬用の馬飼育管理にも難渋し
  御役勤めに差し支えております

承候ヘハ江戸御領宿々ハ不及申ニ
加納松本領何れの御領分宿々の御役馬持ニハ
毎年金子被下御役相勤申候由及承候
尤大湫細湫両宿の儀ハ
年々御救金被為下置候ニ付御役相勤申候御事
右の趣被為聞召分被為仰付被下候ハヽ有難可奉存候。以上
 元禄弐年巳ノ二月十九日
     小牧宿問屋  善左衛門
     善師野宿問屋 喜平次
     土田宿問屋  長兵衛
     同宿問屋   徳兵衛
     伏見宿問屋  市右衛門
     同宿問屋   与次右衛門
     御嵩宿問屋  茂兵衛
     同宿問屋   七郎右衛門
     細湫宿問屋  十郎左衛門
     同宿問屋   孫兵衛
     大湫宿問屋  傳右衛門
     同宿問屋   市左衛門
     大井宿問屋  甚右衛門
     同宿問屋   弥三右衛門
御奉行様

  聞くところによると江戸御領の宿々(東海道など)は
  申すに及ばず
  加納領や松本領などの宿々の御役馬持ちには
  毎年助成金が出ていると聞いております
  もっとも大湫宿細久手宿は毎年御救金を頂いてはいます
 (大湫宿は宿高109石余、細久手宿は無高、自前での維持が困難なため)
  以上申し上げました通りです
  何とかお聞き届け下さるようお願いします
   元禄2年2月19日
      小牧宿問屋 善左衛門以下14名連署
  御奉行様

釜戸海道御留 名古屋熱田へ被仰付

2011-10-01 20:15:40 | 講座(古文書)
「釜戸海道商人荷物御留」の三回目



この文書でいう本海道は名古屋から大井宿までの
(訴訟を起こした)小牧・善師野・土田・伏見・御嵩・細久手・大湫の
7ヶ宿が関係する木曽街道(小牧街道)及び中仙道をいう
本海道7ヶ宿は尾州藩が支配していた
しかももっと先の木曽福島まで各宿すべて尾張藩領である
木曽福島関所は幕府直轄で関守は山村甚兵衛だが
彼は尾張藩付家老でもある(木曽山も山村甚兵衛が管理する尾張藩領)
木曽筋の商荷は他領を通ることなく名古屋へ通じることができた
甚兵衛もその家臣も名古屋へ往還する機会は多い
その彼等が他領の釜戸筋(下街道)を通行した
本海道通行よりおよそ4里ほども近いからだ しかもナルい
商荷がヘリ道をするのは当然といえば当然である
ところがこの釜戸海道 商人荷物御留となるのである

名古屋藩奉行所から出された釜戸筋通行禁止令は
ザル法もザル法、抜け穴だらけだった




     被仰付の覚
一名古屋より木曽商人荷物釜戸筋を通り申候事
 先規より御留被成候ニ付
 今度御訴詔仕候通名古屋熱田へ被仰付
 先規のことく御留被成候事
一名古屋より木曽へ手間ニて自分の商物付参
 其帰馬ニ又商物を付名古屋へ参候事
 上下共ニ不苦候事
一商人荷物付通しに仕候事
 東海道中仙道も改申由申上候
 其通り候は跡々のことく
 宿々の應ニ自分ニ改申儀ハ無御構候
一名古屋より伊奈筋へ参候商人荷物
 前々より御留不被成候ニ付
 今度新規ニ御留不被成候事
  慶安四年     小牧問屋
   卯の正月廿三日    善左衛門
           善師野問屋
              傳三郎
              喜平次
           土田問屋
              長兵へ
              佐左衛門
           伏見問屋
              市右衛門
              次兵へ
           御嵩問屋
              源十郎
              武右衛門
           細湫問屋
              十郎左衛門
              太郎兵衛
           大湫問屋
              市兵へ
              源兵へ
           大井問屋
              権左衛門
              甚左衛門

 寛永元年に引き続き慶安4年再度尾張藩奉行所から
 釜戸筋通行停止を仰せ付けられた その覚え書きは
 一名古屋より木曽行き商人荷物は
  釜戸筋を通ること罷りならんと仰せ渡されている
  この事は寛永元年以来通行禁止である 
  この度本海道筋宿々から再度お訴えして 
  奉行所から名古屋、熱田の問屋え
  釜戸筋通行禁止が仰せ出された
 一名古屋より木曽え手馬で自分の商い物
  また、その帰りに商い物を名古屋え
  上り下りともよろしい
 一商人荷物の付け通しについても、東海道は勿論
  中仙道も宿継ぎが通常です
  が、例外的に自分改めでよろしい
 一名古屋より伊奈筋行きの商人荷物は
  前々よりお留めなされていないので
  今回も前回同様通行の御留めはありません
   慶安4年1月23日 小牧問屋 善左衛門
             善師野問屋傳三郎
                  喜平次
             土田問屋 長兵へ
                  佐左衛門
             伏見問屋 市右衛門
                  次兵へ
             御嵩問屋 源十郎
                  武右衛門
             細湫問屋 十郎左衛門
                  太郎兵衛
             大湫問屋 市兵へ
                  源兵へ
             大井問屋 権左衛門
                  甚左衛門

この「被仰付の覚」をもう少し詳しく説明すると
第1項では
名古屋から木曽行きの
木曽筋の馬方が運ぶ荷物は釜戸筋通行禁止である
にも拘らずいつの間にか最近は通行が多くなってきたため
名古屋宿、熱田宿へ対し釜戸筋への
通行禁止を徹底するよう仰せ出された
第2項では
下街道筋の馬方が自分荷物(1疋1駄限り)として
木曽へ、あるいはその帰り荷を運ぶことは許可する
第3項では
木曽筋の馬方(に限らない)が本海道を通行するのは
宿継ぎ(荷物の付け替え、駄賃銭が必要)が通常の手続きだが
付け通し(荷物の付け替えはしない)を認めるかわり刎銭を払うこと
第4項では
品野(瀬戸)~柿野(土岐)~明知(恵那)~平谷(伊奈筋)への通行は
今回も従来通り(自由)通行を認めるというものである
この街道は中馬街道といい、中仙道から離れたところを通っている
信州筋の商荷が下街道を留められたことにより
中馬街道の商荷通行が益々増えることなった

殿様御意ニて被仰付候
 尾州御郡奉行
  今村次郎兵衛殿ニて
  松浦弾右衛門殿御両人被仰渡候
  御口上の趣承候跡書
卯の正月廿一日の御寄合
渡部右馬丞様ニて相済申候

 尾張藩主の御意を仰せつけられました
 尾張藩郡奉行今村次郎兵衛殿から
 松浦弾右衛門殿同席で
 仰せ渡されの口上の趣きを承った跡書
 慶安4年1月21日に御寄合渡部右馬丞様から頂いています