古文書を読んで感じたこと

遠い時代の肉声

箱館焼  陶祖岩次

2010-03-24 21:44:16 | 講座(古文書)
釜戸村(現瑞浪市)の岩次が
開港したばかりの箱館で
陶器焼立を願い出た

箱館奉行所(箱館会所)は
蝦夷地国産勧業策の一つとして
国外から人気の高い
陶器に目をつけていた

これに手を挙げたのが岩次だ
とは言っても陶器焼立は
どこでもできるわけではない
箱館奉行所の期待に添うべく
精力的に現地視察をすすめた
安政四年のことである

陶器焼立についての
最低条件は
原料となる土
燃料の松薪
動力源の水
生活環境の職場
竃場としての立地
である

現地視察を終えた彼は
何とかクリアーできそうな
条件はあったが
思いのほかの困難が伴うと
感じていた

現地調達はむつかしいゴスなどは
まず長崎から調達すること
損失が考えられるので
美濃産の陶器を送って
箱館で絵付けなどして
完成品を箱館焼として売りたい
などいくつかの歎願をした

岩次はもちろん陶工である
と同時に商人でもあった
この願書によると
陶器生産のほかに
全く別の考えを持っていた

不動産収益を狙って
亀田に二町四面の土地
(約六千坪)
の拝借を併願している
亀田は
御陣屋や異国屋敷が計画され
将来この地は必ず発展する
ここに貸長家を建てて
そこから利益を得たい
と書いている

続いて経営方針や
当面の創業費見積りまで
書き上げている

箱館での窯場建設のために
窯職人 18名
大工棟梁 7名
黒鍬  20名
合計45名の大陣容を率いて
取り掛かるのである

それでは原文を読んでみよう





此度於箱舘表ニ
陶器類試焼仕度旨
於江戸表同所御懸り御奉行様ぇ
奉出願候 
御聞済被成
依之箱舘表ぇ罷越
萬端御差図請
彼地ニおゐて土石見立
其次第ニ寄
箱舘御役所ぇ出願可仕旨被仰渡
則新藤鉊蔵様(箱館御奉行)
河津三郎太郎様(箱館御組頭)
御両所より御添翰頂戴仕
去ル六月十二日出足仕
八月廿八日箱舘表ぇ着仕候て
同所御奉行所力石勝次郎様等ぇ
御添翰差上候処
御産物御懸り栗原十兵衛様ぇ
御目通り被仰付
種々御咄し有之
私義召出候義は
其以前河津三郎太郎様より
被仰渡有之候ニ付
延着致し候間
御待兼の様子ニて
とても年内の取懸りニは
相成間敷哉ニ被思召
其以前
奥州仙臺御藩中
楽焼師野口徳三郎
中野建蔵・成之助
右三人の者被呼寄
新製陶器焼出し方被仰付
右衆中御請負申上
字ヤチカシラ
ト申所ニ竃場見立
明後日より地形ニ取懸り
可申由の処ぇ
私召出候付
先右場所見分候様被仰聞
翌日栗原十兵衛様御一同
右ヤチガシラと申所ぇ罷越
篤と見受候処
水都合等万端場所柄
申分無之所ニ御座候
然ル処陶器焼出し候ニは
松薪無之候ては出来不申
右松薪は何れより仕込候積りの段
御伺申上候処
其儀は一向手當無之旨ニ被仰聞
何共合点不参
陶器焼候ニは
第一土見立方
第二松薪引合
第三車屋水都合
第四職場見立
第五竃場見立
右五ヶ条ヲ以勘考仕候義
兼て相心得罷在候
然ルニ右奥州の仁
見立第五番目の
竃場ヲ壱番ニ被見立候段
難心得旨申上
其外陶器新規竃築候一条
種々申上候処
何れニも又々夕方
栗原様御屋敷ぇ
罷出候様ニと被仰聞候間
則罷出 申上候は
篤と相考候處
仙臺様御藩中より被召出
思召立候ヲ
彼是私より察度申上候ては不宜
今日申上候義は御取消ニ
被成下置候様ニ申上候処
聊不苦
存付候義ハ不包申聞候様ニ
御懇ニ被仰聞候間
依之私申上候は
右三人の衆中ハ
陶器職人召仕ひ候仁とハ不被存
陶器焼出し方ニおゐてハ
心得方薄キ段等種々申上
彼是口上ニて申上候ては
難相分候間
陶器焼出し御仕法
一々書面ニて可奉申上候間
仙臺の御方々よりも
仕法書御取可被遊様申上
則別紙の通書上申候
且又私より六ヶ条の願書差上
是又別紙の通
写入御覧申候
然ル処堀織部正様
其節ヱゾ御廻嶋中ニ付
九月廿日頃ニは御帰舘相成候ニ付
夫迄の處土石見立方被仰付
彼地所々廻村仕見立候処
陶器ニ相用ひ候土
七八分通りは間ニ合可申候得共
上ハ薬迄は不行届候得共
追々ニ見立
箱舘地ニて間合候様心掛可申候
先暫の内
上ハ薬は国元より
差送り可申候積りニ御座候
扨日数十五日程
所々見立ニ取懸り候処
堀織部正様御帰り被遊候処
松平誠之助様(岩村藩主)ぇは御続柄ニ付
別て御引立被下置候思召ニ承り申候
前顕六ヶ条願面の内
三ヶ条御聞済ニ相成候趣
左の通
一御當地ニおゐて
 相用候ゴス薬の義
 捜索行届候迄ハ
 長崎表より直ニ御取寄方
 奉願上候
一陶器の外
 国産の諸品買取積送り
 御當地ニおゐて賣捌方
 仕度奉願上候
一御當地おゐて
 右諸品賣捌候場所
 壱ヶ所拝借被仰付候様
 仕度奉願上候
  但右亀田と申所ニ
  此度御陣屋并異国屋敷
  三千坪御貸地ニ相成候間
  何れ亀田は繁昌可仕候間
  同所ニおゐて
  弐町四面拝借仕
  貸長屋建候ハヽ
  往々益筋ニ相成可申候間
  此段も内願申上置候事
右三ヶ条は願の通御聞済被仰付候得共
第一笠松御支配所村々ニて
焼立候陶器
江戸表御産物御会所ぇ
送り込箱舘御用品
残りは江戸表おゐて
賣捌候一件
御聞済無之候ては
今般新規築立候竃方
初発試の内
彼是損分仕埋不行届候由
心配仕候間
一先帰国の上本人ぇ申談
御請可奉申上旨ニ申上候処
猶又篤と勘弁仕見候様
御懇ニ被仰聞候間
然は公義手竃ニ被成下置候ハヽ
永續可仕候得共
中々以自竃ニては
初発の費
遠路往来等都ての損分
仕埋不行届候段申上候処
尤ニ被思召
元来箱舘御開発ニ付ては
慾心ニ致し眼前利潤ニ心掛
帰国可致所存ニては
御趣意ニ不相當
今般の新規築立候竃ニ付
初発試中費
又は無據筋ニて損分相立候義は
公義ニて御取賄ひ可有之候間
其儀は心配致ス間敷旨被仰聞候
尤所竃初発取懸りより
夫々極り附ケ相續方相見ぇ候上は
其方共引受御冥加差上
竃方取續可申哉の段被仰聞
且焼立候品は御買上ニ相成可申旨
等御尋御座候間
益筋相見ぇ候様相成候ハヽ
何分私共引受永續可仕旨
難有御請奉申上候
左候ハヽ職人給金
道中雑費諸道具等調へ候
御見届ケ并私共身元御見届として
御役人様御壱人濃州迄
御出張被遊候様仕度段申上候処
夫迄ニは及ひ不申
且無人ニ付
役人共差遣候義は不行届
元来手竃の願ニ付
拝借等申付候ニは
地頭所御問合等彼是手間取
来午年取懸り候ニ
間ニ合兼候哉ニ被存候間
職人共入用
先此度は其方ニて取賄
箱舘ぇ入込候上ニて
金子は何程ニても入用丈ケ
御下ケ金可有之候
其節公義御手竃の訳ニ
可申付旨被仰渡候
一箱舘は寒国ニ付
 冬十一月より春二月迄ハ
 竃方職人焼立方出来不申
 冬中帰国候義は
 遠路往来雑費相懸り
 迷惑及ひ候ニ付
 右四ヶ月の内職人稼立
 濃州土岐郡市ノ倉村ニて
 焼出候薄手物類取寄
 冬中焼付方仕候ハヽ
 職人稼出来可申候間
 此段等追々可奉願上候間
 御聞済被下置候様申上候処
 箱舘竃相續方の申立ニ候ハヽ
 可被仰付旨被仰聞
 栗原様御含ニ相成申候
一御船印御用灯燈の義奉願上候処
 御領主ぇ御打合せ無之候上は
 不被仰付候
一此度人足召上方
 當時手當金左の通
 竃方職人拾五人
   内訳
  上職人五人・絵書三人 〆八人
   壱人一日ニ付銀五匁五分
  中職人七人
   壱人一日ニ付銀四匁五分
 右の給金壱ヶ年分
一金弐百五拾九両弐分 六匁
  但壱人一ヶ年三拾弐両壱分弐朱 四匁五分
   八人分
一金百八拾五両三分 六匁
  但七人分
  壱ヶ年の給金
二口〆
 金四百四拾五両壱分 拾弐匁
    内
 金百五拾両
  右三分一當金渡し
一金百両
  石粉諸道具夜具等迄
  入用大積り
一金百五拾両
  職人拾五人
  其外懸りの者五人
  道中諸入用支度金等
  凡大積り
三口
〆金四百両
右は箱館ぇ着の上
御下ケ金を以
御返納可仕候事

當冬仕入度分左の通
一陶器荷物 釜戸村分
  代金百両
一同断   妻木村分
  代金弐百両

一諸荷物送り候荷札
  箱舘御産物會所  為治
  福嶋屋過七殿   岩治
 (この項短冊型四角線引内に記入)

右の外大工黒鍬等は
江戸表ニて伺の上
雇立差遣し可申候事

右の通御尋ニ付
荒増奉申上候
猶書余ハ御尋ニ随ひ
一々可申上候
以上
丁巳十二月      為治
             岩治 



なお為治については
あまりにも史料が不足するので
ここでは割愛するが
岩次は様々な悪条件に
立ち向かいながらも頑張った
結局資金繰りも続かず
やむなく撤退することになるが
それでも確かな足跡を残した

箱館焼の陶祖として
箱館では十分すぎるほど
顕彰をされている

尉殿堤

2010-03-13 17:20:17 | 講座(古文書)
黒野藩というのがあった
短期間で廃藩となったので
あまり知られていない
その原因はジャジャ馬亀姫の讒言


藩主加藤貞泰は
甲斐府中(甲府)
城主加藤光泰の息子で
文禄四(1595)年
黒野に封じられる
(加藤氏の出自は多芸郡橋爪村という)

父光泰は
甲斐府中二十四万石の
大藩領主だったが
永禄の役に出陣し
帰国の途路に急死する
家督を継ぐべき貞泰は
時に若干十四才
幼少で要所を治めるには
ちと荷が重すぎるとして
甲斐府中は公収され
改めて美濃黒野に
四万石を与えられた
事実上は減禄移封であった

そんな貞泰だが 
実は文武両道に
秀でた器量人だった
黒野城の築城
城下町の建設
楽市制度の導入
家老制度の整備
黒野別院の建設
などを行って藩政の基礎を固め
民政でも五年間の免税を行うなど
領民や家臣からの信頼も厚かった

領地は方県郡厚見郡内(現在岐阜市内)
低地で常に水害と旱魃に悩まされ続けた
長良川は大河である
平常は雄総あたりで金華山に当たり
やや北寄りに向きを変え西流
やがて南流し伊勢湾えそそぐ
この川度々水があふれたが
洪水は地形的にこの付近から始まる

切れ者の貞泰は
洪水に苦しむ領民のため
築堤に着手した
ところがこの好政策は
利益相反の加納藩の知るところとなり
計画の半分ほどで中断されるのである

濃尾平野は全体的に
南側が低い
築提は当然黒野側
(長良川右岸)である
南(左岸)は加納藩であり
尾張藩領の岐阜町
貞泰が築こうとした堤防は
南側の堤防より高いと
加納藩主(奥平信昌)の
反感をかってしまった
出てきましたぞ亀姫が…
云わずと知れた信昌の正室だ
家康の娘で後の盛徳院様
加納城が浸水したのは
あの堤防のせいだ
貞泰を何とかしてくれ
と家康に進言したからたまらない
貞泰は敢えなくも
米子へと飛ばされていくのである

かくて黒野城は
貞泰の改易と同時に
廃城の運命をたどることとなった

貞泰は官名を左衛門尉と云い
(加藤左衛門尉貞泰)
郷民は貞泰を称え
尉殿堤(最初に書くべきだったが
「じょうどののつつみ」と読むのだよ)
と呼んで大切にした
以後その普請に住民が
関わるのである





今や忘れ去られようとしている
尉殿堤だが
ある人の所有古文書中に
尉殿堤という字が目にとまった
大変珍しいと思ったので
読ませてもらった
その内のいくつかを紹介する




資料1は
尉殿堤切所普請を請け負った
則武村庄屋高橋平兵衛から
出された廻章である
多人数の人足賃入用が
多分に掛るとして
内借のお願いである
触れ当てには下土居村を始め
十六ヶ村(内相給三ヶ村)が
書き上げられており
それらが尉殿堤の
益村であることがわかる



(資料1)
  廻章     則武村
廻分をもって啓上仕り候
秋冷の節に御座候処
いよいよ各様方
ますます御清福に
御勤役御座なされ賀上奉り候
しかれば過日御苦労
下し置かれ候尉殿堤切れ所御普請
当月十六日より取りかかりおり候処
多人数ゆえ
日々賃銀多分の入用ゆえ
そのみぎり御内借
御願い申し上げ置き候分
左ニ

一金五両弐分    下土居村
  廿一日御代人へ御渡し申し上げ候(書き加え)
一金壱両弐分    下城田寺村
  右同断(書き加え) 御料
一金七両      同村御私領

一金七両      上城田寺村

一金拾両      交人村
  廿一日御代人ぇ相渡し申し候(書き加え)
一金四両弐分    今川村

一金七両      古市場村
  廿一日御代人ぇ相渡し申し候(書き加え)
一金五両      折立村
  廿一日御代人ぇ相渡し申し候(書き加え)
一金四両      三ツ又村
  廿一日御代人ぇ相渡し申し候(書き加え)
一金七両弐分    黒野村
  廿一日御代人ぇ相渡し申し候(書き加え)
一金六両      木田村
  廿二日御差出拙家ニて請取申し上げ候(書き加え)
一金八両弐分    正木村
  廿一日御代人ぇ相渡し申し候(書き加え)
一金弐分      同村尾領
  右同断(書き加え)
一金弐両弐分    鷺山村御料

一金四両      同村尾領
  内金弐両九月廿二日受取(書き加え)
一金六両      則武村


右の通りおよそ高当て割賦仕り候間
何卒此のものへ御渡し下され候様仕りたく
廻文をもってこの段申し上げたく
早々かくのごとくに御座候。以上
       尉殿堤請負人
          則武村
  九月廿日      平兵衛㊞

川嶋勘右衛門様
鷲見助左衛門様
市橋佐与八様
河田別之進様
脇田清市様
國嶋助太郎様
佐藤治吉様
神山茂左衛門様
坂口太八郎様
伊藤利左衛門様
山田豊右衛門様
山田万三郎様
北川陸左衛門様
(この文書はふすまの裏張りであり
続き部分があると思われるが欠けている)



普請場所(工事担当区域)は
くじ引きで決めているようである
下城田寺村の者は
割り当て普請場を実際に見て
十七両ばかりではとても
できそうにない
ほか村で出来るものなら
お願いして見て と
いやみタラタラの手紙である


(資料2)

(端裏書)
則武村     上城田寺村
高橋平兵衛様    左与八
    尊下

文略ご免下さるべく候
先達て
ご苦労成し下され候尉殿堤築立て方
拙村ぇくじ当り候分
金高十七両ばかり候趣に承り
村人ども 右申し聞き
一昨日 八九人も見様土持ちに
まかり出候処
金十七両くらいにては
とても行き届かざる趣
申し懸り候間
右金高にて出来仕り候はば
ほか御村方にて
御引き合い下さるべきよう
願い上げ奉り候
まずは右貴意を得たき迄
かくのごとくにござ候
       早々以上
 二月廿八日   





黒野村でも
普請金の見積もりが
腹へ入りかねたのか
次のような問い合わせをしている


(資料3)

(端裏書)
尉殿堤     黒野村
御惣代衆中様   役人共
    貴下

   口伸
前略 しかれば尉殿堤ご普請金
何程かお貸し下され候よし
人足ども申し参り候間
この段よろしくお願い申し上げ候
さて ご面倒ながら諸色お積り書ならびに
何程貸し渡し下され候書き付けとも
この人足へお渡し下さるべきよう
お願い申し上げ候
まずは右お願いまでにござ候
           早々頓首
 二月廿日




今川村庄屋記七からは
普請場割のくじは引いたが
人足は出せない
(村も小さいし普請場も遠い)
このことは手紙で了解してもらっている
当初に決めた代金は出すが
人足賃は惣代方で立て替え払いを
お願いしたい
いずれ惣高の精算があるだろうから
それまでは惣代方(尉殿堤請負方)
で代払いしてくれ


(資料4)

(端裏書)
御庄屋     庄屋
高橋平兵衛様   河合記七

文略 
しかれば昨日尉殿堤普請金の義につき  
お願い申し上げ候処
当村の義人足相対にて
引き合い詰めいたし候ゆえ
相談に得相なり申さざるよし仰せ聞き
右堤間数割の節
くじ引きは仕り候らえども
村方人足は得出申さざるゆえ
すぐさま貴君様へ文通にて
お請け負い下され候よし
お頼み申し上げ置き候処
それぞれ貴所様より
人足請け負いに遣わし成され
今さら昨日の振り合いに
ご相談下されずば
迷惑に存じ奉り候
左候らえば
始め村方引き受け分
坪数五十一坪三合五勺だけ
代金勘定いたし
人足衆へ相渡し申し上げ候
賃金の義は跡相談に相成り候間
御目論見に相成り
右賃銀だけは惣代衆にて
お立て替えお渡し下さるべく候
いずれ近々の内
清勘定あるべくと存じ奉り候間
それまでの処お取り替え
お渡し下さるべきよう願いあげ奉り候
右申し上げたく
かくのごとく御意を得べく候 
          早々頓首
 二月十九日
尚々小高の村方 間数割にては
迷惑に存じ奉り候 
左様ご承知下さるべく候




以上わずか数点であるが
尉殿堤切所普請には
いろいろ問題はあったようだ
それでも
めでたく清勘定の日が来る


(資料5)
以廻文致啓上候
甚暑の砌にござ候処
各様ますます御壮栄に
御勤役ござ成さるべく
賀上奉り候
しかれば
尉殿堤御普請の義
出来仕り候につき
右割賦致したく
なにとぞ来たる廿六日
ぎふ松半へ
ご苦労ながら
早朝よりご出張の程
ひとえに願い上げ奉り候
まずは右貴意を得たく
かくのごとくにござ候
 六月廿三日出す
    鷺山村
      陸左衛門
    同村兼帯三ツ又
      茂左衛門
    則武村
      平兵衛

下土居村
(以下欠)




尉殿堤遺跡は
現在の伊奈波中学の北あたりに
わずかにその跡を残している


蛇足だが
黒野城主加藤貞泰は米子から
四国大洲藩初代藩主となり
加藤氏治世は明治維新まで続く


塩硝代は米でください

2010-03-06 12:27:53 | 講座(古文書)
コジコジ なんだソレ
辞書を引いても出てこないから方言だろう
あまり見かけないので
絶滅危惧種に認定されているかも知れない
アリジゴク(蟻地獄)
アヽアレかと思いだしていただけたかな?
そのコジコジの住み家は軒下である
長年雨にあたらず
カラカラに乾いた土と
ほこりの入り混じった砂場に
すり鉢状の小さな穴を作って
獲物をひたすら待っていた
カクレンボ遊びで 
縁の下にもぐり込んだりしてよく叱られたが 
所作なくコジコジの穴をながめたことが
昨日の出来事のようによみがえる

古き山家の縁の下には必ず焔硝あり
(陽精顕秘訣)と古文書にも出てくる 

古い家の縁の下にもぐって
ほこりをかぶった
白い結晶をあつめ
これを炭火にくべて
パッパッと美しい火花を
出す遊びがあった
年上の友達が教えてくれる遊びで
大人に見つかると
小便塩だからきたない よせよせ
と叱られた
(美濃民俗358号三輪茂雄氏投稿文
「本願寺側から見た織田信長」)

世界遺産白川郷
合掌造住宅の縁の下は
こんな条件にあった 

焔硝製造といえば和田家
というほど有名だが
残された古文書も膨大で
中でも焔硝にかかわる文書はすごい
製造関係はかなり紹介されているので
今回は
加州金沢藩(壮猶館)への
販売代金を米塩でお渡しをとの
歎願を読ませてもらった





飛州大野郡白川郷中の義は
米塩出来上り不申
食用の義は
稗 粟 栗の実等ヲ
重々食物ニ仕候ヶ所ニ
御座候ニ付
往古より米塩は
御當国出来の米塩奉願上
年々各様ぇ御引請御願被下候処
御聞届被為仰付
難有御義ニ奉存候て
稼方取續来申候義ニ御座候
右塩米の義ニ付
郷中難義ニ及不申様
近来御仕法被成下
潤益の御恵被成下
奉仰御恩澤一統難有
冥加至極ニ奉存候
就てハ何ソ御用立申品も
無御座哉と奉存候得共
心當の品も無御座候ニ付
白川郷中ニおゐて
往古より塩硝製造仕候処
是迄當境ぇ入津不仕候得共
御国用ニ相立申御義ニ御座候ハヽ
直段の義ハ如何様成共
被為仰渡通り相心得
可申御義ニ御座候間
御買上被為成下候ハヽ
年々五拾箇宛御用立申度段
先達て御願申上候処
先々御引受御達被下候上
お聞届被為仰付
難有仕合ニ奉存候
一昨年初て奉指上候処
私共惣代の者壱人
壮猶館へ御呼出御改
御請取御座候て
代金も御渡被為成下候御義ニ御座候
依て當年の義は
六月中ニ奉指上度
右五拾箇上納済仕候は
代銀も被為仰付候御義ニ御座候処
白川郷中の義ハ
米塩出来不申ヶ所ニ御座候故
往古より米塩御願申上
當年も塩六百俵
米五百石御聞届被為仰付
村々人々ぇ配當仕候処
纔ならて當年の追願等仕候得共
何レ出来上り不申事故行渡兼
難義仕候義ニ御座候
依之重々御歎願の上奉申上義は
恐多御義ニ奉存候得共
右塩硝代年々御渡銀高
何卒御米を以
被為仰付被下候様奉願上候
右様奉願上候義ハ誠以
奉恐入申御義ニ御座候へ共
米出来乏敷ヶ所の義ニ御座候ニ付
右塩硝代銀御米ニて御渡
被為仰付被下候ハヽ
郷中稼方も全取續
冥加至極ニ奉存候間
何卒願の趣被聞召上
各様へ御引受御願被成下候様
偏ニ御願申上
為其乍憚書付を以申上候 以上
 文久二年四月
     飛州白川郷塩硝方
      惣代 椿原村
           四郎兵衛
      同  荻町村
          弥右衛門
      同  御母衣村
           伊助




なお運送ルートは
飛州は小白川口御番所
越中は赤尾口御番所を通り
城端~今石動~竹の橋~津幡
を経由して
金沢柿木畠の壮猶館へ
運ばれた

坂下村の捨て子

2010-03-02 23:46:15 | 講座(古文書)
坂下のお祭りは「夜明け前」でも
取り上げられているほど
この地方では有名な祭りである
初平の家内が
その祭りも終わって
さあ寝ようとしたところ
のき先へ捨て子がある
テンヤワンヤの大騒ぎが始まるが
それなりの理由があった
初平夫婦に二人の子供があったが
つい最近はやり病で亡くす
貧乏暮らしではあったが
子供がいなくなったことで
一度にさみしくなってしまう
冗談で
捨て子でもあればいいがなー
と家内の者がアチコチで
話をしている所への
捨て子であった




         坂下村町組
           初平 申口
私義は八月十五日より
村役につき
役所へ詰め居り候処
翌十六日の朝
親七右衛門より
用事御座候と申し遣し候間
宿元へ帰り候らえば
親ども申候には
昨日祭り済み候て帰り居り
五ツ半頃に寝候間もなく
小児の泣き声いたすにつき
ふと目を明き
「ハテふしんや」と存じ候て
聞き候らえば
表の方にて小児の泣き声がする
寝いらぬように思い候が 
トロトロとしたそうな
「おたに 起きさつせ」
と申しながら戸を明け 
表へ出て見候らえば
小児寝てある
「これはどうゆふ者や 
誰ぞ連れ来て置いたと見え候らえども 
いかがなることや」
と申す内 つづいて
嫁のたにも出 両人にて
「これはどういふことじゃ 
ヤレヤレ オウオウ 
むごいことしてある
おうおう コリや男の子じゃ 
誰が捨てづら」
等と申す内
隣家の馬吉さも
「何に 子が捨ててあるぇ」
と申し来たりて下され候
「これはまあ どうしてよかろうやら
私どもの不仕合せのことを知って
捨てたと見えるが
どうも拾い上げることも得せぬ」
と申しながら
もしや近所に捨て人もかくれ居り候半
とも存じつき 
道へ出 上ミ下モ見候らえども 
見当たり申さず
馬吉さも家廻り 
道下タを見て下され候らえども 
両人ともに見当たり申さず
と申され候
妻たに義
子のそばに居り候よう申し候
親父申すに
「子は泣く これはどうしよう 
うちには乳はなし 
こうして置こうか」
と拾い上げ候ことも得致さず
「いかが致し候てよかろう」
と申し候らえば
馬吉どの申され候には
「このまま朝まで置き候はば 
泣き死にも計りがたい 
いずれ貴様方のやつかい者じやと見える
何事も明日の事にして 
今夜には善光寺参りの子を泊めたと思い 
うちに入れ泊めてはどうじやぇ
乳は我等方にあるで
今夜は進ぜ候らわん
連れ来て呑ませさつせ」
と申し下され候につき
「なるほど さようにも
致すで御座ろう」と申し
「おたに 抱き上げさつせ」
と申し付け
馬吉どの方へ遣わし
乳を貰い呉れ候て
おたに抱き帰り
寝させ申し候
其方は役所より帰らず
使いにやる者もこれなく
昨夜は申し遣わずと
申され候

私より親父に問い候には
「子はいかようにして御座候や」
と尋ね候らえば
親父申され候は
「雨落ちより内に
戸口の方へ頭を向け寝させ 
ひとえ物を敷き 枕にさせ 
袷を着せ候躰にて寝させ
御座候様に見え申し候」
と申され候
私申すに
「何んぞ書きつけでも添えては
御座なく候や」
と尋ね候らえば
「何んにも外に添えてはこれなく 
菓子の鉈豆三本 
しぶ紙に包み添えてあった」
と申され候
衣類などの儀は
と見候らえば
左の通り御座候

一茶嶋竪嶌のあわせ 壱枚
一浅ぎ白ごばん嶋ひとえ物 壱枚
一浅き竪嶌ひとえ物 壱枚
  但し袖はあわせと同嶋にて
一浅きしぼりのじばん 壱枚
  但し袖はべにしぼりにて

右の品ばかり御座候て
外に添えては御座なく候
と申され候
私申すに
「これはいか様にして宜しかろう」
と相談申し候らえば
親父申され候には
「乳はなし
育てることもむつかしかろうぞや」
と申され候
妻たに申すに
「乳も御座なく候らえば
もしも煩い候節
もらい乳などでは
そだて上げ候事も
おぼつかなし」と申し候
私も左様に存じ当惑仕り候
五人組頭和蔵どのを頼み
まずまず役所へ内々にて
届けもらい候様存じつき
頼み申し候

隣家馬吉どの方へ参り
「昨夜は私留主に
捨て子御座候て
なにかとお世話に
相成り候」と礼申し居り候処へ
五人組頭和蔵どの
役所より帰られ
私へ申され候は
捨て子の衣類の儀
お尋ねにつき
私も役所へ参るように
申され候につき
両人参り候らえば
捨て子の始末お尋ねにつき
衣類の儀まで申し上げ候処
養育の儀手厚にいたし候様
仰せ付けられ候段
畏まり入り候
私難渋の次第お話いたし候
「盆前不仕合わせの後は
妻乳も一向出申さず
ご存じの通り困窮者に御座候間
この上乳呑み子を拾い上げ
迷惑におよび候
母儀は不仕合わせ頃より
病身に相なり
今において薬など煎じ進め候ようの
ことに御座候て
無人に御座候間
まことに難渋いたし候らえども
仰せ渡され候通り
何分養育仕るべく
相なるべき義に御座候はば
捨て主知れ候儀も出来候節は
何分よろしくお取りはかりの儀
お頼み申し上げ候

私不仕合わせの後
両親どもさびしく存じられ
親類の内にて
子供壱人もらいたく申され
困窮ゆえ表立ち
もらい候ことも出来がたく
捨て呉れ候者もこれあり候はば
拾いもらいたし 
などと申すようなる事
近所心安き衆や
親どもに話候ように
承り候につき
私 合郷組宇七と申す
親類の方に
子供大勢御座候につき
どれぞ壱人下されまいか
我等方は困窮ゆえ
捨てる心得にて下されまじきや
拾いもらいたし
などと申し内談いたし置き候

八月上旬頃
七歳に相なり候男子
宇吉方より連れ参りくれ候えば
両親よろこび
寵愛いたされ候らえども
その子は母親をしたい
帰りたく申すにつき
ふびんに存じ預け置き候
その節に宇七申し呉れ候には
この子の下を遣わし候様にも
申し呉れ候らえども
私もよくに存じ
右の子の兄を貰うはずに
内談致し置き候らえば

右につき
乳呑み子望みにては御座なき候や
捨て主も知れ候はば
親元へ戻したく存じ候て
親類どもへ申し置き候には
手掛かり知れ候はば
内々私方へお聞かせ下され候ように
頼み置き帰り申し候て
家内の者に養育仰せ付けられ候通り
申し聞かせ候て
その日私宿に居り申し候て
翌日は役所へ相談申し候

十七日夕方
親類の源次と申す者
私留主に参り呉れ候て
親どもへ申され候には
「この間は捨て子があったげなが
うちに乳はのうて
難義をいたされ候様に聞き候らえども
どうぞして育てさつせるとよいがのう」
と申し呉れ候らえば
親ども申され候に
「この困窮に
嫁は乳もなし
ばばは病気になり
養うこともむつかしく候間
捨て主も知れ候はば
何卒返したし」
と申し候らえば
源次どのより親父へ
内々申し呉れられ候には
「昨日 来がけに道にて
御平岩様御下屋敷に居り候
金八女房おきんさ
一所に福岡村より
御平岩様へ来て居るおつねさと
帰りに出合い
おきんさが申すに
「祭り見に行って
おつねさは森のうしろ
松源寺と云う所の
山手の家に
子を置いてござつて
帰る処じやが
坂下へ行きても
かならず話してくれるな
と頼まれたが
ここへ来て聞くと
どうでも得育てさつせぬよう
いわつせるによつて
おれも極内で話すが
おれより聞いたと
いわぬようにして下され」
と申され候と
親父より私へ話され候につき
風聞かようなことも御座候様に
五人組頭和蔵どの話し
役所へ内々届け貰い候らえども
内々でも 得と(とくと)たしかに
聞きただし届け候様に
仰せ付けられ候につき
勝五郎をもつて
右源次方へ聞きに遣わし
うけたまわり候らえば
間違いも御座なく候よし
申し越し候につき
五人組頭和蔵どの
右の趣話し申し候と申し上げ候



この申口は
状況がかなり詳しく書かれており
現在の警察署の調書も
こんな風な感じで書かれるのかと
思いをはせる

実はこの件について
ほかに二通(源次申口と作兵衛申口)
の申口が残っている

作兵衛申口によると
捨て子主おつねは金八女房おきんに
「子を連れ候ては口過ぎもむつかしく
誰か子をもらってくれまいか」
と相談をしている
おきんは亭主金八に
「この間おまえの話した所へ
子を世話してやって呉れまいか」と
仲介を依頼する
捨て子を実行したあとに
勧めたおきんも気が咎めるのか
「それでも子を置いてくるというは
思ってみれば おしい事をしたのう」
とため息をつくのである