五、「教会とわたしたち」(385) 5.近代から現代へ(宗教改革とその後)
はじめに、近代への萌芽としてアウグスチヌス著「神の国」から引用(その24)
⒕ キリスト信者が捕らえられたときも、彼らは霊の慰めを奪われることがなかった。
彼らがその神を見いだすことができない所へ連れ去られてとしたならば、それはもっとも悲しむべき(前回はここまで) ことだっ
たであろう」。しかし聖書はそのような災難の中にあって与えられる大いなる慰めについて、多くの実例を示している。三人の
若者も捕われの身であったし(ダニエル書三・一以下)、ダニエルも、他の預言者もそうであった。神は彼らと共にいまして、彼
らすべてを慰められた。神はその信仰者を見捨てられなかったことは、たとえ野蛮・未開であっても、やはり人間の手に彼らを
委ねられたことからも知られる。神は怪獣の腹中においてさえ、その預言者を見棄てられなかったのである(ヨナ物語)。
ところが、わたしたちの討論相手は、このような物語を信ずるどころか、嘲笑するだけである。それにもかかわらず、彼ら自身
がその文学作品[ヘロドゥトゥス]の中の物語を信じている。それによれば、優れたハープ弾き、メティムナのアリオンが舟から
投げ落とされたとき、いるかの背中に乗せられ、無事に岸まで運ばれたという。預言者ヨナについてのわたしたちの物語は、
いっそう信じ難い。それがいっそう驚くべきことであったので、いっそう信じ難いのも確かである。しかしその不思議さはそこに
示されている力の大きさと釣り合いが取れている。 (次⒖.マルクス・レグルスは、~つづく)
(教団出版「神の国」出村彰訳1968より)
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