創世記22章10節である。「そしてアブラハムは手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。」のである。ここに「息子を屠ろうとした。」という。アブラハムにとってはいよいよそのときが来たのであった。しかし、神のお言葉の通りを実行するのに、いささかの迷いがない。その神のご命令ゆえにわが子を「屠ろうとした」。遅疑逡巡する様子がまったく見られない。その心の中の動きを神はしっかり見ておられるのであった。
かつて少年ダビデを選ぶときに、主なる神がサムエルに言われた言葉がある。それは、「主は心によって見る」(サム上16・8)であった。ここでも主なる神はアブラハムの人間としての誠実な心をぎりぎりのところまで、じっと見ておられるのであった。
11節である。「そのとき、天から主のお使いが、『アブラハム、アブラハム』と呼びかけた。彼が『はい』と答えると、」という。「そのとき」という。ヘブライ語は「ワーウ」であって、いわゆる接続詞である。英訳(RSV)は「しかし」である。アブラハムの行動を急遽引き止めようとするのではなく本来の方向に用いるのであるから「しかし」という切り返しの言葉ではあまりに唐突過ぎる。口語訳は省いている。ここでこの「とき」を省いてはならない。それは重要な「とき」であった。
今までから考えれば、この「とき」は最も緊迫した「とき」であった。アブラハムと共にここに来た神の介入の優しい決断のその「とき」であった。神がはじめから〝そのとき〟を待っておられた。アブラハムが彼の心に思うことを実行に移すわっずかな一瞬、それが神の介入の自由な一瞬、神の、お許しの「そのとき」であった。
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