おからって美味しいと?
昔、たまたま見かけた時代劇の中で、おから好きの侍が、いつもおからばかり食べているという場面を見て、母に聞いてみたことがあった。
母は、好きな人は好きやろう。
とだけ言って、しばらくして、おからを食べさせてくれた。
ぱさぱさしていた。味はもさもさしていた。ぱさぱさとした中に、味が入り込めない、いくら味付けしたところで味が、逃げてしまうような、底なしの空っぽ。そこにあるはずのものが、抜かれたものには、空虚なパサつきが残るということを知ったのは、それからであった。
豆乳にも豆腐にならなかった、搾り取られた後のものだと知ったのは、それがきっかけであった。
昨日、豆腐屋でおからを分けてもらっていたものに、豆腐と胸肉の余ったものを叩いて細かくしたものと卵などを使って、団子を作ってみた。
おからと豆腐の再融合に鶏と卵の再会の象徴的な団子を作るために。
何かが、足りなかった。
一度、搾り取られたものは、再び取り戻すことができないような、「分離」を知るのである。
一つになっていたものが、分離すると、もう元には戻らない。
不可逆性。
やはり、何かが足りなかった。
豆乳となって流れ出たほとばしる生命の汁気。とでも言おうか。
あるいは、ほかほかとした熱のようなもの。
それが、決定的に欠けていたのだった。
鶏と卵の場合はどうか。
豆乳と豆腐から「おから」がかけているものとするならば、鶏と卵には「殻」がかけていた。
豆を守っていたからの残骸でもある「おから」と、卵を守っていた「から」。
どちらも、一体であった時は、それらを守っていたのであった。
それらを守らなくてもいいところで、「から」は廃棄されるか、かす扱いされるようになる。
国の形にどこか似ていると思った。
国を守る必要のない、国を食い物にするためのものには、おからもからも、旨味のない、必要ではない、不要のものとされるというわけである。
あとは知ったこっちゃないと、逝く皆。と繰り言のように、滅びを口にするものがいたならば、こう口にするのがよいのかもしれない。
おからも殻も空のうち。
おからもからもからのうち。
おからもからもからのうち。
呪文のように、繰り返してみるのがよいかもしれない。
繰り返される、時代劇のように。
おからもからもからのうち。
おからもからもからのうち。
おからもからもからのうち。